5
大アントニアの話だと、そのまま部屋に戻ったセレネは寝台に突っ伏して声をあげて号泣した。小アントニアがそれを見て言いふらすとまずいので、妹を乳母に預けて部屋を移させた。それから食堂に来て、恨めしそうにユバを睨んでいる。
「大丈夫だから心配しないでって私には言ってたわ。『ただよくわからないの。どうなっているのか、わからないの』って言うの。クレオパトラがあんなに泣いたとこなんて、見たことない」
異母姉につられて涙を浮かべている。俺も静かに泣く姿は見たことがあっても、そんな子供みたいな泣き方をするセレネは知らない。
「どうして最初に即答しなかったの?」
ユリアもむくれている。
「身辺整理があったんだろ」
「ずいぶん時間がかかったのね」
「何せエジプトの王女様を嫁にするんだからな、全部切っとかないとなー」
ユバが無言で俯いている。自分の言ったことに対して理解できていないみたいだった。
「勢いでそういうことにするかお前は」
「あなた、セレネでなくオクタウィアおばさまを幸せにするの?」
「セレネのこと嫌いなの? 命令だから仕方ないの? どうしたらユバ様はセレネを好きになってくれるの?」
さんざんな言われようから逃げるようにして、「やっぱり一応、話して来る」とユバが立ち上がった。ユリアが「当たり前でしょう」と追い立てる。
「手っ取り早いから、ぎゅっとやってこい。いっぺんだけなら許す」
ユバは嫌そうな顔をしてから、セレネの部屋に向かった。
「気持ちが伴わないことをすることは、かえって失礼だと思う」
でも「どっちの味方だ」と言われるかもしれないけど、わからんでもないんだよな。ユバがそのまま「はいわかりました」って答えられなかった気持ちも。
それにユバ本人は感知してないから結果論だが、やはり単純に喜んで受け入れなくて良かったのだ。
最初にユバが「はい」と返事してたら、セレネは傷つかないで済んだかも知れない。善良な男だから結婚することになってもまあ悪くないと思っていたかもしれない。
でもちょっと俺は危惧してるんだが。
セレネは絶対「男なんてこんなもん」と思ってる。思うなという方が無理だ。直視して微笑めば、ローマの男を片っ端から落とせるのだから。ユバのことだって絶対に軽んじたはずだ。自分にもままならない相手がいるということを、わかっておいた方がいいと思う。
ユバが行った時にはセレネは泣きやんでいて、取り乱したそぶりは見せなかったという。さすがだ。
「あなたの幸せを兄のような気持ちで望んでいたけれど、こうなった以上は必ず幸せにします」
とユバは言ったそうだ。呆れるほど事務的で、色気も潤いもない言い草だ。
「これからのことは、前向きに考えましょう」
セレネは「はい」と答えた。「よろしくお願いします」
ユバは部屋の中には入らなかったそうだが、気持ち的には歩み寄ろうとしている。セレネも拒絶はしなかった。
「いいんじゃないの?」
帰宅したマルケルスが適当に聞き流しながら返事した。
「夕飯は? なんか準備が遅れてない?」
「うん。もうオクタウィア様が大喜びで、すごいご馳走用意させてる」
さっきから家内奴隷たちがばたばたしている。魚を探しに行って、帰ってきたところだ。食堂にも花や極上のぶどう酒を運び込んだりしている。
「あら、じゃあ私、やっぱりいい時に遊びに来たわ」
戻ってきたユバは食堂の隅でじっと考え込んでいる。自分が晴れがましい立場にいることに慣れていないので、他人事のような表情をしている。これはセレネの祝いだから、自分は関係ないのだ、とでも思っていそうだ。
セレネには気の利いたことも言えないし、見え透いた嘘も言えない。「頑張ろう」としか言いようがなかったのだろう。その率直さが良くも悪くもユバなのだ。
「まあ、まだ婚約するだけなんだし。母上の公認なんだから、セレネと劇や見世物に行ったりすれば? 話があったりしない?」
ユバにはセレネをそういう対象には見られない。10歳のセレネを見ていたし、セレネの誇り高さに、息が詰まるのも確かだ。けど時間さえたてば、大人の女性として見られるようになるだろう。
「嫌いじゃないけど、何とも思えない」なら、可能性はあるわけだ。そもそも結婚なんて、親兄弟のためにするもんなんだし。セレネだってあのオクタウィア様の幸せそうな顔を見た後に、ユバから「お断りします」と言われるくらいなら、これで良かったと思ってるはずだ。ただ気持ちの整理がついていないから、混乱して大泣きしただけで。落ち着いたら納得するだろう。
「お前は何か、セレネのことを気楽に言うよなー」
「叔父上が認めた時点でもう決定事項だろ。母上はセレネが来る前から、ユバには立派な花嫁見つけてやるつもりだったんだし、それで自分の娘を与えられるって思ったら、もう舞い上がっちゃったんだよ。断ったって絶対に結婚させられるんだから、ユバは妥当な選択をしたと思う」
うん。意外なんで驚いてるけど、オクタウィア様はもう、嬉しくて嬉しくて仕方がないのだ。俺らの困惑した反応にも全く気づかない。
「……それであなたたちが幸せになれるのならいいんだけど」
とユリアが呟く。
「私はセレネにもユバにも、幸せになって欲しい。本当にいいの?」
「……大丈夫。時間をかければ。私は彼女のことを好きだし、敬意を抱いている。私と結婚することで、哀れまれたりすることはあっても、それに関しては何とも思わないと言ってくれたから」
ユバは自分に言い聞かせるように言った。
「お前自身はどうなの? セレネと釣り合わないって見られるの」
セレネが尋ねなかったのは、本人の口からそれを聞くわけにはいかなかったからだ。セレネは婚約の話が出た時に、とっくにはらをくくっていたのに、ユバは迷った。それが答えだ。
ユバは目を閉じた。本当に感情がはっきり出る。
「……正直に言うと、気分は良くないと思う。だけどそれは、彼女自身の落ち度ではないのだ」
「俺はユバくらいに学識の高い王にもなれば、エジプトの王女にもひけをとらないと思うんだけど」
ただ善良なだけの男ならオクタウィア様はユバを選んだりはしない。素晴らしい王になると思うからこそ、娘を与えたいと思ったのだ。
「……もっと早く話し合えば良かったと思う。私がしっかりすれば良かったのだ」
セレネと同様、ユバも必死で頭の中で計算しなおしているところだ。
まあしょせんは政略結婚だ。婚約式をして、何年かしたら結婚して、お互いに好意は持ってるみたいだから、一緒に暮らすことには異存はないだろう。ユバはどっかの国で即位してセレネもついていき、跡継ぎを生んで幸せにくらすことになるのだ。今どき生涯添い遂げるのも難しいんだから、期間限定で構わないのだ。いいんじゃないか。これで。
ユバが「はい」と即答してたら、セレネになめられたかも知れない。ユバはわかってないだろうけど、セレネは自分がエジプト最後の王女だということを、死ぬまで忘れることはないだろう。セレネに侮られかねない状況で婚約するよりは、もったいぶった後で了承した形の方が、ユバ本人のためには良かったんじゃないかと思う。
ユバは個人的に接していて意識しなかったのだから、セレネは一人の女性としては傷ついたんだと思うけど。仕方ないよな。ユバにはまだ13の小娘なんだし。オクタウィア様が大切にしている娘だと思えばなおさら、重たく感じても仕方ない。
「彼女は私を受け入れてくれて、私の家族になってくれると言う。何だかそれが楽しみな気がしてきた」
婚姻によって、ユバには長年望んでいた「家族」ができる。子供が生まれれば更に血の繋がった家族もできる。血縁のないことを寂しく思っていたユバには、新鮮な興味がわいてきたようだ。
「しかもうちの母上が義理の母になるんだし、アウグストゥスだって親戚になるんだからすごいことだろ」
マルケルスが言うとユバはびっくりしている。
「ホントだ。すごいね」
「ま、ユルスが義理の兄になるんだけどね~」
……なんでそこで、複雑そうな顔をする。
いい傾向だろう。今の段階ではこれが限度だ。
「なんだかユバ様は妥協してるみたい」
大アントニアが涙目で呟いている。
「妥協なんて結婚の前にするか後にするかの差だろ」
俺が言うとユリアはやっぱり不愉快そうだ。
「ひどいこと言うのね」
「ユバがこの年で、すでにあんな小娘に惚れこんでる場合の方が嫌だけどなあ。尻に敷かれるの目に見えているし」
マルケルスも俺も、どちらかと言うとユバの気持ちの方が理解できる。クレオパトラ・セレネは俺の異母妹だから、どっちにつくかって言ったら選択の余地はない。けど友人としてだったらユバのほうに「負けんじゃねーぞ」と言ってたと思う。まあ俺らにはまだ、そういう話は想像でしかないんだが。
ユバが人影に気づいて顔をあげると、視線がとまった。
食堂に、クレオパトラ・セレネが現れたのだ。
――エジプト風の衣装を着て。
ヘビの首の冠、肩から垂れる豪華な黄金の飾り。腕にはこの間ユバにもらったヘビの腕輪もしている。ほっそりとした身体をなぞる丈の長い白い衣装、身体のしなやかさ、腰を強調する帯。化粧も独特の顔料を使った、東洋的なものだ。何もかも揃っているわけではないけど、プトレマイオス王家が、儀式の時にしていた服装に似せている。
セレネは静かに婚約者に寄って行き、その足元にひざまずいた。そして自分に目が釘付けになっているユバの膝にそっと両手を置き、上目づかいに見上げた。
なるほど。
セレネはもともとユバなんざ、やろうと思えば一撃で倒せたのだ。
普段、セレネが家の中でエジプト風の格好なんてしてたらオクタウィア様は怒るわけだが。エジプトの腕輪も指輪も首飾りも、ユバの以前からの贈り物だと聞いて、オクタウィア様は大感激していた。いまだに少女のような方だ。その品物をあがなう金銭は、ご自分の弟の金庫から出ていることを、ご存知なんだろうか……。
ユバは由緒ある骨董品とか、異国風の装飾品が好きなだけだ。セレネに与えたのだって「自分はつけないから」だ。本人が持ってるべきだと判断しただけで、好意とか下心とかはあんまり……。
……ユバよ。
そんなアホ面で、自分の婚約者に見惚れるな。こっちが恥ずかしい。
つーかセレネ、それでいいのか。満足なのか。
お前の夫になるヤツは、絶対おかしいからな。お前にエジプト風の格好させて喜ぶ、変態だからな。
部屋の隅で、マルケルスがうずくまり、酸欠気味になりながらひーひー大笑いしている。「わ、笑いすぎて、肋骨折るかもしんない……あはははは」。いーから無理して喋んなよ。
ユリアは「やっぱり男なんて、みんなこんなもんなのね」と悟った顔で呟き、大アントニアはまた別の意味で泣きそうな顔をしている。
……。
それでいいような気がするのは、なんでだろう……。
ユバ王の子孫がいたら、裁判沙汰になると思います。ま、いないんですけど。
こういうオチが苦手な方がいたらすいません。