#3
二日後。霞は皐月を待っていた。
昨日は一日中雨が降っていたが、今日はすっきりと晴れている。昨日は雨だったせいか、皐月は来ず、久々に静かで、そして少し寂しい一日だった。
今日は何を話すのだろうか。一昨日のように菓子を持ってきてくれるのだろうか。昼のサイレンはもう鳴った。早く来ないものか。
霞はそわそわとほこらの中を這い回る。皐月の声を聞くのは楽しい。そして、皐月の笑顔を見ることはとても嬉しい。彼と話すのは一日のうちほんの数時間だが、それでも構わない。その数時間が一番楽しい時間なのだから。
皐月は自分の孤独を癒してくれた。彼と話したのはほんの二日間だが、こんな体の自分に親しく接してくれている。他人からこんな対応をされたのは、何十年ぶりのことだ。
来てくれるかどうかわからない人間に依存しつつある。
よくない状況だと思う。だけど、楽しいのだ。幸せなのだ。
たとえ今だけの幸福だとしても、それを楽しむだけ楽しまねば。再びこんなことが起こるのは、何年先になるかわからないのだから。
皐月が来るのをそわそわしながら待っていると、ノック音がした。
「かーすーみーさんっ」
皐月は霞の名前を呼びながらノックをする。昨日は雨だったので、ずっと家にいた。一人で過ごす午後は二日ぶりのことだったが、なんだかとても寂しく思えた。
霞と話すのは楽しい。友人とも、家族とも違った楽しさである。正直、年上の女性とは少し話しづらい―皐月は弥生の友人から人気がある―のだが、霞とは話しやすい。霞が世間知らずだからか、それとも蛇女という異形だからか。
そんなことを考えていると、頭の中がごちゃごちゃしてきて、考えがうまくまとまらない。考えるのはまた後にしよう。
「……皐月か?」
「うん。遊びに来たよ」
「うむ、入るがよいぞ。待っておった」
霞の声は嬉しそうだ。来てよかったという気にさせてくれる。
扉を開けて、中に入る。霞の笑顔を見ると、なんだかとてもほっとする。
「昨日は凄い雨だったね」
「うむ。ここは雨漏りがひどくてのう。隅のほうで小さくなっておったわ」
「へー、そうなんだ」
天井をちらりと見てみると、確かに心許ない感じだ。雨漏りもしそうである。
「あ、そうだ。これ差し入れ」
一昨日と同じ駄菓子を出す。
「おお、すまぬな。えっと、たこ焼き味、かの。あれが一番じゃのう」
「だと思って、多めに買ってきたよ」
霞は嬉しそうにスナック菓子を口に運ぶ。こういうところは少し子供っぽいと思う。霞が嬉しそうにしてくれていると、なんだかこちらも嬉しくなる。
「うむ、美味い。いや、ありがとうな」
「どういたしまして」
「ところで皐月、聞こうと思っておったことがあるのじゃが……」
「ん?」
「皐月は、恋人などおるのか?」
「はい!?」
いきなりの質問で、皐月は思わず吹き出した。
「きゅ、急に何聞いてくるの!?」
「いや、わしとて女じゃ。他人の色恋沙汰は気になってのう」
霞がくすくすと笑った。話す義理などないように思えるが、楽しそうな霞の表情を見ていると、このまま流すのはまずい気がする。どうせ霞に話したところでどこにも広がらないんだし、昔のことなら話してもいいだろう。
「……べ、別に、今はいないよ」
「む、なんじゃ。つまらぬ……いや、今は、と言ったか?」
「……うん」
「今は、ということは、昔はいたのじゃな?」
「まぁ、仲がいい子ならいたよ。恋人とは言えないと思うけど」
昔のことを思い出すと、ちょっと恥ずかしくなってきた。霞は前のめりになって、話の続きを促している。
「オレが小さい頃に、近所に引っ越してきた子なんだけど」
「ふむふむ」
「なんていうか、ちょっと気が弱くて、引っ込み思案な子だったんだ。いっつもおどおどしてたから、周りの子からいじめられてたっていうか、からかわれてたっていうか。まぁよく泣いてたんだ」
霞に話しているのは、千歳のことである。彼女と知り合ったのは三歳の頃。その当時のことはぼんやりとしか覚えていないが、彼女とはよく遊んでいたことははっきりと覚えている。
「で、一緒に遊んでたんだけど、いくつかな、小二の頃だから、七歳かな。その子が引っ越すことになって。その時に『好き』って言われたかな」
「ほほう……。うむ、なんとも微笑ましいのう。続きはあるのか?」
実はその時に、勢いでキスなんかしていたのだが、恥ずかしいし面倒だし、そのことは黙っておこう。ともあれ、霞はニヤニヤと笑っている。
「ちょっとの間、文通してたけど、それっきりだよ。おしまい」
「うむ、面白かったぞ」
霞は満足そうに頷いた。弥生もこの手の話が大好きなのだが、女性というのはそういうものなのだろうか。
「しかし、今は恋人はおらぬのか?」
「さっきも言ったじゃん。いないよ。女子と遊ぶこともほとんどないし」
皐月は十二歳。ほんの少し前まで、女子と遊ぶのはなんだか気恥ずかしかった。今はそうでもない。現に霞とはこうして普通に話している。彼女が蛇女だから、というのもありそうな気もするが。
「うーむ、せっかく可愛い顔立ちをしておるのに、勿体無いのう」
「はっ!?」
霞のいきなりの言葉に、皐月は少しむせる。皐月のことを「可愛い」なんて言ってくるのは弥生の友人ばかりであり、それもからかい半分にだ。だから、皐月は「可愛い」という反応にいい印象を抱いていない。
もっとも、皐月本人が気付いていないだけで、彼の顔立ちは美形の部類に入る。弥生の友人や、皐月の同級生の間では好評なのだ。特に弥生には「弟を譲って」という話が結構来ていたりする。
閑話休題。
ちょっとムッときたことが顔に出てしまったのか、霞がきょとんとした表情を浮かべている。
「どうかしたのか?」
「別に……。可愛いとか、あんまり言わないでよ」
そもそも「可愛い」というのは女子や子供に対しての反応であり、男子に対しての反応ではない。男としての自覚が芽生えてきている皐月にとっては、そういう認識だった。
「どうしてじゃ? 可愛いものを可愛いと言って、なにがおかしい?」
皐月のテンションを「照れ」と誤解した霞の口調は明るいままだった。それはなんだか、凄く癇に障った。
「もうっ!! うっさいなぁっ!!」
自分で思っていたよりも大きな声に強い口調。霞は一瞬だけ呆気にとられると、すぐに慌てだした。
「あ、い、いや、悪気はなかったのじゃ。わしは、その……」
なんだか予想よりも大事になってしまったが、今まで何度かからかってきた霞への意趣返しに、あえて無視を決め込んでみる。慌てている霞を見るのも、少し面白い気がする。
「……ぁの……」
霞の声は少しずつ小さくなり、しまいには聞こえなくなった。重苦しい雰囲気が場を包む。
「……そうじゃな。わしに人の気持ちなど、理解できるはずがないからな」
霞が自嘲気味に呟いた。
対応を誤り、皐月は内心慌てていた。沈んでいる霞を見ても、ちっとも面白くない。むしろ、こちらまで悲しい気分になってくる。謝るというか、許すタイミングを逃してしまった。怒りはどこかへ消え失せているが、今更何を話せばいいかわからない。
沈黙。
何か話題はないか、皐月は窓の外を見てみる。空にはどんよりとした雲が広がりだしていた。一雨きそうである。
「……え、えっと、雨、降りそうだね」
「……そ、そうじゃな」
二人の会話はどこかぎこちなかった。
「だ、だから、その、雨降る前に、今日はこの辺で帰るね」
皐月は打開策を探ろうとしていたが、口はそう答えていた。
この場から逃げようとしている自分が情けなくなってきた。とはいえ、霞が引き留めてくれれば、帰るのはやめるだろう。そうすれば、もう少し話せるのに。誤解を解けるのに。
「う、うむ。気をつけてな」
だが、霞の返事は望み通りにいかなかった。向こうも似たような心境なのか、顔と声が沈んでいる。
帰ると言って、引き留められなかったから、ここにいる理由はなくなってしまった。皐月はしばらく逡巡した後、ほこらを出た。階段にさしかかったところで、一つのことに気が付く。
また明日、と言えなかった。明日、花火を一緒に見るつもりだったのに。
だけど、今から戻ったところで、また明日など言えるはずがない。それを言えるぐらいなら、霞のことを許している。
胸にわだかまりを残したまま、皐月は家路を辿った。
「……ただいま」
家に帰ると、弥生は昨日と同じようにゲームの最中だった。
「おかえり。どうしたの、元気ないじゃない」
皐月の声が沈んでいたのに気が付いたのか、弥生はゲームを止める。
「……友達とケンカして」
「仲直りできなかったの?」
「……うん」
喧嘩というか、こちらが一方的に怒ってしまっただけなのだが。
「謝ろうと思ったけど、言える雰囲気じゃなくて……」
「……あー。若いねぇ、青春だわ」
弥生の声はいつもよりも真面目に聞こえた。彼女はしばらく考え込むと、思い立ったかのように財布から千円札を取り出した。
「はい、さっちゃん」
「……え?」
「お小遣い。明日、一緒に花火でも見なさいよ」
弥生の行動がいまいち理解できていない皐月を後目に、弥生は言葉を続ける。
「一日経てば、お互い案外ケロッとするものよ。それに、話しにくいんだったら、花火をダシに使えるじゃない。あんまり気にすることないわよ。その子とは友達なんでしょ? ケンカの一つぐらいするし、向こうだって謝りたいと思ってるわよ」
確かに、弥生が言っていることは一理ある。霞も謝りたそうにしていたが、結局はこちらが逃げ出してしまった。花火についてぽつぽつと話していけば、さっきのことを謝れる雰囲気になるかもしれない。
「……これ、いいの?」
「別にいいわよ。明日はお父さんもビアガーデンでいないから、アンタさえ追い出せば友達と騒げるしね。その手間賃と考えれば安いもんよ。……た・だ・し! ちゃんと仲直りしなさいよ?」
弥生はにこりと笑うと、ゲームを再会した。なんだかんだ言いつつ、彼女は皐月のことを心配してくれている。普段は不平ばかり抱いてしまうが、こういうときは素直に感謝できる。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「……その、ありがと」
「なぁに、水臭いわね。さっちゃんの恋人候補のためだもん! お姉ちゃんも張り切るわよ」
恋人候補。
その言葉に、皐月は一瞬どきりとする。脳裏に浮かんだのは寂しそうにしている霞の顔。
違う違う、霞は友達。そんなのじゃない。
皐月は聞こえなかったふりをする。そして、弥生への感謝の気持ちも込めて、言われる前に風呂掃除に取りかかるのだった。