崩壊する歯車(一)
翌日、午前九時十八分。
佐久間のデスクには、誰もいない。
昨日までそこにあったはずの工具セット、検査資料、積み上げられた文献――全てが忽然と消えていた。ただひとつ残されていたのは、埃を被った小さなセロファンテープで貼られた白紙の付箋のみ。
『不要な書類はこちらへ』
営業部長の署名はない。それでも、その意味するところは明白だった。
彼は廊下の奥から聞こえてくるざわめきに耳を澄ました。営業課の島の中央で、部長の寺崎が得意げに話し込んでいるのが見える。
「……いやぁ、やっぱり大物は違う。スカイゲート竣工式典、国交大臣もご臨席だってさ!うちみたいな地方零細でも、こんなビッグプロジェクトに関われるなんて、社長冥利に尽きただろうね!」
佐久間の視線に気づいた寺崎は、一瞬だけ嫌悪感を露わにしたが、すぐに作り笑顔を浮かべて手を振ってきた。
「おっ、謹慎中の佐久間くんじゃん!そんなところで何してるの?早く荷物まとめないと遅れるよ~」
周囲の同僚たちが息を飲む。上司である寺崎に逆らえない者は、慌てて書類に目を落とした。賛成派のベテラン社員たちが、小声で嘲笑を漏らす。
「まぁ、あんな若造が何言っても始まらないわよね」「設計なんて全部コンピュータ任せなんだし」「それより帝国さんから追加納期の指示が出てるぞ」
社長亡き後の北条精機は、目に見えぬ早さで「慣れた体制」へと戻っていた。
――裏切り者。逃げる弱虫。空想家。
噂は瞬く間に広がっていく。そしてこの会社に最も多く存在するのは、その噂を楽しむ傍観者たちだった。
午前十時四十五分。
佐久間は、会社を後にしていた。
スーツケース一つに収まった私物。それ以外の全ては、もはやこの場所に執着する理由ではなかった。
エントランスを出ると、朝から続く冷たい雨が舗道を濡らしていた。傘もなく、彼は空を見上げる。灰色の雲が低く垂れ込め、どこまでも延びていた。
携帯が震えた。画面に表示された名前は「帝重工 金沢」ではなく「総務部 石田」。耳に当てると、石田の声は想像以上に淡々としていた。「佐久間君。本日正式に処分が確定した。即日解雇だ。有休消化もない。退職金も規定通り半額とする。文句があれば総務課まで」
一方的な通告だった。通話を終えた佐久間は、空っぽの胃袋を抱えたまま歩き出した。
大通りに出ると、大型トラックが次々と北条精機の搬入口に吸い込まれていく。スカイゲート・タワーへ向けて出荷される高圧バルブの大群だ。あの一台だけでも、最低でも数千万円の価値がある。そしてその中に、一体どれほどの「影」が潜んでいるのか。
スマホが再び振動した。今度は短いメッセージ。送信元は非通知。
『東京メトロ 大手町駅 南口 14時』
見覚えのない宛名。しかし、佐久間の胸に確信があった。
――この場所に答えがある。
雨脚が強くなる中、彼は駆け出した。折れた傘が風に舞い、泥水を跳ね上げる。
この雨のように曖昧な正義感が、いずれ牙を剥くことを彼自身、まだ知らなかった。




