#6
台風一過の日曜日。昨日の台風は予報通り非常に強く、学校も休校になった。昨日のぶんは来週の土曜日に回されるそうだ。本来ならば来週は第四土曜日で休みなので、なんだかもったいない気がする。
今日はすっきりと晴れており、父は会社の片付けに、姉は買い物に出かけていた。皐月は自転車に乗って、霞のいる神社に急ぐ。道端には植木鉢の破片や倒れた看板が散乱しており、昨日の台風の強さを察することができた。
「あ。おーい、キサ君、キサくーん」
小学校の横を通り過ぎた時、深雪の声がしたので、自転車を停める。小学校の西門から、剣道着姿の深雪が出てきた。彼女はテレビゲームやカードゲームといった、やけに男子っぽい趣味をしているため、ボーイッシュな外見も併せて、千歳ほどではないが気安く話せる仲だ。
「どーしたの。急いでるみたいだね。寝癖そのままじゃん」
「うっさい、これは元々。白雪さんこそ、何してるのさ」
皐月は若干癖毛気味である。別に気にしている訳ではないが、急いでいる状況での軽口だ。少しきつく返してしまう。
「ん、剣道の練習。もうすぐ試合だからさ、大変なんだよー」
深雪が面倒くさそうに頭をかく。地域の剣道クラブの練習なのだろう。練習という割にはのんびりとしているが、まだ始まっていないのだろうか。
「あ、昨日の台風凄かったよね! ホントにもう、風も雨も凄くて、テンション上がらなかった?」
深雪のテンションが上がってきた。彼女はこうなると話が長い。こちらは急いでいるので、どうにか切り上げられないか。
「まぁ、ちょっとはワクワクしたけど……」
実際のところは心配してばかりだったが。弥生からも不審に思われた。
こちらは急いでいるのに、深雪はまだ話し足りないようだ。どうにかして話を切り上げられないものか。
「みゆきちー、そろそろ防具着けないと、練習始まっちゃうよー」
と思ったら天の助け。体育館の入り口から深雪のクラブ仲間らしい少女が顔を出した。
「あ、今行くー。それじゃ、今から練習だから。また明日ねっ」
「うん、練習がんばって」
「はーい、りょうかーい」
結構な時間を取られてしまった。深雪と別れ、再び走り出す。
霞のほこらの麓に自転車を停め、階段を上っていく。足下がぬかるんでいて、なんだか歩きにくいが、それでも普段よりも早く階段を上れた。一息もつかずに扉を開ける。
「霞さんっ!!」
乱暴に扉を開けると、そこには横になった霞がいた。皐月の言葉で、彼女は上体を起こす。ほこらの天井には穴が開いていて、そこから日光が差し込んでいた。
「……皐月……?」
霞はやや疲れた表情をしているものの傷はない。一安心だ。
「この前、来ないでって言われたけど……、心配だったから、来ちゃった……」
少し息を整える。
「……心配?」
「うん。来たのは謝るよ。だけど、昨日の台風、凄かったから……」
霞が俯いたので、表情がよく読みとれない。怒っているのかわからない。沈黙が一番怖かった。
「でも、よかった。大丈夫そうだよね……」
「……ではない」
霞の小さな声。
「大丈夫ではない……」
霞が顔を上げた瞬間、皐月は霞に押し倒されていた。背中が少し痛んだが、それ以上にびっくりして、そして胸が高鳴っている。
「か、霞さん……?」
「ようやく、ようやくそなたのことを諦められると思っておったのに……。なぜ来たのじゃ……ッ!!」
霞の声は悲しそうだった。諦められる、ということは、先日の言葉はやはり嘘だったのか。
「なんでって……心配だったからって、さっき……」
「それが駄目なのじゃ!! そなたのその心遣いが、わしを駄目にしてゆくのじゃ……」
霞の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「わしは、皐月がいないと駄目になってしもうた……。そなたが優しゅうしてくれるから、わしはそなたに甘えてしまう……」
そんな理由で先日の言葉が出てきたのだろうか。甘えられるのは嫌じゃない。そもそも、霞が甘えてきているという認識もなかった。
「気付いたら、そなたの声が聞きとうて、そなたの姿が見とうてたまらなくなっておった……。一人にしないと言うてくれたときは、本当に嬉しかった……。わしにそんなことを言うてくれたのは、そなただけじゃからな」
霞の声が少しずつ柔らかくなってきた。落ち着いてきたのだろうか。だけど、肩に感じている霞の重みは変わらない。
「しかし、そなたはこれからの人間なのじゃ。友人関係を捨ててまで、わしに付き合ってくれなくともよい。そう思ったから、無理をしてでもそなたを遠ざけたというのに……」
霞の目が据わった。そして、肩にかけられている霞の手に力が込められる。
「……わしは皐月のことが好きじゃ。しかし、わしは蛇女。そなたは人間。……そなたは手に入らぬ。ならば、いっそ……」
霞の手にさらに力が込められる。痛いほどの力。それは「好き」という言葉をかき消した。
「……壊してでも、手に入れる……」
霞の牙が見えた。壊してでもって、ひょっとして――。
食べる。
そういうことなのだろうか。
不思議と恐怖は感じない。最初に会ったときは本気で怖がっていたが、今は違う。
霞になら、別に食べられてもいい。こうなってしまったのも、彼女に余計なことをした自分が悪いのだから。
だけど、今すぐに食べられたくはない。彼女には伝えたいことがあるから。
自分の偽りのない気持ち。それを伝えておきたい。
「……オレを、食べるの?」
霞が頷いた。
「……別にいいよ。オレは、友達のためなら、別にケガの一つや二つ、惜しくないから。……それが霞さんのためなら、余計にだよ。霞さんの笑顔が見られるんなら、オレ、何だってできると思う」
昨日の間、ずっと考えていた言葉。嘘偽りのない、本心からの言葉。
「……皐月?」
この返答は予想外だったのか、霞の言葉には困惑が混じっていた。
「だけど、一つだけ約束して。『絶対に後悔しない』って。霞さんの笑顔のために食べられるのに、それで後悔されちゃ、オレの立場がないから」
言葉がスラスラと出てくる。不思議と落ち着いている。
「あ、あと頭からバリバリ食べるっていうのも止めてほしいな。……できるだけ痛くしないでね?」
霞を安心させようと、少しだけ笑う。彼女がどんな返事をするかはわからない、だけど、どんな返事をするにしても、続く言葉はもう考えている。
「……そのようなこと、無理に決まっとる……」
霞の手に込められている力が弱くなったと思ったら、彼女は皐月の胸に顔を埋めてきた。
「絶対に後悔する……。皐月がいない世界で、笑えるはずがない……。わしにそこまでの覚悟はない……ッ」
霞の声は涙混じりで、背中が少し震えている。そして、すすり泣くような声がした。どうすればいいかわからなかったが、そっと背中を撫でてあげる。食べるというのは一時の気の迷いだったようだ。一安心するとともに、そこまで追い込まれていた霞が可哀想に思える。その償いのためにも、自分の気持ちを正直に言おう。
「……じゃあ、食べないでね。大丈夫。オレには霞さんを一人になんかできない理由があるから、聞いてくれる?」
霞が顔を上げて、頷いた。瞳からは涙が流れている。霞の泣き顔は見たくない。
本当に伝えたかったことがある。シミュレーションとは違う状況だが、この言葉を言わないことには帰れない。少し目を閉じて、唾を飲み込む。
「……オレは、霞さんのことが、好きだから」
「……さつ、き……?」
背中を撫でていた手に力を込める。霞を抱き締めているような形。彼女の耳元で、はっきりと言う。
「聞こえなかった? オレは、如月皐月は、霞さんのことが、好き。好き。大好きだよ」
「……ぅ、ぁ……」
霞が離れたがっているようだったので、手を離す。すると、霞は少し後ろに下がった。押し倒されている状況ではなくなって、皐月は自由になる。起き上がったとたん、恥ずかしさが押し寄せてきた。
どうにか言い切った。冷静になってみれば、よくあんなことが言えたものだ。
「……な、何を言っておる……。わしは、こんな体じゃぞ……」
「そんなの関係ないよ。オレは、霞さんそのものが好きなんだ。霞さんが蛇女でも、普通の人間でも、関係ないよ。霞さんがどんな姿をしてても、オレは霞さんを好きになったと思う」
霞は震えていて、顔は真っ赤だった。それがどんな感情によるものなのか、今はわからない。
だけど、伝えたかったことは全部言えた。これでどんな結果が出たとしても、後悔はしないと思う。
なんだか恥ずかしくなってきたので、霞の返事を待つ間、そわそわと指先を遊ばせる。
「……皐月」
「ん?」
「……じっとしておれ。良いな?」
「……うん」
おそらく次の行動が、皐月の告白への返答になるのだろう。皐月は思わず息を飲む。
どんなことになっても、後悔はしない。昨日のうちにそう覚悟を決めていたし、さっきまでもそう思っていたが、今は凄く緊張している。
霞はこちらへ這い寄ってくると、少しずつ皐月に巻き付いていく。突然のことに驚く皐月だったが、霞の動きが止まるまでじっとしていることにした。
「……わしも……」
胸まで完全に巻き付かれ、身動きがとれなくなった。しかし、霞の体温や鼓動がすぐ傍に感じられる。なんだか霞に包まれているようで、凄く安心できた。霞の鱗はひんやりしていて、背中側はすべすべと、腹側は少しざらざらとしていた。
「皐月のことが、好きじゃ。……本当に、好いておるッ……!!」
霞が皐月の頭を抱いて、胸に埋める。霞の胸は着物越しでも柔らかくて、高鳴っている鼓動が聞こえた。
なんだか凄くぼーっとする。それでも幸せで、ずっとこのままでいたかった。
「……皐月、手、良いか?」
そう思っていた矢先、霞が皐月の上半身を解放する。手を繋ぎたそうにしていたので、そっと両手を繋ぐ。
「……皐月」
「……霞さん」
霞が目を閉じたので、皐月も目を閉じる。
そして二人はそのまま、どちらからともなく、そっと影を重ねた。
霞の唇も、繋いだ指先も、震えていた。それは自分も同じことだ。
なんだか体が熱くなって、頭の芯がぼーっとしてきて、何も考えられなくなって――。
二人はずっと、影を重ね続けていた。