私はヒロインではないから ~エンディング後から始まる物語~
「エノーラ・ハンフリーズ公爵令嬢……申し訳ないが、君との婚約は解消させていただく」
目出度いはずの、卒業記念パーティー。
そのホール中央で、私の婚約者であったアルヴィン・レイランド王太子殿下が、高らかに宣言する。
彼の腕には、物語のヒロインであるチェルシー・リーク子爵令嬢がしっかりと抱かれていた。
「そのお申し出、承りました」
公爵令嬢らしく、優雅に一礼する。
決して涙は見せない。
こうなることは、悪役令嬢に転生した時から、分かっていたのだから。
「ごめんなさい、エノーラ様……私、私……っ」
「気になさらないでください、チェルシー様」
大きな瞳に涙を浮かべるチェルシーに、笑顔を見せる。
物語の中で、悪役令嬢のエノーラに死刑を言い渡したのは、元婚約者のアルヴィン殿下だった。
婚約者の心をチェルシーに奪われたエノーラは、アカデミーでチェルシーをいじめ続け、卒業記念パーティーで婚約破棄された。
それだけでは飽き足らず、婚約破棄後は王太子の婚約者となったヒロインチェルシーの暗殺を試みて、失敗。
最後には捕らえられ、処刑されてしまうのだ。
その運命をどうにか回避しようと、エノーラに転生したことに気付いた後は、婚約者であるアルヴィン殿下とは良好な関係を築こうと、常に心がけていた。
でも……彼はチェルシーに出会って、一瞬で恋に落ちた。
最初から、全てが定められていたかのように。
「お二人の関係がどれだけ尊いものか、私は十分に理解しています。どうか、その想いを大切になさってください」
「エノーラ様……」
「エノーラ、感謝する」
いまだ涙を滲ませたままのチェルシーの肩を抱いて、アルヴィン殿下が居並ぶ聴衆に視線を向ける。
「私はここに宣言する、チェルシー・リーク子爵令嬢を妻とし、共に王国を導いていくと!」
婚約破棄の成り行きを見守っていたギャラリーがどよめく。
「紹介しよう、新たな婚約者のチェルシーだ。今後は皆で彼女を支えてやってくれ」
パーティーホールは、割れるような歓声に包まれた。
グラスが触れ合う澄んだ音。祝福の歓声。
誰かが私の名を囁いて、すぐに忘れたふりをする。
私は一人、会場の喧噪に馴染めずにいた。
乾いた笑顔を貼り付けて、幸せそうな二人を、ただ遠くから見守るのみ。
死の運命は、回避された。
私を処刑する婚約者にも、物語のヒロインにも逆らわずに生きてきた結果──、
悪役令嬢の座から逃れた私は、ただのモブキャラと化していた。
常にヒロインの顔色を窺い、彼女の機嫌を取り、自分の婚約者であるはずの王太子との仲を取り持つ。
立ち回る中で、気付いていた。
ああ、これではまるでヒロインの友人キャラみたい……って。
事実、チェルシーは私を友人だと思ってくれているようだ。
悪気なく、アルヴィン殿下への思いを私に打ち明けたチェルシー。
私が彼の婚約者であることなど、まるで意識していないようだった。
物語は、ハッピーエンドルートに入った。
二人は皆から祝福されて結婚し、この国を導いていく。
その影で王太子に婚約破棄された公爵令嬢が居ることなど、誰も気にしないままに……。
「この、役立たずが!!」
屋敷に戻った私を待っていたのは、お父様の平手と怒声だった。
それも当然だろう、将来の王太子妃として育てた娘が、格下の子爵令嬢にその座を奪われたのだ。
ハンフリーズ公爵家としての面目は、丸潰れだ。
「婚約を破棄されたお前になど、何の利用価値もない!」
年の近い高位貴族の令息達は、大半が既に婚約者を定めている。
いまだ婚約者を決めていないのは、良い縁談が見付からない下位貴族の令息達か、あるいは問題を抱えた令息か、男やもめの貴族くらいだ。
この年で婚約を破棄された私に、まともな縁談は望むべくもない。
「お前など、もう娘とは思わん。すぐに荷物を纏めて、出ていけ!!」
そんな中途半端な相手に嫁がせるより、お父様が選んだ道は……私の放逐だったようだ。
それも、別に構わない。
物語の通りに動いて、殺されるよりはずっとマシだ。
「今夜中に荷物を纏めて、明日の朝には屋敷を出ます。長い間、お世話になりました」
深々と頭を下げる私に目を向けることもなく、お父様は部屋を出て行った。
こうして、公爵令嬢エノーラ・ハンフリーズの人生は終わった。
明日からは、平民のエノーラとしての人生が始まる……。
気付けば、目の前が霞んでいた。
ポロポロと、涙が零れ落ちる。
全て分かっていたはずなのに。
死の運命は逃れたはずなのに。
どうしてこんなにも悲しいのだろう。
自分なりに頑張ってきたつもりなのに、どうして私は幸せになれないんだろう。
尽くしてきたつもりの婚約者は、他の女性を選び、
長年一緒に居た家族は、あっさりと私を捨てた。
エノーラの人生とは違う。
これまで生きてきた私の人生とは、一体何だったのか。
結局、ここはヒロインの為の世界だから……
ヒロインではないエノーラには、幸せになる道なんて用意されていない。
そういうことなのだろうか。
悪役に生まれついたことは、最初から分かってはいたけれど……
今更ながらに、ズキズキと胸が痛んだ。
「エノーラ・ハンフリーズ公爵令嬢……?」
翌朝、屋敷を出た私に声を掛けてきたのは、一人の騎士様だった。
短く刈られた黒い髪と、燃えるような紅の瞳。逞しい体躯。
颯爽と馬から飛び降りる様は、書籍の挿絵であるかのように様になっている。
どこかで見たことがあるような……ああ、思い出した。
王太子殿下の婚約者として王城に通っていた頃に、護衛を務めてくれていた方だ。
「私はもう、ハンフリーズ公爵令嬢ではありません。ただのエノーラです」
私の言葉に、息を呑む気配が伝わってきた。
元より旅装の上、トランクを手に歩いていた私の姿を不審に思ったからこそ、問いかける声に疑問が混じっていたのだろう。
コホンと咳払いをして、こちらに向き直る彼の目には、僅かな憐憫が滲んでいる気がした。
「それでは、エノーラ嬢……王城にて、王妃陛下がお待ちです。どうかご同行願います」
「王妃陛下が……?」
レイランド王国の王妃陛下……アルヴィン王太子殿下の母君であり、王太子妃教育を受ける為に王城に通っていた頃は、私を実の娘のように可愛がってくださっていた方だ。
王妃陛下にとっては、私は息子の嫁になるはずの相手だったものね……こんな風に突然嫁候補が代わるなんて、思ってもみなかったことだろう。
「かしこまりました」
騎士様の言葉に頷き、彼の後に付き従う。
「失礼」
「あっ」
ふわりと身体が浮き上がったかと思えば、私は一瞬で馬上の人となっていた。
「トランクはしっかり持っていてくださいね」
「は、はい……」
そのまま騎士様が馬の腹を蹴って、真っ直ぐ王城への道を進んでいく。
婚約破棄されたエノーラが王城に……しかも王妃様に呼ばれるだなんて、こんな展開、物語にあったかしら。
一抹の不安を抱えながら、私は馬の背に揺られて王城への道をひた走った。
「ごめんなさいね、エノーラ……貴女には詫びようのないことをしてしまったわ」
「お顔を上げてください、王妃陛下……!」
通されたのは、王城の庭園にある四阿。
花に囲まれた空間で、王妃陛下は悲しげな笑顔を浮かべて私を出迎えてくれた。
「此度の婚約解消、貴女には何の落ち度もないんだもの。それを、あの子と来たら……」
そう。
物語の悪役エノーラ・ハンフリーズとは違い、ここに居る私には、婚約を解消されるだけの理由はない。
婚約者であるアルヴィン殿下が、チェルシーと結ばれる為に婚約解消に踏み切ったに過ぎない。
責任ある立場で、本来ならば許されない行為だ。
だが、それがまかり通ってしまった。
彼がチェルシーを愛していると言ったから。
そして、皆もチェルシーを愛しているから。彼女の幸せを願っているから。
物語の中で、ヒロインは皆に愛されていた。
この婚約解消に対して疑問を口にしたのは、物語にはほとんど登場しなかった王妃陛下が初めてだ。
「考え直すようにと、何度もあの子に言ったのだけれど……私の話なんて、全然聞いてくれなくて」
「そのお心だけで十分報われた気がします」
王妃陛下が反対をしてくれた。
そのことだけで、涙が出そうになるほど嬉しい。
一人だけでも、私の幸せを考えてくれた人が居るんだ……そう思えたから。
愛に燃えるアルヴィン殿下に、王妃陛下の言葉が届くはずもない。
それを分かっているからこそ、彼女の想いだけでじんわりと心が温かくなった。
「そんなことは言わないで。本来ならば、王家から貴女に対し賠償金を支払わなければならない事態だというのに……」
「いえ……今の私には、過ぎたるものです」
ゆるりと首を振れば、王妃陛下は僅かに瞳を潤ませた。
私が公爵家から放逐されたことを、既に聞いているのだろうか。
「私は……貴女が私の娘になる日を、ずっと楽しみにしていたのよ」
「王妃陛下……」
陛下の言葉に、こちらまで目頭が熱くなってくる。
国王陛下と王妃陛下のお子様は、アルヴィン殿下ただお一人。
王太子妃教育を受ける為に王城を訪れていた私に対し「念願の娘が出来るのが嬉しいの」と、王妃陛下は何度も声を掛けてくださっていた。
私だけではない。
そんな王妃陛下の思いまでも、踏み躙られてしまったのだ。
「私の代わりに、チェルシーが王家の嫁となります、から……」
「それは、あの娘が貴女から奪ったものでしょう!?」
チェルシーの名を出した瞬間、王妃陛下の目つきが変わった。
私が怯えたことに気付いたのだろうか、慌てて息を整え、元の穏やかな表情を浮かべはしたけれど……先ほど見た王妃陛下の顔は、忘れられそうにない。
ヒロインだからと、全ての人から愛されている訳ではないんだ……。
それが分かっただけで、どこか胸が軽くなった気がした。
「……いいんです。きっと、アルヴィン殿下とは結ばれない運命だったんです」
だって、彼はこの物語のヒーローだもの。
子爵家の庶子として生まれた不幸なチェルシーを救い上げ、幸せにする為のキャラクター。
彼の感情も、役割も、最初から物語に組み込まれていた。
「王妃陛下が怒ってくださったことで……私は十分に救われました」
貴女のおかげで、物語に描かれたことが全てではないと、気付けたから。
この広い世界の中、物語の展開とは関係なしに、私が幸せになれる場所はきっと存在するはず。
「エノーラ……」
王妃陛下の細い腕が、ぎゅっと私を抱きしめる。
「そんなに悲しまないで……貴女は、一人ではないのだから」
じんわりと、乾いた心に王妃陛下の言葉が染みていく。
堪えようとしていたのに、一筋、熱い雫が頬を伝った。
「申し訳、ございま……」
「いいの。いいのよ、エノーラ」
優しい温もりに包まれて、まるで子供のように、肩を震わせる。
私が落ち着くまで、王妃陛下はじっと私の背を撫でてくれていた。
「それにね……息子の暴挙が許せないのは、私一人ではないの」
「え……?」
私が落ち着くのを待って、王妃陛下が四阿の外で待機していた護衛騎士に声を掛ける。
ここまで私を送り届けてくれた、騎士様だ。
「会ったことはあるでしょう。紹介するわね、彼はジェフリー・レイナー……我が王室の護衛騎士だった者よ」
「だった……」
どうして過去形なのだろう。
私が疑問を口にするより先に、ジェフリー様が王妃陛下と私の前に膝を着いた。
「エノーラ嬢が王太子殿下の婚約者となられた時から、私は生涯この方をお守りする為にこの命を捧げるのだと、心に決めておりました」
とくん……と、心臓が鳴る。
確かに、王城に来る度に彼はいつも傍に居てくれたけれど……そんな風に思ってくれていたの?
「家を放逐されたと聞きました。どうか、私をお側に置いてください」
「ジェフリー様……」
トクトクと、心臓の音がうるさい。
唇を開いた瞬間、喉がひりついて、言葉が声にならない。
「お待ちください、私は公爵家から除籍されて、平民となった身です。騎士様を雇うような余裕は、とても……」
「重々承知しています。それでも、私は貴女にお仕えしたいのです」
深々と頭を垂れるジェフリー様に困ってしまい、助けを求めるように、王妃陛下を見遣る。
「一度こうと決めた騎士は、とても頑固なのよ」
王妃陛下は、どこか楽しげな笑みを浮かべていた。
「何の瑕疵もない貴女を捨てた王太子殿下と、貴女の友人でありながら貴女を裏切ったリーク子爵令嬢のお側にお仕えする気には、どうしてもなれないのです」
今まで、ずっと彼は王妃陛下に対して跪いているのだと思っていた。
でも、違う。
彼の目は、真っ直ぐこちらに向いている。
「本当に……私と一緒に、来てくださると……?」
「はい。女性の一人旅は、危険も多いことでしょう。エノーラ嬢が、お嫌でなければ」
紅色の瞳が、真っ直ぐに私を……私だけを見つめている。
ああ……物語はヒロインであるチェルシーの為に存在していたのだとしても、この世界は違う。
物語の筋道以外にも、世界は広がっているんだ……。
「ありがとうございます、ジェフリー様……」
「どうか、ジェフリーと……そうお呼びください」
跪いたままのジェフリー様が、私の手を取る。
「でしたら、私のことも……どうか、エノーラと」
私の言葉に小さく微笑んだジェフリー様……ジェフリーが、私の手の甲に、そっと口付けを落とした。
こうして私はジェフリーと二人で旅に出ることになった。
行く宛がある訳ではない、自由気ままな旅。
王妃様は彼女の実家であるシェリダン王国を訪れるようにと手紙を持たせてくれたが、平民となった私には、恐れ多いものだ。
鞄の奥底に、お守りのように眠らせてある。
今はただ、のんびりとこの世界を見て回りたい。
物語には描かれることのなかった、外側の世界を。
きっと、私の幸せを見付けられるはずだから──。