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 おやじは気難しい人であった。

 四角い面の真ん中にぴんと踏ん反り返った髭が乗っていた。なんでも昔のなんとかという偉い坊さんと同じ髭なのだと祖母から聞いた。その坊主がどんなに偉かったのかは知らないが全くもって罪な髭を考えたものだ。余程の悟りを開かなければこんな成りで人前に出る事もできまい。

かと云っておやじが余程の悟りを開いているかと云うと子供目に見ても贔屓目に見てもそんな境地とは無縁の人のように思う。

 ただ髭の手入だけはしっかりとしているようで髭が毎日寸分違わぬのには少々参った。そんな暇があるのなら剃刀で剃落とし、浮いた時間で将棋の勉強でもすればよかろうと一度そう云って殴られたことがあった。その癖将棋仲間がやってくると嬉しそうに将棋を指す。

 おやじは将棋が滅法弱い。弱い事は弱いが将棋を大変好み、高価なカシの四方柾を持っていた。脚のついたしっかりとした将棋盤で、暇があれば髭を弄るかその将棋盤を磨いている。

中学の頃におれが飛車角二枚を落としてやってそれでもおやじに勝ってしまったことがあった。その時は一月程小遣いが貰えず閉口した。以降おやじとは将棋は指していない。

磨くべきは盤では無く己の腕の方であろう。

 そんなおやじであるから将棋仲間がやってくるのは少々難儀なことである。

始めは喜々としているおやじであるが少しでも形勢不利と見るや途端に機嫌が悪くなる。そうして機嫌が悪くなると茶を持って来いと大声で喚く。その都度盆に湯飲を載せて持って行くのだが、その度に出すのが遅いだのもっと早く持って来いだのと小云が付く。

 茶の催促の間隔が短ければそれだけおやじの形勢は不利になっていて催促が無ければ勝っている。しかしおやじは腕が悪いから何遍も台所と縁側を行来しなければならない。茶を運ぶこちらとしては堪ったものではない。

そうしてふうふう云いながら一口啜りぬるいぬるいと文句を付ける。また、薄過ぎて白湯かと思った等とも云い出す。

入れたばかりの茶にぬるいも糞もあるものか。茶と白湯の区別もつかぬような舌では飲まれる茶が可哀想である。

そうして終いには何故茶を持って来たおれは珈琲が飲みたいのだと云い出す。そんな事も気がつかんとはお前は本当に駄目な奴だと罵った。全く以て云う事が無茶苦茶である。

 極稀におやじが将棋に勝つ時もあるが、そんな時はおれを手招きして懐から財布を取り出して寿司を取れと云い、余った分は小遣いにして良いと云う。

だからおやじにはもっと将棋に強くなって欲しかったがおやじはずっと弱かった。

 おやじがこんなだから毎日相手をするのは少々骨が折れる。愚痴のひとつもこぼしたくなる。子供は親を選べないから不幸だと云ったらおやじは親も子を選べないから不幸だ、選べたらもっと出来の良さそうなのにしたと云ってごろんと横になって寝てしまった。

 おれは何も好きでこう育ったわけではないが、母がいればおれはもう少し素直に育ったかもしれぬ。

物心付いた時からおれには母がいなかった。小学校に上がる時分に酒に酔ったおやじから、母はおれを産んですぐに死んだと聞かされた。おれはその時何と返せば良いのか分からずに気まずくて黙って下を向いて居た。おやじは寂しいかと云うからおれはそんな事はないと云った。それきり母の話題は避ける様にしてきた。

 おやじは母のものを全て処分したと見え、家には一枚も写真が無かった。それ所か墓参りに行った事も無いし仏壇も無い。だからおれはずっと母の顔を知らなかったし、どこに眠っているのかも知らない。その事を祖母に云ったら、どこに隠して居たのかおやじと母の並んだ写真を一度だけこっそり見せてくれた事があった。

 母は色白の綺麗な人であった。

おれはおやじに似ているとよく云われるが、こうして見るとなるほど確かにおれはおやじ似だ。そう云うと祖母はいやお前は母親にもそっくりだと云う。おれは嬉しくなってどこがそっくりかと聞いたら、ほれ目と耳と口鼻の数が同じだと笑っていた。これは祖母なりの気遣いかも知れぬ。だがその時は他に小用もあって写真を突き返したがこれは後で大変後悔した。

 おやじは母の話をしたがらないが祖母の話では余り物云わぬ静かな人であったらしい。そんな祖母も小学3年になったときに死んだ。脳卒中だった。

遺品を整理する際に以前見た母の写真を探したが遺品の中には何処にもなかった。大方おやじが先に見つけて隠してしまってしまったのだろう。

 それからはずっとおやじと二人で暮らした。おれは中学から高校までずっと柔道をやっていたから余り家に居る事は無かったが、居間を覗くと大抵おやじがちゃぶ台の前に胡座をかいている。

たまにぶらりと出掛けることもあったが顔を合わせても将棋の相手に誘われるのでおれは部屋に引っ込んでいた。

しかし食事の時はどうしても顔を突き合せる事になる。その時ばかりはおやじと居間に並んで飯を食うが大体喋る事なんて無いものだからさっさと食べた。おやじも同じ心持ちと見えて、さっさと食べて酒を飲んでいた。父親と息子なんて云うものはそんなものだろう。

それにおれもおやじも頑固で意地っ張りであるからその方が幸いなのかもしれない。

そんな二人であるから、ひとつ屋根の下それも四六時中よく一緒にいれたものだと思う。 おやじはずっと家に居るが別段働いている様子は無かった。

おれはおやじが仕事に出かけるのを一度も見た事がないし家で働いている所も見た事がない。朝学校の仕度をしている時おやじは寝巻のまま大抵沢庵をぽりぽり食っているか将棋盤を磨いている。髭はだらしなく垂れておやじの動きに合わせてゆらゆら揺れている。そして学校から帰るとおやじは居間に座ってやっぱり沢庵をぽりぽり食って居るか将棋盤を磨いている。何故か髭だけは生意気にもぴんとしている。おれが寝てから働いているのかとも思って夜中にこっそり壁に耳を当てると、やっぱり隣りの部屋にからぐうぐうとおやじのいびきが聞こえた。

一度だけ仕事は何をしているのか問い質した事があったが、うん、まあと返事なのかなんだか良く分からない様な答えが返って来たので以来聞くのは辞めた。 おれは家に帰ってまで机に向かうような性分ではないから、成績はいつも下から数えた方が早かった。

それでもそんな息子を心配するとか、勉強が出来ないからと説教する様な熱心なおやじではないから、というよりもおれがどう育とうが余り興味がないのかもしれぬ。なる様になるしなる様にしかならぬ位にしか思っていなかったのではないかと思う。

ただ高校三年の夏に部活を終えて部屋でむしゃむしゃとかき氷を食っていたら、居間にいるおやじがちょっと来いと呼んだ。なんだろうと思って行ってみるとおやじは新聞を読んでいた。おれはおやじから離れた座布団にどすんと座った。

「進学はするのか」

出し抜けにそう云うが、読んでいる新聞からは目を離さない。おれはなんだか腹が立っておやじの目玉が新聞からこっちに動くのを待った。人を呼び付けておいて新聞ごしに話しをするものがあるか。そっちが新聞を置かぬまでこっちからは絶対に動かぬぞとそう腹の中で決めた。

おやじはずっと黙って新聞を読んでいた。

おやじもおれも小便には何度か立ったが戻って来るとまたどすんと黙って座っていた。おやじは読み終えても何遍も何遍もぱらぱらとめくってみたり最初から読み直していたりした。おやじは意地でも新聞から目を離す気はないようだがおれもこっちから折れる気は更々無かった。

しかしとうとう零時になり、おれは遂に折れた。

おやじに呼ばれたのが17時を少し回った頃だから、かれこれ7時間二人で達磨の様に押し黙っていた勘定になる。

 おれは夜が明けようともおやじが折れるまで待つつもりだったが、おやじはやっぱり夜が明けても読み終えた新聞とにらめっこしているだろう。おれが返事をしなければ一週間でも一年でも、それこそ穴が空くまでそうして新聞を読んでいそうだ。そのうちに新聞を持たなくったって一字一句覚えてしまいそうだ。

そう思うと馬鹿らしくなった。

「もう勉強はまっぴらごめんだ」

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