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躊躇したセレネの手を掴んで俺から引き離し、ユバは「すぐ戻るから」と俺らを置いて歩き出した。一見、ご令嬢とその奴隷だけど、ユバはトガをまとっているから、ローマ市民であることがわかる。
庭園の中にはアシアの属州やガリアから外交に来たらしい集団、大声で演説をする男、友人と語らう者、珍しい格好をした行商人。変わった布地。見慣れぬ装飾品。全く意味のわからない言葉と不思議な音律。肌の色も髪の色もさまざまだ。
やっぱりローマのあちこちでは新しい建造物が建設中で、午睡から覚めて活動を始めた人々が行き交う庭園の中を、二人がそぞろ歩く。手を引かれたセレネは終始うつむいたままだ。
「何なの?」
異様な雰囲気にユリアがたじろいでいる。
「うーん」
目立つよな。ユバが見るからに貴族のお嬢様の手をとって歩いてたら。あーあ。俺、オクタウィア様に怒られるんだろな。いくら婚約させると決まった男女でも、あれはいかんだろ。
戻ってきたユバは、俺にセレネを押し付けるようにして言った。
「私と一緒にいるということは、こういうことです」
セレネは無言だった。
「何が?」
ユリアが尋ねる。ユバは「今日は必ずカリナエに行くから」と言って去っていった。
「何か言われたの?」
「……何も」
セレネが呟いた。
「……ただ、気づいた周囲の人は、『バルバロイ』と、エジプトの王女か、と」
まあ、一般的な反応かもな。意味的には間違ってるけど。バルバル喋ってるからバルバロイなんであって、ユバはアフリカの言葉は喋れない。
「ユバ様本人には、ローマの人々は敬意を抱いてるのでしょう。でも私がいると、どうしても貶めて見られてしまうみたい」
「そんなことねーよ。あいつ、ローマの駒の一つだもん。教養あって善良そうだからじゃなくて、ローマの慈悲とか寛容とかのイメージあるし、利用するのに都合がいいから評判いいだけ」
セレネが救いを求めるようにユリアを見たが、ユリアも否定しなかった。
「エジプトの王女も落ちたもんだわな、ヌミディアの王子なんかに嫁がされるのか、と言われるのは本人もわかってんの」
「そういう話になっているの?」
「だからユバは嫌なんだろ。お前はエジプトの誇り高い王女なんだから、その誇りを傷つけるわけにはいかないわけ」
セレネは青ざめている。
「ユバは自分のせいで、お前が哀れまれるのは嫌なんだろ」
と、そういうことなんだとやっとわかったとこだ。
「アレクサンドロスってメディアのイオタパ王女と婚約してたはずだよな。やっぱエジプトの王女なら、アルメニアとか、パルティアとかなんとか、そういう家柄の王家の方がいいのかね」
まあどう違うのか、俺にはよくわかんないけどな。
お前考えすぎだろとも思うけど、ユバだって「釣り合わない」と言われる結婚なんかしたくないだろう。
「まあ、なんていうのか、お父様らしいって言ったら、らしいと思うけど」
とユリアは言った。
「個人の結婚も、素質に応じて官職を与えたり、兵を配置するようにものなのよね。お父様にしたら」
ユバは断りに来るのだろうか。オクタウィア様に、身勝手を怒られるのはユバの方だろう。ユバを見込んで大切な娘を任せてもいいと思っているのに、それを拒否されるんじゃオクタウィア様だっていい気はしないはずだ。オクタウィア様にすれば、セレネは何から何までユバにふさわしい、申し分ない娘なのだ(この場合、オクタウィア様の評価が高いのはユバであって、セレネではない)。アウグストゥスだって納得しないだろう。
ユバはセレネの視線にだって気づいてないし、ちょこっと色目を使われても何とも思わない。でも女心が全然わからないような奴なんだから、セレネが傷ついてても理解しないだろう。いいんじゃないか、なかったことにしても。ヤケ気味にそう思う。
帰宅したセレネは、部屋に閉じこもってしまった。気分転換のつもりだったのに、連れて行くんじゃなかったのかも知れない。アントニアたちが不思議がっている。
あのクレオパトラの娘が、ヌミディアの王子にふられるなんて誰が信じるだろう。
「ユルスはどうしたいの?」
また子ネコが見たくなったから、と一緒にうちまでついてきたユリアが聞いてくる。セレネが気にかかるので自分も食事をして帰ると言うので、オクタウィア様の侍女にも「ユリアが来ていて、これからユバが来る」とは伝えといた。
「んー。今すぐでなくても、時間おいてもいいかなとは思う」
「じゃあやっぱり賛成なの?」
「うん」
周囲の雑音なんか我慢しろよと思う。別に夫婦仲良くとか、生涯愛し続けろとか命令されてるわけじゃない。要するに王族は子供を作るために結婚するんだし。血統さえ残せたら、後は不倫でも離婚でもすればいいのだ。
「難しく考えすぎっていうか、結婚に幻想持ちすぎなんだよ」
「15の子供が言う言葉とは思えないわね」
クレオパトラ・セレネがエジプトの王女なのは、変えられない事実だ。だとしたら誰が相手でもしんどいのは決まってる。ユバはローマに無害な点で適任なのだ。アウグストゥスの命令なんだから、おとなしくきけばそれで済む話なのに。
「でも。ユバの態度、私だったら悲しい」
中庭の長椅子で、俺らには解決のしようないことをうだうだ喋っていると、一匹子ネコがととっと寄ってきて話をさえぎり、注意をひくように「なああん」と甘ったるい声で鳴いた。ユリアの脚に耳をこすりつける。屋敷を我が物顔で歩き回り、子供ながらに既に俺よりユリアの方にやさしくしてもらえるのを知っててこうなのだ。
ユリアは子ネコを抱き上げて、のどを撫でてやりながら呟いた。
「可愛いって思ってもらいたい。政略結婚でも、親の言いなりでも、相手が自分との結婚を喜んで大切にしてくれたら、嫌なことがあっても頑張ろうって思えると思うのに……」
お前も言ってることが、12の小娘とは思えないけどなあ。まあユリアの場合、政略結婚はもう絶対義務だからだろうけど。以前は外国の王子と婚約させられてたし、俺の死んだ兄と婚約してたこともあった。今のところユリアにそういう話はないが、邪魔になれば父親が平然と殺してしまう男と結婚するのでは、本人が身構えてしまうのは仕方ない。
それからユリアはおかしなことを言った。
「セレネならユバなんて一撃で倒せるでしょうにね」
「色仕掛けかよ。ユバにはそんなん通用しねーよ」
そもそもユバがどういうのが好みなのかもよくわかんねーし。絵や彫刻の美は評価するけど、生身の女性の美しさにはさほど興味がない気がする。とにかく才媛が好みなら、セレネに興味を持っていいはずだし。
「そう? 男なんてみんな一緒よ。ユルスのお父さんもユバも、変わんないわ」
「一緒にすんなよ。ユバに悪すぎる」
ネコは全身でユリアに甘えているのに、尻尾だけ俺を叩いてくる。なんか失礼されてる気がするんだが。
ユバが来ていた。奥の部屋にある彫刻を見ている。女神の像を眺めているその背後に、セレネが寄って行った。呼びかけられたユバは、セレネに向き直り微笑する。あくまでもやさしい兄のように――。
この間の続きをすることで今までの通りになるかのように、何事もなかったかのように、セレネはユバに書物を読もうとした。
「まあ、ユバ」
オクタウィア様が直々にお出ましになった。普段なら自室で挨拶に来るのを待っていたり、奥の庭までユバを来させるのだが、ユバが訪れたと聞いて本日ばかりはじっとしてはいられなかったのだ。何しろずっと婚約の話は止まっていたのだから。
そして並んでいる二人を見て満足そうに言った。
「カエサルの庭園で一緒にいたそうね」
ああ。なんて情報が早いんだろ。俺、やっぱ怒られるんですか?
オクタウィア様は二人の困惑に気づかず、うっとりした様子で言った。
「わたくしも、アテネにいた頃に、あの方と二人きりで歩いた思い出があるのですよ」
二人の結婚当時、うちの一家はアテネにいたことがある。エジプトの魔女とは縁を切ったオヤジは、新妻のオクタウィア様にべったりしていた。俺やマルケルスはみっともねーなーとは思ってたが、やっぱり政略結婚の割には自分たちの親が幸せそうで、家庭がいい雰囲気なのはありがたかった。
「お腹の中に大アントニアがいたのだけれど、マルクス様はどこかからの帰り道、途中で輿を降りてね。『少しだけ二人で歩かないか』って仰って。転ばないように、わたくしの手を取って歩いて下さったのよ」
ユバがセレネと顔を見合わせた。そういう散歩ではなかったのだが、オクタウィア様は少女のように目をキラキラさせている。
意外だ。オクタウィア様って、あんなオヤジでもそれなりに好きだったのか。
「恥ずかしかったのだけれど、わたくしをいたわりながら歩いて下さって」
……オクタウィア様。むちゃくちゃ可愛いけど。
その頃、生まれたばかりのセレネとヘリオスは母親と、その男にほったらかしにされてるんですけど。
「素晴らしい景色で、今のようにとても綺麗な季節で。何故か涙ぐんでしまったの。マルクス様には笑われてしまったけれど、とってもやさしい笑顔で……」
……最悪。
誰から見ても政略結婚の見本、みたいなオクタウィア様とオヤジの結婚が、そんな風に美化できるようなものなら、ユバたちだって文句が言えなくなる。
「見ていた人たちから聞いたら、とてもお似合いだったそうじゃない」
ユバが「そうなのかね?」と困った顔で俺を見た。どうだろね。あんまそういう風に見たことないし。
「良かったわ。二人で気持ちを決めてくれたのなら。ずっと心配していたけれど、ユルスはそのために外出させたのでしょう?」
……違いまーす。
「妹の幸せを考えてのことなのでしょう? ユルスはなんて頼もしいんでしょう」
ユリアが眉間にしわを寄せている。多々ツッコミを入れたいのだが、黙っててくれる気だ。
「二人とも突然のことだったから、困惑してたと思うの。あまりせかしてはいけない、と思っていたのだけれど」
ユバはセレネを見た。セレネもユバを見上げ、決心を促すように微笑んだ。
今言わなければ、取り返しがつかなくなる。
だがこんなにも喜んでいるオクタウィア様の思いを無視し、話をなかったことにしなくてはならないのは、二人には辛いことだった。
ユバの視線がセレネとオクタウィア様の双方を往復していた。何か考えている時のユバは、無表情だ。
セレネがユバの名を小さな声で呟いた。
決心したようにユバはオクタウィア様に向き直り、セレネは目を閉じた。
沈黙の後。
「必ず幸せにします……」
セレネが巻子本の軸の部分を落とし、パピルスの帯が、長く床に伸びて転がった。
一瞬、信じがたいものを見る顔をした。セレネには珍しいほどの強烈な敵意にも見えた。ユバはセレネを無視した。オクタウィア様だけに誓うように、ユバは繰り返した。
「必ず」
が、セレネは無理に笑った。
たぶん、これでいいんだと思う。
なんなんでしょう、このユルスの年寄りくさい達観具合は。
オクタウィア様がはじけてます。一時期はアントニウスはオクタウィア一筋だったのだから、相当やさしかったんじゃないかと思います。
きちんと愛情表現をしてくれた記憶って、女性はやっぱり大事にしているんじゃないかなあ。
アントニウス亡き後、(かなりたってから)のオクタウィアの心境を考える時、塩野七生さんの『レパントの海賊』の「一度男に心から愛された女は、もう二度と孤独に苦しむことはないのである」という一文を思い出すのです。