プロローグ 第一話
しとしとと降り続く雨が、校舎の窓を濡らしている。五月という季節の鮮やかさは、今のわたしには届かない。視界に入るものすべてが、彩度を落としたモノクロームの映像のように映る。
「……ねえ、聞いてるの?」
鋭い声が、鼓膜を直接突き刺す。目の前に立つのは、クラスの中心にいるグループの少女たちだ。彼女たちの顔は、窓の外の景色よりもずっと歪んで見える。
わたし、阿部亜美は、自分の机に視線を落としたまま動けない。机の表面には、油性マジックで書き殴られた罵詈雑言。昨日よりも確実に増えている。「死ね」「消えろ」「目障り」。ありふれた言葉が、ナイフとなってわたしの皮膚を削っていく。
「返事くらいしなよ。だから暗いって言われるんだよ?」
リーダー格の少女が、わたしの肩を小突く。その衝撃で、椅子が嫌な音を立てて床を擦る。クラスの誰もが、この光景を視界に入れていないふりをする。教科書をめくる音、ノートを広げる音、他愛もない笑い声。それらすべてが、わたしを透明人間として扱うための、残酷なBGMだ。
心臓の音が、耳元でうるさく打ち鳴らされている。ドクドクと、早鐘のように。
冷たい水が、頭の上から降ってくる。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。視界が遮られ、制服のブラウスが肌に張り付く。鼻を突くのは、古びた雑巾のような、澱んだ水の臭い。
「あはは! ごめん、花瓶の水、替えようと思ったら滑っちゃった」
わざとらしい笑い声が教室に響く。わたしの髪から滴り落ちる汚れた水が、机に書かれた「消えろ」の文字を濡らしていく。目元が熱くなるのを、必死に堪える。ここで涙を流せば、彼女たちの娯楽を一つ増やしてしまうだけだ。
「……あ、先生来たよ。早く座りなよ、亜美ちゃん。風邪ひいちゃうよ?」
勝ち誇ったような笑みを残して、彼女たちは自分の席へと戻っていく。チャイムの音が鳴り響く。入ってきた担任の教師は、びしょ濡れのわたしを一瞥し、それからすぐに教卓の名簿に視線を落とした。
「……授業を始めるぞ。教科書の四十ページを開け」
その言葉で、わたしの世界から最後の光が消える。助けなんて、どこにもない。ここは戦場ですらなく、ただ一方的に踏みにじられるだけの屠殺場だ。
休み時間になっても、誰もわたしに声をかけない。濡れたブラウスが体温を奪っていく。寒くて、震えが止まらない。トイレの個室に逃げ込み、鍵をかける。ここだけが、この学校で唯一、誰の視線も届かない、わたしの聖域だ。
狭い空間の中で、ようやく呼吸を整える。壁にはまた、誰かの落書きがある。それを見つめていると、自分という存在が、霧のように薄くなって消えていく感覚に陥る。
昨日、母が焼いてくれたハンバーグの味を思い出そうとする。でも、味覚が麻痺したみたいに、何も思い出せない。夜、ベッドの中で読んだ大好きな小説の一節をなぞろうとする。でも、文字がバラバラに崩れて、意味をなさない。
わたしの中にあった「好き」や「楽しい」という感情が、この数ヶ月で、根こそぎ奪われてしまった。
ふと、自分の手元を見る。指先が白く震えている。この手で何かを掴むことは、もう二度とないのではないか。そんな予感が胸を支配する。
「もう、無理だよ」
言葉が、湿った空気の中に溶けていく。
期待することをやめたはずなのに、心の奥底でまだ、小さな自分が叫んでいる。誰か、と。誰でもいいから、この泥沼から引き揚げて、と。でも、その声は届かない。叫べば叫ぶほど、泥は口の中に流れ込み、肺を埋め尽くしていく。
放課後、人目を避けるようにして校門を抜ける。雨はさらに激しさを増し、アスファルトを叩きつけている。傘を差す気力もなく、わたしはただ、ずぶ濡れのまま歩き続ける。
横断歩道の信号が赤に変わる。目の前を、巨大なトラックが水しぶきを上げて通り過ぎていく。その風圧に押され、ふらりと体が揺れる。
もし、今ここで一歩踏み出したら。
この冷たさも、重苦しい沈黙も、胸を刺す言葉も、すべて終わるのだろうか。
そう思った瞬間、自分でも驚くほど、心が安らいだ。
「終わる」という選択肢が、唯一の希望のように見えたのだ。
ガードレールを掴む手に、力がこもる。雨水が目に入り、前が見えない。
視界が白く濁っていく中で、わたしはただ、この世界から自由になる瞬間を夢想する。
……けれど、わたしの背中を叩いたのは、死の誘惑ではなく、激しい雷鳴だった。
空が、真っ二つに割れたような光。
その暴力的なまでの光に射抜かれ、わたしは反射的に足を踏みとどまらせた。
「……痛い」
雨に打たれ続けた肌が、今さら痛みを感じ始める。心臓は、まだ動いている。死にたいほど絶望しているのに、体は生きたがっている。その矛盾が、あまりに滑稽で、悲しくて、わたしは土砂降りの歩道で、声を上げずに泣き崩れた。
母の顔が浮かぶ。朝、「行ってきます」と言ったときの、わたしの嘘の笑顔を、母はどんな気持ちで見送ったのだろう。
死ぬ勇気すらない。でも、ここに留まる地獄にも、もう耐えられない。
行き場のない感情が、激しい雨音にかき消されていく。
これが、わたしの物語の始まり。
すべてを失い、空っぽになった、雨の日の記録。
明日なんて、来なければいい。
そう願いながら、わたしは重い足取りで、帰るべき場所へと一歩を踏み出した。




