第捌話:天使にラブドッグを その二
山崎屋から要件を聞いた熊次郎は玄関脇に詰めていた家臣にそれを伝えた。
庄三郎は屋敷の西側にある用部屋で年貢についての書付を整理していたのだが、来客があることを知らされのであとを他の者に任せ、近くを通りかかった女中に「天使丸様を玄関へお連れするように」と言いつけ自分は足早に玄関へ向かった。
「おお、よう来たな山崎屋。この赤犬が秋田犬なる犬なのかの?」
許しを貰い潜り戸を通った山崎屋甚兵衛は、奉公人に綱を引かれた赤犬を庄三郎に見せている。
「左様でございまする。
江戸より遠く百五十里、出羽国にて佐竹義峯様が治められる久保田藩の支城大館城下にて広く育てられている犬の一つでございますよ。
なんでも出羽国では闘犬と呼ばれる犬の相撲が盛んに行われているそうでございまして、さまざまな犬を掛け合わせより強い犬を産むことにご執心なされておられるそうなのです」
「それはまた佐竹様も酔狂なことをなされるものじゃ」
「はい、……ですが犬とは本来温厚な動物なのでございますよ。
それを互いに戦わせ、しかもより強く凶暴にするために交配させるなどと、鳥獣商としてはなんとも……」
「……左様だのう。
こんなにも愛らしい顔つきをしたものたちを争わせるなど、大名のすべきことではないかも知れんな。
それにしても、この赤犬がそのように戦う事を繰り返してきた犬なのならば、こやつとて人に咬み付いたりはせんだろうな?
殿に屋敷へ危険な犬を連れ込んだとお叱りを受けるようなことは?」
庄三郎は犬の頭を撫でていた手を引っ込めて山崎屋を睨んだ。
「いえいえ、滅相もない!
日本橋にて店を構えて八十年の山崎屋が、お客様に危険な犬をお渡しするようなことはございません。
確かに育て方次第で犬は人にとって恐ろしい鬼にもなりましょうが、親身に慈しんでいただきますれば、必ずや主の身を守る頼もしさを身につけるようになりまする」
「なるほどのう、犬とはそのようなものか。
わしが若い頃はじいさまが吸い物にして食っておったものじゃが……」
それから甚兵衛は犬の有用性について説いたのだが、庄三郎はもしこの犬が天使丸に噛み付きでもしたら腹を切らねばならんと考えていた。
「やっときたか!」
慣れない袴を着せられている天使丸が、元気よく玄関先に飛び出してきた。
「うぁははっ!やっぱり犬はいいなあ!」
神代家に連れて来られた秋田犬は、まだ子犬ということもあって小さな天使丸でもなんとか抱き上げることができた。
だが不思議なことに秋田犬は抱き上げられたことに対してなんら嫌がる素振りを見せてはいない。
「うん、立派な秋田犬だな。
つぶらな眼に、この丸まった尻尾がなんとも言えん愛らしさがあるぞ!」
急に飛び出してきた幼子を見て驚いた甚兵衛は庄三郎にあの子は誰かと尋ねた。
「里田様、あのお方は……」
「おう、わしが仕える神代家の御三男天使丸さまじゃ。
前々から犬がほしいと幾度も仰せになられておっての、さすがのわしもそう何度も否とは言えん。
袴着の祝いを無事に終えられたらば、という条件で此度犬を買い求めたのじゃが、まさかあれほどまでにお喜びになられるとは……。
もうすこし早う購っておればよかったのかもしれんて」
「……ですが、いや、驚きましたな」
「なにがじゃ?」
「手前どもの商いの内のことをお客様に申し上げるのは恐縮なことではございますが、旗本家にお譲りするからには元気のある奴をと考えまして、手前どもが扱っている犬の中でも一・二を争うやんちゃ坊主を選ばせていただいたのでございますが、里田様もご覧になっていたように先ほどまでは奉公人の綱を引き千切らんばかりに走り回っておりましたでしょう?
それを天使丸様が易々(やすやす)とお抱きになられたのも驚かされましたが、今もああして大人しく、さらには尻尾を振り喜びの姿を見せています」
「ほ~、犬が尻尾を振るのは喜んでいるという意思の現れと申すか?」
「ええ。伊達に八十年の長きに渡り鳥獣商の看板を日本橋にて掲げておるわけではございませぬので」
「左様か」
庄三郎はそう言うと天使丸の側まで進んだ。
「天使丸様、その赤犬でご満足いただけますでしょうか?」
赤犬を撫で回しながら天使丸は庄三郎に「良い!」と元気よく答えた。
「山崎屋、あの赤犬は貰うゆえ、ひとまず屋敷に上がってゆけ。
粗茶など出させるゆえにな」
「おありがとうございまする。
天使丸様もいたくお気に入りのご様子。この山崎屋も安堵いたしましてございます」
それから甚兵衛は屋敷に招じ入れられ、半刻ほど茶話をした後に庄三郎から赤犬の代金を受け取った。
時折屋敷の奥から犬の鳴き声や楽しそうな子供の甲高い笑い声が聞こえてくる。
長年鳥獣商を営む男は駕籠に揺られながら満足気な笑顔を浮かべ、日本橋の自分の店へ帰っていった。