盡忠報國
文久三年二月四日、その日伝通院は黒山の人だかりとなった。『浪士組』への志願者が招集されたからだ。その数は二百人を優に超える大規模なもので、しかも身分を問わぬばかりか犯罪者ですら受け入れるという組織だった事から、粗末な服装のごろつき紛いの人種も少なくなかった。
そんな中でも一際目立つ男が居た。年の頃三十五、六。色白だがその背は高く、かなりの目方がある厚い肉体だが、肥えているという印象は感じさせない。顔立ちも精悍そのもので、豪傑の風格を備えていた。
中でも彼の印象を際立たせるのが、その手に固く握られた一振りの鉄扇だ。それは実に三百匁にもなる代物で『盡忠報國之士 芹沢鴨』と刻まれている。
「おい、あの鉄扇を持った大男……」
「もしや、あの『玉造組』の下村か? 生きていたのか」
「まさか。奴は獄中で病死したって話を聞いたぜ」
「いやあ、故郷に帰ったって俺は聞いたがな」
「だがあの馬鹿でかい鉄扇は紛れもなく下村の持っていた奴だ。俺は佐原であれを持って暴れる奴を見た事がある。間違いねえ」
周囲で囁かれる噂話に、大男は身じろぎもしない。傍に付き従う従者らしき男も同様だ。この従者もまた、見る者が見れば只者ではない事をすぐに見破っただろう。志願者の中には世に名高き兵法を修めたと思しき者も少なからず居たが、この二人はそうした達人達にも劣らぬ技量の持ち主と見て取れた。
芹沢鴨光幹。それがこの堂々たる巨漢の名であった。手に握られた鉄扇が、刻まれた文字を誇示するかのように鈍い輝きを放っていた。
常陸国芹沢村の郷士芹沢家はかつて幕臣として仕えていた時期もあったが、紆余曲折の末に水戸藩との浅からぬ繋がりを持つ郷士として在地に割拠した家である。常陸平氏大掾氏の流れを汲む由緒正しい家柄だ。その当主貞幹の三男として彼は生を受けた。
彼の辿って来た人生は、既に波乱万丈と言ってよい程に苛烈なものだった。松井村の神官下村氏の養子として下村嗣次と名乗り、暫くは家業である神官としての役をこなしつつ、
神道無念流剣術を学んで免許皆伝を受け、師範代を務める程の実力を養う。
だが、彼はある日一言の言伝もなく下村家の下から逐電した。尊王攘夷の志を果たすとの固い決意故に。彼の実父貞幹は、自身が勤王思想の持ち主であったが為筋金入りの尊王攘夷派である水戸藩主徳川斉昭の知遇を得ており、その影響を嗣次も強く受けていた。更に親友の野口哲太郎もまた強固な勤王思想を抱いており、尊王攘夷への傾倒はいよいよ強くなる一方だった。それが高じて、逐電という結果に至ったのである。
嗣次は野口哲太郎と共に玉造組と呼ばれる組織に参加した。横浜攘夷を実現する為に資金調達をする部隊だ。彼らは『無二無三日本魂』『進思盡忠』という旗や幟を立て、仲間とともに潮来、佐原などの豪商を巡り、金策を行なった。金策と言えば聞こえはいいが、要するに半ば脅迫同然に金を絞り出そうとした訳である。
そんな中で、剣術の達人で堂々たる偉丈夫の豪傑だった嗣次はそれを見込まれ幹部の一人となり、熱心に『金策』に励んだ。三百匁の鉄扇はこの頃からの愛用品で、時にはそれを用いる事すらあったと言われる。この頃の彼は、少なくとも自分自身では間違いなく充実した日々を過ごしていると言えた。志と熱気に包まれていた。
しかし、そんな日々も長くは続かなかった。水戸藩が攘夷派の弾圧に転じた為だ。そもそも強力な攘夷派である徳川斉昭は安政の大獄の折に永蟄居を命ぜられ、憤怒と失望の内に世を去っていた。それ以来水戸藩内では権力闘争が続き、玉造組が結成された頃は親攘夷派が力を持っていたが、玉造組の強引な金策などによって幕府に睨まれ、反攘夷派の逆襲によって政権から追われる事になった。
そして、諸生党と呼ばれるようになった反攘夷派の動きは素早く、玉造組は忽ち壊滅させられ、一度は逃げおおせた嗣次も遂に囚われ獄に繋がれた。天領佐原での『金策』の罪によって死罪を宣告され、いつ来るとも知れぬ死を待つ身となった。
(冗談じゃねえ)
彼は死など微塵も恐れていなかった。彼を支配していたのはむしろ憤怒と焦燥だった。獄中にてもたらされる同志達への苛烈な弾圧の報が、その原動力だった。
(世の中は刻一刻と動き、同志達は次々と斃れて行く。なのに俺は、こんな所で無為に過ごさなけりゃならねえってのか)
嗣次は牢獄に持ち込んでいた例の鉄扇に血文字で辞世を記し、牢外にも血塗られた詩を書き貼り付けたとされる。このまま何事も為せぬまま無益に死ぬなど、彼にとっては耐え難い恥辱でしかなかったのである。
唯一彼に建設的な気持ちを抱かせたのは、『浪士組』と呼ばれる組織が江戸で編成されて時の将軍徳川家茂の上洛に随行し、その警護を担うらしいという噂だった。彼は尊王攘夷派ではあったが、佐幕の思想が全くない訳ではない。むしろこの時期、尊王派であっても倒幕の思想を持ち合わせている者は少数派に属した。だから少なからず、この噂は彼の心を動かし、生きる力の一つとなった。
そして、彼の執念が報われる時が来た。幕府が孝明天皇の圧力に屈して攘夷派に転換し、水戸藩にも方針の変更を強く迫ったのだ。水戸藩では攘夷派が勢いを取り戻し、遂に嗣次の釈放が決せられたのは文久二年も暮の事だった。
彼は下村家には帰らなかった。否、帰れなかったと言った方が正しい。一切の説明もなく全てを捨てて逐電し、挙句国事犯として囚われ、釈放されたとはいえ幕府や水戸藩から睨まれる存在になった彼が、今更戻れる道理などありはしなかった。仮に下村家が受け入れたとしても、それは彼等を危険に晒す事を意味する。道義的にも、決して戻る訳には行かなかった。
彼は下村家との決別の意味を込めて芹沢鴨光幹と名を改め、芹沢姓に復する事に決めた。だが彼の心は、既に遠く京都に飛んでいた。芹沢家に戻ったのも、永の別離を告げる為だったのである。
「どうあっても、決意を曲げる事はないか」
物思いにふける鴨を、父の言葉が正気に返らせる。彼はにたりと笑った。
「餓鬼の頃から強情一途なものでね。長く離れていて忘れたか」
「忘れるものか、お前のようなきかん坊の事を。出来の悪い奴ほど忘れがたく思うもの。下村の家でもそう思っていた事だろう」
「手厳しい事だ」
大げさに肩をすくめる鴨の顔は少し赤みを帯びて来ていた。もう一杯酒杯を干した後、これまた大げさに小首をかしげてみせる。
「それでも俺を止めるのかね、親父」
貞幹が深々と溜め息をつく。その老体からは疲労がにじみ、昔日の鋭気は微塵も感じられない。思わず鴨は瞑目した。
「二十年前なら、殴ってでも止めたかも知れんな」
(そう、その頃なら俺は吹っ飛ばされていたに違いない)
実家に居た日々の事を思い出しながら、鴨の心中に哀しみが渦巻く。今では蚊の一匹も殺せはすまい。年月というものの残酷さを、今ほど実感を伴って認識した事はなかった。
「だが、世話になっていた下村の家も黙って飛び出したのだ。今更どうする事も出来ぬのだろう。お前の勝手にするがいい。ただし……」
ちらりと、脇に控える用人を見た。
「重助もこの旅に随行させよ。お前一人ではまたぞろ暴走して獄に繋がれかねん」
老人の言葉と同時に、用人平間重助は鴨に対して小さく頭を垂れた。彼の家は代々芹沢家に仕える用人の家柄で、特に重助自身は鴨と個人的に深い関わりを持っていた。鴨本人から神道無念流の目録を得たほどの剣術の達人でもある。確かに鴨の旅に随行させるならばこれ以上の人材は居ないだろう。
「重助なら俺は別に文句もないが……」
鴨は言葉尻を濁す。それは老齢の父の事があった。これからまさしく出て行こうとしている身がそんな事を考えるのは滑稽かも知れない。それでも親が無事に暮らして行けるかどうかが気になるのは人情というものだ。用人とは言い換えれば家老である。重助が出て行ったら芹沢家はどうなるのか。
「それこそ今更な話だ。既に重助とは話がついている。倅の忠衛門ももう十五になる。芹沢家を補佐するのに不足な年齢という事もなかろう」
残っていた茶を一気に干す。
「これはくれぐれも申し渡しておくが、勤王の志を決して忘れてはならぬぞ。近頃は勤王の志士などと名乗っておきながらごろつき同然の振る舞いをする輩が後を絶たぬ。そなたも玉造や佐原では似たような事をしておったらしいが、それでは志も何もない。天子様に申し訳の立たぬ無様を晒しては本末転倒も甚だしい。それは真の勤王とは呼べぬ」
それは違う、と鴨は思う。父の思う勤王論は牧歌的で時代遅れな代物だ。芹沢家は経済的に極めて恵まれた部類に入る家で、鴨も草莽の志士として活動するまでは何一つ不自由のない生活を謳歌していた。同じく金に困らない生活を営んでいる父にしてみれば押し借りの類は見苦しいものでしかあるまい。
だが玉造組時代、自分達が経験したのは慢性的な資金難と商家の自分達を馬鹿にした態度だった。その鼻柱をへし折り、かつ資金調達を果たすのに有用な手段は結局の所暴力による威圧だった。少なくとも自分はそう信じてやまない。だが彼は何も言わなかった。自分はここに議論をしに来たのではないのだから。議論などは文弱の輩がやればいい。俺は俺のやり方を通す。
鴨は軽く手を挙げて応じる態を取った。それで話は終わりだった。
壬生新徳寺本堂は不穏な空気に包まれていた。幕府から付けられた鵜殿鳩翁らは苦り切った表情を浮かべ、浪士の一部には憤激で顔を真っ赤にしている者も居る。
「我らの真の目的は将軍警護に非ず。その兵力をもって尊王攘夷の先鋒を務める事にあり」京到着時に出羽浪士清河八郎が発したこの言葉が、不穏の事態を招いた発端である。
そもそもこの清河八郎という男は、本来なら幕府役人と肩を並べて行動する事など到底出来る筈もないいわくつきの人物である。桜田門外の変を機に尊王攘夷と倒幕への思いを固め、横浜の外国人居留地を焼き討ちする計画を立てたが、露見した為に逃亡し諸国を流浪した。それが盟友山岡鉄舟の協力を得て浪士組結成を促す献策を出し、まんまとその中心人物の一人になりおおせてしまった。つまり幕府側は完全に一杯食わされたのだ。
その上で清河は朝廷への建白書に署名する事を迫った。だが、この騙し討ちにも等しい策謀に反感を抱いた者達が居た。水戸派と試衛館派と呼ばれる面々が主体だったが、その反対派の中心人物として芹沢鴨が立ちはだかった事は、清河にとっては意外な成り行きだっただろう。
鴨にとって、朝廷に忠誠を尽くす事自体は問題ではなかった。それは当然の事だからだ。しかし、自分達を欺いて己の個人的な野望の道具にしようとした事は断じて許せない。将軍や幕府を蔑ろにし、自分達を暗に見下す態度も彼の気に障った。
かつて鴨が下村嗣次として玉造組に居た頃、清河八郎は彼と面会しようとした事がある。その時は諸事情によって遂に面会が叶わなかった。結果的にはそれが、二人のすれ違いを暗示していたのかも知れない。
それでも彼らは署名だけはした。しかし、その後もたらされた攘夷を命ずる勅諚を盾にして、清河が江戸に戻り攘夷の為に動くと言明した事で彼らの忍耐は遂に限度を迎えた。
「俺達はそもそも何の為に遥々京の都までやって来たのだと思う? 清河さんよ」
清河を睨み据えながら、吠えるように鴨が言う。
「花を愛でる為か? 社寺見物の為か? 馬鹿な! 天子様へ拝謁せんとする大樹公を不逞浪士どもの魔手から警護し奉る為であろうが! なのにあんたはそれを全て放っておいて東下しろと言う。こんな馬鹿な話があるか! そんなものが『盡忠報國』の道であろう筈がない!」
もしこれを言ったのが他の者であれば、清河は冷笑で返していたかも知れない。しかし同じ尊王攘夷派である筈の鴨が言った事で、清河も穏やかではいられなかった。
「見損なったものだ、芹沢殿! 玉造組での勇名はどこに失せたのか? 我等浪士組はその天子様より直々に攘夷の命令を受けたのだ。幕府の命令と天子様の命令、どちらが優先されるべきかなど考えるまでもなかろう。貴殿と私は同じ志を持っていると思っていたが、とんだ見込み違いだったらしい」
清河の言葉に、鴨はにたりと笑った。だがその眼差しに込められているのは紛れもない怒りだ。
「見込み違いしていたのは俺の方だぜ。あんたの噂は聞いていたが、それでもこの浪士組を結成するに至って心境の変化があったのだと思っていた。だがそれは間違いだったらしいな。同じ志だと? 笑わせるなよ、おい。俺は水戸の人間だ。今は亡き烈公のお膝元で育った身なんだよ。天子様を敬うのと同じく、大樹公もまた敬っているのだ。あんたの考えは都に巣くう『不逞浪士』どもと変わらんぜ。そんな考えに俺が同調すると本気で思っていたのか? 俺はあんたには従わない。当初の志に従い、天子様と大樹公を護り奉る。それこそが『盡忠報國』の道よ。横浜くんだりで外人どもを殺す事だけが天子様に報いる道じゃねえんだ!」
例の『盡忠報國之士 芹沢鴨』と刻まれた鉄扇を見せつけるように突きつけながら切られた鴨の啖呵に、平間重助ら水戸浪士達が次々と賛同の声を上げる。それに続いて試衛館派と呼ばれる一味の中から、その大将格と思しき風格の男が進み出た。名を近藤勇という。
「芹沢さんの言われる通りだ。我々はこの数日、独自に京の都を巡回して回った。噂には聞いていたが想像以上に不穏な空気が漂っている。確かに我等は幕府の禄を食んでいる訳ではない。だが、だからと言って当初の志たる大樹公護衛を果たしもせず江戸に帰還するなどとは本末転倒も甚だしい。我ら試衛館門人一同も、この京の都に残る。残って大樹公護衛の大義を果たす」
清河はじろりと近藤を睨むが、こちらには何も言わない。腕は立つかも知れぬが、所詮は百姓上がりの無学蒙昧の徒だという観念があった為だろうか。いずれにしても彼等の決意もまた固く、止められるものではなかった。
結局、芹沢鴨ら水戸浪士と近藤勇ら試衛館派を始めとする二十四名が清河らと袂を分かち、京の都に残留する事が決せられた。清河は江戸に戻った後浪士組を用いての攘夷計画を練ったが、浪士組に同道していた幕臣佐々木只三郎らの手で暗殺される事になる。浪士組は新徴組と名を変えて江戸に駐屯し、やがて庄内藩傘下の組織として尊攘派勢力を一掃、当初とは逆の佐幕派組織として活動する事になった。かくて清河の策謀は完全に潰えたのである。
その後、壬生浪士組と呼ばれた残留組は会津藩を頼ってその『御預かり』となり、血の粛清劇の末芹沢派と近藤派に『純化』され、芹沢・近藤の二頭体制が確立された。
壬生浪士組を組織するにあたって、芹沢鴨は極めて重要な役割を果たしたと言ってよい。そもそも近藤達は多摩の無名道場の剣客に過ぎず、京都での人脈の類は皆無である。仮に彼らだけが残留したとしても、幕府には相手にされなかっただろう。何とか会津藩『御預かり』になれたのは、水戸藩の公用方で会津藩とも付き合いのある鴨の実兄芹沢成幹の伝手があったからだ。
組織の存続と発展にも、芹沢鴨の働きを欠かす事は不可能だった。壬生浪士組の財政難は深刻かつ悲惨極まる代物で、浪士組の面々は居候する八木・前川両家への家賃や食費すらまともに払えず、衣服も粗末で見苦しく、真剣ではなく木剣で見回りに従事していたとされる。松平容保に目通りする時も八木家から正装を借り受けて賄う始末だった。皆が八木家の紋付羽織を着用すると恥をかくのではとの指摘には、
「同じ紋付羽織だと滑稽? 仕方なかろうが、どこかの誰かさん達が金を出さないせいなんだからよ。堂々と着て目通りすりゃあいいのさ。それにこれはこれでなかなか奇抜。誰も真似出来ないししようともしない。俺達の存在感が際立つんじゃねえのか」
と、平然と開き直る芹沢鴨の鶴の一声で着用が決まったとする話が残っている。要するにそれだけ窮乏していたし、手段を選ぶ余裕もなかった訳だ。
彼らを預かる会津藩も、京都守護職の大任を受けるにあたって悲惨な領域の財政難に苦しんだ藩だった。領国では苛斂誅求と言うべき凄まじい重税(七公三民とも八公二民とも言われる)を課し、それでもなお足りず贋金作りにまで手を出したとさえ言われる悪夢のような財政事情である。実績もなく得体の知れぬ浪士の集まりに出す金などなかった。
芹沢鴨の本領は、まさにそうした状況下で発揮された。彼は京や大坂の商家にしばしば『押し借り』に出向き、その金でもって所謂『ダンダラ羽織』の調達や隊士の募集などの経費に充てる事で浪士組の存続と発展を推し進めた。どんな不法行為であれ、開き直って手段を選ばず、目的の為なら暴力すら辞さぬとする彼の玉造組時代からの信条がその方針を取らせたのだ。
巷には、この押し借りの横行に頭を悩ませた会津藩が借金を弁済し、あるいはそれで待遇を改善したとする話がある。だがそれは誤りと言うべきだろう。何故なら、借金を弁済する金があるのならば浪士組への待遇も変わっただろうし、待遇が改善されるなら浪士組は押し借りなどする必要はない。第一、会津藩が彼らの押し借りを本当に苦々しく思っていたのならば彼らの身分保障を取り上げ、罪人として処断すればよいだけの話なのだ。
結局これは、芹沢鴨と会津藩の政治取引のようなものであった。表向きの待遇を変えず、悪名を壬生浪士組(特に芹沢鴨)が被るのと引き換えにして会津藩は彼らの押し借り行為を事実上黙認したのだ。それも鴨の人脈と胆力、そして悪名も恐れず手段を選ばない悪辣さあればこそ認められた策だった。試衛館時代は日々の暮らしに事欠き、方々への借金に戦々恐々としていた近藤達に、そんな発想は出来ない。
更に鴨は、自分達に向けられた軽侮に対して容赦なく報復した。大坂で自分達に不遜な態度を取った力士を斬り捨て、報復に現れた者達も叩きのめし、挙句に詫び金まで取らせて屈服させたのを始めとして、暴力を伴う『騒擾』の類は数多く逸話として残されている。
その全てが事実である訳ではない。例えば鴨最大の暴挙と名高い大和屋焼き討ち事件は、実際には鴨の犯行でなかった可能性が高いというのが今日の定説である。だが、それを真実であろうと思わせてしまうほどに、芹沢鴨という男には暴力という名の悪名が纏わりついていた。彼は悪名を恐れぬばかりか、それを逆に利用しようとすらしていた節がある。
それは確かに効果があった。当初は東夷の地からやって来た貧相な浪士集団に嘲笑を浴びせていた京童が、次第に軽蔑と同時に恐怖心を持つようになったからだ。それがかつて玉造組に居た時からの彼のやり方だった。それで水戸時代は途中まで上手く運んでいたのだから、それをそのまま壬生浪士組の運営に持ち込んだとしても無理からぬ話だ。
だが当然の事ながら彼とその子分である浪士組の乱暴狼藉はあらゆる方面からの非難の的になり、遂には朝廷の耳にまでその噂が達するに至った。芹沢鴨が積み重ねる『悪行』と『悪名』は、徐々にだが確実にその首を締め上げつつあったのである。かつて玉造組の『悪行』によって水戸藩内部の派閥争いに不利が生じ、自らも死の寸前まで追い込まれた時と同じように。
そして、彼の運命を決定的にする大事件が起こった。八月十八日の政変である。
その時の蛤御門は、ある意味堺町御門以上に緊迫した雰囲気に包まれていたと言っても過言ではない。門の前には五十人を超す武装集団が集まり、その面前で兵士達が槍衾を作って立ち塞がっている。まるで今にも戦いが始まりそうな様相を呈していた。
京都には長州藩士を中心とした夥しい数の尊攘派志士が集結していた。その動きにはあの清河八郎も大きく関与している。孝明天皇が断固とした攘夷派であるのも手伝って、次第に朝廷内部でも尊攘派、それも倒幕思想を含む過激派が勢力を増して行く事になった。
だが孝明天皇は攘夷派であると同時に保守的な親幕派であり、次第に過激派に対する不信感を強めていった。過激派はしばしば天皇の意志を無視し、そればかりか脅迫すら行って自らの意志を押し通していた為だ。
こうした長州藩を中心とする攘夷過激派の専横に危機感を抱いた会津・薩摩ら公武合体派諸侯は、中川宮朝彦親王を介して密かに天皇と連絡を取り、遂に長州藩及び攘夷過激派公卿一掃のクーデターを起こした。
後に八月十八日の政変と呼ばれるこのクーデターに、当初壬生浪士組は戦力として数えられていなかった。寅の刻(午前4時)前後には会津・薩摩・淀藩の兵が門を固め、辰の刻(午前8時)頃に、招集された在京諸侯が参内と兵力展開を済ませているのにも関わらず、壬生浪士組の到着は正午過ぎという遅さである。
それでも、芹沢鴨を筆頭として隊士の士気は高かった。彼等が京都にやって来てから行った公務と言えば、孝明天皇の石清水行幸の警護と将軍徳川家茂の大坂下向の警護のみ。彼等は活躍の機会に飢えていた。その焦燥感もまた、種々の騒擾の一因であったろう。
しかし、彼等の意気は早々に、しかも思いがけない形で挫かれた。ようやく蛤御門に辿り着いたはいいものの、門を守護する会津藩兵に行く手を阻まれてしまったのだ。彼等は壬生浪士組なる集団など知らなかった。堺町御門では薩摩・会津藩兵と長州藩兵の息詰まる睨み合いが続いており、事態はどう推移するか未だ予断を許さない。だから自然と兵士達も気が立っていた。
「胡乱な者どもめ。我らは殿より味方を除く何人たりとも門を通すなと下知を賜っておる。無理に通るつもりならば槍の錆にしてくれるぞ!」
そう言うや否や本当に槍の鞘を払い、槍先を壬生浪士組に対して突きつけたのだ。その剣幕は、剛毅で鳴る近藤ですら一瞬怯むほどのものだった。
「雑兵ばらめ!」
不意に上がった怒声に、一同は驚いてその方向を見る。ある者は嘆息し、ある者は内心震え上がった。その声の主は誰あろう、壬生浪士組筆頭局長芹沢鴨その人だったからだ。ずいと前に進み出るのを、自然と皆が道を譲る。それほどの気迫が滲み出ていた。慌てた近藤がすぐに近づいて耳打ちする。
「芹沢さん、どうか落ち着いて頂きたい。これは今までの騒擾とは訳が違う」
形の上では同じ局長でも、名実共に浪士組の頂点にあるのは鴨の側だ。そうでなくてもいつ破裂するかわからぬ癇癪玉のような男である。だから極力彼を刺激しないよう丁寧に、かつ決然と諫言した。
だが、鴨は遮るように鉄扇を彼の顔に向け、にやりと笑った。邪魔をするなと言うのである。近藤は渋々退いた。ここで粘ったら、今度こそ彼は烈火の如く怒り出すに違いないからだ。彼は祈るような気持ちで鴨の後ろ姿を見た。それが無駄な祈りであろうと半ば諦めながら。
果たして、鴨の取った行動は穏便とは程遠い代物だった。
「やあやあ、そこに居並ぶ番犬諸君。朝早くから門の警護、ご苦労な事だ。吠え立てるばかりか槍まで向けるとは、まっこと番犬の鑑である事だなあ!」
いきなりこれである。まるで悪友相手の軽口のようなこの発言に、近藤ら隊士一同は暗然とし、藩兵達はむしろ呆然となった。それを知ってか知らずか、鴨の独演会は続く。
「しかし、本当に優れた番犬というものは、吠えるべき相手とそうでない相手を区別するものだ。怪しからん盗人だけでなく、主人の知己にまで吠え立てるのでは、それは番犬と言うよりも駄犬と言うべきだろう。なあ、そうは思わんか?」
例の三百匁鉄扇を手で弄んで笑みを浮かべながら、鴨はなおも悪友相手の会話を楽しむかのように皮肉と悪口を並び立てる。だが次の瞬間その形相は一変し、鉄扇が一閃するや手近の槍の穂を打ち払った。ほとんど同時に、全てを圧するが如き大音声が響き渡る。
「我々は会津中将のご沙汰を受け、盡忠報國の誠志の下天子様を守護し奉らんが為に馳せ参じた者だ! それを貴様ら雑兵風情が何の故をもって押し留めようとするのか! もし不逞なる奸賊どもの手によって、畏れ多くも天子様に万一の事あらばなんとする! 貴様らがなおも門を閉ざすつもりならば、実力で押し通るぞ!」
そして叫び終わるや今度は高らかに哄笑し、にっと笑みを浮かべる。
「ま、頭をお冷し召されい。このわしが手ずから冷やして進ぜよう。ほれ、このようにな」
そう言うと扇子を開き、槍先をぱたぱたと煽ぎ立てる始末。まるで先程の大喝などなかったかのような不敵かつ大胆な態度である。この両極端な振る舞いに藩兵達は完全に呑まれてしまったらしく、困惑しながら僚友と顔を見合わせている。後ろの隊士達は息を詰めてこのやり取りを見守っていた。
その後暫くしてやって来た軍事奉行の仲裁によってようやく誤解が晴れた時、双方が安堵の溜め息をついた。そんな中、鴨は悪びれもしない堂々たる態度で悠々と中に入っていった。
『芹沢鴨などは顔の先へ突き出された抜身の穂先を見て、扇を腰より取り煽ぎ立て、悪口雑言を申し立てた。一触即発の状況の中、軍事奉行西郷十郎右衛門が駆けつけ、事なきを得た。芹沢鴨は大事に及ばずと弁えての事で、彼の扇をもって我が身より五寸余り離れた槍の穂先を煽ぐ姿は大胆とも申すべきであろう。憎さも憎しと、そこに居る者は語り草となった』
この時の出来事について記された会津藩士が残した日記の文言である。芹沢鴨という男の大胆不敵さ、そしてその中に見え隠れする打算が垣間見える話だと言えよう。これは明らかに会津藩に対する鴨の売名であり抗議だった。自分達をほとんど無視し、挙句に厄介者、部外者として邪険にした事に対する彼なりの意趣返しだったのだ。会津藩は渋々彼らに任務を与えた。そうする以外に方法がなかった。
任務そのものは地味で目立たぬものだった。『御花畑』と呼ばれる一帯を守備する任務である。それは明らかに前線勤務ではなく後方警備であり、華々しさとは全く無縁の任務だった。それに愚痴をこぼす隊士も少なくなかったが、芹沢鴨当人からは、そうした不満は微塵も感じられなかった。それどころか中に入ってからは奇妙なまでに静かで、かつ厳粛な雰囲気すら漂わせていた。
「重助よ」
傍に従う忠実な従者に、独りごちるように言った。
「俺はとうとう、ここまで来たぞ」
それきり口を閉ざし、その場を離れて行く主の後ろ姿を見て、重助もまた感慨にふけっていた。盡忠報國。主が自分の耳に蛸が出来るほど熱心に語り続けていた理想。ほんのささやかな任務でも、今日の彼はその本懐を成し遂げたのである。
その後、壬生浪士組は事変における功績が認められて正式に京都取締りの役を任じられる事になった。更に朝廷より新たに『新撰組』の名を賜り、幕府と朝廷双方のお墨付きを得た公的な警察組織として認められるに至った。
清河八郎と袂を分かってからおよそ半年。将来どころか明日の見込みすらままならない組織を今日に至るまで存続させる為に、芹沢鴨はあらゆる手段を厭わなかった。もし彼が参加せず試衛館派のみが残留していれば、間違いなく浪士組は窮乏の果てに空中分解していた事だろう。否、そればかりか試衛館派が京都残留を決意したかどうかすら定かではない。芹沢鴨は紛れもなく壬生浪士組、そして『新撰組』の創始者にして最大の功労者と言うべき存在だった。
そんな彼にとって、この八月十八日の政変における活躍とそれを朝廷に賞された事は、この上なく晴れがましい名誉に他ならなかった。水戸藩の田舎郷士として生を受け、勤王の精神と共に育ち、一度は獄に下され生死の淵に立たされた男が、遂に自分が崇敬してやまぬ『天子様』に認められたのだ。それは芹沢鴨光幹にとっての栄光の日だった。少なくとも彼は、そう信じて疑わなかった。
それが彼にとって栄光ではなく、破滅を意味するものなのだと、彼自身は知る由もなかった。
土砂降りの大雨が降る夜だった。その激しい物音によって、平間重助は浅い眠りから覚める。頭が少し痛い。飲みもしない酒を鴨に飲まされた為だ。その鴨はと言えば、奥の座敷で大いびきをかいて深い眠りについている。重助はそろりと起き上がり、厠へと足を進めた。酔いは軽いので足取りは確かなものだ。
その日、角屋で新撰組の大酒宴が催された。例によって鴨は浴びるほどに酒を飲み、子分の平山五郎、従者平間重助、そして副長土方歳三と共に、壬生での滞在先である八木家で再び宴会を開いた。平山などは正体不明に陥って自力で動く事すら出来ず、皆が馴染みの芸妓と同衾の上就寝した。土方だけが『野暮用』と言い残して去っている。
(それにしても、今日の若は本当に上機嫌であられた)
芹沢鴨という男は、基本的に酒に酔うと何をしでかすかわからぬ男だ。まだ浪士組が無名だった頃、角屋で酒宴を開いた際の対応が悪いと怒り、鉄扇で当たるを幸いあらゆるものを薙ぎ倒し、屋内を滅茶苦茶にした挙句七日間の営業停止を一方的に突きつける事件を起こした事がある。角屋は後難を恐れ鴨に屈服し、以後は態度を改めるようになったのだが、以後その酒乱ぶりは浪士組の面々にとって最も頭の痛い話になっている。
それが今日の鴨は終始上機嫌で、宴会芸まで見せて場を大きく盛り上げた。それもその筈、今日の宴は新撰組の隊名下賜及び京都取締役拝命を祝ってのもので、事実上主役は鴨のものだという扱いだった。それならば上機嫌になるのも頷ける。
(いや、そればかりではない)
重助は、主が松平容保への謁見から帰って来た日、主と二人きりで飲み明かした時の事を思い出す。いつもは皆で騒ぐのを好み、自分自身が一番騒ぐ筈の主が、その日だけは黙々と酒を飲んでいた。普段ならばありえぬ静謐な酒席。
(容保公が言われた事だがな)
厳かな面持ちで語り始めた主の言葉と表情とを、重助は恐らく一生忘れる事はないだろう。
(天子様のお耳に俺達の働きが伝わっていたのだ。そして、拝謁した容保公に俺達へのお言葉を託された。『忠義の働き、真に大儀である』とな)
主の体は震えていた。
(親父や烈公の掲げる勤王の心に触れ、身一つで玉造組に飛び込んでから、俺はずっと微力ながらも天子様のお役に立ちたいと思って来た。上洛してからは毎日天子様への祈りを欠かさず行って来た。それは勤王家なら当然の事かも知れん。例え報われる事がなくても不変の忠誠を尽くすのが勤王の志なのだと。だが、だがな)
今やその震えは誰が見てもわかるほどに大きくなり、畳に雫がぽつぽつと流れ落ちている。杯に注がれた酒とは異なる雫が。
(それでも、容保公からこの事を知らされた時、俺は心の底から救われた思いがした。俺のやって来た事は無駄ではなかったのだと。今までの苦労が確かに報われたのだと。もしかしたらそう思う事自体が不敬なのかも知れねえがよ、それが俺の胸から湧き上がって来たありのままの想いだったんだ)
後は言葉にならず、腕で顔を覆って声を殺す。重助は用人としての経験から勘定方を務めている。浪士組の財務が常に破綻と隣り合わせの状況であった事を誰よりも承知している。鴨の執拗な押し借りがどんな意図で行われた行動だったのかも。決して鴨が面に出そうとしない苦しみを、部分的ではあるがただ一人理解していたのが重助だった。気付くと彼自身、頬を伝うものがあった。
やがて顔を拭った主が、やや照れ臭そうに笑う。それは久しく見る事のなかった、少年のように純粋な笑みだった。
(俺もやっと、本当の『盡忠報國之士』になれた気がするよ)
鉄扇に刻まれた文字を指でつつきながら、主は静かに笑っていた。
(あの振る舞いは、きっと若にとっては景気づけのようなものだったのだろう)
幕府と朝廷から公式に存在を認められた新撰組の役目は重要さを格段に増した。今まで以上に気を引き締める事が求められる。事変以後も不逞な浪士どもは各地に潜伏し、都の安寧を脅かそうとしている。彼らとの暗闘はこれから激しくなるだろう。それに向けて気合をつけたのだ。盡忠報國の志を果たす為に。重助はそう理解していた。
「……!」
不意に聞こえた悲鳴とも怒号ともつかぬ人の声らしき音が、重助を過去から急激に現実に引き戻す。だが相も変わらず外は土砂降りの大雨で、それだけで耳に穴が開きそうな激しい物音を立てている。
(空耳か?)
そう考え、済んだ小用の後始末をしようとした刹那。
「……ぜだぁっ!」
はっきりと、主人の叫び声が聞こえた。考えるより先に、体が動き出していた。
八木家近くの某所。そこには数名の屈強な剣客が陰鬱な面持ちで鎮座していた。彼らの内何人かは濡れ鼠になっている。だがそれは雨によるものばかりではない。
「確かに、やったか」
大将らしき男が訊ねる。
「やった」
ずぶ濡れの男の一人が感情を感じさせぬ短い言葉で断定する。他の濡れた面々も無言で頷いた。
「そうか。やったか」
大将は溜め息をしつつ腕を組む。他の者にも、喜びの感情は一切見受けられない。
「嫌な気分でしたよ」
この場に連なる面々で、一際若々しい少年とも言うべき剣士が、哀切すら感じさせるように表情を歪めながら言った。
「おれは先生が決めた事になら従います。だから仕手として参加もしました。でも……」
「わかっている」
大将は手を挙げて、少年がなおも何か言おうとするのを妨げた。その大将自身、苦い表情で唇を噛み締めている。
「わかってはいるが、どうしようもない事なのだ。でなければ……」
「でなければ、俺達は朝廷や容保公から見捨てられてしまう。それに元々大将は一人で十分なのだ。奴には悪いが、死んで貰うより仕方がなかった」
大将から引き継いだ男が、冷徹に言い捨てる。濡れ鼠の一人は一瞬眉をひそめるが、口にはしない。するだけ無駄だとわかっているからだ。
「しかし、本当に無念な話だぜ」
濡れていない青年が、これははっきりと嘆きの声を発した。
「あの人は確かに乱暴者だったかも知れない。だが間違いなく一廉の壮士だった。新見の野郎とは訳が違う。本当ならこんな死に方なんてするべき人じゃなかったのに」
青年は躊躇うように口をもごもごとさせる。まるで言葉を発する事が罪であるかのように。だが遂に我慢出来なくなったか、面々を睨むような表情で、はっきりと言った。
「あの人が居なければ、今日の俺達はあり得なかった。あの人が居たからこそ、今に至るまで俺達は何とか糊口をしのぐ事が出来た。それなのに、俺達は……これじゃああの人に、芹沢さんに恩を仇で返したようなものじゃあねえかよ」
新撰組二番隊組長永倉新八の非難にも似た訴えに、近藤を筆頭とする幹部一同は皆、黙りこくった。全員が大なり小なり、同じような気持ちを抱えていたからだった。
「若! どこにおわす! 若!」
厠から飛び出した平間重助が、大雨に負けぬように大声を張り上げながら駆ける。当然家主の八木一家はこの騒ぎで叩き起こされる形になったが、重助は彼らを無視して鴨と平山五郎が寝ている筈の部屋に踏み込んだ。
目の前に広がっていたのは、凄惨な殺戮劇の残骸だった。
「若」
それきり、重助は言葉を発する事が出来ない。
少し前まで芹沢鴨と呼ばれていた死体には、幾つもの無残な刀傷が刻まれていた。それも大半は刺し傷だ。その近くには彼の馴染みの女の死体が横たわり、平山に至っては首と胴が分かたれている。平山の女は逃げおおせたのかここには居ない。
特に鴨に対しては確実に殺害する事を期してか、入念なまでに滅多刺しにしたと見える。複数の刀でずたずたにされた血まみれの屏風と本人の傷跡がそれを証明していた。抵抗しようとしたのか、死体の近くには脇差と鉄扇が無造作に転がっていた。
「刺客はどこに行った」
独りごちるように言った。八木家の人々は身を竦めて動けない。惨劇もさる事ながら、重助の凄まじい殺気がそれを強いていたのだ。
「局長殿を殺した刺客はどこに行ったのだ! 見ていないのか!」
彼らは首を振る事しか出来なかった。本当は、彼らには犯人の心当たりがあった。邸宅に踏み込んで来た刺客は覆面で顔を隠していたが、死闘の最中に漏れた声や目元の雰囲気などに覚えがあったからだ。だがそれを告げてよいものかどうか判断がつかなかった。事実なら事実、間違いなら間違いで、それぞれに後難がついて回るだろうと察せられた。いずれにしても争いに巻き込まれるのは真っ平御免だった。だから言わなかったのである。
「何故だ」
そんな彼らのささやかな思惑など振り捨てて、重助は己の思索に没入しているように見えた。没入せずにはいられなかった。怯えでも怒りでもなく、無念さを剥き出しにした主君の死に顔を見てしまったのだから。
「何故だ!」
いつか、彼の頬を涙が伝っていた。ほんの一月前に主君と酒を酌み交わした時とは、まるで意味の異なる涙が。
近藤達が芹沢鴨抹殺の挙に出たのは、彼らの独断によるものではない。確かに壬生浪士組は近藤派と芹沢派に分かたれ、船頭多くして船山を登る一歩手前の所で辛うじて踏みとどまっているのが現実だった。
だがだからと言って、仮にも筆頭局長たる鴨を『邪魔な政敵』というだけで排除する事は出来ない。その決定的な名分がないし、何より彼らにとって鴨は政敵であるのと同時に、浪士組結成とその維持に並々ならぬ労力を注いでくれた恩人でもあった。だから今日に至るまで、少なくとも表向きには両派の衝突は回避されていたのだ。
そうした状況を一変させたのが、彼らを抱える松平容保からの極秘裏の呼び出しだった。それも近藤を指名しての呼び出しだ。不審に思いながらもお召しに参上した近藤に告げられた言葉は、驚愕すべき内容だった。
芹沢一派を排除し、京都取締りの役を務めるに相応しき綱紀を回復せよ。
それが、容保を介して発せられた朝廷からの命令だった。と同時に、これは陛下自身が示されたご意志でもあると容保が付け加えるに至り、近藤は心胆から震え上がった。自分達の立場がどれだけ危ういものであるかをはっきりと突きつけられたからである。
確かに、新撰組への改組は彼らにとっては栄光と言ってよかった。朝廷と幕府双方のお墨付きの下、堂々と胸を張って京洛を巡回する資格が得られたからだ。
だが、物事は常に表裏一体。彼らは栄光と同時に重い責任をも背負う事になった。つまり今までに重ねて来た様々な騒擾、別して芹沢鴨の引き起こした刃傷沙汰を伴う不法行為は、最早認められる余地がないという事である。彼らが騒擾で名を傷つけるのは、そのまま朝廷や幕府の名も傷つける事になるからだ。
だが現実には、芹沢鴨ある限りその不安が絶える事はない。粗暴な性格もそうだが、それ以上に不法行為も辞さないやり口こそが、彼の組織運営の要諦だったからだ。まさに彼の存在こそが今後忌むべき事態を引き起こす病巣そのものであり、排除されるべき敵である。それが朝廷、ひいて言えば頑固な理想主義者である孝明天皇の意向だった。
これは会津藩にとっても無視しがたい話だ。そうでなくとも、彼らは政変において芹沢鴨という男が必ずしも自分達に従順な存在ではない事を思い知らされている。最早彼らにとって芹沢鴨は有用な番犬から、有害な狼に変わろうとしていた。その前に芽を摘む事と、朝廷の命令とが合致した。彼らにこの命令を拒否する選択肢は始めから存在し得なかったのである。
(今までの騒擾に関しては、もう過ぎた事でもあるから不問に処そう)
容保は穏やかに、だが妥協を許さぬ真摯な表情で真っ直ぐ近藤を見据えた。
(だが、今後もそうであるとは言えぬ。そなた達には少なからぬ権限を与えたが、同時に少なからぬ責任があるのだ。そなた達が組織の綱紀粛正に乗り出さぬのならば、我々としてもそなた達に対し好意的に振る舞う訳にはゆかぬ)
つまるところ新撰組への改組と新たなる任務の拝命は、芹沢鴨ら『旧弊』の一掃を引き換えとした交換条件のようなものであった。鴨自身が栄光と考えていたこの二つの拝領品は、実際には自裁を迫る毒酒と同じだったのである。彼は『天子様』に認められてなどいなかった。むしろ積極的に忌避されていたのだ。彼の天皇に対する篤い忠誠に対する見返りとしては、これほど残酷なものもなかっただろう。
それは対立する近藤ですら感じた事だった。彼は鴨の並々ならぬ勤王家ぶりを知っている。どれだけ我儘な振る舞いをしても、天皇に対する忠義だけは不変だった。政変が終わった後に容保に謁見した時など、あの芹沢鴨とは思えぬほど大人しい態度であり、天皇よりのお褒めの言葉を容保が告げた時に至っては、感激のあまりその場で咽び泣いたほどだった。それなのに……。
(……勅命、謹んで承ります)
それでも近藤に、新撰組に出来る事は、この命令を完遂する事だけだった。皮肉な事だが、そうする以外に芹沢鴨が今日まで守り育てて来た新撰組を存続させる方法はなかったのである。
(そうだ。そう思わねば……)
弔辞を読み上げながら、近藤は自身の葛藤を無理矢理にでも打ち消そうとした。その欺瞞で覆わねば、芹沢鴨という恩人を殺した事に対するやるせなさと罪悪感とを割り切る事が出来なかったのだ。
壬生浪士組改め新撰組筆頭局長芹沢鴨。彼は会津藩に『病死』として届けられた。会津藩もそれを受けて公式に『病死』と認定し、厳かな葬儀が行われている。二重三重の欺瞞に塗り固められた儀式として。その『儀式』に、芹沢鴨の腹心平間重助の姿はない。
「芹沢局長は……国の行く末を心から憂い、朝廷に対する深い尊崇の念を抱く……立派な壮士でありました。そんな彼にとって、このような……このような志半ばでの死は、さぞ不本意であった事でしょう……」
近藤の弔辞は、決して滑らかなものではなかった。その顔は悲痛に歪み、声は震えてすらいた。その事実だけ見れば悲しみの深さが見て取れる有様ではある。
無論、それを白々しく思う人間もこの中には居た。八木家の面々がその筆頭であったが、それだけではない。永倉新八も嫌悪感を抱きながら弔辞を聞いた人間の一人だった。
(近藤さんは変わった)
渋い表情で永倉は想う。多くの新撰組関係者と違い、彼は鴨の死を心から悼む数少ない人物の一人である。神道無念流を修めた同門であり典型的な江戸っ子気質の永倉は鴨と気が合い、親しい関係にあったからだ。だから近藤が芹沢抹殺の命令を持ち帰った時も、
「俺達にとってあの人は大恩人だ。朝廷の言うなりに差し出す事なんて出来ない。まして俺達の手で殺すなんて没義道もいいところだ。俺が説得して何とか納得して貰うから、しばらく形だけでも謹慎して貰い、ほとぼりが冷めた頃合いを見てお上に許しを請うしかない」
と猛反対したほどだった。だが結局、容保の強硬な態度を直に見ていた近藤とそれに同調する土方が自分達の意見を押し通し、今日の状況に至ったのである。
だから新撰組存続の為に必要な措置とは承知していても、どうしても割り切れないものがある。本当にこれで正しかったのかという疑念と、亡き鴨に対する罪悪感は募る一方だった。
そこに、この近藤の『悲痛な』弔辞である。
(大した役者になったもんだよ、本当に)
彼の知る近藤勇とは、こんな『役者』などでは全くなかった。暇さえあれば刀について何刻も語り、三国志や水滸伝などの読み物を好み、立派な武士に憧れる素朴な田舎の道場主。それが彼の知る近藤勇という男だった。その筈だった。
(心にもない事をよくもああ悲痛に長々と言えるもんだ。それも、芹沢さんの兄貴も来ている場で。立派な壮士だった? ああそうさ。確かにあの人は見事な壮士だった。だがあんたにそれを言う資格が本当にあると思うのかよ、近藤さん)
近藤としては、鴨に対する哀悼の念が皆無という訳ではない。あの悲痛な弔辞も全てが演技という訳ではなかった。だが永倉はそう受け取らなかった。彼は元来生粋の江戸っ子で、嘘や欺瞞を何よりも嫌う。芹沢殺害と、それを糊塗せねばならぬ事情を理性で理解する事は出来ても、感情で納得する事は到底不可能だった。
自分と近藤との仲に小さなひびが入る音が、永倉には聞こえた気がした。空耳なのだと、必死に言い聞かせた。それが儚い願望でしかないのだと、そう自覚しながら。
惨劇の夜に八木家から脱出した平間重助はその行方が杳として知れなかったが、やがて故郷芹沢村に姿を現した。主人の死の顛末を芹沢家に語って聞かせる為である。
「大命を預かりながら若様をお守りする事能わず、申し訳のしようもございません」
死を賜る覚悟と、むざむざ主を死なせ生き残ってしまった悲嘆による悲愴な面持ちに、芹沢家の人々は言葉が出なかった。と言うよりもそんな気力がなかったと言った方が正しかったのかも知れない。鴨の実父貞幹はこの報を受けてからほどなく病没している。息子の無残な死が、老父の寿命を縮めてしまったのであろう。
そして平間重助は、芹沢家への報告を済ませるや再び行方をくらましてしまった。一つには新撰組の追っ手を撒く為であり、今一つには水戸藩における不穏な動きがあった。かつて芹沢鴨も所属し、この時期天狗党と呼ばれるようになった水戸藩の急進的攘夷派が、横浜鎖港などを求めて蹶起する計画を練っていた。それに巻き込まれ、幕府の嫌疑を受ける事を忌避したのである。それに芹沢本家が巻き込まれてしまう事も。
結局、重助が再びその消息を現すのは明治維新の後になる。それでも芹沢本家に戻る事はなく、近くの離れに家を借りて隠者のような生活を続けた。そして主人の死から十一年の月日が経った明治七年に五十一歳の生涯を閉じる。新撰組と芹沢鴨について、公には遂に一言も語る事はなかった。
芹沢鴨の死により、新撰組は近藤一派の手で統一された。その後かの名高き池田屋事件で天下にその名を轟かせ、遂には幕臣として正式に取り立てられるに至った。それは輝かしい栄光の証であった。
だが、それは虚飾と欺瞞に塗り固められた表向きの栄光であるに過ぎなかった。事実上の管理者になった土方が採った方策は、かつて自分達が排斥した筈の芹沢鴨のそれと大差ないものだった。即ち、暴力と恐怖による統制である。政敵たる鴨を抹殺しておきながら、結局最も有用と判断されたのが鴨の用いていた方策だったのは何という皮肉だろうか。その統制の対象が民衆や商家から隊士に変わった分、むしろ鴨より性質が悪い。それは恐怖政治以外の何物でもなかったのだから。
そして唯一の局長として押し上げられた近藤は、次第に増長し隊士達を家臣の如く扱い始めた。元々彼は武士ではなく農民の出で、武士に対する極めて強い憧憬の念があった。それが悪い形で拗れてしまったのだと言える。
そうした風潮に対して、怒りと共に真っ向から異議を唱えたのが永倉新八だった。彼は同志と相談の末建白書を松平容保に提出した。場合によっては、死をもって近藤に抗議をする決意で。
結局この騒動は近藤と土方が詫びを入れる事で和解が成ったのだが、それを額面通りに受け取れるほど、永倉は近藤を信じる事が出来なくなっていた。
「近藤さん。これだけは言っておく。俺達は試衛館以来の同志だ。同じ志を共にする仲間だ。だからこそこうして行動を同じくし、必要な規律には従って来た。これからも必要ならばそうするだろう。だが、俺達はあんたの家臣になった覚えはない。俺達に上下はないんだ。ただ作戦や組織運営に必要だから便宜的に上下を作っているだけであって、皆が対等な同志なんだ。もしあんたがその志を違え、同じ過ちを繰り返すなら……その時は俺にも考えがあるからな。それを、どうか忘れないでいてくれ」
こんな言葉を口にしなければならない時点で、既に二人の友情は半ば壊れたも同然だった。そしてその関係は、新撰組の落日と近藤の再度の過ちによって、完全に終焉を迎える事になってしまうのである。
当時から今日に至るまで、芹沢鴨という男は悪逆無道、酒乱の暴君という印象が定着している。実際問題、彼の悪行についての資料はごまんと出て来ても、善行についての資料はほとんど出て来ない。彼がお世辞にも善人と言いがたい男なのは事実なのだろう。
ただしその『善行』とされる話、正確には暴力が絡まない数少ない逸話を読み解くと、単なる暴れ者とは違う別の顔が見え隠れする。
貧乏時代の壬生浪士組は八木家と前川家に分宿し、足りないものは双方で融通しあうのが常だったのだが、ある日彼らが八木家から借りたと思しき火鉢が見つかった。見てみるとそれは刀傷だらけの無残な姿に変わっていた。
当主の八木源之丞は貧乏時代何かと浪士達の面倒を見てやり、先の謁見に際して着用する羽織も快く貸し出すなど大変に鷹揚な人物であったのだが、流石に気になったのかこれは一体どうされたのか、と問うた。
すると、それに気まずそうに反応した者が居た。誰あろう芹沢鴨だった。彼はばつが悪そうな笑みを浮かべて頭を掻きながら、
「いやぁ……八木さん。そいつぁ、俺だ、俺だ」
それだけを言うと、そそくさとその場から逃げてしまったという。
もしこれが、例えば出掛けた先の揚屋などでの出来事だったら、恐らく鴨はこんな反応をせず怒るか、あるいはその演技をしていただろう。これは彼が相手によって態度を変える、つまり日頃の『乱暴狼藉』が多分に打算を含んだものであるのと同時に、打算を含める必要のない相手に対しては比較的まともで気さくに振る舞う一面があったという意味も含むエピソードだと言える。
こんな話もある。八木家の幼い娘が亡くなり、これを気の毒に思った鴨は、自発的に近藤を誘って帳場に立ち、葬儀の手伝いに従事したという。八木家は苗字帯刀が許される壬生の名家であり、当然召使いも居る。だから手伝いと言っても暇になる時もあり、その時は幼い子供達の相手をしていた。その際鴨は子供向けの面白おかしい絵を描き、喜ばれていたという。手伝い自体は世話になっている八木家への義理もあろうが、子供相手に遊ぶというのは、通俗的な彼の印象からすればかなりかけ離れた行動だろう。これも彼の複雑な内面を示す貴重なエピソードだ。
また遥か後年、戊辰戦争の動乱から生き延びた永倉は、横死した芹沢鴨について次のような論評を加えている。
『芹沢は猛烈な勤王の志を持ち常に攘夷と叫んでいるような男で、皆には先生と呼ばれていた。その才幹はあの清河八郎ですら一歩譲るほどで、自ら招いた災いとはいえ、同志の手にかかって横死を遂げたのが惜しみてもあまりある有為の傑物だった。国家有事の秋にむざむざと横死した事は彼自身のみでなく国家的損害であるとは、当時心ある者の一致する所であった』
永倉は後の回顧で鴨の暴虐についても一通り述べている。それでもなおこの評価を与えているのだ。それは芹沢抹殺を機に望まざる方向で変貌した近藤ら執行部に対する批判意識と、生前の芹沢鴨との親交から来る評でもあったのだろうが、それにしても尋常な評価ではない。
乱暴狼藉の限りを尽くした酒乱の暴君。無一文の弱小組織を公的な警察組織にのし上げた剛腕。大胆かつ狡猾に自分達の存在を誇示し、実益を勝ち取ったタフネゴシエーター。生涯に渡り盡忠報國の志と共に生き続けた草莽の志士。そして愛嬌ある豪放磊落な親分。そんな彼にいかにも相応しい綽名がある。
『巨魁隊長』
良くも悪くもスケールが大きく、幾つもの複雑な内面を併せ持つしたたかな『大悪党』こそは、彼が京都で求められていた役目であった。そしてその役目が終わるや、速やかに退場していった。まるで時代の魁として散る花のように。
京都北野天満宮には彼が献じた歌額がある。かつて獄中にあった時に作った辞世を再利用したとも、上洛後に自分の志を新たにすべく詠んだとも言われる。その句は、彼を単なる粗暴な男と解するのを躊躇わせる繊細なまでの文学的感性と、盡忠報國という自分の理想に殉じる断固たる決意とが両立した、ある意味では彼らしからぬ、ある意味ではこれ以上なく彼らしい句である。そして皮肉な事にこの詠まれた内容は、彼の京都における顛末を、そのまま暗示するものだった。
『雪霜に 色よく花の 魁て 散りても後に 匂う梅が香』
芹沢鴨という男は、毀誉褒貶激しい新撰組の中でも著しい悪口雑言に晒される存在、つまるところ悪役としての役割が完全に定着しています。
しかしその一方、新撰組と同じく彼もまた数多くの虚像に塗れ、実像が極めて見えにくい存在であると言わざるを得ません。有名な本城宿の篝火も史実でない事はほぼ間違いなく、大和屋焼き討ちについても恐らく史実ではない。数多の狼藉も、どこまで史実か判然としません。
すると今度は、ならば何故会津は芹沢鴨抹殺を近藤達に強要しなければならなかったのか、という問題が出て来ます。会津藩は定期的に千人もの藩士を国許から交替させており、更に幕府も財政難から必要経費を払わなかった為、地獄のような財政問題を抱えていました。後になって容保は新撰組に押し借りによる金子の調達を命じ、二万五千両もの金を巻き上げてもいます。押し借りを嫌悪した事はまずあり得ません。
では彼が水戸の尊攘派である事が嫌忌されたのか? それも考えづらいのです。作中では触れませんでしたが、彼は水戸時代に天狗党過激派の藤田小四郎と深刻な確執を抱えており、更に実家からは公式には絶縁された事になっています。これは玉造組時代を考慮して、万一にも芹沢本家に累を及ぼさぬ為の処置でしょう。そんな彼に水戸との繋がりが残されているとは言い難い。では何故、芹沢鴨は殺されねばならなかった?
と、こんな調子で複雑な事情が絡み合うのが芹沢鴨という男であって、軽々しく彼について書き散らすのは公平ではない。それがこの長さになってしまった一番の要因です。
作中でも何度も触れましたが、芹沢鴨は超がつくワンマン経営者ではあったかも知れないけれども、それでも彼の剛腕なくして新撰組の発展はあり得ませんでした。後に近藤が唯一の局長として押し上げられ、実権を土方が握る訳ですが、その基本的なやり方は鴨のやり方を踏襲しています。押し借りは会津藩に委託された事からもわかるように継続して行われていたし、隊を束ねる方法も恐怖政治、つまり暴力と恐怖で従える芹沢流のそれを発展させたものでした。要するに彼らは芹沢鴨の組織運営を身をもって学び、吸収する事によって組織運営の手法を確立した事になります。
芹沢鴨の辞世とされるあの歌は、実際には新撰組の顛末にもかかる句になっています。本人達がそれを知ってどう思うかはさておき、芹沢鴨と新撰組が分かつ事の出来ぬ合わせ鏡だったのは間違いのない事だと、そう考える次第です。