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真昼の月  作者: かのこ
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2

 ユリアは「私、あの子好き」と素直にいう。

「ああいう凛とした感じの子って、大好き。それに頭のいい人って自分の知識撒き散らかして、相手が褒めるのを待ってるってタイプが多いんだけど、あの子はそういうことないんだもの」

 だそうだぞ誰かさん。まああいつは教養というよりは雑学の垂れ流しで、相手の返事も構っちゃないけど。

 ユリウス家の一人娘、ユリアは父親がローマの第一人者アウグストゥスだったりするから、まず先入観で見られる。結構な美貌だし頭もいいと思うんだが、素直に賞賛されないのが不憫だ。周囲は「甘やかすな」「自惚れさせるな」って感じで、ユリアは自分の魅力を自覚することが許されていない。それって結構、屈折する気がする。

「客観的に見ると、ユリアって結構いいセンいってるんだけどな。やっぱオクタウィア様とか、アウグストゥスの血筋だよな」

「ありがと。私もホントはそう思ってるんだけどね」

「黙ってればだけど」

「なによー」

「だってお前の家系の女って、みんな口が達者なんだもん。うちの妹たちなんか、はたから見たら可憐だ清楚だ言われるけど、口げんかになったらもう勝てねーよ」

 そりゃ美貌を鼻にかけた女も気分いいものでもないけど、わかってないふりをしてる女がいいかっていうと、俺はそうでもない。知性とか気立てが大事というのは確かに事実だ。でもどうせなら血筋とか美貌とか誇ってる女に思いきり屈してみたい、と思ってしまうのは、やっぱりオヤジゆずりなのかも知れない。



「ユルス!」

 友人たちが粘るのを、どうやって追い返すか考えてると、ずかずかと中庭に入ってくる奴がいる。ユバだ。

「君は恥ずかしくないのか! 妹にギリシア語の宿題をさせる兄が、どこにおるのだ!」

「お前だって妹がいたら、宿題させたかも知れないじゃん」

「失礼な!」

 ユバは俺の先生が不思議がってるのを聞いたのだという。蝋引きの書板に書いて持って行った文字が、明らかに俺のものではないのはいつものこととして、解釈が異なる版での教育を受けた者の文章だと言うのだ。

「あんな専門的で偏ったホメロスを教えるような教師は、アレクサンドリアに決まってる!」

 なんか知らんけど、アレクサンドリアはホメロスマニアの学者が多いんだそうな。学者は自説に反する解釈は認めないから、セレネは偏った教育を受けてたみたいだ。

「ちぇっ。超英才教育も、ローマじゃ異端か」

「ユルス!」

 ユバが怒っても全然怖くない。怒ってるつもりらしいけど、なんだかおっとりしているのだ。

 


 踊るかのような、軽い足音がする。

 ああ、あれはセレネだ。昔は王宮の中を走ることなんて、一切なかったと言う。あんな広い王宮に比べたら、うちがローマでもかなり贅沢な方だとしても狭いだろう、と尋ねたら「どんなに広くても、行ける場所は限られていて玄関まで行けなかったから」とセレネは答えた。

 黒ネコがのろのろと中庭を横切る。それを追いかけるようにして、セレネが奥の部屋から出てきた。

「セレネ」

 うわー。なんでホントに出てくる。オクタウィア様に怒られちまう。

 ユバは追いかけていき、両手で黒ネコを掴んだ。ネコはふぎゃーと哀れな声を出して暴れる。

「このネコ、以前より太ってないかね?」

「子供が生まれるんです」

 セレネが心配そうに手を伸ばす。

「ははあ。彼女はエジプトで生まれて、ローマのネコの子を産むわけか」

 ネコを受け取ったセレネは、じっとユバを見た。

「気に障ることを言いましたか」

「いいえ」

 ……セレネにとっては際どいことを言ったような気がするけどな。

 黒ネコはすぐにセレネの腕から逃れ、再び地面につきそうなほどの腹で去ろうとした。

「ではそっとしておいてやりなさい。神経質になっているのだから」

 ユバが言うとセレネはネコを見送った。

 ユバもまた、セレネにふらふらしたりしないタイプの男だ。まあ23にもなるし、セレネが10やそこらの頃を知ってるからお子様扱いだし、似たような立場上、勝手に兄貴分だと思ってるし、アントニアたちも含めて主君の親族であるので敬意を払ってくれてる感じはある。何よりもセレネはあの偉大なるプトレマイオスの末裔であるのだ。

「アレクサンドリアの図書館は素晴らしいね」

「……(祖先たちの功績であるので)ありがとうございます」

「あの学堂の会員になれたら、衣食住に困らずに、研究ができるのだよね。いいなあ」

 ユバはどっかの国王よりムーセイオン会員になりたかったらしい。

 そしてセレネにエジプトの話を聞きたがった。セレネはそれを、どう思っていたかはよくわからない。ユバに対する時は、話の内容はたいていエジプトの王女としての会話になったから、俺はあんまり気分は良くなかったけど。

「……」

 俺の友人たちが自分を見ているのを知ると、セレネは一瞬悲しげな顔をする。頭の中で自分が採点されているのを知っているのだ。

 なんだ、たいしたことない。

 それから男は、マルクス・アントニウスを篭絡した女王の技術について思いめぐらせる。

 体つきは悪くない。成長すればなるほど――。

 下世話なもんだ。

 だけど。

 セレネが優雅に微笑んで見せると、男の目の色は変わるのだ。見事な魔法のように。

 肖像を見て、人の生前の容姿を判断しても意味が無いと思う。

 生きた眼差しがなくて、その人の何がわかるだろう。

 クレオパトラ・セレネの肉体の柔らかさ、優雅な動き、髪の一筋、そして声。

 同時代に生きている者にしかわからない。

 

「オクタウィア様がお待ちです」

 セレネが微笑するだけで、一瞬で空気が変わる。

 友人たちは声を失っている。セレネの何気ないしぐさは近ごろは官能的になり、ささやき声は甘く、指先のしぐさまで色気がある。

 でも俺が身びいきでセレネを「美人の部類だ」と感じるのとは別に、身内だからこそ「騙されないぞ」と冷静に判断できる部分がある。

 友人たちの変わりようは、「エジプトの王女」という先入観からだと思う。十人並みだと思うのも、それがひっくり返ってなんて可憐なのだと思うのも。王女に微笑まれるのとその辺の娘が笑うのとでは、印象が変わるのは当然だからだ。


 ユバはそういう空気が読めないので、セレネがさりげなく手を伸ばし、トガに触れてひだを直していても、何とも思わない。エジプトの王女の小さな顔や、華奢な割りに目立つ胸が触れんばかりなのに、平然としている。

「ああ、挨拶に伺う」

 そしてクレオパトラに顔を近づけて言った。

「二度とユルスの宿題なんか、するのではないよ」

 お前、ホント鈍いよな。

 まあ、それがユバなんだけどさ。




 オクタウィア様から相談があった。

「セレネのことなのです」

 これからのセレネについてのことで、生き方としては二種類ある。ローマ市民の娘として、ローマの男と結婚させる。もしくはエジプトの王女として、どこぞの王族に嫁がせる、の二択のうちのどちらかだ。「処刑する」「奴隷にする」「結婚させずに飼い殺す」という可能性はあり得なかった。オクタウィア様の保護下に入った以上は、アウグストゥスは手は出さない。そういうことだ。

 きたなあ、と内心で思った。セレネも13になる。未婚の異母妹たちの中では一番の年長で、そういう話が出てきてもおかしくはない。

「ローマ貴族の嫁には向かないと思います」

 ローマ市民にとってセレネは、アントニウスというしょーもない男の娘だ。エジプトのお姫様とか言ってチヤホヤしてくれるのは最初だけだろう。セレネには誇り高い一面があって、ちょっとローマの男には面白くないというのも事実だ。超インテリだけどローマのしきたりは知らないから、姑にいびられるに決まってる。

「わたくしもそう思います。あの娘の教養の深さでは、たいていの者では釣り合わないでしょうし」

「……」

 一人、思い出すヤツいるんだけどな。ギリシア語が得意なのを鼻にかけた、ローマきっての名門貴族の御曹司ってのが。ま、あんなのは即却下だ。

「ユバですか」

 面倒なので、先に確認した。他に思い当たらないのだ。非ローマ人でセレネの「教養」を引き合いに出して「勝る」と言いきれる適齢にある男は限られている。

「どう思いますか」

「申し分ないと思います」

 ケチのつけようがない。ユバには謀反の可能性はない。妹を任せるには他にはないというくらい、安全な男だ。性格的な相性だの、本人たちの好意だの、そんなものは知るか。セレネは絶対にローマに刃向かったり、プトレマイオス王朝の復活に賛同したりしない、安全な男に嫁ぐ必要があるのだ。

「では、ユバには近いうちに伝えるつもりです」

「はい」

 アウグストゥスはユバに国を与えるつもりだったし、そうすると結婚相手だってローマ貴族の娘というわけにはいかない。ローマ市民が他国の王家より格下であるからではない。逆にローマの女が王などという悪制の君主に、嫁ぐことは恥とされるのだ。ローマの貴族には、エジプト王の求婚をつっぱねた誇り高い女もいる。

 それにユバにはそれなりの王族の娘をつけてやりたいというのが、アウグストゥスの親心でもある。その点ではセレネは最上級の花嫁だ。ノマデス(遊牧民)から出たヌミディアとは、格が違う。アシアの諸王だってユバの妃がプトレマイオスの姫君ともなれば、対応も変わってくるに違いない。

 ……ほんと、うまくできてるわ。

 当人たちがうまくいくとは限らないけど。


 そのユバはオクタウィア様の招待を受けて、いつものように我が家にやって来て、いつものように勝手にくつろいでいる。半分自分の家だと思っているらしく、人んちで飯を食うのは当たり前だし、うちの家内奴隷に用事を言いつけてるし、気づくとうちで昼寝までしていることがある。

「セレネ。ユバ王子に朗読をして差し上げなさい」

 仰せつかってセレネは巻き物をひもとく。本人たちは、わかっているのかわかってないのか。わざわざオクタウィア様が、娘にそんなこと言いつけることなんて滅多にないのに、ユバ本人はのほほんとしている。

 まあ、そういうのもありかもな。

 別に結婚には恋愛とか思慕とかは、絶対条件ではないのだ。ユバみたく女の美貌とか色気とかに疎くて、ぼーっとしてるタイプの方が、案外うまくいくかも知れない。ユバが他の男たちみたいにセレネに参ってしまい、一大恋愛詩だのを書きあげたりするのも面白いっちゃ面白いが。(この分野に関しては超駄作だろうけど)

「ユバ様、今日はお泊りしてくの?」

 9歳のアントニアが部屋に入っていく。やれやれ。ダメじゃん。

「うん」

 セレネが朗読をやめた。小アントニアが長椅子に座っているユバの元に行って「あのね、この間すごく綺麗な彫刻が来たの」と言った。ずっとユバに見せたがっていたのだ。

「ああ、後でね。クレオパトラ、続けて。ミノル、一緒に聞いていきなさい」

「はーい」

 しかしユバの隣に座った小アントニアは集中せずに、落ちつかなげにユバの肩にもたれたり、足をばたばたさせたりしている。そりゃギリシア語だもんな。

 異母妹たちを観察してる俺を、12歳になる大アントニアが少し軽蔑したような顔で見ていた。薄々、オクタウィア様の意図を察していて、不愉快であるらしい。この際相手が誰だからというのではなく、せっかくエジプトから来た異母姉と、また引き離されるのが嫌なのだ。せめて相手がローマ在住であれば、会うこともできるのに。

 俺だってセレネを、おそらくユバが赴任(――総督じゃないから、即位と言うべきなんだけど)する、アフリカになんかやりたくない。できるなら近くに置いておきたい。だけど目障りなのだ、ローマにエジプトの王女がいるということは。


 結局ユバは落ち着かない小アントニアに手を引かれ、奥の部屋にある新しい彫刻を見に行かされた。ユバは女神の手に持つ品について、なんやら薀蓄を述べている。セレネは無言でそれを見送り、巻子本を元に戻した。大アントニアがわかっているほどだから、本人も察しているのだろう。これまでならあり得ない母親の微妙な変化に、ああそうなのかと悟っているに違いない。

 この日は親しい政治家や、オクタウィア様が目をかけている文化人たちも招かれて来ていた。セレネに気づく。値踏みされるような視線。ささやかれる同情、王国への率直な賛美。アレクサンドリアの華麗なる都。偉大な歴史。しかし飾られた言葉に含まれた、没落したエジプト王家への嘲笑。

 セレネはラテン語による文学を評価しないし、彼らの作品を読んだこともなかった。セレネには文人など王家に養われて、へつらって糧を得る人種にすぎない。特に今のローマの主はエジプトを滅ぼしたアウグストゥスだから、彼らはエジプト王家を悪し様に描くことになる。

 セレネは興味もなさげに、挨拶を受け流す。名誉ある知識人や、年長者への態度ではない。セレネは母とエジプトを意図的に貶めようとする者の前では、絶対にひかなかった。普段は穏やかでおとなしいのに、自分のルーツをさげすむ相手には、オクタウィア様にどんなに諭されても、けして頭を下げようとはしなかった。

 それは俺がどうしても理解できなかった部分で、この異母妹の半分はローマ人であるのにと思っていた。その矜持を引っ込めてくれないことには、ローマ人の中で生きていくのは難しいと判断するしかない。



 家内奴隷に客人たちが食堂に案内され、遊んでいた子供たちは部屋に戻る。

「クレオパトラ」

 セレネをユバが追いかけてきた。

「渡したいものがあるのだけど」

 食堂を出た廊下の隅で、ユバは袋に入れて持って来たものをセレネの手に握らせた。

「エジプトの王家のものだそうだ。あなたの持っているべきものだから」

 イシスの象徴、蛇の文様のついた銀の腕輪だった。

「……こんなものまでが、ローマでは出回っているのですか」

 母の持ち物の一つであったことを覚えていたセレネは、大切そうにそれを受け取った。

「残念なことにね」

 本来ならば母の物だった。数えきれないほどの王家の財宝はこうやって、世界に散らばってゆく。二度と元にはもどらない。こんな風に集めてみても、二度と在りし日のエジプトには戻らない。

 ふいに、セレネはユバの胸に頭を押し付けた。泣くまいと思っていたのだが、耐え切れなかったのだ。

 ローマ人がアレクサンドリアの王宮を荒らして回り、財宝をローマに持ち帰ってきている。野蛮で、無知なローマ人が、栄華を誇っている。

 だがそのローマ人をエジプトに引き入れたのは自分の母、女王クレオパトラであり、滅亡のきっかけを作ったのは父、マルクス・アントニウスであるのだ。

 プトレマイオス朝エジプトの滅亡。あれはローマ対エジプトではなかった。オクタウィアヌスがマルクス・アントニウスとの対立の矛先をエジプトに置き換えただけの、事実上はローマの内乱だった。

 セレネには誰を恨みようもない。自分から祖国を奪ったのは自身の両親だが、父母の出会いがなければ、自分が生まれもしなかったのだ。忌まわしいことに。

 セレネはいつも声を殺して静かに泣く。

 ユバはセレネの背を軽くなでた。

「部屋に戻りなさい。眠る前に、何か飲み物を届けるよう頼もうか?」

「いえ。大丈夫です」

 セレネが答える。泣き顔をのぞきこまれるのも、子供のようにあやされるのも嫌だったはずだから、ユバが泣いたところを見なかったふりをしたことに、俺は少々感心した。まあ女の扱いに慣れてないだけのことかも知れないのだが。

「ではまた。今度朗読の続きを頼みます」


 悪くないなと俺は思った。今までならあれは、俺の役目だったのだ。

 セレネの方がユバを信用しているなら、心配する必要はないだろう。反発する理由を考えたら「あんな遊牧民の族長なんて、冗談じゃない」とか「なんなのあのオタクは」とか、セレネの方がいろいろ不満はあるはずなのだ。

 セレネは割り切っているのだ。この運命は最悪ではない。自分次第で、最良の選択にすることができるかも知れない。ユバは悪い男ではないし、誠実に接すればそれに応えるいい夫になるだろう。


 翌日、オクタウィア様から「ユバには帰宅前に伝えました」と言われた。アウグストゥスとオクタウィア様が二人の結婚を望んでいる。したがってそのまま婚約をすることになる。

「何か言ってましたか?」

「特には何も」

 ふーん。

 ユバはどんな顔をして、セレネに会いに来るのだろう。

ユリアとセレネは仲がいいといいなあ。ユリアの方が人の心の痛みに敏感で、親切なんだけど無理やり踏み込んでこない。セレネには初めてのお友達で、距離の取り方がわからないんだけど、そういうローマでの生活が楽しかったりする。

ユルスの「ギリシア語が得意なのを鼻にかけた、ローマきっての名門貴族の御曹司」には、既に婚約者がいます。

オクタウィアがクレオパトラ・セレネの結婚相手を、ユバに決めたようですね。

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