伊香保話
紅葉はあやめの背後に映り、少し離れた所で米村はあやめに声を掛けたが、川の音にあやめは何も聞こえないようであった。
米村が何か言っているのに気づくと、あやめは米村の方へ寄ってきた。
「あやめ、もうすぐ河鹿橋だろ?」
「ええ、そうだと思います」
石段街は人がごった返ししていたが、そこを右に言った先は人がまばらになっていた。
坂道は米村に辛かったが、あやめはそんな米村を気遣いながら歩いて行った。
河鹿橋が近くに来ると人が段々と増えて行った。川の音は先程よりも大きくなっていた。
橋の周りには紅葉が屋根のように広がり、橋の真ん中に来ると、川と温泉が流れていた。
今年は暑い日が多かったため、まだ紅葉は見頃ではないらしく緑がまだ生き生きと輝いていた。
あやめは米村が橋の段差に躓かないか心配でいた矢先、目の前にいた男女二人組の女性が躓き、男性が女性を支えていた。
私達はこうは行かないとあやめは笑みを隠しながら思った。
「紅葉が奥の方まで広がっているね」
「ええ、朱色に赤、緑。鮮やかではないですが、それでもこの景色を見られると寒さを少しでも和らぐことができます」
あやめは実際に寒さを和らいで一瞬でもそのことを忘れていた。寒さは暖かくなった訳ではないもののそれは涼しさに変わった。
米村の肩に頬が当たりそうになり、触れてはないが米村の体温を感じ取った。
人の声の喧騒は川の音に僅かに負けそうであった。
こんな景色を見ながらも人々の話すことは自分達現実的な身近な話であり、あやめ自身も心の底で現実的なことを思っていた。
決して自分自身を忘れることはできないのだとあやめは思った。
米村を心配しつつも米村は自分の事を心配しており、そのやんわりとした暖かみはこの景色よりも寒さを忘れさせるものであった。
人々は自分達をどう見るであろう。祖父と孫か、それとも歳の離れた親子か、決して夫婦には見えないだろう。
あやめ自身はお見合いをして結婚をする時はこれを金のためだと思っていた。だが、米村の優しさを知り、彼を好いていくようになった。そしてそれが日に日に愛しているように変わって行っているのを自分でもわかっていた。
米村のそばに立ちながら紅葉の舞台を見せてもらっていることにほとほとと幸せに思えなければならないと思っていた。
紅葉も見頃ではない上に何故か晴れが多い秋であるのに二人が伊香保を訪れる二日間だけ天気は曇りになるというあやめが自身の性質であると思っている運の悪さがここでも当たってしまったが、あやめは想像していた太陽に当たって輝く紅葉は見れなかったものの、その美しさの真髄は目に映し感じ取った。
その帰り道に銀杏が落ちているのを見て、そこで紅葉の匂いがあやめを彩った。
「あれは榛名富士でしょうか?」
ふと目に入った榛名富士の頂のようなものを差した。
「ああ、どうだろう。しかし、似ているな可愛らしさがそっくりだ」
あやめにはその可愛らしさという表現がいまいち理解できず、米村は困った表情を浮かべた。
「本物の富士よりもちんまりとこまりとしていてね。私は富士山の子供のように思えたんだ」
その言葉に恥ずかしさは見られず、あやめはその言葉通りの意味を想像した。
「古臭い表現だったね」
「いえ、でも正二さんらしいです」
「それはありがとう」
あやめには米村の言葉が皮肉ではないとわかっていた。
石段街には街灯がつき始める前に旅館へと戻った。石段街から少し歩く場所であるが、部屋の窓からは赤城の景色が一望できるため、二人に不満はなかった。
米村はあやめと別れ、風呂へと向かった。
米村は温泉では常に最初の数分のみ、大浴場に浸かりそれ以降は全て露天風呂に向かうのが習慣になっていた。
例え、雨が降っていようと小雨くらいであるならば米村は構わず露天風呂へと入るのである。
露天風呂に浸かる頃にはもう外は暗くなっており、淡い灯りの色がぼんやりと輝き、湯気が黄色に染まりながら天へ登って行く様子を米村は温泉に浸かりながらじっと眺めていた。
黄金の湯はその灯りのせいか、いつも以上に金色のようになっている。
人々の風呂での話し声も近くにある湯口にかき消され、米村の耳には湯が流れる音と小さな耳鳴りが鳴り響いていた。
そしてその音は外の暗闇に吸い込まれて行くかのように遠く次々と消えていった。
米村が湯から上がった時、子供が米村の近くを通り、滑って転びかけた。米村は慌てて、子供の体を押さえて事なきを得た。
父親は米村に頭を下げ、米村は気にしないでと言い、恥ずかしくなってこの場を去った。そして脱衣所で子供の白い体が今になって頭の中でまじまじと浮かび上がった。
若き結晶だと思った。そして自分の皺だらけの悲しい身体を見て、記憶の中にある子供の頃の自分の体を思い出したが、現在と遜色なく、自分は昔からあの子供の体とは違うのだと思ってしまった。
そして部屋へ戻ってもあやめはおらず、まだ温泉に浸かっているのかと思い、米村はこっそりと外へ出た。
急ぎ足で石段街を目指し歩いたため、息は上がり、石段街を目の前にした所では呼吸も危うい所まできてしまった。
その時に、近くにいた四十代くらいの女性が米村の側により、心配をしてくれた。
「大丈夫です。少し急いでいたもので」
「あまり急がれてはまた息が上がってしまいます、
石段街を上がるよでしたら私も上がるつもりでいたので、一緒に行きましょうか?」
米村は女性に申し訳なく思い、断ろうと思ったのだが、それすらも気が引けて、女性の顔をついまじまじと見つめてしまった。
「そうしてもらえると助かります」
そして米村は名前も知らない女性と一緒に石段街を上がって行った。
女性に心配をかけまいと、息を上がるたびに休憩をしながら上がっていたが、それでもなんとか、そのうちにいつもの調子を取り戻し、昼間と同じ道を辿った。
米村の目的は河鹿橋であった。伊香保神社に着くと、さらに奥地の方は進んでいった。
伊香保神社の先は坂道であるが、緩やかな方であり、この暗い中を進んでいく恐ろしさが楽しくもあった。
河鹿橋まで来たが、昼間のような紅葉は夜の暗闇に隠れ、その姿は想像でしか補えなかった。しかし、そこに確かに彩る紅葉は一吹きの風によってその囀った音が確かに秋の紅葉を知らせてくれた。
「確かにこれは美しい」
米村はそう言い、女性と顔を合わし、二人して笑ってしまった。
女性とは石段街を出て行くと別れ、米村は旅館までは一人で帰って行った。
部屋に着くとあやめが座っていて、一人で茶を飲んでいた。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
あやめは特に言及することはなかったが、おかえりなさいという言葉に出掛けていたことがバレていると米村は思った。
あやめの縛った髪は背中に垂れたように下がり、着飾ってない姿は細君そのものであった。
「お茶を淹れますね」
「ありがとう」
あやめはそれからも何も言わず、米村は胸を震えさせながら眠るまで過ごすことになった。まるでそれは子供の悪戯を母が知りつつも敢えて何も言わない様子とよく似ていた。
部屋を暗くし、布団の暖かみを感じながら、あやめの方を向くと彼女はもう眠りにつき、小さないびきをかいていた。
そして米村は天井をじっと見つめ、十分程すると米村も眠りについた。