冤罪仲間
ナーロッパ(魔法無し)が舞台です。法律とか刑務所とかは無知も無知なので「そうはならんやろ」はスルーの方向でお願いします。
後書きに簡単なキャラ設定を記載してあるので、興味のある方はぜひ読んでみてください。
最後に、大事な事なので1回だけ言います。
脱獄はしません。
「せいぜい頭を冷やすんだな!」
居丈高に言い放った正義漢によって、薄暗くジメジメした石畳の上に突き飛ばされる。
どしゃりと受け身を取り損なって右肩から地面に突っ込んだのは、それこそ四頭身もなかったような幼少期ぶりのことだろう。
威勢の良い足音がガツガツと反響し遠ざかっていくのを聞きながら、ペラっちぃ服が石畳の冷気を肌に届ける感覚を、貰えっこない湿布の代わりに享受した。
「……チッ」
時折布が擦れる音と、チャリリと鎖が立てる音以外は何も聞こえないような地下の牢獄で、俺の万感を込めた舌打ちは場違いなくらいよく響いた。
一体どれだけの時間、そのまま不貞腐れて横になっていただろうか。
打撲した肩が熱を持ち、とうとう石畳の冷たささえ生温く変えてしまったのだから、そこまで短くないはずだ。
……まあ、それもどうでもいい。
時間に今すぐ止まるか戻るかしてもらえたら、このまま明日の朝を迎えるよりよっぽど喜ばしい事態になるのに、と取り留めもなく考える。
「冤罪のひとつも見分けられねぇ無能がよ……」
自分からしたら正当なこの愚痴も、視野の狭い正義漢の前ではただの負け犬の遠吠えだ。
手錠を嵌められた時にあの男から酒精が香っていたのだから、明日の取り調べの頃には、すっかり真実は主観という色眼鏡で見られていることだろう。本当に腹立たしい。
冤罪被害者の俺も、加害者の真犯人も、捕縛した警吏も、全員が全員酒に酔っていた。
真犯人のあの男は、酔っていた時の記憶と夢を混同し、己の罪を忘れ去るのだろう。
ほろ酔いの公僕は、狭まった視野で俺を現行犯として捕縛したことを英断だったと誇りに思うのだろう。
唯一、あんまりな事態に酔いの醒めた俺だけが、真実を知りながら処罰を受け入れるよう強要され、思い込みの威圧に負ける。惨めに経歴を汚される事を受け入れる羽目になる。
あの場に居た全員、『正義の執行』と『酒』に酔った警吏に取り押さえられた俺を悪とみなした。あれだけの人が居ながら、いや、居たからこそ、素面の人間が誰一人として道の隅の一瞬を見ていなかったから。
記憶の捏造ってのは、存外お手軽に発生させられる。こんな形で気づきたくなかった真理だ。
「理不尽だ……あ゛ー、クッソッ!!」
「るっせぇぞ、テメェ」
込み上げる憤りを叫びで表せば、左隣の草臥れた初老の男の気怠そうな一声でごっそりと気概を削がれた。
どうしてこの牢の檻は、石壁ではなく鉄格子で区切られているのだろう。
声の方向に視線を向ければ、冷ややかな眼差しとかち合ってひどく気まずい。仕方なしに謝意を込めて軽く頭を下げると、白髪混じりのアッシュブラウンが緩慢にそっぽを向いた。
……犯罪者に社交性を求めるだけ無駄、と思う事にしよう。先に不興を買ったのは俺だが、今は歩み寄りを知らない輩を気遣えるほどの余裕が無い。お互い様だ。
「……はぁ」
消音を意識しての溜息を零し、石壁の天井付近にある通気口からもれる月光に目を細める。
昨日と変わらない涼やかな白い光を見る内に、鉄格子で三辺を囲まれた檻の中央に座っているのが馬鹿らしくなり、壁に背を預けて楽な姿勢を取るべく立ち上がった。それと同時に当然のように手元から聞こえる、金属のチャリチャリという音が最高に不機嫌に薪を焚べてくる。
石壁に打ち付けたらこの手枷も外れたりしないだろうか。それが無理ならせめて、鉄の枷で石壁が破壊できたりしないだろうか。
身も蓋も益もない想像をしながら、石壁の傍に捨て置かれたボロい布を尻に敷き、ドサリと適当に座り込む。首から力を抜いて、壁に背中に続けて頭まで預けてしまえば、ゴッと思ったより鈍い音がした。
「……はぁ」
別に、絵に描いたようなお綺麗な人生を歩んできた訳じゃない。法で定められている犯罪に手を染めたことが無かっただけで、ギリギリ捕まらないような悪事は何度かやったことがある。
その捕まらないような悪事のせいで不利益を被った人間も知ってるが、特別罪悪感に悩まされた覚えは無いのだから、俺の根底にあるのは善とは呼べないものなのだろう。
だが、本物の犯罪者の同類にまで勝手に堕とされた今、心の中に巣食っているのは傷ついたちっぽけなプライドの喚きだ。本当に酔って暴れた人間と比べて、俺はそんなに粗野に見えるってのかこの野郎! ってな。
つまるところ俺は今まで、一丁前に善良な市民を気取っていたらしい。こうなってようやく気がついた。
根無し草も同然の生活だったが、今回ついた経歴の瑕疵が原因で、数少ない顔見知り以上の人間たちは離れて行ってしまうのだろう。気の置けない友人なんざ1人としていないのだから。
数日の拘留と罰金で開放されるような些細な罪だが、それでも罪は罪だ。
……ああそうだ、収入も減るな、きっと。
そうして路頭に迷っても、国はきっと助けちゃくれねぇんだろうな。弱者の味方の教会だって、『自業自得だろう。神が反省を促して試練をお与えになっているのだ』とか言って門前払いだ。
そして俺は野垂れ死ぬ。
腐ってやがる、本当に。
気落ちした頭は、どうにも嫌な想像ばかりを連れてくる。
しかし、ここはプライバシーも乏しい夜の牢の中だ。そもそもが明るい気分になれる場所じゃない。
この領地は比較的治安が良いらしく、牢獄の規模も小さめであるからして、凶悪犯と軽犯罪者を同じ環境に置くらしい。牢が1箇所しかないために分けようがない、というだけの話だ。
さっき俺を注意し、今はもう夢の世界に行ってしまったらしい左隣の初老の男も、もしかしたらその鋭い目元に似合わず万引きや下着泥棒でここにぶち込まれているのかもしれないし、第一印象の通りに刃物を片手に2、3人ほど強襲して捕まったのかもしれない。
俺をここに入れた赤ら顔の警吏は、目に付いた空いている牢に俺を突き飛ばして鍵を締めていた。あの様子からして、恐らく罪状の重さで区画が作られている訳でもないようだから、器物損壊罪の俺の隣に世紀の大犯罪者が入っていてもおかしくはない。
もっとも、この領地で大犯罪者の噂なんざ俺は聞いた覚えが無いが。
ほろ酔い気分が吹き飛ぶ一連の騒動のせいで寝るに寝れず、適当な思考の連鎖を続けていたその時だ。
「チッ、何が悲しくて俺が死刑囚に肩なんざ……」
地下と外を繋ぐ扉が、俺の初めて見る警吏によって蹴り開けられた。
その肩には、ぐったりと引き摺られるようにして、けれども足をもつれさせながら懸命に自分の足で歩こうとする顔色の悪そうな青年が担がれている。
突然の静寂の破壊行為に、牢獄内の視線がいくつか入室者たちへ集中した。けれども、その視線は彼等の姿を認識したそばから関心を失ったように外されていく。これがこの場所の『いつもの事』だからだろう。
……こんな真夜中に、見るからについ先程まで拷問か荒っぽい尋問のどちらかを受けていただろう年若い男が牢に戻される状況が『いつもの事』だなんて。
本当にここは治安の良い領地の牢獄で合っているのやら。少しばかり不安を煽られた心地だ。
しかも。
「おら、よっ!」
まさかの、無人だと思っていた俺の右隣に、その青年は入れられた。
不本意ながら距離が少々近づいた今、青年の顔の青白さや鼻をつく血の匂いなんかが感じ取れてしまう。荒く湿った呼吸を繰り返す痛々しさと言ったらない。
なんという事だろう。
そうして観察している内に、青年を運び込んだ警吏は鍵束を手の中で弄びながら外へと戻って行った。
満身創痍の青年は、警吏に投げ捨てられた時のまま地に伏して動く様子がない。俺の場合は惰性だったが、彼の場合は純粋に自力で起き上がる余裕が無いように見える。
『死刑囚』と警吏に言われていた彼の正確な罪状は分からないが、普通に生活していればまず見ることの無いその様相に、自然と憐れみが湧き上がってくる。
ただの市民を気取れるくらいには俺にも人の心というものが備わっているのだから、この同情もある種当然のことだったのかもしれない。
それはそれとして、ここと右隣の檻を区切る鉄格子のすぐ近くに彼の頭があるこの状況は、なんとも気まずい。
小さく呻く彼の掠れた声が聞こえる度に、何もしようとしない自分に対する失望が高まっていく感覚がある。年下を可愛がろうとする傾向は俺自身に前々からあったものだが、こんな時まで"こう"だとは。
保身を優先する事の心理的な限界は、それからすぐに訪れた。
「……おまえさん、大丈夫かい?」
ごく小さな、独り言のような声量で問いかけた。
痛みで朦朧としているだろう青年の意識にこの声が届かなかったのなら、何も言わなかったことにして、もう今夜は強引に眠ってしまおう、という心持ちで。
「っ……ぁ、ぼく、……です、か?」
しかし、返答があった。
俺以上に小さな、限りなく吐息に近い声で。
ザリ、と彼の頬の下で砂粒の擦れる音がして、瞼の閉じかかった眼差しがこちらを見る。
視線がかち合う。
右隣の男との時とは違う緊張が背筋を走る。
「……っ、ふ、ぅぅ……」
虚ろだった青年の瞳の深緑が、唐突に光を反射した。
口元はくしゃくしゃに歪み、散々噛み締めたのだろうズタズタの唇が一部露出している。
鎖の遊びもなく連結した手錠を嵌めている手を、不自然に点在する赤黒い斑点模様が印象的なズボンに包まれた脚を、力無く放り出し。
彼は、困惑する俺を見つめながら泣いていた。
嗚咽を噛み殺して地を這う彼の泣き姿は、見ているだけで心を蝕む毒のようだった。
「すみ、っ、ません。きゅうに、泣いて、しまって」
儚げに、健気に、口角を持ち上げてはにかんで見せる彼に、俺は何も言葉をかけられなかった。
青年も涙の理由を深く語ったりはせず、表情はそのままに話題を転換した。
「ええっと……貴方は、今日、新しくいらした人、ですよね?」
「ああ。それも、ついさっきな」
「どういった経緯で、と、お聞きしても?」
経緯。
この牢にぶち込まれるだけの犯罪の名前と、その動機を聞かれている。
冤罪の動機なんざ、悪運以外に何がある?
「酔っ払いが暴れただけだ。こうなりゃ、すっかり酔いも醒めたがな」
こう、で指し示したのは、この牢獄と自分自身だ。
「盛大に転んで道端で飲んでた人間の椅子を破壊。それから近くを通りかかった一般人に八つ当たりで絡み、暴行を働こうとした、ってことでお縄だよ」
そういう事になっている。
だから「頭を冷やせ」と放り込まれた。
しかし、真相は違う。
「俺も酔ってた事に違いはねぇから信じて貰えんかもしれんが、俺の代わりに捕まるべき人間がいるんだぜ。
転びそうになった酔っ払いの男に、俺は腕を掴まれたんだ。入れ替わるようにして俺が転んで、『よくも転ばせやがったな』っつって掴みかかったらちょうど警吏がその場に来て、俺だけ悪人扱いだ。
まだ1発も殴ってなかったってのに、取り押さえてきた時の第一声が『暴れるな』だぜ」
全くもって笑える話だ。
人の多い通りで殴りかからないだけの理性はきちんと残っていた。
普段の巡回では見向きもしないような酔っぱらい同士の騒動に、しかも暴行未遂であの扱いは無い。取り押さえられ地を這った時、ナイフでも握ってたっけか、と思わず自身の両手を確認したほどだ。
「それは……災難、でしたね」
「ホントにな。往来の目撃者の中に知り合いがいたら、知人の間での俺はあっという間に『酒で暴力的になる危ない野郎』扱いだ」
仕事の成果と本人の私生活は必ずしも直結するもんじゃない。有名な音楽家が倒錯した性癖を持っているだとか、売れっ子の画家に娘ほどの年の差のある愛人がいるだとか、珍しい話じゃない。
しかし、業績と素行を切り離して考えてくれる人間が全員じゃない。むしろ少数派だ。
俺への仕事の依頼は減るだろう。
目に見えてか、変化に気づくのに時間がかかる程度でか、そのあたりは出所するまで未知数だが。
ため息を零す俺に、横になったままの青年は言う。
「たった一度の冤罪で人生が狂うなんて、たまったものじゃありませんよね。その気持ち、よく分かります」
その相槌の声色があまりに重苦しかったものだから、
「それって?」
と、俺は思わず聞き返していた。
「ぼくも、冤罪なんです」
語り出しには、妙な明るさがあった。
開き直りとか、諦観とか。
そんな、薄気味悪い明るさが。
ボロボロの青年は、同僚と天気の話をするような気軽さで語った。
始まりは、ここの領主様の屋敷に住み込みで働く下男だった彼に、同室の後輩が出来た時。
かなり無口な後輩との縮まらない距離感に悩みながらも真面目に仕事をこなし、世話になっていた孤児院に仕送りをしながら数ヶ月が経過したある日のことだった。
なんだか屋敷中が騒がしいな、と思いながら任された荷物を指示された場所まで運んでいたら、突然数人の兵士に取り押さえられたのだと言う。
彼にかけられた疑惑は、領主様の暗殺未遂。
食事中に突然倒れた領主様の様子と一致する症状を引き起こす毒薬が、彼の部屋の手提げ金庫の中に入っていたらしい。
「怪しい挙動で小さな液体入りの瓶を隠した瞬間を見た」と青年に不利な証言したのは、同室になった無口な後輩だった。
「状況証拠は揃っている」と詰められた彼はこの牢獄に閉じ込められ、「背後関係を吐け」と、かれこれ3ヶ月近く尋問を受けているそうだ。
当然ながら彼自身に領主様の毒殺を試みるような人物の心当たりなどなく、手提げ金庫には孤児院に送る予定である給金の一部以外を入れた覚えもなかった。
自前の手提げ金庫から、見知らぬ毒入りの小瓶が見つかったと詰められた。
手提げ金庫のダイヤルキーに設定している数字を知る機会があるのは、同室の無口な後輩だけ。
……となれば、真相は一つだ。
真犯人はその後輩で、彼はスケープゴートに使われた被害者。
しかし、多くの作られた状況証拠が「彼が犯人である」と語り、処刑の日も迫っている以上、『誤解が解けて無罪放免』は夢のまた夢。
領民を不安にさせて良いことはない、と領主の暗殺未遂は密やかに処理され、新聞に載ることもなかった。
孤児院を出た、身よりもない人間が1人いなくなっても、誰もその原因を追おうとはしない。いつの間にか孤児院への仕送りをやめ、仕事も飛んだ恩知らずな孤児として、人々の記憶の中に埋もれて消える。
惜しむらくは、世話になった孤児院にまで迷惑をかけてしまった事。
「……明日には死ぬ人間が心配したところで無意味なのは、わかってるんですけどね。どうにも、その事が気がかりで、気がかりで」
時折痛みに言葉を詰まらせながらも、彼は最後まで語り切った。
「……そうか」
自分の身の上に憤る気持ちは、彼の話を聞くうちにすっかり鎮火していた。
仕事が減るだとか、経歴に傷がついただとか、騒ぎ立てていたのがいっそ恥ずかしくなった。
だって彼は話の途中で、
「ぼくのせいで、同じ孤児院出身ってだけで、弟妹が職に困ってしまうかもしれないのが、本当に申し訳ない」
と述べていた。
自身の境遇を諦めても、他者への思いやりを手放していないのだ。
「お前さんみたいな人間がこんな目に遭うだなんて、この世の中は狂ってるな」
冷えた空気の中へ一瞬で溶けて消えてしまいそうな俺の呟きに、まだ青さに満ち溢れている彼は泣きそうな顔で微笑む。
そして石壁の上部から差し込む月光から瞳の深緑を隠すように俯いて、
「その……実はあなたに、お願いしたいことがあるんです」
と言った。
「お願いしたいこと?」
さっき初めて会ったばかりの俺に? 一体何を? という意味を込めて俺は聞き返す。
「はい。もちろん、さっき言ったように脱獄は諦めてますし、真犯人たちに意趣返しをするような気力もないので、犯罪行為の片棒を担いで欲しいって話じゃないんです。ちょっとだけ……ほんの数分、手を、貸してほしくて」
「……何をしたらいいんだ?」
遠慮がちで健気な年若い人生の後輩の頼みを聞き届けもせず無下にするには、俺は少々彼の事情を知りすぎていた。
「何とかして、そちらと接している鉄格子ギリギリまで這って近づくので……お兄さんには、ぼくの身なりを整えてほしくて……」
「身なりを? お前さんの?」
「はい。あの、服装とかはどうしようもないですけど、せめて顔周りのスス汚れくらいは、と思って。……だって、人生、最初で最後の大舞台、でしょう? 聞いた限りでは一般公開はされないようですけど、それでも、近くで見届ける人がいますし。死に顔くらい、少しでも綺麗に、って……」
「……」
「そ、そのくらい自分でやるべきだ、っていうのは分かってるんです。でも、でも……」
黙り込んだ俺をどう思ったのか、たどたどしく彼は言い募る。
罪状を語った時とは一転して、断られるのでは、と焦ったように。
「もう、腕が、顔のところまで上げられなくて。
さっきからずっと起き上がらないでいるのも、今の体重を支えられるほどの力を、入れられないから……なんです」
月が暴いた彼の表情は、ひどく羞恥に満ちていた。
恥じるべき所なんてひとつも無いのに。
そうやって勝手に考え過ぎて恥じ入る様子は、まだ未成熟な子供としての精神性を感じさせた。
「……安心して、俺に全部任せとけ。鏡で確認できないのが残念になるくらい、お前さん史上最高の色男にしてやるよ」
冗談めかした俺の物言いに、一瞬だけきょとんとした青年は楽しそうに笑った。
そして、負担のかかった喉で水気の混じった咳をした。
唇は紅を差した女のように赤く染まり、見ていられないと強く思った。
けれど、もう目を逸らすなんて出来なかった。
いっそ、泣き縋ってほしかった。
憤ってほしかった。
蟠る全てをぶつけてほしかった。
大人びた取り繕った綺麗さよりも、子どものように剥き出しの感情を。
周りにかける迷惑の一切も考えないで。
髪を撫でつける間。
薄汚れた頬を優しく拭っている間。
それだけの事に長すぎるほどの時間をかけて、疲労した青年が眠ってしまうまで。
俺は、そのカサついた肌も、熱を帯びた体温も、不揃いでうねる栗色の髪も。赤い線の走った、頬を伝う涙の一滴だって、忘れるまいと脳裏に焼き付けた。
時よ止まれ、止まれ、と人生でいちばん強く思いながら。
せめて、『眠るように』と言えるようにと願いながら。
痛痒ではなく、温もりだけを与えられるようにと祈りながら。
翌朝。
俺が起きた時には、既に隣の牢は空だった。
枕の代わりに青年の頭の下に入れてあった、俺の牢の備品の綺麗に畳まれた薄い毛布だけ、俺の牢と接する鉄格子に寄せて置いてあった。
「……おい、お前の隣にいたガキから伝言だ。『お手数おかけしました。ありがとうございました』だとよ。二度は言わねぇからな」
白髪混じりで無愛想な強面の男は、起き上がって呆然とする俺にそれだけ言って、また昼寝に戻ったらしかった。
投げやりになって事情聴取で全ての容疑を認め、罰金を命じられ、明日の釈放が決まった、牢獄2日目の夜。
青白く素っ気ない月光に照らされた無人の牢を眺めながら、こんな世の中クソくらえだ、と俺は心の中で毒づく。
神が欲しがった人間は早逝するって与太話は昔からあるが、それならせめて死の直前までは幸福に浸らせてやるくらいの贔屓をしろよ。
善人が真面目に生きてるだけで損するなんておかしいだろ。
殺すべきなのはあんなガキじゃなかった。
自分の無力さを棚に上げ、一度八つ当たりを始めたらもう止まらなかった。
そして、眠りに落ちる直前に、手のひらに残る髪の感触と、金貨よりよほど価値のあったあの涙を反芻して、いつまで覚えていられるだろうかと、抱えた胸の中の重りを数えた。
主人公
尻の青かった頃は真面目一辺倒で、奇縁があって領主様と出身の孤児院に登用の繋ぎを作った張本人。ただ、「孤児出身と一緒に仕事とかしたくねぇぜ」とか言っちゃう系の行儀見習いの働きかけによって雇用後一ヶ月で職場都合の退職を求められた。
そして、血統主義の強い世の理不尽に憤り、一時期は荒れに荒れていた。荒れていた期間は、顔面が特別良いわけではないものの、領主の邸宅で見た『丁寧な振る舞い』を模倣し、結婚詐欺紛いのことをして食い繋いでいた。皮肉にもそれで数年間は食い繋げてしまった。
本編開始前には詐欺から足を洗い、短期の仕事を知り合いに紹介してもらうことで生計を立てていた。
釈放後、『名前くらい聞いておけばよかった』と『名前を聞かなくてよかった』が6:4くらいの気持ちでいっぱいになり、しばらく夢の後味が最悪になった。
青年
領主の屋敷で下男として住み込みで雇われていた。ちなみに2人部屋。
素晴らしい領主様を尊敬し、その恩恵(孤児院への寄付、体制の見直しなど)に助けられた身の上であるために、犯行については強く否定していた。
主人公とは15歳差、かつ3歳の頃に人数オーバーな孤児院から移されており、人生の大半を過ごした孤児院で主人公と重なる期間は無かった。
最期に呼べる名前を知らないことに気づいて、『ぼくから名乗ったらあの人も名前を教えてくれてたのかな』とか考えてるうちに意識が暗転していた。




