第質話:天使にラブドッグを その一
天使丸の祝い事から一夜明け、神代家の門前を熊次郎と八兵衛、二人の『門番』が掃き掃除を行っている。
平生ならば門前の掃除は日が昇り切る頃には終わらせているのだが、この日の熊と八は昨夜の宴席のおこぼれで頂戴した上酒を存分に飲んでいたために、宿酔いで気分が悪く落ち葉を掃くよりも別なモノを吐くのに忙しかった。
「……おい、八っ!
胸糞わりいのは俺も同じだ、だがよ、んなところで吐くバカがいるけい!」
熊次郎はあろうことか門扉に向かってゲロを吐いてしまった相方に声を荒らげた。
「す、すまねぇ。
熊よぅ……オイラはもう駄目みてえだ。
冥土の土産に剣菱と灘の生一本を胃袋に詰め込んでよ、彼岸へ行くことになりそうだ……」
酒臭い胃液を手の甲で拭った八兵衛は、竹箒を杖のようにして立ち上がり相方の門番に告げた。
「けっ、ぬかしやがるぜ!
おめえみてぇに酒くせえ奴は奪衣婆だって、鼻を曲げて逃げ出すに決まってらぁ!」
「てやんでぇ!
おいらのご尊顔を拝めば奪衣婆だろうが山姥だろうが「わたくしがあと四十若ければ……」と涙を流して悔しがるだろうぜ!
つ~、頭がいってぇ……」
それから二人は半刻(一時間)程で掃除を終えて詰め所に戻った。
いつもは濁り酒をタップリと入れるためにしか使わない茶碗に渋茶を注いでいると、狭苦しい部屋に厩を任されている権作が音もなく入ってきた。
「やれやれ、いい年した親爺が二人して宿酔いとは、たるんでるぜ」
「……なんだよ、権作のとっつぁんかい。
下戸のあんたにゃわかんねえだろうがよ、酒の東西横綱が目の前に立っておられたんだ、がっぷり四つに組むのが漢ってもんだろうがよ!」
「よく言ったぜ、八。
甘党のとっつぁんから見たらば……、そうさな『丹波の黒豆』に『虎屋の羊羹』が居並んだ姿を想像してみねえ、よだれはしとどに、口より先に胃袋が飛び出す、そんな心持になるだろうさ」
熊次郎と八兵衛の髷には僅かながら白いものが見えるが、権作の髷は真っ白だ。
建前上は権作の身分は士分となっているのだが、隠居の忠彰や用人の庄三郎が襁褓を着けていた頃からこの屋敷の厩番を勤める、この謎多き老人が士分であることを知るものは少ない。
「ふん、恐れ多くも武家屋敷の門番を任されているもんが酒にうつつを抜かしてどうする!」
「へいへい、そいつぁ、恐れ入谷の鬼子母神」
「大きい声を出すない、頭が割れちまうよ」
「酒を飲むなら腹になにか入れてから飲め、そう父親に習わんかったのか?」
「……。
おれの親父はてめえが飲むのに忙しくて、甘酒すら飲ませてくれなかったぜ」
「おいらの親父もおんなじだ。
酒は飲むもんで飲ますもんじゃねえって手合いだったな……」
「蛙の子は蛙か……。
それにしても、ゆんべのご馳走を逃すたぁ、おめぇ達はとんだしくじりをしちまったな。」
「「ご馳走?」」
茶碗を抱えた二人が同時に権作を振り見た。
「そうよ、おりゃまるでお大尽にでもなったような心地になったもんさね。
なんと言ったか……、そうだ、揚げ出し豆腐!
豆腐は汁にするか湯に入れるかしか知らなかったが、あんな料理があるとはねぇ。
それからあの茸の炊き込みご飯だ。いくらでも箸が進んでよ、久方ぶりに腹いっぺえになるまで食っちまったぜ」
「「ごくり」」
「それによ、ビつケットっていう南蛮の菓子が」
「「南蛮!?」」
「なんでも天使丸様が蔵の中から見つけた書物に作り方が書かれてたそうでよ、あれこれとご指図なされて作らせたそうだ」
「そいつはどんな味だったんだよ、とっつぁん!」
「まあ、待ちな。ビつケットを語るにゃ、真打ちの登場を待たねばなるまいて」
「まだあるのけ?」
「へっへっへ、その名を『水菓子味噌』だ」
権作によって昨晩供された料理の話を次々と聞かせれた熊と八は、酒だ酒だと喜んでいた自分たちの抜作ぶりに腹が立ち、次いで相手が悪いのだといつものように罵り合った。
これが神代家の門番の日常風景と言えるが、彼らの役目で一番大事なことは来客への対応である。門番がだらしなくしていれば、来客が相手の家に対してどのような印象を持つことになるのか想像するのは難しいことではない。
私生活がだらしない熊と八だが、日頃から身だしなみだけはきちんとするように用人から言われているので、門前の掃き掃除が終われば髷を綺麗にし髭を当たり口をすすぐ。
朝の役目を終えてくつろいでいると、熊の耳に訪いを入れる声が聞こえた。
「ごめんくださいませ」
詰め所から熊が顔をのぞかせると、ひと目で商家の主とわかる恰幅の良い体付きの男が見えた。
「当家に御用がおありかな?」
「はい、手前は日本橋の鳥獣商山崎屋甚兵衛と申します。
用人の里田様よりご用命を頂きました、『秋田犬』をお持ちしました。お取次ぎをお願い致します」