深夜の検査室
巨大な権力は往々にして傲慢なものである
室温は二十二度に固定されている。
わずかな湿度の変化さえ、精密測定器のセンサーにはノイズとなる。
佐久間は、顕微鏡のモニターに映し出されたバルブの断面図を凝視していた。レーザー走査によって得られた三次元データは、滑らかな曲線を描いているはずだった。
だが、その一点――。
圧力隔壁の接合部に、髪の毛一本にも満たない「影」がある。
「……応力腐食割れか?」
独り言が、無機質な検査室に空虚に響いた。
帝国重工から指定された新合金『ハイドラ07』。理論上は、従来の三倍の耐圧性能を誇るはずの素材だ。だが、佐久間が目の当たりにしているのは、計算値とは明らかに異なる歪みだった。
彼は指先でキーボードを叩き、納入データの原本を呼び出す。
北条精機が帝国重工に送ったとされる最終報告書。そこには、完璧な放物線を描く圧力テストの結果が並んでいた。
「書き換えられている……」
その瞬間、背後で自動ドアが開く乾いた音がした。
振り返ると、そこには営業部長の寺崎が立っていた。いつもの柔和な笑みを完全に消し、冷え切った眼差しで佐久間の手元を見つめている。
「佐久間君。仕事熱心なのはいいが、ほどほどにしたまえ。そのデータは、既に『完了』したものだ」
「寺崎部長、しかしこの数値では、高層階での火災時にポンプの圧力に耐えられません。破断しますよ」
「破断しないから、検査をパスしたんだ」
寺崎が一歩、歩み寄る。安物のオーデコロンの匂いが、金属の匂いに混じって鼻を突いた。
「いいか、これは北条精機一社の問題じゃない。国交省も、帝国重工の専務も、皆がこのプロジェクトの成功を待ち望んでいるんだ。小さな『誤差』のために、数千人の雇用を危険にさらすつもりか?」
佐久間の脳裏に、先週、突然倒れてそのまま帰らぬ人となった社長の姿が浮かぶ。生前最後に彼に言った言葉は、「どうしても気になったなら、開発資料庫の棚番C‐37を確認してくれ」だった。
「社長の遺志を継いでいるんですか?それとも、壊れているのは僕たちの製品ではなく、北条精機の方ですか?」
言い終わる前に、寺崎の拳が検査台を叩いた。計器の小さなランプが明滅する。「いい加減にしろ!君のような中途採用者が、創業者の意志を口にするんじゃない!」
そして吐き捨てるように言った。
「佐久間誠次、今から君は謹慎処分だ。明日朝一で総務部長から正式通達が出る。今日中に荷物をまとめろ」
検査室の扉が閉まる。薄暗い空間に一人取り残された佐久間は、再びモニターを見つめた。不気味な影は、変わらずそこにあった。
ポケットから取り出した社員証に刻まれた『品質管理本部 技術主任』の文字が、妙に色褪せて見えた。
「社長……あなたが見たかったのはこれですか?」
呟きながら、彼は机の引き出しから一枚のマイクロSDカードを取り出した。社長の葬儀で、老いた開発者の山田がそっと渡してきたものだ。表面には走り書きで「裏設計図(原本)」とある。震える指で、佐久間はPCのUSBポートに差し込んだ。
ファイルを開いた瞬間、背筋に氷塊が落ちるような寒気が走った。
そこに示されていたのは、公表されているバルブ設計よりもさらに脆弱な、しかし驚くべき量産性を持ったもう一つの設計図だった。注釈欄には、赤字でこう書かれている。
『試作2号機以降:高圧部の肉厚を設計値の40%に減算。強度保証は未実施。製造コスト-58%』
「これが……社長が隠そうとしていた真実か……」
時計の針が午前三時を回っていた。
窓の外には、スカイゲート・タワーの工事が煌々と照らされて見える。頂点へと伸びる鉄骨は、まだ完成形からは程遠い。その中心には、今まさに彼らの手で歪められた命綱が埋め込まれようとしている。
佐久間の指先が、携帯電話のボタンを探り当てる。
通話履歴の一番上にある「帝国重工 営業統括 金沢部長」の名前。常識的に考えれば、連絡して何になるのか分からない。むしろ自分の首を絞めるだけだ。
だが、もし明日の正午にあのタワーで大規模な試運転が始まり、万が一の事故が起きたら……
「逃げられないのは、俺だけじゃない」
深呼吸を一つ。静寂の中で、スマートフォンのバイブレーションが不吉な予感のように震え始めた。




