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「ねえユルス、気づいてる?」
家中がセレネのことで浮ついている中、カリナエに訪ねてきたユリアが言った。
オクタウィア様は当然ローマ式の結婚式をやるつもりなのだが、やっぱり一国を任されるユバの妃ともなると、質素に堅実にまとめるのも不憫に思うらしい。マルケルスの妹のマルケラたちの結婚時とは違って、多少の見栄えを考えてるようだ。まあ、まだ一年以上は先のことだけど。
「ユルスって、ネコたちのこと嫌そうなこと言いながら、撫でてるときとかってすごく嬉しそうなのよ」
「え、そうか?」
自覚ないけど、心当たりはあるような気がする。
「ネコたちはユルスが拗ねて寂しそうにしてるから、『仕方ないわねー』って、ユルスのとこに来るのよ」
ねえ、とユリアは自分に寄ってくる子ネコを挨拶代わりに抱き上げた。可愛くて仕方がないという表情をしている。
「なんだよそれ」
んな小動物にまで哀れまれてるのかよ俺は。
それからユリアは一瞬、俺を睨んでから言った。
「……マルケルスと結婚することになるかも知れないの、私」
「そうか」
返事をしながら思った。この瞬間の事を、この先何度か思い出すだろう。
ショックを受けたとか、それを無理して言いつくろったとか、そういうのはない。
なるほど。アウグストゥスらしい。ユリアにとっても父親があっさり殺すかも知れない微妙な男と結婚するよりは、殺されることはないマルケルスの方が、嫌な思いもしなくていいだろう。
「幸せにな」
俺は、自分の態度に満足している。過不足のない態度で、ユリアを祝福できたと思う。大げさに喜ぶのではなく、嘆いてふざけるのでもなく。遊び仲間の一人を失うような寂しさにすぎない。自分が未熟だったとか無力だったとか、そういう意味ではなく、このかすかな苦さを思い出す日が来るだろう。
「……うん。ありがとう」
――気持ち以上の表現はしようがない。マルケルスがどんな夫になるかは俺もわからない。それは二人の問題だ。
だけど。ローマの神々よ。
どうかこの娘と結婚する男が、彼女が与える愛情に見合う愛情を、返してくれますように。外見や、付随してくる権力だけを愛したりするような奴ではありませんように。この娘の価値を――綺麗な見た目だけを尊重するのではなく、俺が今、こんな風に感じている愛しさを、理解できるような男でありますように。
それくらい、俺が願うことは許されるはずだ。
クレオパトラ・セレネは、ユバが来るのを待っている。最初はセレネにとって望んでいた人生ではなかったのだろうけど。自分の居場所を見つけて、居心地良く整えようとするたくましさが頼もしい。
でもエジプトにいたままだったら、今みたいに、そんな風に男を待ったりする楽しみを知らなかったかも知れないよな。
「なんだかユルス、セレネを見る目がいやらしいよなー」
「ほんと。そんなににやにやしないでもいいのに。いいじゃない。セレネがユバ様の前で可愛くしてたいから、ちょっとおしゃれしてたって」
マルケルスと大アントニアに言われてしまう。
アウグストゥスはユバに、北アフリカのマウレタニアの国土を与えるそうだ。ヌミディアとマウレタニアはもとは同じ種族で、両王家は現在、断絶している。マウレタニアの広大な領地はローマの穀倉を担う、豊穣な土地だ。ここを信頼できる者に任せておきたいアウグストゥスの意図はわかる。
だが「ローマの威にまつろわざる」集団も存在する、反乱の多い統治の難しい土地でもある。
やっぱり俺は、心の隅で神々に祈ってしまう。どうか俺の大切な者たちが、幸せになりますように。そう思うのは、やっぱり俺が辛い思いをしたくないからなんだけど。
ユバは自分の妃を大切に扱うだろう。セレネは女王クレオパトラの娘としてではなく、ユバの妃として歴史に埋もれていくだろう。ローマに挙兵して名を残されるよりは、その方がいい。
俺は成人式を終え、マルケルスもユリアと婚約式をする。オクタウィア様のことだから、アントニアたちの将来についていろいろ考えてると思う。そうやっていろんなことが少しずつ動いていく。もしかしたら後になって、この時が一番幸せだったと思う日々が来るのかも知れない。
だけど今までだって、昔の方が良かった、とはあんまり考えたことがない。親父が死んだことだって、生きてた頃が良かったとは思ってない。どんなことが起きたって、たぶんあの頃が良かった、とは思わない生き方をすると思う。楽しかったなと思うことがあったとしても。
子ネコが脚にすり寄ってきて、にゃあと鳴く。子ネコの分際で既に、機嫌は悪くないから、撫でさせてあげてもよくってよ、くらいの高慢さだ。こっちが呼んでも来ないくせに失礼しちゃうわね、と思うんだけどやっぱり可愛い。こういう時の俺って、バカみたいに嬉しそうな顔をしているらしい。
セレネはオクタウィア様が呆れない程度に手の込んだ髪型をして、手に婚約指輪だけをしている。容姿は大人びて来たのに、未婚だからローマの子供のするお守りを首から下げているのとは何だかアンバランスだ。
家内奴隷がユバの来訪を告げる。大アントニアは立ち上がりかけるけど、セレネの方は俯いてしまった。セレネは俺の前でユバに接する時は、特にすましたふりをしようとする。やっぱ肉親の前では照れがあるのだろう。
勝手知ったる他人の家、案内なしに広間に入ってきたユバはマルケルスやアントニア、俺に挨拶をし、一番最初にオクタウィア様の所へ向かう。
「一緒においで、クレオパトラ」
セレネはパッと顔を輝かせる。見るからに恋愛している娘のまなざしだ。ユバはどういう表情をしていいのかわかんないらしく、ムキになってマジメな顔をするけど、動揺してるのがバレバレだ。素で女にああいう顔されるとホントに弱い。
「絶対尻に敷かれるタイプだよな」
こっそり笑うマルケルスを、キッとにらむ。それから軽い足取りで、ユバの後を追いかけてゆく。
会話のついでにやっぱりセレネは意味なくユバのトガの縁を引っ張って形をなおしている。悪くないなと思った。
この話を書いておきたくて、当時ホームページを始めました。
クレオパトラ・セレネとユバ王が、私の古代ローマ世界への探求の発端でした。
そのローマでの家族がここまで豪華だったとは知らなくて、びっくりしました。