エメラルドブルーの雨
「ねえ兄さん、南の海に行ってみたい」
「なんでまた? 唐突だな」
「エメラルドブルーの海に降り注ぐ雨は――――きっとエメラルド色じゃないかって私思うの。だから直接この目で確かめてみたい」
「そうか、じゃあちゃんと病気を治さないとな。俺もバイトして旅費を貯めておくからさ」
「うん、そう――――だね、私頑張るよ」
翠は俺が中学に上がるころ再婚した父親の相手の連れ子、つまり俺の義妹だ。同じ歳だけど俺の方が半年誕生日が早い。
初めて会った時、翠は学校を休みがちで引っ込み思案な子だった。日本人にしては珍しい翠色の瞳が好奇の目に晒されることが多かったからだ。
でも俺は翠のそんな瞳がとても綺麗だと思った。だから言ったんだ――――
「翠の瞳はとても綺麗だと思うよ。ずっと見ていたいし……」
「……本当? 本当にそう思うの?」
「ああ、だから翠が妹になってくれて嬉しい」
「私もっ!! 私も嬉しい」
それから翠は学校を休むことも無くなって、その代わり――――いつも俺の背中について回るようになった。おかげで学校では散々からかわれたし、思春期に突入した俺にとっては色々と大変だったけど、それは決して嫌なわけじゃなくて――――
俺と翠が高校に進学した一年の夏――――夫婦水入らずでと送り出した旅行先で両親が事故死した。
きっと翠がいなければ俺は耐えられなかったし、翠も俺がいたことで少しは支えになったはずだと思っている。残された俺たちにとって唯一の家族である互いの存在はかけがえのないものだったんだ。
高二の夏――――翠が倒れた。
原因不明の病気であまり期待はしないで欲しいと医者は言った。
「東城、大丈夫か?」
「大丈夫に見えますか先生?」
「いや……すまない、力になるから何でも相談しなさい」
本格的な受験勉強が始まる。生活のためにバイトもしなければならない。
絶望したって泣きたくなったって現実は変わらない。
どうせ変わらないのなら違う現実が良かった。
隣で翠が笑ってくれさえすれば――――他のことなんて全部差し出したって構わないのに。
「頼む……あいつを翠を助けてくれよ神さま」
毎日神社にお参りした。俺に出来ることはなんだってやってやる。
こんなクソみたいな人生大嫌いだ。
でも翠に出会わせてくれたこの世界を嫌いにはなりきれない。
「翠、ほらコレ!!」
「なにそれ? アイスの棒?」
「正解。当たったらもう一本貰えるヤツだな」
「ああ、ペロペロ君、兄さん大好きだったよね昔から」
「へへ、すごいだろ? だからこれをお前にやる。俺の強運を分けてやる」
「……兄さんってどっちかといえば滅茶苦茶運が悪かったような……」
「っ!? だ、だからこそこの当たり棒は効果抜群っていうかだな――――」
「ありがとう――――兄さん」
ゆっくりと伸ばした指は――――当たり棒に触れることなく空を切る。
俺は翠の手を取ってそっと棒を握らせてやる。
「東城さん、もう時間ですよ」
「あ、すみません、あと五分だけ――――あと五分だけお願いします」
「もう……わかりました。五分だけですよ?」
「いつもありがとうございます」
本当はずっと側に居てやりたい。
くそ……くそっ!! 俺は――――無力だ。
たったひとりの家族なのに――――兄なのに何もしてあげられない。
勉強している間も、バイトしている間も翠のことが心配で頭がおかしくなりそうになる。
「東城さん、ちょっとお話よろしいですか?」
ある日、担当医から呼び出された。大切な話――――か。
降り出した雨は――――灰色だった。
南の海はエメラルドブルーに輝いている。
まだ誰もいない早朝の浜辺で、雲一つない青空を苦々しく見上げる。梅雨だというのに翠が見たいと言った雨は降る気配すらない。
俺は――――この世界が大嫌いだ。
こんなに綺麗なのにとても残酷で――――天国のようにあたたかいと思えば極寒の嵐に襲われる。
俺はただそんな気まぐれになすすべもなく振り回される木の葉にすぎないのかもしれない。
「翠――――雨、降りそうにないぞ」
雨は透明、そんなことはわかっている。でも翠の目から見た世界は違うのかもしれない。
あの――――綺麗な――――翠色の瞳に映る雨はきっとエメラルド色に違いないと思うから。
「本当に――――つくづく自分が嫌になる」
ひとりで海を満喫する気にはとてもならない。早々に宿泊しているホテルへと引き上げる。
「ただいま」
「お帰りなさい――――兄さん」
ゆっくりと上体を起こす翠。
俺はこの世界が大嫌いだ。
絶望させておいて気まぐれに奇跡を起こしたりするから――――
翠は回復した。
病気になったのも原因不明なら治ったのも原因不明とか――――はっきり言ってふざけんなとは思ったが、翠が生きていてくれるなら何でも良かった。
さすがにまだ無理は出来ないけれど――――こうして二人で旅行出来るくらいには元気になった。
「雨――――降りそう?」
「いいや、無理っぽい」
「兄さん晴れ男だもんね」
おかしくてたまらない様子の翠。
「ごめんな、せっかく楽しみにしていたのにさ」
翠がこの日のためにどれほど頑張って準備をしていたのか知っているからこそ申し訳ない気分になる。
「うーん、たしかに雨を見たい気持ちもあるけどね――――私が楽しみにしていたのは兄さんとこうして二人きりで旅行できるからだよ」
「……翠」
いつもとは違う翠の表情に思わずドキッとしてしまう。
「だから――――楽しい旅行にしようね、玉樹」
ベッドから手招きする義妹に顔が熱くなる。
「ちょ、ちょっとたんま、五分だけ時間をくれ、心の準備が――――」
「え~? 私そんなに待てないかも」
「だ、だってさ、そんな急に――――」
「……ヘタレ兄さん」
「う、うるせぇ!!」