可愛らしい富士
朝早く米村は目を覚ますと、隣で寝ているあやめの横顔を覗き見た。
その寝顔は可愛らしい顔つきで、米村はやはりあやめを娘のように思ってしまった。
そして一人黄金の湯へと向かった。
風呂場に着くと、五人程の人がおり、みんな米村と歳が近いように思えた。
外の黄金の湯に浸かるとその濁りに近い、お湯を手ですくい体にかけた。その時に、その湯に米村くらいの歳の男が入り、気持ちの良い声を上げた。
二人は顔を見合わせ、男は恥ずかしそうにしていた。
「朝風呂は良いものですね。声が自然に出てきます」
「恥ずかしいですね。つい一人のように思ってしまい自分でも無意識に声が出てしまいました」
「でも、私も同じようにしていましたから、気持ちはわかります」
男の後頭部に薄く白髪が残り、つむじのところには小さく光っていた。
二日目は予報とは違い天気は晴れ、米村の目の前に木々がありその奥に紅葉が姿を覗かせた。更に奥からは陽の光が細かに隙間から見え、虫籠に入れられた虫がその外の世界に出たいような感覚に陥った。
「あの、つかなことをお聞きましますが、昨日、石段街の先にある坂で榛名富士のようなものが見えたのですが、あれは榛名富士富士だった気になりまして、わかりますでしょうか?」
米村は掠れ掠れに聞いた。彼がもし、遠くから来た観光客であるならばとはその時までは考えもしなかったのである。
「ええ、あれは榛名富士だそうですよ。私も気になって近くにいた方に聞きました」
「そうですか。ありがとうございます。気になって夜中に考え事をするくらいでしたので」
悩みが無くなると、米村は急に湯にのぼせたような気持ちになり、男にお礼を言い、湯から上がった。
そして寒さを耐えながら、榛名富士の光り輝く、揚々とした姿を頭の中で想像した。
・
部屋に戻ってもまだあやめは眠りについたままであった。
米村は窓の方に行き、そこからカーテンの先を覗き見た。
子持山を始めとした山々が今日は太陽に映し出され、美しい朝を見せてくれた。
冷たい風は窓の先までにしか伝わらず、そのおかげで米村は美しさだけを味わうことができた。
七時半頃にあやめは目を覚ました。米村はお茶を淹れ、あやめは眠い目を擦りながら茶を飲むと、いそいそと隣の部屋で化粧を始めた。
「朝風呂でも行ってくれば?」
米村がそう言うと、あやめの小さな声が聞こえた気がした。
「よろしいですか?時間は掛かりません。早々に行って参ります」
あやめはそう言って準備を始め、部屋を後にしたが、本当に時間を掛けず、三十分程で戻ってきた。
その間に米村は布団をたたみ、カーテンを開けて、日を部屋の中に通した。そして、茶を飲んで、昨日会った婦人の顔を思い出そうとしたが、夜の暗闇だっさいか、はたまた歳のせいかうまく思い出せなかった。
「向こうも同じだといいが」
そう呟きながら自分の老いに言い訳を見つけようとした。
あやめといると自分が年寄りである実感と若返ったような錯覚が毎日のようにやってきており、それは米村にとっては良いことであると思っていた。
そして窓が風によって少し揺れた。
・
「もう一度、紅葉が見たいです」
あやめは朝食を後にした時にそう言った。
米村にとってはまた行くのかと言う気持ちであるが、あやめにとっては最後にもう一度昨日見た光景を目に焼き付けたいのであろうと思われた。
そして、その時のあやめの目の美しさに魅入られた米村はあやめの手を引いた。
「いいよ、最後にもう一度見に行こう」
昨日とは違い、快晴であり、旅館から石段街までも坂を歩き、そこから石段を登るためか、あやめは汗を掻きながら上がっていた。
「大丈夫かい?」
「ええ、少し厚着し過ぎたかもしれません」
あやめは着ていたコートをハタハタと仰ぐようにし、外風を浴びるようにした。
河鹿橋が見えてきた頃、あやめは小さな歓声を上げた。
空の色と紅葉と河鹿橋の赤色の撫でるように注いだ色使いにその美しさに似合った声を知らず知らずに出してしまった。
晴れの日は曇りの人は違う。極楽浄土に似たものであると感じた。
「昨日と違いますね」
「そうだね」
「二度来て、違う感動を感じられるって素敵なことです」
あやめは米村の方を向かず、紅葉を見ながら独り言のように言った。
米村は自分がこの場に三回来ていることはやはり知らなかったと思った。
上を見ると数えられるくらいの葉がひらりゆらりと舞っていた。
米村が上を向いていたのに気づき、あやめも同じように上を向いた。米村はその時に、あやめの細い首筋が目に入った。
これは紅葉のための画用紙であるとあやめを思った。
いや、むしろ紅葉が画用紙なのかもしれないと思い直し、再び二人で目上に咲く紅葉を見上げた。
橋の上に立ち、川の音を聞きながら目の中にはせめぎ合う数色の紅葉。左には緑の葉右には薄く淡い赤。そして風が少しだけ吹いてきたのか、葉が舞うことが増えてきた。
「戻りましょうか。正二さん」
「うん、そうだね」
帰り際に米村はもう一度、目に焼き付けようと振り返った。
紅葉は大きい林檎のようにも見え、よく見ると桜桃のようにも見えた。
帰り道に、舞う葉に紛れて、滝の幻覚が米村の目を襲った。
そして神社の近づいた際、後ろを向き、榛名富士の方を見た。
すると榛名富士と思っていた小山の奥に更にもう一つ似たような山が今日は姿を見せていた。
「あやめ、手前側と奥の方、どちらが、榛名富士かな?」
「どちらでしょう?」
せっかく、風呂に入っている時に聞いたのにと米村は笑いながら思い出した。
榛名富士は可愛らしさを思わせた。