帝国陸軍防空船乙型
太平洋戦争(大東亜戦争)において、大日本帝国陸軍は徴傭した商船の一部を防空船とした。防空船とは、船団の中にあって多数の高射砲や高射機関砲で武装し、その有力な対空戦闘力で敵機を撃退する船のことである。
しかし1930年代後半以降の航空機の性能向上は著しく、こうした高射砲や高射機関砲のみでの反撃で敵機を全て撃退できるとは考えられなくなっていた。航空機に対しては、やはり戦闘機で迎撃するのが一番であるのは自明の利であった。
だが海上における船舶の護衛のために航空機を展開させるのは容易ではない。一番手っ取り早いのは空母を護衛につけることだが、海軍側がそこまでやってくれるとは、陸軍も考えてはいなかった。そもそも帝国海軍は空母を多数持っているわけではないし、第一に船団の護衛のためにそこまでしてくれるはずがなかった。
そこで陸軍では揚陸母船である「あきつ丸」型などの航空機搭載能力に目をつけた。この揚陸母船は海軍の空母に近いシルエットをしており、発艦だけではあるが、航空機の運用が可能なように設計されていた。
これは上陸支援や、前線飛行場への飛行機送り込みを想定しての設計であった。その設備を流用・改造して、着艦も可能として船団の護衛を行おうと考えたわけだ。
しかし、この「あきつ」丸型は2隻が整備中に過ぎず、数が不足している。さらに後続船の改造や建造も始まっているが、予想される連合国との戦争に間に合うか微妙であった。
お手軽に改造できて、航空機を発着できる船。そんな船が出来ればと陸軍船舶司令部が考えていると、ヨーロッパから思わぬ情報がもたらされた。それはイギリスのCAMシップに関する情報であった。
この頃既にドイツと戦争をしていたイギリスは、その島国の宿命であるシーレーンをドイツ軍に脅かされていた。その筆頭は潜水艦、すなわちUボートであったが、航空機や水上艦艇も大きな脅威であった。特に長躯大陸より飛んでくるドイツ空軍のFw200重爆撃機は、陸上基地の戦闘機の護衛圏外で襲ってくるので、対処法がしばらくなかった。
英国海軍でも船団護衛用の空母の建造を開始したが、すぐには出来上がらない。そこで彼らが採用したのが、CAMシップと言う改造船の投入であった。
このCAMシップと言うのは、貨物船の船首にカタパルトを設置し、その上にホーカー・ハリケーン戦闘機を搭載した船だ。搭載できるのはたった1機の戦闘機だが、戦闘機が1機あるとないとでは大違いだ。
このCAMシップ搭載の戦闘機は、飛行場から遠く離れた洋上に出てしまうと、当然帰還することは出来ず、使い捨てとなる。またパイロットは危険な着水や洋上への落下傘降下を強いられ、死者も出ていた。
しかし、このたった1機の戦闘機によってドイツ軍のFw200をはじめとする爆撃機の爆撃が妨害されたのも事実であった。
帝国陸軍船舶司令部では、このCAMシップを太平洋で運用した場合を想定した。この場合、想定するのは英国などのシーレーンを走る船団護衛などではなく、上陸地点へ向かう輸送船団、或いは上陸作戦中の輸送船団となる。
そうなると、想定される戦場は陸地の近くになる。だから、仮に航空機の帰還場所がなくなったとしても、不時着は大西洋よりはるかに容易だ。
さらにこのCAMシップの利点は、単に船首にカタパルトを載せるだけなので、飛行甲板や格納庫を搭載する改造などは一切必要がないこと。そのため、貨物船としての機能を最大限維持することも可能だ。
もちろん、1回こっきりの使いきりであることや、収容の問題、さらにカタパルトに搭載出来るのは1機だけなどデメリットも多いのだが、予算や時間などの面での魅力は大きい。
そこで陸軍船舶司令部は、早速海軍と船会社に協力を仰いだ。海軍にはまずカタパルトの提供を依頼した。
まず海軍である。海軍としてはそもそもMACシップ自体に疑問を呈した。たった1機の戦闘機しか搭載出来ないことと、戦闘機を使い捨てにすること、さらにカタパルトと言う武器ではないものの、装備品を陸軍に提供することを渋ったのだ。
とは言え、いざ船団を護衛する際に充分な航空支援を確約できないと言う弱みが海軍側にはある。そのため、結局陸軍の要求(カタパルト6基)より少ない4基に対空用の13mm単装対空機銃を付けて陸軍に引き渡した。
次に船会社については、すんなりと言った。カタパルトの取り付け工事自体は甲板や船体に補強の必要性が一部の船に生じたものの、空母などへの改造よりははるかに容易、かつ実害も小さいものであったからだ。
さて、次に陸軍はどの船を日本版CAMシップにするかの選定に当たった。海軍では既に戦前から空母化ならびに水上機母艦化する貨客船や貨物船をしている。それらはいずれも大型かつ20ノット以上、もしくはそれに迫る高速の船であった。
航空機搭載艦、特に空母の場合は合成風力を作り出す関係上、どうしても船体が大きく、高速の船であることが望ましい。また艦隊に、出来るだけ随伴する能力も求められる。
しかしながら、陸軍の徴傭船の場合、使用する目的は上陸作戦のための部隊輸送や、物資の輸送が中心となる。高速かつ大型であることは悪いことではないが、絶対に求められる条件ではない。必要とされるのは部隊を輸送する能力と、せいぜい船首や船尾に砲座を取り付けるのに必要な補強がなされていることだ。
そのため、陸軍の徴傭船にはそこまで大型の船は少ない。とは言え、小型過ぎればカタパルトや航空機の搭載スペースがなくなり、輸送船としての機能を損なう可能性も大きくなる。
結局8000tから9000tで、比較的船齢の若い優秀船が4隻選ばれた。そしてこのタイプの船は防空船乙型と呼ばれることとなった。
次に搭載機の選定であった。太平洋戦争開戦を控えたこの時期、帝国陸軍が採用していた戦闘機は数機種あったが、いずれも問題を抱えていた。数の上では主力である九七式戦闘機は固定脚で武装も二挺の7,7mm機銃だけと言う、旧式化が否めない機体であった。
しかし新鋭の一式戦闘機ならびに二式戦闘機は、ようやく試作段階を抜けて量産に掛かった所であり、使い捨ての可能性の高い防苦船乙型の搭載機にできるはずもなかった。
かと言って、既に海外からの機体購入の道は閉ざされている。機体を統括する陸軍航空本部では、捕獲したソ連製航空機の採用も検討し、実際に最初の4隻の内の2隻には中国戦線で捕獲されたI16戦闘機が改造の上で搭載された。
しかしこの機体は数が少ないため、残る2機は結局97式戦闘機で間に合わせるしかなかった。ただし、カタパルトで発船させるために、改造が必要であった。これに合わせて、この2機には武装強化などの改造も施された。
改造の内容は機首の7,7mm機銃を撤去して、主翼下にポッド式の12,7mm機銃を搭載するというものであった。当然重量が増えて、旋回性能は低くなる。
旋回性能を重視すると思われがちの陸軍航空隊であるが、二式重戦闘機や二式双発戦闘機の開発を見るように、決して重武装高速の戦闘機を軽視していたわけではない。
今回の改造も、搭載機を防空用としたからこその処置であった。つまり、対戦闘機戦闘は二の次で、狙うべきは商船や上陸部隊に襲い掛かる敵攻撃機と言うわけだ。
こうして用意された4隻の防空輸送船乙型は開戦までに各船団に編入され、2隻がマレー方面。残る2隻がフィリピン方面へと出撃した。そして最初の戦闘を行ったのは、コタバル上陸船団に加わった「淡路山丸」であった。
三隻の船団の内防空戦乙型は同船のみで、防空戦闘機は同船搭載の戦闘機たった1機だけであった。しかし、このたった1機の戦闘機が、コタバル近郊の飛行場から飛び立った英爆撃機に果敢に立ち向かった。
上陸開始は夜明け前であったため、上空に味方戦闘機はない。船団にとって、改造九七式戦闘機一機だけが頼りであった。
同機は薄暮から黎明と言う単座戦闘機には苦しい時間帯の戦闘であったにもかかわらず、わずかな光源を頼りに、来襲した英「ボストン」爆撃機を迎撃。撃墜戦果こそ出せなかったが、その爆撃行動を妨害し続け、終に輸送船を守りきることに成功した。
その後同機のパイロットは燃料切れのため落下傘降下、幸いなことに味方に収容された。機体は放棄されたものの、これは事前に織り込み済みのことであったので、ひとまずは成功であった。
ちなみにその他の3隻の内2隻が空襲に際して戦闘機を発進させ、船団の防空に遺憾なくその能力を発揮している。ただし、この2機に関しても機体は投棄されたので、開戦時用意された4機の内3機は早々と喪われた。
その後日本側の進撃と陸上基地航空隊の前進のため、防空船乙型が活躍する機会はしばらくなく、3月に蘭印攻略作戦の際に一度だけ発進し、来襲した蘭軍機を撃退している。
こうして第一弾作戦においては、防空船乙型は戦前に想定された運用を見事にこなし、成果を収めた。
南方資源地帯攻略後の次なる第二弾作戦に備えて、陸軍船舶本部ではさらなる防空船乙型の整備に掛かり、新たに海軍から6基のカタパルトの提供を受けて、6隻の防空船を用意した。その搭載機も新たに蘭印やフィリピンで捕獲したF2A「バッファロー」、CW21「デーモン」、P40「ウォー・ホーク」戦闘機が用意された。
いずれも戦闘機に対しては充分とは言いがたい性能であったが、爆撃機や攻撃機にはこれで充分とされた。
なお、この時期に建造が開始されていた揚陸母船には、これら防空船乙型の実績を踏まえて竣工段階から、航空機の運用能力を持つよう、改設計が行なわれた。
しかし、その後の陸軍防空船乙型に待ち受けていた運命は過酷であった。昭和17年8月にガダルカナル戦が始まると、敵航空機の跳梁著しいがために、8隻(2隻が解傭されていた)全てが同方面の輸送作戦とその護衛に投入された。特に10月と11月に行なわれた大規模な輸送船団投入である第一次と第二次の輸送作戦では、その主力を務めた。
第一次作戦では、参加した3隻の内2隻までもが撃沈され、残る1隻も大破した。ラバウルからの掩護戦闘機が付いていたが、泊地上空に長居できず、そこを猛爆撃されてしまった。そしてその撃退のために発進した3機の戦闘機は2機の爆撃機を撃墜したが、敵護衛戦闘機の前に敢え無く落とされてしまい、全機未帰還となった。
それでも、この3機の奮戦により多少の物資や武器の揚陸が進んだのは、せめてもの慰めであった。後にこの時のパイロット(全員戦死)には第17方面軍司令官名で感状が授与されている。
第二次輸送作戦では残る5隻すべてが投入された。しかも、今回は試験的に1隻がデリックと搭載物資を減らしてまでさらに1機の戦闘機を追加搭載し、6機の戦闘機で挑んだ。また海軍も、ラバウルからの戦闘機に加えて、飛行場を艦砲射撃して行なえるだけの支援を行なった。
この結果、投入された12隻の防空船を含む輸送船は敵の空襲で再び大被害を被ったものの、全滅必至と目されたなか、半分の6隻が損傷しつつもラバウルまで後退出来た。防空船もなんとか3隻はラバウルに戻ることが出来た。
しかしこうした犠牲を出したにもかかわらず、ガダルカナルの戦況は好転せず、翌年2月1日に全面撤退となる。
その後防空船は主にニューギニア方面の作戦に従事、3月の81号作戦にも参加したが、この輸送作戦では防空船2隻を含む11隻の輸送船の内9隻までもが米豪軍の反挑爆撃によって撃沈されてしまい、ニューギニアへの物資揚陸は当初の予定の5分の1と言う大失敗に終わった。
それでも、この時なんとか揚陸できたわずかばかりの食糧や弾薬は、地獄の戦場となるニューギニアにおいて、兵隊達の命綱となる。
このニューギニア作戦を境に、大規模な輸送船団による強行輸送や上陸作戦がなくなったため、陸軍防空船乙型に出番は回ってこなかった。既に航空機運用能力を持つ「ときつ丸」型が竣工を始めたこともその一因となり、昭和18年末までに全ての船がカタパルトを降ろして、ただの輸送船となった。
防空船乙型の出番が再度来たのは、昭和19年の11月であった。米軍のレイテ島上陸に伴う比島決戦の強行輸送に、再び狩りだされることとなった。
この時既に戦局は日本にとって絶望的なそれになっていたが、陸軍はこの強行輸送作戦に投入できる全ての船を投入する腹であった。防空船乙型のみならず、やっと竣工した「ときつ丸」まで投入した。
しかし、このレイテ輸送作戦は、地獄の輸送作戦となった。なぜなら、そのルートには既にレイテ島に進出した米陸軍航空機や、洋上の機動部隊からの艦載機がウヨウヨしていたからである。
この輸送作戦は多号作戦と名付けられ、防空船乙型となった船は急遽台湾やマニラでカタパルトの増設と航空機の搭載工事を行なった。そして、まず最初に投入可能となった「第三勝鬨丸」が第三次輸送作戦に投入された。この作戦は低速の輸送船団を駆逐艦「島風」などが護衛した。
しかし部隊はオルモック到着直前に艦載機の猛爆撃を受けた。「第三勝鬨丸」は搭載していた四式戦闘機2機を発進させたが、延べ350機の敵機に抗うことはかなわず、駆逐艦「島風」と「朝霜」を除く全ての輸送船と護衛艦艇が沈没した。それでも、たった2機の戦闘機は弾薬が尽きるまで米攻撃機と戦い、最後は燃料切れとなって体当たりして果てた。
こうして第三次輸送作戦は失敗に終わったが、陸海軍は懲りずに第五次輸送作戦を立案した。(なお第4次作戦は防空船なしで行われている)
第五次作戦では2隻の防空船乙型である「来光丸」と「芙蓉丸」が参加した。両船にはそれぞれ2機ずつの四式戦闘機と一式戦闘機が搭載された。さらにこの船団には揚陸母船の「にぎつ丸」も加わり、同船には一式戦闘機6機が搭載された。計10機の戦闘機が、船団の空の防人であった。
この防空船を含む船団は奇跡的にもオルモックの到着までほとんど敵の攻撃を受けなかった。と言うのも、防空船乙型のカタパルトと艦載機設置に時間を食って、出港が送れたために、無電を傍受して待ち構えていた米軍が空振りしていたからだ。
加えて、この時第五次船団は3つのグループに分かれていたが、防空船を含んだ第3グループは前述したように出港が送れたために、第一・第二グループと距離が開いてしまった。第一・第二グループは全滅してしまったが、第三グループはオルモックまでの復路と、揚陸開始から数時間の間は安全でいられた。
この間に兵士や車両、食料に医薬品が続々と揚陸された。これられは以後終戦のその時まで、レイテに篭る部隊が戦いぬく上で重要な物となる。
そして、揚陸が8割方完了した頃、護衛艦の電探が敵機の大編隊を捉えた。空振りを喰らった敵機が、ようやく態勢を整えて来襲したのだ。
この時既に揚陸母艦の「にぎつ丸」は揚陸を終了しており、一部の護衛艦を従えて先に撤退を始めていた。同船は直ちに搭載機を発進させた。もちろん、防空船の2隻も戦闘機を発進させた。
こうして、船団の切り札となる10機の戦闘機が、まず来襲した米機との戦闘を開始した。この時の編隊には戦闘機が随伴していなかったため、少数ながら日本戦闘機は敵爆撃機の攻撃妨害のみに的を絞り、奇跡的にこれを退けた。
しかし30分後に来襲した第二派からは護衛戦闘機のP38とP47が随伴しており、敵爆撃機は日本側戦闘機の妨害に遭うことなく、船団各船に襲い掛かった。悲運だったのは「にぎつ丸」で空母型船型であったために目立ってしまい、袋叩きとなってしまった。
同船は他船よりは高速で、さらに対空火器も充実していたが、多数の爆撃機に抗える筈もなく、1時間後に沈没した。
敵機は残る船舶や護衛艦にも殺到、防空船の内まだ揚陸未了で回避運動もままならなかった「来光丸」が沈没し、「芙蓉丸」も損傷した。
だがここで日没となり、「芙蓉丸」を含む残存船は生存者を救助後なんとかマニラへ逃げ帰ることが出来た。
その後台湾へと帰還した「芙蓉丸」は、修理と共にカタパルトを降ろして通常の輸送船に戻り、ここに陸軍防空船乙型の歴史は幕を降ろした。
防空船乙型は、戦闘機を搭載することで、有効な航空支援を展開して上陸作戦の支援を成し遂げた。この戦績は誰にもケチがつけられるものではなかった。
しかしながら、同船を末期まで使用しなければならかったことは、総合戦力で連合国にはるかに劣る日本の悲哀を示してもいた。
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