終焉
米村は目が覚めると、喉の痛みがあったが、昨日よりは体調は幾らか良くなってるような気がした。
天気がどんよりとしていて、まだ本調子ではないが、今日は会社に休みを入れたので、昨日、あやめに言われた通り、病院にでも行こうかと思った。
米村は体に温泉の匂いがまだ染み込んでいるような気がした。
どことなく硫黄の匂いはあの場所には秘境的の風景なせいか魅力的に映るが、この家ではその匂いは意味を為さなかった。
東京ではまだ紅葉が色づき初めてるかというぐらいであり、廊下に出て窓の先を覗いてもどこもかしこもそんなものであった。
ただ、寒さは日に日に強くなり、廊下は薄暗いような寒さを感じ、季節だけは冬に変わりつつあるのをなんとも無情に思った。
窓の反射で米村は自分自身の姿を見ると、老人そのものではないかとショックを受けた。
清潔感はあるものの、そのしわが目立つ顔に薄い白い髪の生えた頭はしばらく、上の空で鏡を眺めていた米村にとってはこんなにも歳をとったのかという思いがあった。それでいて、鏡など何年も前に時間を掛けて見ないことに自分自身の行ないに若い頃に持ち合わせていた自分をよく見せようと言う飾りっけを結婚して時間が経つに連れ、無くなっていたのだと思った。
階段を降り、一階に来た時に再び、庭の方を見た。朝日が窓には当たらず、日陰に照らされ、日に当たる庭の草に米村は羨望の目を見つめた。
階段は一段一段が冷たく、降りた時に階段を振り返ったが、いつもと変わらぬものであり、旅行に出掛ける前と今で明らかに寒さが増しているように思えた。
時間は七時を回りかけている。リビングには明かりがついているも、あやめの姿は見えなかった。
あやめはキッチンに立ち、朝食を作っていた。使用人を雇わないこの家ではあやめが主に家事を行なっていたが、それは彼女自身の趣味のようなものであるらしかった。
「正二さん、おはようございます」
あやめの声に米村は覇気を思い出した。昨日からの体調のせいで元気がなかった米村のあやめの声には若さの力をもらっている気がした。
「体調の方はどうですか?」
「うん、昨日よりはいいよ。でも、大事をとって今日は会社を休んで、病院に診てもらうことにするよ」
「坂田医院ですか?」
坂田医院は二人の家から歩いても行ける程の近くにある内科の病院であった。米村とは顔馴染みであり、米村のかかりつけ医でもあった。
「うん、ただ、あそこは午前は往診で不在だから、午後に出掛けるよ」
「午後は私も買い物があるので、同じ時間に出るかもしれないですね」
あやめのこんな何気ない言葉に最近は記憶に残らない透明な幸せを米村はありがたく思っていた。
・
朝食を終えると、米村はリビングで新聞を読み、あやめは洗濯を干していた。
米村はその様子をリビングから見ていたが、彼女は洗濯を干し終えた辺りでポケットから何かを取り出していた。
そしてしばらくすると三匹の三毛猫がやってきて、あやめの手に持っているものを食べ始めていた。
あやめはその様子を見ながら、一匹の猫の背中を撫でていた。
逃げる様子も無く、人馴れしている猫であった。どこかで飼われているのだろうか。野良にしては綺麗である。
米村は新聞社をテーブルに起き、廊下に出ると、そこから庭に続く扉を開けた。
すると、その音に気づいた猫達は一目散に逃げていった。ただ、遠くの方でこちらを伺っていて、まだあやめの持っている餌を狙っているのがわかった。
「ごめん、人馴れしているから、逃げないかと思ったんだ」
「最初は私にも逃げていましたよ。今でもまだ餌を持ってないと近寄ってきません」
あやめはそう言って、餌を猫のいる方へ投げた。
猫は餌を口にすると、そこから完全に姿を消した。
「いつも、猫をかわいがってるの?」
「いつもではないです。たまに、あの子達の姿が見えると餌をあげるんです」
「野良じゃないよね?」
「ええ、恐らく、毛並みもさらさらでしっかりしてますし、痩せてもいませんし」
きっとどこかの飼い猫なのだろうと思った。ただ、米村は見たことのない猫であり、どこから来ているのか気になりはした。
三匹のうち、一匹が大きく、もう二匹は小さかった子猫であり、親子なのだろうと思われた。
午後になり、米村は病院に行くために家を出た。あやめはその前から買い物などで家を出ており、米村が家を出る際はいつも以上に家は静かで穏やかな静けさの中にピリッと張り詰めた緊張が走る時があった。
門を出る頃に冷たい風が切り付けるように吹いた。
米村はまだ湯冷めしたような心持ちになり、そのおかしさに暖かみをなんとかして覚えようとした。
薄情な風だと呟いた。そしてその呟きさえもが薄情そのものであった。
季節は明らかに秋であった先日とは違い今日は冬の姿になっていた。
いつ、秋は姿を消していったのだろう。米村が夜寝ている間にか。秋はいつも煙のように消えていく。
こちらを様子見しながら少しずつ冬を感じさせているのだ。まるで詐欺のようで面白いと米村は思った。
悲しくも、秋は確かに消えていく、紅葉はこれからかもしれないが、冬の訪れは確かに来ている。今年の紅葉はあっという間かもしれない。
米村の歩くカツカツとした足音にもどこか冷たさがあり、米村はその音に任せるまま音を鳴らし歩いた。
・
病院で診察を終えた米村が外に出たのは四時を周っていた。夕焼けが広がる中、東にはうっすらと夜の暗闇が見えていた。
そして暗闇は放っておくとあっという間に空全体を包み込んでしまうのである。
その気がついた時の寒さは米村には堪えるのである。早く帰ろうと少し急足になった。
「正二さん」
後ろから声がして、振り返るとあやめが買い物袋を持って立っていた。
「あやめ、これから帰りかい?」
「はい、正二さんも坂田医院からの帰りですか?」
「うん」
「どうでした?」
あやめは心配した表情で言った。そしてその時、米村はあやめを初めて女として美しいと思った。
「うん、ただの風邪で大したことはないって」
「そうですか」
あやめはほっと胸を撫で下ろすように言った。
命の削られる思いをした米村にはあやめを手に取る力はないと思った。
だが、あやめは米村の手を取った。
「暗くなると急に寒くなるから帰りましょうか。正二さん、夕方からの寒さが苦手ですよね?」
「前にそんなこと言ったっけ?」
「ええ、初めてお会いした日に言ったように思います」
あやめはやはりまだ人生がこれからもあり、希望がまだ見えているはずである。
彼女の髪が米村に薄く当たり、その心地良さと少しずつ近づいてくる寒さと米村は越えられない哀愁を思った。