沈黙の螺旋
午後三時十三分。
地下鉄のホームに到着したとき、佐久間は激しい頭痛と全身のだるさを感じていた。徹夜の緊張、謹慎処分、そして唐突な解雇通知。誰だって精神の限界はあるだろう。だが、約束の場所に立っている男の姿を見つけた瞬間、痛みは不思議と和らいだ。
中年の男性だった。ダークグレーのスーツに身を包み、襟元には帝国重工の小さなバッジが光っている。彼は無表情で腕時計を眺めており、佐久間の近づいて来る足音にもまるで無頓着だった。
「お待たせしました。北条精機の佐久間です」
男はゆっくりと顔を上げた。金縁の眼鏡越しに鋭い眼光が走る。「君が……噂の佐久間か。随分と若そうだな」
名刺を差し出してくる。
『株式会社帝国重工
第三建設事業部
安全品質推進室長
金沢 敬之介』
名刺には、いくつかの肩書きとともに「兼 スカイゲート・タワー対策本部」の文字があった。
「金沢と申します。率直に言いましょう。私があなたに伝えたいことは三つしかない」
そう前置きして、彼は周囲を素早く見渡した。乗降客の流れが途切れた瞬間、小声で言った。「第一に、バルブの件については……確かに問題ありだ。ただし、北条精機だけではない。帝重工の側にも重大な過失がある。第二に、我々は公表せずに対策を打とうとしている。そのために、あなたの協力を必要としている。第三に――これを外部に漏らせば、君も私も社会的制裁を免れない」
佐久間は息を詰めた。
「つまり、僕を利用したいということですか」
「違う。君の勇気に報いたいと思っているんだ」
金沢の声音に嘘は感じられなかった。だが、同時に異様なまでの計算高さも滲んでいる。
二人は駅の出口に向かいながら、小声で話を続けた。
「実際のところ、設計変更を指示したのは本社の原価管理部だ。私がそれを知ったときには、すでに生産ラインは動き出していた。止める方法がない。だからこそ……現場の人材に頼るしかなかった」
金沢はちらりと佐久間の横顔を見た。「君ならわかるだろう? 命令系統の末端にいる我々が、上流を覆す力を持っていないことを」
その言葉は、奇妙なほど正論だった。
地下街を抜けると、雨は既に上がっていた。代わりに現れたのは、スカイゲート・タワーの巨大な鉄骨構造物。まだ未完成ながらも、地上百八十メートルを超える高さでこちらを見下ろしている。佐久間はその威容に圧倒されつつも、ふと疑問を投げかけた。「でも金沢さん。なぜ僕なんです? 裏取引なら、もっと有力な人物がいるでしょう」
金沢は立ち止まり、空を見上げた。雲間から差し込む光が、彼の横顔を照らしている。「君だからこそ、だ」
「……どういうことですか」
「私の古い友人が、かつて北条精機に勤めていた。彼が言うには、社内で唯一、純粋に『正しいこと』を求めていた人間がいたらしい。それが君だ」
「買い被りすぎですよ」
「そうかもしれない。だが、君は逃げなかった。そして会社の利益を度外視しても、真実を見極めようとした」
金沢は、スーツの内ポケットから封筒を取り出した。ずしりと重い感触がある。「これは?」
「今回の件に関する全貌をまとめた内部調査書だ。社内では『A資料』と呼ばれている。ここには北条精機だけでなく、帝重工の関係部署、納入業者すべての不正が克明に記録されている」
佐久間は言葉を失った。それは単なるスキャンダル資料などではない。場合によっては両社を巻き込んで国家的損失にもなりかねない、最高機密の証拠だった。
「これを……どうするんですか」
「君に預ける。そして一つだけ条件がある」
「条件?」
「この資料を公開するかどうかは、君が決めろ」
金沢の目が厳しく光った。
「公開すれば、スカイゲートの計画は中断となり、大勢が路頭に迷うことになる。私自身も含めて。公開しなければ、帝重工と北条精機は『誤りを正した』という建前で業務を続けることができる。どちらを選んでも、私は責任を取る覚悟はできている」
「なぜそんな判断を僕に?」
「君の心臓に聞くべきだ」
金沢は踵を返し、雑踏の中に消えていった。残された佐久間は、震える手で封筒を見つめた。雨上がりの夕暮れの中、金色の西陽が道路を染めていく。
選択肢が、あまりにも重すぎる。
しかし、一つだけ確かなことがあった。
この世界に、「裏側」で起きている出来事を知らない人々が存在すること。
そして自分は、その裏側の一端に触れた最初の人間なのだということを―。




