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真昼の月  作者: かのこ
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 エジプトから来たネコが、革靴を脱ぐために中庭の長椅子に座り込んだ俺の背中に、ぐいぐいと頭を押し付けてくる。これがまたムキになっているかのような力任せで、じゃれてるのか、頭が痒くてこすりたいのかが謎だ。

「おい、このネコどうにかしろよ」

 俺はこのネコがよくわからん。小さくて弱い妹たちに「かわいい」だの「かわいそう」だの言われて、自分が愛されてるのをよくわかっているネコは、実はとんでもなく腹黒いんじゃないかと思う。

 そりゃあ可愛いと思う。思わず撫でたくなる。するとネコは迷惑そうに逃げていく。納得いかない。

 廊下を異母妹たちが駆けてくる。

「こんなところにいたのね!」

「探したのよ!」

 あーもーうるさい。うちは女だらけだから、何かあってもなくても大騒ぎになる。俺はこんなに異母妹たちを心配しているのに、その妹たちが庇護してやらなきゃならんものがあるのか、ということにも納得いかない。

 俺は異母妹の一人の名を呼んだ。

「クレオパトラ!」

 と、言うと驚かれると思うけど(逆に知ってる人もいるんだろうけど)、俺の妹はクレオパトラといい、添え名にセレネという月の女神の名前を持っている。

 俺は普通のローマ市民の息子だが、俺の異母妹はエジプトの正真正銘の王女様だ。ユバみたいなよくわからん遊牧民の作ったヌミディアとかいう王国の、名前だけ王子とか言うんではない。

 セレネはプトレマイオス王朝エジプト最後の女王、あのクレオパトラ・フィロパトルの娘だ。ま、その女王だって、ローマ法的には俺のオヤジ、マルクス・アントニウスの愛人なんだけど。

「なんでこいつは俺のとこばっか来るんだよ」

「ユルスお兄様が、お父様に似ていらっしゃるのではなくて?」

 クレオパトラ・セレネは黒猫を抱き上げた。猫の長い尻尾が、腕輪のように細い腕に巻きつく。黒猫に頬を寄せると、にっこり微笑んだ。

 オヤジはこのネコが子猫の時に、よく餌を与えてたり撫でたりして可愛がっていたそうだ。


 セレネは俺の妹でもあるけど、オヤジの愛人の娘でもある。

 俺の実母が生きてた時からオヤジは女王とはそういう仲で、おふくろはムチャクチャ嫉妬した。女王といちゃついてる夫を引きずり出すために、軍隊を連れてアウグストゥスに立ち向かおうとしたから、さすがのオヤジも駆けつけるはめになった。似たような状況で夫のもとに向かったオクタウィア様は「婦徳の誉れ高き」ってな感じなんだが。……まてよ。俺のオヤジは二度も女王のとこに入り浸って、妻が軍を伴って引きはがしに来る、てなことやってたわけか。……はあ。

 実母のこととオクタウィア様のことで、俺としてはエジプトから異母弟妹が来ると言われても複雑ではあったのだが、実際にセレネたちがローマに連れてこられて対面した時には、ああやっぱり血が繋がってるんだと思った(セレネには兄弟がいたのだ。ローマに来てから亡くなったけど)。顔立ちにオヤジや死んだ兄貴を思い出したし、オヤジとオクタウィア様の間に生まれたアントニアたちにもどこか似ていたから、これは俺の弟妹なんだと思った。不思議なことに、オヤジに感謝したい気持ちになった 。



 エジプトのプトレマイオス王朝は、マケドニアのアレクサンドロス大王の武将を開祖としている。王家も官僚もギリシア系だし、公用語もコイネー、共通ギリシア語だ。クレオパトラ・セレネはローマとギリシアの双方の血を受け継いでいるけど、生活様式で言えばギリシア風で育ってきた。プトレマイオス王家はエジプトに神として君臨したが、エジプトの原住民の文化はほとんど取り入れることもなく、王族も儀式の時にエジプト古来の装束を身にまとうといった程度だったそうだ。

 が、その借り物のエジプト文化がローマ人にとって、奇異で興味深いことには変わりない。知り合いはそろって、エジプトから来た王女を見たがった。あの女王の娘なのだから、さぞや東洋的な魅力のある美女であるに違いないとか、いやいや顔立ちはさほどではないと聞いたとか、やはり男を惑わす何かがあるのではないかとか勝手に盛り上がった。野郎どもの下種な好奇心を刺激するらしい。人々は「どの程度の顔なのか」を確認したがった。

 しかしローマの最高権力者、アウグストゥスの姉君にして、マルクス・アントニウスの正室オクタウィア様は、そんな雑音を聞き入れなかった。姉にクレオパトラ・セレネを渡したアウグストゥスを介してさえ、無意味な会見を許さなかった。

 ようするにオクタウィア様は、セレネの母親なのだ。誰が嫁入り前の娘を軽々しく人前に出すものか。

 さすがだ。俺はオクタウィア様の完璧さに感動しつつも、隙がないなあと少し寂しく思ったりする。俺の兄としての出番はない。


 セレネは絶世の美女かと言われたら、少し違う。容姿だけならさほどではないかな、と思ったりもする。緩やかな巻き毛、大きな眼。造りは悪くない。ギリシア系の、ちょっと厳しげな印象はある。「顔つきがきつそう」とか「目つきがちょっと」と言うヤツもいるけど、俺の主観で言えば充分美しい。単に肉親のひいき目なのかも知れないし、オヤジの惚れた女の娘なんだから、俺も似た趣味なのかも知れないが。

 オヤジがこの娘の母親に参っちまったのも、わかるような気がするな、と思うことがある。食してたものから違うせいか、ローマの女とは肌ツヤが違うし、幼い割には意外に発育がいい。ふだんの動き方からしてゆったりとしていて優雅で、脚の運び方、衣服の揺れ方も何か違う。落ち着いた話し方や相手を見つめる時のまなざしに、妙に大人びた印象も受ける。くぐってきた修羅場のせいなのかも知れない。


 アントニアたちやユリアと笑いながら遊んでたセレネが、ふと客人に気づく。アウグストゥスの元に来たユダヤの外交使節で、その中の何人かに呼び止められる。

 セレネがギリシア語ができるのは、まあ納得できる。プトレマイオス王朝がギリシア系だからだ。しかしセレネはヘブライ語で厳かに挨拶をし、使節団からはギリシア語の挨拶をかえされる。さっきまできゃーきゃー言ってた、10やそこらの娘が、「私は大丈夫です。何の不自由もありませんし、よくしていただいてます」と(でも言ってるらしい)、俺の知らん言葉で話し始めるわけだ。

 何なんだこいつは。

 絶対にアントニウスの血筋じゃないぞ。

 女王クレオパトラ自身も小さい時から数ヶ国語喋れたから、子供にも当然のように同様の教育をした。家庭教師には王立学問所の研究員が何人もついた。ユバがその名前を聞いて、声も出せずに驚嘆したほどの豪華さだった。

 10歳の妹を見てちらっと「こいつが大きくなったら怖いな」と感じたことがある。何が怖いんだかわからなかったけど。


 エジプトの王家は兄妹で結婚するけど、俺にはセレネは半分だけとはいえやっぱり妹で、一線を越えるとかいう冒険的な感情は芽生えない。あそこの王家は家族で殺しあうからなおさらごめんだし。俺がセレネのために人殺しをすることはあるかも知れないけど、セレネが可愛いからいけないことに及ぶということはないなと思う。それを考えるとやっぱりエジプトの王家ってのはしみじみ変わってると思う。大昔の王朝では親子、兄弟、叔父と姪、祖父と孫娘の結婚なんてのもあったそうだ。よその一族と政略結婚をしなくていいほど権力が巨大ということなのか、自分の一族しか信じられないとか己の血統が大好きなのか。どっちにしろアホだらけの一族の跡取りとしてこの先も苦労は目に見えていて、セレネにはアントニウス一門からは距離をおかせてやりたいというのが兄心ではある。


 セレネが公的なことでローマ市民の前に出ることはなかったが、我が家にやって来る親しい人たちには娘として紹介されることもあった。オクタウィア様に怒られても王女を見たがる友人もいた。ローマに来た頃にセレネに接した大人たちは、「将来が楽しみだ」などとどちらかというとオクタウィア様に向けてお世辞を言った。セレネが見るからに聡明そうだったからでもあると思う。悪友たちは「なんかフツー」だの、無愛想な異母妹よりアントニアたちの方が可愛くなりそうだの言いやがった。

 けどそれから3年たった今では、ちょっと周囲の見る目が違ってきたように感じる。

 10歳のセレネを遠くから見た時に「なーんだ(さほどの顔ではないじゃん)」とか言ってた奴らが、最近妙だ。まあ多少は女らしくなってきたせいだと思う。なにせ深窓の姫君で、三頭官アントニウスの娘で、あのエジプトの女王の娘でもあるし、アウグストゥスの義理の姪でもある。ヒジョーにドラマチックな設定であるので、俺も他人だったら詩でも作ってたかも知れない。

 普段のセレネは普通の女の子だ。知らない人の前では俺やマルケルスの影に隠れてしまうような面もあるし、怖がりで異母妹たちの手を握ってる時もある。寂しい時には猫のように寄ってきて、じっと隣に座ってる時もある。

 しかしセレネには絶対にローマ人には踏み込ませない領域がある。ローマの輩が同胞ではあり得ないからこそ横柄な態度を取るし、きっちり距離をおく。

 男ってのはそういうギャップに弱い。

 最初は「お高くとまってる」と感じても、セレネに流し目されただけで「自分に気があるのかも」と勘違いする奴が、案外いるのには驚いた。本人には完璧に社交辞令なのだが。男は美女を見れば運命を感じる。相手の微笑に好意を意識する。っとに情けねーなーと思うけど、たぶん俺も友人たちを笑えない。


 例外と言えば、当然ながら同居しているマルケルスで俺同様「うるさいのが増えた」と愚痴ったりしているが、俺がすごく嫌がるのを知ってて「でも僕はセレネと血が繋がってないしー」と冗談を言う。「兄妹じゃないから、結婚できるよな」そんな気ないだろお前。

 それとティベリウスだ。こっちには女全般つーか人類に興味はなく無愛想なので、セレネだけでなく異母妹たちは近寄らない。クラウディウスはエジプトの王女よりも気位が高い。



 ――で。

 いい加減にしろよお前ら。

 仮にもうちは、アウグストゥスの姉君のおわす屋敷なんだぞ。

 セレネ目当てに、無邪気なふりして俺やマルケルスのとこに遊びに友達が来たりするし、捨て台詞を吐いて縁を切られたと思ってた親類みたいのとかが、たまにやって来たりする。

「妹呼べよー」

「ちょっとでいいから見せろって」

「いつも宿題写させてやってるんだし」

 くそー。お前ら勝手ぬかすんじゃねーよ。

 オクタウィア様に怒られるし、セレネが傷つくだけだっつーの。


 男たちが、最初は「なあんだ」という顔をするのをセレネは知っている。自分を値踏みして、たいしたことないと判断をするローマ人を何人も見ている。男の視線は正直だ。これがエジプトの王女か、と即座に評価を下す。

 もっと残酷なのは女だ。「ブスではないけど、絶世の美女でもない」と全身を眺めて評価する。そういう女がセレネより美人だったことはないからムカつかないけど。兄のヒイキ目ではなくクレオパトラ・セレネは可愛い部類だと思うんだが、先入観からやけに敵対心をむき出しにした視線を向けてくる輩もいるのだ。

 オクタウィア様なんて、女連中に同情がましく「女王のどこが美しいんでしょう。オクタウィア様の方が何倍も美しいのに」とか言われると「御心なのではないですか」と返事してた。くだらないことを論じてる女たちに対する、すげー皮肉だと思ってた。でもそれがオクタウィア様の本心だったのかもと気づいた時に、いたましくなった。ご自分がいたらなかったのだと、責めていたのだ。

 本当の美人は外見を誉められても喜ばない。見てくれ以外に武器を持つ女は、外見をけなされても誇り高くいられる。どちらの側でもない女がそういうことにムキになってるのが不思議だ。セレネの容姿を執拗にけなし、オクタウィア様を擁護して満足してた知人の女性を、オクタウィア様は遠ざけてしまった。怒りではなく、見てて辛かったのだ。

クレオパトラ・セレネとユバを書きたくて、古代ローマものを書きました。

女王クレオパトラが飼っていたのは「アビシニアン」という種類の猫だったそうですが、黒猫にしてしまいました。でも現在とはだいぶ違う感じらしいです。


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