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1話『悪役令嬢ならぬ乳母令嬢』

 転生した。

 貴族の娘になった。

 ここは私が知っているロマンスファンタジーの世界で、

 私は雑にナレ死する悪役の女の子になっていた。

 この世界、娯楽は少ないだろうし、魔法とか恋愛とか興味のない私は、早々に飽きてしまった。

 そんなわけで、さっさと成仏してしまうことにした。


 屋敷の誰もが寝静まった夜。

 転生先の体から、幽体離脱のように抜け出した。

 半透明になった私は、すやすやと寝ている幼児を見下ろす。


 まだ幼い。たったの3歳だ。

 私が抜けても、人格の再構築に不具合はないだろう。

 人が変わったようになっても、この子の両親は気づかないだろうし。

 

 うーん、シナリオ通りに死ぬのも可哀想だし、記憶をちょっと分けてあげよう。

 サ○ケの兄のように、人差し指でトンっとおでこを突く。

 女の子はむずがるようにむにゃむにゃと口を動かした。

 可愛いなあ。

 あっ、雑念もちょっと混じったかも。

 まあこれくらいは、ね?


〈さよーならー〉


 そうして私は、粒子となって消え去った。



--- 



 わたくし、アニス・モーリガンと申します。

 ライザルド王国の王室に古くからお仕えする、モーリガン伯爵家の三女です。

 くせっ毛の白い髪に、青い瞳。背は高いほうです。愛想が良くないので、澄ました猫のようだとよく言われます。

 現在18歳になります。夫人と呼ばれる身になってもよい年頃ですが、いまだ独身です。婚約者もおりません。


 わたくしは小さな子供が好き。

 ことに、赤ちゃんが大好きです。

 歩けず喋れず、守ってやらねば生きていけない生き物が、可愛くて仕方ありません。

 貴族も平民も、子供であれば分け隔てなく好きです。

 しかし貴族の子供とは、身内以外は、めったに触れ合えません。ある程度育つまで、子供部屋から出されず乳母に育てられるからです。


 ですからわたくしは、頻繁に領内の乳児院に赴いては、思う存分可愛がり、おしめを替え、食事を与え、あやして頬ずりをします。

 乳児院は、せっかく誕生したのに、捨てられたり、身寄りのない赤子を、一定の年齢になるまで育てる場所です。

 経営資金は国家予算から出ています。ライザルド王国は、治安維持や伝染病防止のため、孤児や物乞いをして暮らすしかない人々の救済に力を入れています。

 奴隷制度はありますが、非人道的な扱いをすれば、主人は財産と奴隷を取り上げられます。

 そういう国です。


 さて、乳児院には、0歳から5歳までの乳幼児と、体力のある修道女が賑やかに暮らしています。

 5歳を越えた子は、里親が見つかったり、奉公にいったり、子供から老人まで生活苦の者を助ける救貧院にいったりと、さまざまですね。

 ノブレス・オブリージュのため、貴族が乳児院や救貧院を訪問し、寄付をすることは珍しくありません。

 とはいえ、わたくしの訪問頻度は、世間から見ると、度を越している。

 働く職員とも顔馴染みとなり、訊ねていくと、待ってましたとばかりに泥んこの3歳児を押し付けられます。

 洗わせていただきますとも。


 嬰児語と表現するほかない不明瞭な言葉に頷き、目ざとく見つけてきた小さいゴミを笑顔で受けとってみせ、抱いた幼子に首にしがみつかれ苦しさに咽せる日々は、楽しいのです。

 瞳にベラドンナの汁を垂らしたり、コルセットで胴をきつく締め上げて失神の練習をするよりも、よほど。

 女子供が集まる施設は、いつの時代も、横領や人身売買の温床です。

 わたくしも手弱女ではありますが、しかし貴族の子女です。足繁く通うことで、犯罪や不正の抑止力になっているそうですから、やめるつもりはありませんでした。


 両親には、一人くらいはそんな物好きがいてもいいだろう、と許されています。

 わたくし、上に二人、下に二人の姉姉妹弟の真ん中っ子ですからね。

 育児を乳母やメイドに任せ、我が子が幼いうちは関心を持たないのは貴族にはよくあることですが、わたくしの場合は成人しても継続のようです。

 わたくしにとっては良い方向に作用していますので、文句はありません。

 

 そんな調子ですから、わたくしを揶揄する者もおります。

 社交界で付いたあだ名は、〈乳母令嬢〉です。

 妊んだことはないので、母乳は出ないのですが。

 でも、悪役令嬢より、俄然良いと思います。


 悪役令嬢。

 それは、わたくしの記憶にのみ存在する概念です。

 造語ではありません。誰に教えられたのでもありません。

 ただ、わたくしは、『竜国の聖女は愛を紡ぐ』という物語の悪役であり、いずれ断罪される定めにあるという諦めにも似た意識が、漫然とありました。


 『竜国の聖女は愛を紡ぐ』とは。

 タイトルに”愛”とか”聖女”があるのは、まず恋愛小説とみていいでしょう。

 その小説も例に漏れず、聖女に選ばれた女性が、身分の高い男性と番うまでを記した、妙齢の女性を購買層としたハーレクイン小説でした。

 雷竜を祖とするライザルド王国。

 始祖の雷竜には、その御身の世話をしている女性がいました。

 いつしか竜聖女と呼ばれた彼女は、凄まじい浄化の力と病や怪我を治す治癒の力を持ちて雷竜様に仕え、民を助けた、と歴史書にはあります。

 竜聖女の死後、王国にはおよそ百五十年に一度、同じ力を持った女性が生まれるようになり、彼女達は身分関係なく王家の男性と結婚しました。

 なぜって、雷竜と初代竜聖女の子孫が、ライザルド帝国の現王族であるからです。

 竜聖女と王族の婚姻は、伝統なのです。


 ちなみに、竜聖女は年に一度行われる聖女祭によって判明します。

 聖女祭とは、街ごとに開催する平民版デビュタントのようなものです。


 主人公リルールは、何代目かの竜聖女です。

 救貧院育ちで、幼い頃に一般的な商家に引き取られて働いていた彼女は、聖女祭によって竜聖女であることが判明します。

 リルールは数年前から己の治癒や浄化の力に自覚がありましたが、世間には疎く、竜聖女については何も知りませんでした。

 本人の意志に関わらず、この国の伝統に則って王宮で働くことになり。

 国内のあちこちに赴き、魔物の発生地の浄化に精を出す傍ら、王子の婚約者候補としても注目を集めます。


 ところが当の王子たちは、


『……王族用の書庫に足を踏み入れてはなりませんよ。誰にも教わらなかったのですか』

『アァ!? 竜聖女? だから何だ!? 俺に近寄るな!』


 と、つれない対応。

 しかしリルールの優しさ、聖なる力によって、彼らの懐疑心は溶けていきます。


 何かとちょっかいをかけてくる王子たち、頼りになる忠実な騎士、幼い頃に一度だけ関わりをもった魔法使い。

 リルールは彼らに愛され、人間としても聖女としても成長してゆきます。

 筋書きとしては、そんなところです。

 

 そこで障害物となるのが、

 わたくし、アニス・モーリガンです。


 とはいっても、登場するのは序盤も序盤。

 王子の婚約者であるアニスは、突然現れた竜聖女を快く思いません。

 悪くて婚約破棄、順当に王子と結婚できても、竜聖女が夫の妾となる可能性はあります。


 王子を深く愛していたアニスの目に、リルールは何と映るでしょう。

 世界を浄化してくれる聖女?

 いいえ、王子の寵愛を奪う邪魔者です。

 アニスはリルールを社交界から消そうとしました。

 王宮のパーティーでは仲間と示し合わせてリルールを会話やダンスに入れず、壁際に追いやって気まずい思いをさせたり、

 お茶会に招いてマナーを知らないリルールをクスクス笑って惨めな思いをさせたり、

 シンプルに跪かせて香水瓶の中身をかけたり。

 嫌がらせに余念がありませんでした。


 結局アニスの嫌がらせは、婚約者の王子にバレてしまい、糾弾されました。 

 誰よりも愛していた人から酷い言葉を投げかけられたアニスは、深く落ち込み、再起不能に。

 さらには王子と昵懇の大臣が差し向けた暗殺者によって、暗殺されます。

 社交界から、いえ、この世からも姿を消したのは、リルールではなく、アニスだったのでした……。


 アニス・モーリガンは悪役令嬢です。

 ちなみに、物語の根幹となる苦難はまた別にありますから、悪役とはいっても早々に退場します。

 言うなれば、リルールが躓く石ころでしょうか。

 まあ、ちょっと嫌な感じの女ではありましたが。

 暗殺されるほどでは、ないような……。


 愛する主人公が傷つけられると、過激な手段をとってしまう美しい男性。

 危険な香りのする、魅力的な設定です。

 一定の人気を誇るのもわかります。女性ならば胸の高鳴りを覚えるものなのではないでしょうか。


 愛される側であれば、そうなのでしょう。

 わたくしは、男性からの愛情を引き立たせるために排除される、舞台装置的立ち位置の女性──アニス・モーリガンに感情移入してしまいます。

 なんといってもアニス・モーリガンとは、わたくしのことですからね。

 王子に見限られ再起不能になったあたりで、死なないようにうまい具合に姿を消したいものです。


 竜聖女リルールを偏愛する王子の名は、


 第三王子、エイリーク・ヘイムダル・ライザルド。

 第五王子、シグルド・ヴィルヘルム・ライザルド。


 第一王子様並びに第二王子様は既に正妃を迎え、歳も離れていますから、対象外です。

 第四王子は幼い頃に夭折されました。たいそうお気の毒なことです。


 わたくしの脳内には『竜国の聖女は愛を紡ぐ』という物語があります。物心つく頃には既に。

 そこに登場する王族の名、地理、法、世界情勢は現在のライザルド王国と一致するのです。

 わたくしは成長するにつれ、この物語は、もしかしたら本当に起こるのかも……! と、危機感を強めてまいりました。

  

 そのため現在、わたくしは王子の婚約者ではありません。

 王子の婚約者は、わたくしの二歳下の妹です。

 わたくしに婚約者はいません。

 誇り高きオールド・ミスです。


 これは、わたくしが暗殺の未来を回避するために頑張った結果……ではありません。

 未来怖ぁ……と思いながら乳児院に通っていたら、なぜだか自然とそうなっていました。

 わたくしが〈乳母令嬢〉などと影で呼ばれているためでしょうか?

 姉の務めとして、妹のスカーレットが竜聖女を虐めだしたらやめるようによく言い聞かせるつもりではいます。

 まあ、スカーレットは可愛げのある女なので、きっと大丈夫でしょう。



 そして先日、竜聖女が見つかったという報せが、お父様からわたくしの耳にも入ったのです。

 地方領地の神殿式にて、神々しい光と芳香に包まれた天使が現れ、田舎娘然とした少女を指して仰ったそうです。

〈雷竜の下僕。その遺志を継ぐ者なり〉

 厳かな天使様の姿に誰もが息を呑み、お告げを終えた天使が去られた瞬間から、町は上へ下への大騒ぎ。

 駐在の騎士が即座に馬を走らせ、報せは騎士から騎士へ。そうしてすぐに陛下の知るところとなったそうです。

 きっと陛下はすぐに竜聖女を王宮に召し上げ、力の使い方を学ばせるでしょう。

 今後王宮主催のパーティーで挨拶をする機会があるだろうから、できれば取り入っておきなさいとお父様からのお達しでした。

 ちなみに、雷竜の下僕とは、竜聖女のことです。

 雷竜の下僕。

 たいへん栄誉ある身の上なのですが、語感が良くないということで、現在の竜聖女に呼称を改められました。



 そう思いながら、私は乳児院にて、泣きじゃくる二人の男の子たちの話を聞いています。

 庭に面した外廊下。外からは子供たちが遊ぶ声が聞こえてきます。

 昼食と食後の祈りを終え、中庭で楽しい外遊びの時間……の、はずでした。


「おっ、おれさ、何もしてないのにさ、テディがけってきてさあっ」

「けってないし、ばーかっ」


 5歳のレオンとテディ。

 乳児院では最年長の二人です。

 中庭で遊んでいたところ、テディがレオンを突然蹴り飛ばしたというのです。

 レオンは否定します。

 その瞬間は誰も見ていません。わたくしを含め、職員は突然吐き戻した3歳の子の後始末に追われていたためです。


「痛かったでしょうね、レオン」


 レオンはこくんと頷きます。わたくしにテディを叱ってほしいようです。


「テディは、わざと蹴ったの? それとも、そんなつもりではなかったけれどぶつかってしまったの?」

「だって、レオンがすわってるからぁ……」


 最初はむすっとしていたテディは、段々と泣き顔になり、弁明をする頃にはもうレオンと同じくらい泣きじゃくっています。

 真実をうやむやにしたまま、先に泣いたほうだけを慰めるのはよくありません。

 もちろん、テディが意地悪でレオンを蹴ったなら謝らせます。

 しかしテオの泣き方は悲痛で、意地悪をしたのを咎められて泣いて逃げようとしている感じはありません。


「お庭でみなさんと遊んでいる時間に、レオンが座っていたの? どこに?」

「じめん……」

「レオン、どういうふうに座っていたの?」

「こう」


 レオンはいつの間にか泣き止んで、その場で膝を抱き込んで座ってくれました。

 レオンに事実確認をしつつ、メソメソとしているテディから状況を聞き出します。


 二人の話をまとめました。

 追いかけっこ中に突然座りたくなってその場に座り込んだレオン。

 レオンではない子を掴まえようと、遠くを見ながら走っていたテディが、しゃがんだレオンに気づかず激突。

 テディの主張は、わざとぶつかったわけじゃない。ごめんねと思っていたけど、蹴ったと言い張られて嫌だった。

 レオンの主張は、蹴られて嫌だった。自分もテディを蹴り返したい。


「テディ、ごめんねと思っていても、言わなければ伝わりません。謝りましょうね」

「うん、ごめんね、テディ」

「バカと言ったことも」

「ごめん」


 わたくしは次にレオンに向き直ります。


「レオン、テディは意地悪な気持ちがあって蹴ったわけではありません。すぐに許したくなければ許さなくてもいいけれど、やり返すのはいけません。

 もしもテディを蹴ったり、叩いたりしたら、あなたにとっては正当な行いでも、わたくしはあなたの方を怒ります」

「……」

「わかったらお返事を」

「うん」


 泣き止み、気まずそうにしている二人の背を押し、遊びに戻ってよろしいと許可を出しました。


「レオン、手つなぐ?」

「んっ」


 テディが出した手を、レオンが握りました。

 仲直りはできたのでしょう。


「ふぅ……」


 わたくしは清々しい気持ちで耳を澄ませました。

 子供たちの遊ぶ声が聞こえてきます。

 まだ民衆には公にやっていませんが、大々的に発表されれば、この王都では盛大なパレードが始まるでしょう。

 乳児や幼児ばかりのここには関係ありません。

 職員が歩ける子を引率して遠巻きにパレードを見せるでしょうし、お菓子も出すでしょうが、子供たちにとって竜聖女は遠い存在でしょう。

 通常の治癒魔法では癒えない病児も、ここにはいませんから。

 ここはわたくしにとっての聖地です。癒しの場です。


 レオンとテディの可愛らしいこと。

 生まれてまだ5年なのに、怒りも不満も主張できますし、大人が筋道を立ててやればきちんとお話もできるのです。

 痛い目にあえば復讐したいという衝動もあって、まるで大人のミニチュア版です。

 しかしまだ生まれてまもないため、わたくしになんやかんやと言いくるめられ、関係修復の方に行きました。

 手をつなぐことを、仲直りの手段としています。

 わたくしやこの施設で働く修道女がそう躾けたのですが、誰に言われずともそれを応用しています。


 一生懸命生きていて可愛らしい。

 二人が成長して悪党になろうと凡夫になろうと、わたくしは先ほどの一瞬にみた二人の仕草を、生涯愛し続けるでしょう。


 カツカツと、大人二人分の足音が聞こえてきました。

 ここで働く修道女、ミカエラとマーガレットです。


「アニス様、ありがとうございます。あの子たちの相手をしてくださったようで」

「当然のことです」


 わたくしはふと冷静になり、年配の修道女に膝を折るだけの簡易な礼をしました。

 彼女がミカエラ。子供の相手にかけては何十年と経験を積まれたプロです。

 ミカエラはこの乳児院のトップです。樽のような体型と、鯨のような笑顔が特徴で、子供たちが一番懐いているのも彼女でしょう。


「吐いた子の具合はいかがでしょうか」

「ああ、満腹のときに激しく動いたものだから戻しただけでしたよ。今はケロッとしています。念のため、部屋の中で休ませますけどね」

「そうですか」


 わたくしはほっと胸を撫で下ろします。

 戻したものの後始末は、他の若い修道女がやったのでしょう。

 わたくしは子供に接することならなんでも喜んでこなします。

 故に子供が汚したものの清掃をするのも平気なのですが、それを見た修道女の中には、こう思う者もいるようです。

 お貴族様を、下働きとしてこき使ってやろう。


 わたくしは子供に関わることならなんでもしますが、あまり関係のない雑務を押し付けられる気配があれば拒否します。

 ミカエラに訴えれば、賢い彼女は血相を変えてわたくしに謝罪し、身分の垣根を越えようとした修道女にきつく言い聞かせるというわけです。


 一応、他の方がテディを叱ることがないようにと、わたくしは先のことをミカエラとマーガレットに共有しました。

 若きマーガレットは「はあ」と感心したように頷き、こう言いました。


「アニス様は本当に子供の相手がお好きなんですねえ、私なら、泣くな! でゲンコツを落としてお終いにしますよ」


 それもサッパリしていて、ありだとは思います。

 大人は介入せず、自分たちのことは自分で解決せよ。

 それも一つの育て方です。


「一人一人にゆっくり時間をかけられるのは、皆さまが他の子を見てくださっているおかげです。心より感謝しております」

「えっ、いえいえ、そんな……」


 マーガレットも、かつてわたくしを下働きとして使おうとした一人でした。

 とはいえ彼女に特別な悪意があったわけではありません。

 女ばかりの集団で派閥を作るのは珍しいことではなく、これまで貴族と接したことがなく身分について考える機会が希薄、加えて当時新入りだったマーガレットが、自らの下に誰かを取り込もうとするのは、当然の運びです。

 その相手が、たまたまわたくしであったのです。

 マーガレットはミカエラにこってりと絞られ、それからしばらくは、わたくしの一存で馘になるのではと怯えていました。


 わたくしにした事はともかく、マーガレットは良き乳母です。

 なんといっても、あの時の彼女は出産を終えたばかりで、乳が出たのです。

 お気の毒なことに彼女自身の子は死産だったようですが、出るものは生きている赤子に使っていただかなくては。

 たまに混ぜ物で傘増しされている市販のミルクと比べて、母乳は安全です。誤魔化しのしようがないですからね。


 乳児院に何人といる赤子から、母乳を奪うことはしません。

 それに、彼女自身、気質は優しい方です。

 ゲンコツも加減をしていますし、虐待はしないでしょう。

 大事な人材です。


 あ、とわたくしは思い出しました。

 今夜は大事な用があります。まだまだ日は高いですが、支度もありますし、そろそろ帰宅しなくては。

 弟、ジークベルトの10歳の誕生日会です。

 末っ子長男の彼は、モーリガン家の後継ぎですから、我が家の大事なイベントになります。


 ええ、忘れていたわけではありません。常に心にありましたとも。

 弟の誕生は、わたくしにとっても重要な意味を持ちます。

 もしも彼が生まれなければ、わたくしか妹のスカーレットが婿をとり、女当主になっていたところです。

 わたくしやスカーレットは、当主向きの性格ではありません。

 男児が産まれなければ、どちらかが女の身には余る重荷を背負っていたでしょう。

 ジークベルトは姉たちにとっても、祝福すべき男の子です。 



 乳児院での制服と化したわたくし用の修道服から着替え、屋敷へ戻りました。

 メイドたちに頼み、湯浴みと着替えを済ませます。

 髪を整え、化粧を施される頃には、メイドたちのお喋りによって、広間にはすでに招待客が集まり始めているらしいと知りました。


「お似合いです、アニス様!」

「ええ、ありがとう」


 パーティー主催者の血縁として恥ずかしくない、しかし目立ちすぎないドレスに着替えたわたくしは、大広間に移動しました。

 モーリガン伯爵家の大広間は、華やかに飾り立てられていました。

 天井から吊るされたシャンデリアの蜜蝋には火が灯され、床はいつもよりピカピカに磨き上げられています。

 壁には、我が家の家紋である一角獣が描かれたタペストリーが吊り下がっています。


 主役のジークベルトは、まだ来ていないようです。

 パーティーが始まる前にと、わたくしはいらっしゃっていたお姉様たちに挨拶をしました。

 姉たちはとっくに嫁いでいますから、こうして会うのも数年越しでしょうか。

 一番上の姉セシリアには4歳と1歳の子供がいます。

 二番目の姉マグリッタは未だ子供を授かっておりません。


 此度の誕生日パーティー。

 ただ身内のみで祝うわけがありません。

 ジークベルトは次期当主です。家の後継者として、これから少しずつ公の場に顔を出していくための、告知も兼ねているのです。

 招かれた客人の多くは、ジークベルトを祝うためだけでなく、将来の家との縁を確かめるために来るのです。


「姉様、姉様っ」

「まあ、ジークベルト」


 名を呼ばれ、すっと振り返ると、本日の主役がいました。

 アイスブルーの癖毛はぴっちりと撫で付けて整えられ、碧眼は待ちきれないというふうにキラキラ輝いています。

 仕立てのよい深緑のフロックコートには、銀糸で雷を模した柄が刺繍されています。

 10歳の男の子にしては大人びた装いですが、少々の不釣り合いは、微笑ましさの範疇です。


「立派です、ジークベルト。でも、もう出てきてよろしいのですか?」

「まだ! まだですけど、姉様に話しかけたくて!」


 子供に懐いてもらえるのは嬉しいものです。

 わたくしはにこりと笑い、続きを促しました。


「今日は俺の誕生日です! 新しい剣を、父様は用意してくださったでしょうか?」

「お父様だけではなく、これからあなたと仲良くなりたい方々も、贈ってくださるはずです。一振りや二振りではきかない数が集まるでしょうね」

「うわぁ!」


 ジークベルトは、にまにまと照れ笑いを浮かべています。

 姉妹の中の唯一の男であるせいか、次期当主として男性らしくあれかしと育てられたせいか、ジークベルトは戦いの道具を好みます。

 伝説の剣、堅牢の鎧、英雄譚、冒険者、魔物の討伐……。

 そういったワードに、強く惹かれるようです。


「格好良いものをいただけたら、姉様にも見せてあげる。じゃあね、あとでね!」


 ジークベルトはそう言い、控え室に引っ込んでいきました。

 あとでね、とは言われたものの。

 パーティーが始まれば、ジークベルトは両親と共に、来客への挨拶と礼に出ずっぱり。

 言葉を交わすのも、今日は先ほどのが最後でしょう。


「皆様! 本日は我が息子、ジークベルト・モーリガンの10歳の誕生日にお集まりいただき、誠にありがとうございます!

 そしてこの度、皆様にお披露目いたします!

 ジークベルトこそ、モーリガン家の次期当主であることを!」


 父の開幕の挨拶と共に、パーティーが始まりました。

 父は来客一人ひとりに挨拶し、母はジークベルトの隣で微笑みながら祝辞を受けています。

 親族、父の政務上の関係者、王家に近い家の当主や夫人、そして同年代の子供たち。

 今日は誕生日会であると同時に、ジークベルトがモーリガン家の後継者であることを示す場でもあります。


 彼は一人ずつ来客の祝いの言葉を受け取り、贈り物に礼を述べています。

 大人と変わらない落ち着いた様子に、彼のもっと幼い頃を知るわたくしは、喜ばしくもあり、寂しくもありました。


 そんなわたくしに、今度は妹が近づいてきました。


「お姉様ぁ。今日も救貧院に行っていたのでしょう? いつ帰っていらしてたの?」

「パーティーが始まる少し前に。それから救貧院ではなく、乳児院です」

「おんなじようなものですぅ」

「異なります」


 妹のスカーレットです。

 父に似た黒髪をハーフツインにし、ピンクのリボンで飾っています。

 黒を基調にしたドレスですが、袖口やスカートのフリル部分は鮮やかなピンクです。

 パニエでしっかり膨らんだスカートは、可愛らしいだけではなく、甘さの中に毒を含んでいるように感じます。

 腰には大きなリボン。

 耳元には黒いハート型の飾り。


 目元はいつも通り丁寧に描き込まれ、下まぶたは淡い桃色に色づいています。

 瞳孔を広げるほかに、下まぶたに袋を描くことで目を大きく見せる手法を知ったとき、わたくしは衝撃を受けました。

 顔って、そんなふうに彩ってよろしいのね、と。


 涙袋を強調したそのメイクは、スカーレットが考案したものであり、彼女のたいそうなお気に入りです。

 社交界では若い未婚の女性の間でじわじわ人気を高め、彼女と似たドレス、同じメイクをする令嬢もいらっしゃいます。


 今やスカーレット式と呼ばれるメイク、ドレスのデザイン。

 ドレスには様々な系統がありますが、妹のスカーレットは、ファッション業界に新たな分野を作ったのです。


 どこかで見たこともあるような気もします。

 わたくしのものではない記憶が訴えるのです。

 たしか、じら……地雷系……? という名前を付けられていたような……。


「スカーレット。今日も毒を持った可愛らしい装いですね」

「でしょう? 黒とピンクを組み合わせると、“病みかわいい”が生まれるので〜す」


 スカーレットはくるりと回り、握った拳を顎の下に当ててパチっと片目を瞑ってみせました。

 黒いドレスの裾がラナンキュラスのように広がり、ピンクのリボンが揺れます。


「本当はぁ、髪の内側をピンクに染めてみてもいいかなって思ったんですけど、やっぱ弟が主役だし? 目立ちすぎるのもよくないかなぁってやめてぇ。マジ萎えてぇ」


 知能を捨て去ったような喋り方ですが、スカーレットはこれでいて優秀です。

 教養よし。芸事も抜群。人をよく見ていて、気遣いも巧みらしいです。


「ぷっ、お姉様はなんですかぁ? そのふる〜いデザインのドレス、だっさ……ギャア! いった!」

「シックと言うのですよ。知らないようですけれど」


 わたくしはスカーレットの手をとり、布を巻くように甲の皮膚をぎゅうっと捻りました。

 外の人間、両親、上の姉たちには良い子のスカーレット。

 歳の近いわたくしには無礼な口をきくので、その度にこうしてわからせてきました。

 スカーレットはわたくしの手を振り払うと、キッとこちらを睨み、パーティーを邪魔しない程度の潜めた声で言いました。


「お姉様ったら、ひどいんだから! お父様に言いつけてやるんだから!」

「お好きになさって」

「酷いんだから……」


 勢いも削がれたのでしょう。

 スカーレットは幼気な口調を持て余すように、言いつけてやるんだから、と諦めて呟きました。


 わたくしたちは幼い子供ではありません。

 このやりとりが仮に10年前であったとしても、わたくしに痛めつけられたスカーレットに、父から返ってくるのは「忙しいから、後にしなさい」でしょう。

 よしんば聞き入れても、「こらこら、アニス。妹をいじめてはいけないよ」と優しくおっしゃるだけです。

 そしてそんなものは、「はい、お父様」とわたくしが頷けばおしまいです。


 たとえわたくしがどんなに悪辣ないじめをスカーレットにしていようと、そうなるでしょう。

 育児を乳母やメイドに任せ、我が子が幼いうちは関心を持たないのは貴族にはよくあることです。

 

「スカーレット、今代の竜聖女は平民の出との噂。エイリーク王子殿下の婚約者であるあなたは、わたくしより交流の機会が多いでしょう。いじめつけてはいけませんよ」


 まだ竜聖女リルールの身分までは公になっていないため、わたくしは“噂”とぼかした言い方をしました。

 エイリーク・ヘイムダル・ライザルド王子殿下。

 第三王子の婚約者は、スカーレットなのです。


 記憶ではわたくしの席であったそこには、スカーレットが座っています。

 わたくしの中には竜聖女リルールをいじめた末に暗殺される筋道があるため、羨みようがない。

 しかし一般的な感覚では、王子との婚約は栄誉です。

 正式に決まった当時は、スカーレットはその決定を誇らしげにちらつかせてはわたくしを小馬鹿にしたものです。

 飽きたらしく、いつのまにかやめたようですけれど。


「平民って、どんな生活をしてきたのかしら? どんなメイクが流行り?」

「おそらく、化粧という習慣そのものを持たないでしょうね」


 正確には、平民でも裕福であれば奥方は道具を一式揃えているでしょう。

 ですが、物語によるとリルールは生まれてすぐに救貧院(本来は乳児院に行くべきですが、地方では設備が足りず救貧院が乳幼児の養育もしています)で育ち、商家に引き取られからずっと洗濯女として働き詰めであったようです。

 女らしく着飾る事など、聖女祭が初めてと言われても不思議はありません。


「そ、そんな……」


 スカーレットはショックを受けたように、ヨロヨロと後退りました。

 失神するのかしら。

 いえ、向き直った時、足取りは意外としっかりしていました。


「そんな芋おブスと、スカーレットが仲良くなれるはずないわ!」

「エイリーク王子殿下の側室となられる可能性もあるのですよ。そうなればあなたと竜聖女様は切っても切れぬ仲です」


 王族が妃を複数娶るのは、少々古い慣習ではありますが、珍しくありません。

 夫を支える良き妃とは、夫が何人の側室を娶ろうと、決して争わず、むしろ側室たちの面倒を見るものであるとわたくしたちは教えられています。

 露骨に面白くない顔をしているスカーレットに、わたくしは言いました。


「王子殿下からのご寵愛を独占しようと思うから、気に食わぬのです。あなたはファッションやメイクで皆様から認められているのだし、他に生き甲斐があればそれで良いのではなくて?」

「お姉様がそうだからって、スカーレットに押し付けないでくださいぃ!

 お姉様なんか、一生〈乳母令嬢〉でいればいいのだわ!」


 スカーレットはべっと舌を出し、わたくしから離れてゆきました。


 わたくしは酷い姉かもしれませんね。

 本来わたくしが抱えるようになった悩み、辿る可能性のある悲惨な末路を、しれっと妹に被せ、その上でお説教です。

 あの様子では、夜更けに、やっぱり飲み直そうとワインを持ってわたくしの部屋にくるでしょう。


 結局、スカーレットをまともに構う身内は、わたくししかいないのですから。

 その時は少し優しくしてやろうと思いながら、わたくしは来客との会話に応じるのでした。


よろしくお願いします!

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