ランディニ
接触不良な毎日で、
世界はとても味気なく、
二色の視界に映るのは、
夜の静寂と、
欠けた月。
ランディニ
曖昧色のない世界。
あるのは二つ、白と黒。
短い針が一回廻れば、
世界は白で埋め尽くされる。
「暑いなぁ」
誰に言うでもなく自然と言葉がこぼれる。
何回目の独り事だろうか。
一人、書斎で筆を片手にそんなことを考える。
別に数えていたからと言って意味があるものでもない。
ただ、今日の暑さは尋常じゃない、これだけ多く呟いたのだから、と、再確認したいだけなんだろう。
その行為には意味はない。
まぁ、人間、人生の大半は意味なんかなく生きているもんだろう。
ふと、筆を置き、席を立つ。
いくら北窓とは言え、一つの窓しかないこの部屋じゃ蒸し風呂にいるのと変わらない。
今詰めて湯だった頭を冷やすのも兼ねて、散歩にでも出よう。
「こう暑くてはいい考えもでん」
自分にそう言い訳をして書斎を出る。
「暑いなぁ」
また何回か目の独り言。
勿論意味はない、あるはずがない。
私は生まれつき目が悪い。
視力的にではない。
色覚異常というもので、色の判別ができないのだ。
だからこの暑い元凶、太陽とやらが放つ、忌々しくも世界を染めるこの色を『熱色』、その熱色に塗り潰され、隅で小さく縮こまる闇を『夜色』と呼んでいる。
白と黒じゃないかって?
残念ながら、私にはその白と黒とやらもよくわからないのだ。
どれを見ても熱色、どれを見ても夜色。
そう言う世界で私は生きている。
降り注ぐ熱色を避けて、私は木立が作る夜色の中を歩く。
時間は十二時、熱色が真上に来る時間だ。
茹だるような暑さは凌げたが風がないので暑さがまとわりつく。
掌で顔を扇ぎながら、私は砂利道を上へと登っていく。
暫く行くと苔のむした石段が視界に入る。
砂利道の右側、大きく開かれた石段が上に向かって伸びている。
(こんなところに道があっただろうか?)
普段、出不精なこともあってこの辺の地理には疎い。
新しく出来た道ではないが、全く記憶にない。
気になると行ってみたくなるもので、私は好奇心を抑えることができず、石段に足を踏み出した。
森が覆い被さり、薄い夜を作り出す上り道を、私は足元に注意して登っていく。
登るにつれ、だんだん熱色が失せ、夜色が辺りを支配していく。
(まるで、夜の中にいるようだ)
石段を登り切ると目の前には大きな神社が広がっていた。巨大な神社に息を飲んでいると、不意に背後から声をかけられる。
「あら? お客様?」
振り返るとそこには日傘をさした着物の女性が物静かな足運びでゆっくりと階段を上がってきている。不思議なことに、女性は夜色を纏い、見惚れるほど静かで、深く妖艶だった。
「あ、いえ、あの、散歩していたら石段を見つけたもので、ふらふらと……」
やましいこともないのだが、咄嗟に私は女性に対して言い訳をした。女性はにこやかにその話を聞きながら階段を上り切り、小さく息をつく。
「暑いですね」
「あ、はい」
「一緒に氷菓でもいかがですか? 美味しいって有名なんですよ?」
女性はそう言って片手に持った菓子折りを私に見せる。
「え、あ、でも」
「お急ぎですか?」
「いえ」
「じゃぁ、ご一緒してくださいな」
「はい」
なから押し切られるように氷菓を頂くことになってしまった。
「では、こちらに」
女性に促されて、私は神社の脇を女性について歩く。砂利が敷き詰められた境内を抜けると、短く草の生えた庭に足を踏み入れた。目の前には女性が住んでいると思われる木造平屋建ての一軒家が静かに佇んでいた。
私をそこの縁側に促すと、女性は小走りで、玄関から家の中に入っていった。
少し、手持ち無沙汰になり、辺りを見渡す。
ここは、五月蝿いほどの静寂と、夜色が支配していた。
空を覆う木々の枝、熱色を遮る葉の揺らめき、木の影で舞い踊る夜色を纏った蜻蛉。
どこか、日常から切り離された空間に興奮を覚えながら、私は女性が氷菓を持ってくるのを待った。
「お待たせしました」
そう言って女性は氷菓を乗せた盆を縁側に下ろした。
硝子の器に入った氷菓子は深い夜色で二色しかない私の視覚にもなんとなく清涼感を感じさせる。
「これは、何ていうお菓子ですか?」
私がそう聞くと、女性は薄く微笑み、スプーンで氷菓を一すくいした。
「まずは一口」
そう言ってすくった氷菓を私の前に差し出す。
少し考え、私は氷菓を一口頂いた。
冷たくて、甘い……そして、目が覚めるような爽快感が体中を駆け巡った。
「どうですか?」
微笑みながら聞く女性に、私は興奮しながら子供のようにすごく美味しいですと、答えた。その様子に女性はコロコロと笑い、再び私にスプーンですくった氷菓を差し出す。二度目はさすがに恥ずかしく、断ろうと思ったが、女性の笑顔を見ると断ることも罪悪に感じ、私はもう一口いただいた。
三口目をすくう前に、私は自分の分として用意されたであろうもう一皿を手にし、いただきますと小さく頭を下げる。その様子を見て、女性は笑い、すくった三口目を自分の口に運んだ。
「貴方は、気味悪がらないのですね」
「? 何がですか?」
「このシャーベットの色。まるで、血の様に赤いじゃありませんか」
女性の言葉に、私はまじまじと氷菓を見つめる。どんなに目を凝らしても、私の目は熱色を映すだけで他にどんな色も映しはしなかった。
「これは、赤いのですか。すいません、私は元来目が悪いもので、色というものがわかりません」
私がそう言うと、女性は微笑んだ。
「美味しいものを疑念無く食べられるのなら、それも悪くないかもしれませんね」
そういう言葉は初めてだった。
今まで目の話をすると、大体の人がバツの悪い顔をして謝った。私はそれが無性に嫌だった。色が足りないことを見下されているようで我慢ならなかった。
でも、この人は違う。
足りないことを良いといったのだ。
他と違う女性の感じ方に、私は深い魅力を感じた。
氷菓を頂きながら、私と女性は世間話に華を咲かせた。
女性の名前は月夜、この神社を管理していて独身、この家には一人で住んでいるそうだ。
「宗一さんは作家屋さんをなさっているのですか」
「えぇ、売れない物書きですが」
「でも、好きなんですよね?」
「はい、閃きと言葉は世界を造ってくれますから」
「ふふ、素敵な言い回しですね」
笑った月夜さんの口元が一瞬見たことのない色に染まると同時に眩暈が走った。
「少し長居をしてしまいました。そろそろ、戻ります」
私がそう言うと月夜さんは一瞬悲しそうな顔をしたが、すぐに笑顔を浮かべ、熱色のハンカチを取り出した。
「あのシャーベットを食べると唇が紅を引いたように赤くなるんです」
そう言ってハンカチで私の口を拭った。
「また来てくださいね」
そう言って笑う月夜さんを後に、私は自宅へと戻った。
氷菓を食べて身体が冷えたか、なんとも熱っぽい頭を横にし、私は浅い眠りについた。
◆
瞼に突き刺さる熱色が知らない色を視界に映し、私は瞼を開いた。
(なんだこの色は?)
二色しかなかった世界に焼けるような色が突き刺さる。
私は少しの焦りと高揚感で机の上の紙を片っ端から床に落とした。紙に埋まっていた一枚のシートも見つけ出し、引っ張り出す。そのシートには無数の四角と共にそれに当てられた文字が書かれていた。白から黒、前まで見たときはその間は熱色だった。全く色のない空欄。でも、今は違った。
下に赤と書かれた枠にだけ色がある。
私は、歓喜した。
世界が広がるのを感じた。
この気持ちを私は!
咄嗟に筆を取り、私はこの気持ちを言葉にしようとした。
だが、寸前で筆を置いた。
(まだだ、こんなもんじゃない。もっと、もっと)
私はこの閃きを胸の中に仕舞い、屋敷の外に出た。
外でも、赤がいっぱいだ。
昨日までの世界とは違う。
この変化に、私は喜び震えていた。
それなのに、私は、いつも通り夜色をなぞり、石段を抜け、神社の前に立っていた。
「あら、宗一さん。いらっしゃい」
月夜さんがそう言って笑う。笑ったその口元には紅が引かれていて、夜色の中で赤く艶かしく光っている。
「ラムネでも飲みますか?」
「はいっ、いただきます!」
「すごく、機嫌がよろしいのですね」
月夜さんは満面の笑みでそう言うとラムネの瓶を私に差し出した。私はそれを受け取り、まじまじと見つめる。その様子を見て、月夜さんは不思議そうに声をかける。
「どうかなさいました?」
「いえ、何でもありません。いただきます」
そう言ってビー玉を瓶の中に落とすとラムネに口をつけた。
きっとこのラムネも色を持っているんだ。
見たい、見たいぞ。
私の中で、色に対する好奇心は膨らむ一方だった。
◆
私の目は、色を得た。
とは言っても二色だが、その二色が私の世界の半分を構成することになった。
赤と青。
この二色が濃淡混ざり、世界を色付けていく。熱色と夜色はなりを潜め、カラフルな世界が私の目に飛び込んでくる。
世界は、こんな世界だったのか。
新しく生まれ直した気分だった。
私は、ワインを片手に、また夜色をなぞる。
これはお礼。
きっと月夜さんが私に新しい世界を与えてくれたんだ。新しい色を、閃きを。
「だからこれは、お礼なんです」
「は、はぁ」
上機嫌でワインを差し出す私に、月夜さんは困惑しながらも優しく微笑んだ。
「日も高いけど、開けてしまいましょう。ご一緒していただけますか?」
「はい!」
赤いワインをグラスに注ぎ、私と月夜さんは縁側で乾杯を交わした。
上機嫌で何度もグラスを傾け、私は酔い潰れてしまった。
私の頭を膝の上に置き、団扇で涼を取りながら月夜さんは妖しく微笑む。
「どうですか? 今、見える世界は?」
「すごく、刺激的です」
「そう、よかった、喜んでもらえて」
「ありがとうございます」
まどろむ意識で受け答える。
「宗一さん、一つだけ、お願いしてもよろしいですか?」
「はい、なんなりと」
「返してください、私の色」
そういうと月夜さんの唇が私の唇に触れた。
◆
気がつくと、私は書斎の机に突っ伏していた。
(夢?)
の割にははっきりとした感覚が唇に残り、私は指で唇を撫でた。
「? なんだこれ」
ふと目に入ったシート内の四角には全部違う色が敷き詰められ、シートを完成させていた。
私の目は、全色が見えている。
その感動に私は打ち震えた。
これが、普通の人が見る世界か。
はっ、月夜さん。
私はこの世界の月夜さんが見たい!
きっと前に見ていた味気のない世界とは違う、美しい月夜さんに出会えるはずだ!
私はそう思い、いつものように夜色を探した。
だが、私の目に、夜色は映らなかった。
シートを見ても、そこには『黒』という色しか存在しなかった。
いつも歩いた道を探しまわり、石段のあったところを何度往復しても、ついには見つかることはなかった。
書斎に戻り、私は筆を手にする。
月夜さんに対するこの思い、猛り、喜びを言葉に、世界に変えるため、私は筆を手にする。
この閃きを、想いを、世界を。
『夜色の君へ』
そこまで書いて、私は筆を置いた。
ランディニ~夜色の君へ~
霜月 音闇
完