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セレネは無事にユバとの婚約式を済ませた。ローマ政界の新旧のお偉いさんたちがぞろぞろ証人として立ち会い、アウグストゥスもセレネの父親役を務めて下さった。アウグストゥスは見込んだ男に娘を嫁がせ、幸せな結婚を望む父親で、セレネも娘役をそつなくこなした。よく考えるとすごい絵だ。自分の父親の仇が父親役ってのは。だがクレオパトラはユバが困るような態度は一切とらず、アウグストゥスに従順に従った。
セレネに熱をあげてた友人たちは、「やっぱりなあ」と残念がった。エジプトの王女は、ローマ人になんか見向きはしないはずだ。でも気のせいとは思えないんだよなあ、俺を見たあの視線は。
何度でも言わせてもらう。あり得ないから。
大アントニアは少々男性不審気味だったが、小アントニアの方は「ユバ様がお兄様になる~」と大喜びだ。
セレネが帰宅した。ユバに連れられて、ちょっとローマ郊外の風景を見に行ったりしてるのだ。なあ、兄として嫁入り前の娘がそういうことするのって、いけないと思うんだけど。
セレネは外履きから室内用のサンダルに履き替えてから、中庭に入ってきた。
「お前、すげーよな」
「またその話?」
母ネコが走っていってまとわりつくのを抱き上げ、無邪気な顔をして微笑んだ。
「ユバのこと、なめてんだろ」
「いいえ。出会った時から好きでした。この方なら信じられるって、ずっと思っていましたもの」
「誰が信じるか」
男は瞬間的に美女との出会いに運命を感じるが、女は後付けで運命論を語る。しっかり計算を終えてから、「あなたしかいないの」だのとほざくのだ。そんなのまともに信じるのは、オクタウィア様くらいだろ。とか思ってたらユリアも大アントニアもユバのことを「絶望的なほど鈍い」と思ってたのだそうだ。小娘どもが。夢を見すぎだっつーの。
最初っからセレネは、ユバの落とし方なんてわかってたのだ。自分の中に何を見ていて、何を期待されているのか。美貌でも知性でもない。ユバは「プトレマイオス王朝」を見ていたのだ。
「お前、よく考えろよな」
ユバのセレネへの接し方がころっと変わったところが、俺には信じがたい。婚約者を大事にするのはいいことだと思うけど、不純すぎる。
「私もユバ様も、幸せなのだからいいと思います」
「夫が変態でもか? お前にエジプト風のかっこさせて、喜ぶ野郎だぞ。今はお手々つないでるだけでも、そのうちそのかっこであんなこととかそんなこととか、させられたりするんだぞ」
あー、やだやだ! 俺たちのバカオヤジそっくりじゃねーか!
女王がウェヌス、オヤジがバッカスの格好してたって話を聞いた時にはもう、ホント世をはかなみたくなったっけか。絶対おかしいし気色悪い。セレネは「あの格好をしたのは一度きりです」と言い張ったけど。マルケルスは「脱がすんでなく着せたがるんだから、いいんじゃないの」とか言いやがった。
「おかしなのは見てればわかります」
……ひでえなそりゃ。
「でも私の夫になると決まった方が、私が私でいていい、と思って下さるのよ」
とセレネは穏やかな表情で答える。
「私がプトレマイオス家の娘であり続けてもいいと、認めて下さるの。ローマ人として生きなさい、妻として夫に仕えなさいと言われても、私はローマ人にはなれないし、絶対にいや。エジプトの王家はローマみたいな不平等な夫婦ではないもの」
でもローマの夫婦はどんな仲が悪くても、エジプトの王家みたく殺し合いはしないけどな。
「ユバ様は私がエジプトを思い続けても許してくださるし、それをわかって下さる方だから、私は幸せなんです」
……それもありなのかなあ。セレネが頑固なエジプトびいきなのには俺でもイラつくのに、ユバは平気で受け入れられるのだ。
月明かりの下、語らう二人の会話は既に異次元だ。
「やっぱり都市にはエジプト風の建築も取り入れたいと思うんだけど、どうだろう」
セレネは婚約者の婉曲な好意の表現に、恥じらいながら顔を赤らめ、慎ましやかに囁く。
「……ユバ様のお好きなようになさいませ」
お前らふざけんな。
ユバ。お前、セレネにホンマもんのイシスの格好をさせて、そのエジプト風の建物に置いて鑑賞したいだけだろ、え?
聞いてるだけでむずがゆくなってくる雰囲気に、「……恐るべしクレオパトラの娘の魔力」とマルケルスが呟く。
俺はユバの壊れっぷりの方が怖い。あの朴念仁が。あの学問バカが。妹たちを抱き上げて笑いながら振り回していたのとは明らかに違う手で、セレネの髪を撫でている。
めでてーよな。でもそのバカ男の気持ちが、わかる気もするのも複雑だ。
でも浮気したらお前、セレネに殺されるぞ。下手すると子供が生まれたら用済みだから、殺されるんだからな。プトレマイオス家の伝統を忘れるなよ!
「クレオパトラ。お前、ユバを単純なヤツだと思ってるだろ」
セレネは微笑んだ。ユバには見せない類の表情だ。
「私のユバ様への思いを素直に理解してくださることを『単純』というのなら、そうなんでしょうね。でも私、そんなことで『複雑』な方はおことわりです」
「男に媚びるためにあーゆーことするのかよ」
「自分の夫になると決まった方に、どうして手加減する必要があるのかしら」
手加減してたのかよ! つーか何をだよ!
セレネの号泣は、かほどにたやすく翻弄される我が身を嘆いたとかいう、悲劇的なものではない。ユバのプライドも、セレネの立場を慮ったことも理解していた。だがそれ以前にユバは、セレネを全く対等に扱っていなかったのだ。
「ふっざ、けんじゃ、ないわよ!」
という、怒りだ。女の意地だ。ああも軽んじられたことで、ユバをひれ伏させてやらねば気がすまなかったのだ。
セレネは簡単に立場を逆転させた。そしてユバが自分に敬意を持って接するようになったことに満足している。
だけどユバがセレネを可愛いと思うことに、文句はつけようがない。媚だろうが詐欺だろうが、男が自分にあんな笑顔を見せてくれる女に愛しさを感じることは、間違いではないと思う。何も感じないよりも、自然なことだ。
「……こいつみたいに、遊びがすぎていつの間にか子供ができてるとか、そういうのはナシにしてくれよ……」
セレネにじゃれているネコが、なんだかセレネにだぶって見える。セレネ、お前自分が可愛がられてる自覚あるだろ。ユバにすり寄っていきながら、じらす姿が目に浮かぶ。ダメ出しされたユバは、「恥らってるのだ」とすっとぼけた勘違いしてるんだろうけど、主導権握ってるのはセレネだからな。
「当たり前です。ユバ様の正室にならない限りは絶対に許しませんから。婚姻外とか愛人なんてもう、絶対にいや。ユバ様が他に愛人を作るのも絶対に許さない」
こええよ。お前、なんか13とは思えないんだけど。でもセレネにしたら、母はエジプトの女王だろうがしょせん愛人だし、オクタウィア様は正妻であるのに幸せではなかった方だ。形式や正統性を大事にし、不倫は断固拒否の気持ちもわかる。
「でも、ユバ様のことをお兄様があんなに信用してなければ、私だってああいう変わった方のところに、お嫁に行ってもいいとは思わなかったかも」
「……」
ショックだ。言い返せない。ユバはまあまあまともだと思ってたし、異母妹も清純な乙女だと思ってたのに。……もういいや、結局似合いなんだろう。おかしな奴同士で、結構なことじゃないのかね。
「もしもユルスお兄様がいなかったら、私はローマ人を憎んでいたかも知れない。誰も信用しなかったし、たぶんオクタウィア様のことも、ユバ様のことも」
いろんな意味で泣けてきそうになった。果たしてそれで良かったのかね。異母妹の人生、誤まらせてないか、俺。
「ユバ様はユルスお兄様のことが心配なんですって。何だか見ていて不安で仕方なくて、本当はローマを離れるのが嫌なんだって仰ってたわ」
俺はたぶん幸せなんだと思う。でも満ち足りてはいない。何がしたいのか、どうすれば納得できるのか、自分でもわからない。ただそれは権力を持つとか、父親の名誉を回復するとか、そういうことでもない気がする。
「お前ら異母妹たちがみんな嫁に行って幸せになってくれれば、俺の気苦労も減って落ち着けるんだよ」
「だからユバ様は『ユルスがグレないように、まずはあなたを幸せにしなくては』って仰ってくださっているの」
……このままこの長椅子、ユバの屋敷に投げこみに行っていいか? 俺をダシにして小娘を口説くんじゃねえ、ムッツリ男め。
クレオパトラ・セレネが俺の隣に座って、肩にもたれてくる。
「だからユルスお兄様。安心して」
あ、やばい。これ本題だわ、と直感した。俺こういうのってダメだわ、勘弁して。
「私は幸せになりますから。だから」
「はいはい。俺も幸せになりまーす」
アウグストゥスの言いなりで結婚して、アウグストゥスのいうとこに戦争に行って、適当に属州で私腹を肥やして、それなりに人生を楽しむつもりだ。オヤジなんかが生きてたよりも、よっぽど順風満帆な人生かも知れない。
だが俺は、彼を――アウグストゥスと戦い続けねばならない。正確には、ある程度幸せで将来も約束されている、現状に甘んじてしまおうとしている、自分を叩き続けなければならない。――俺は、何を待ち続けるのだろう。
「忘れないで」
セレネがこんな風に語るのは珍しい。
「両親を失って敵に捕らわれた時、死んでもいいと思ってた。死がどんなものか、わからなかったけれど。でもローマに来て、あなたが生きていてくれたことが嬉しかったから、私はあなたのために生きていようと思ったのよ」
俺の方こそ、セレネたちがいなかったら、どうなってたかわからない。父と兄を失い、家門の誇りも失い、気力なく過ごしていたかも知れない。だけどセレネたちがいたから、俺が俯いていてはいけないと思った。アウグストゥスとは血縁のない自分だけがのけ者だからと、いじけてはいられない。生きなければ。こいつらのために強くならなければならないと思った。
オクタウィア様もアウグストゥスも、俺やアントニアたちの心情を慮って、異母弟妹を殺さずにローマに送ってくれたのかも知れない。フルウィアの息子程度の長兄を殺しても、クレオパトラの子供たちは生かしたのだ。よくそんな決断をしたものだと思う。
「どんなに離れても、私があなたのために生きているということを忘れないで」
そのうちこの異母妹は、ユバのもとに嫁ぎ、ローマを離れることになる。あの女王の娘としてエジプトに生まれ、ローマに連れてこられて、たぶんアフリカのどこかの地で亡くなることになる。こうやってセレネが俺の妹でいる時間は、ごく短いものだ。
ああダメだわ、泣くかもしんないやと思っていると、セレネの方が立ち上がり去ってしまったので、なんとか兄の威厳は保てた。置いてかれたネコが恨めしそうに鳴いた。
アウグストゥスもアポロをきどって宴会でそういう格好してたんですけどね。ローマ人もコスプレ好きだったのか。




