#2
翌日。
皐月は昼食を終えると、外に出る準備を始めた。
いつもなら昼下がりはグダグダな時間を過ごすのであるが、今日は違う。霞との約束があるからだ。
戸締まりをした後、自転車に乗って、昨日と同じルートで霞のいるほこらに向かう。ふと、道端に駄菓子屋が見えた。せっかくだから、手土産に何か買っていこう。
皐月は駄菓子屋に入ると、駄菓子を百円分購入する。近所の小学生のたまり場になっているらしく、低学年の子供がたくさんいた。
駄菓子の入った袋を自転車の籠に入れて、再び走り出す。風があるせいか、今日は昨日と比べれば少しは涼しい。道の左右は一面の緑で、稲の葉が揺れていた。
そうこうしているうちに霞のいるほこらの麓に着いた。自転車を路肩に停めて、階段を上がる。
上りきったところで一息ついて、皐月は扉をノックした。
「霞さん、いるー?」
「……その声は、皐月か?」
「うん。……入っていい?」
「……うむ。構わぬ」
霞の了解が取れたので、扉をそっと開ける。中には昨日と変わらぬ格好の霞がいた。
「霞さん、こんちは」
「いやはや、本当に来るとはのう」
霞が苦笑を浮かべた。ひょっとして迷惑だったのだろうか。
「だって、昨日約束したでしょ。約束は守んなきゃ」
「……そうじゃな。すまぬ、てっきり来ぬものと思っておった」
霞が頭を下げた。なんだか居心地が悪くなり、とりあえず霞の前に座る。
また来る。霞はそんな社交辞令を何度もされたのだろう。その度に待って、すっぽかされ続けてきたのだろう。だから、あまり期待しないように、最初から「もう来ないもの」と決めてかかっていたのだろう。
だから、昨日の約束を霞が信じてくれていなかったことは、別に気にならない。
「いいから。それに、オレ、霞さんと話したかったし」
今言ったことは本心である。人恋しいというか、なんというか。それがゆえに、なんだかとても恥ずかしかった。
皐月の気持ちはともかく、今の言葉で霞は顔を上げて、笑顔を浮かべる。さっきまでの苦笑いではなく、本当の笑顔。彼女の表情から察するに、迷惑ではなかったようだ。ホッと一安心。
「そうだ、差し入れ持ってきたよ。駄菓子だけど」
皐月は駄菓子の入ったビニール袋を取り出すと、中身を床に開ける。駄菓子特有の派手なパッケージは、霞の目を奪うのにちょうどよかった。
「こ、これが菓子か?」
「そうだよ。とりあえず、オレの好きなやつばっかりだけど」
怪訝そうな目で駄菓子を見ている霞の姿から、一つの疑問が浮かんできた。
ここに一人でいるのなら、食事はどうしているのだろうか。
「そういえば霞さん、ご飯はどうしてるの?」
「うん? まぁ、食ったり食わなかったりじゃのう。ここしばらくは食っておらぬな」
「え、そうなんだ。お腹空いてないの?」
「まぁ、物を食わずとも生きていける体じゃ。別になんともないよ」
「へ?」
食べなくても生きていける。それってどういうことなのだろうか。
その思索が顔に出ていたのか、霞がくすくすと笑う。
「ふふ、そうじゃな。何のことかわからぬじゃろう。わしは元々人間だったのじゃ。ちゃんと二本の足が生えたな」
「ええっ!?」
衝撃の事実。目をぱちくりさせている皐月の表情が面白いのか、霞はもう一度くすくすと笑った。
「何年前のことかは忘れてしもうたのう。まぁ遠い昔の話じゃ。その頃のわしは、自分で言うのもなんじゃが、まぁもてておった」
皐月は人間の姿をした霞を想像してみる。それはとても綺麗で、もてるのも無理はないと思う。皐月も霞を最初に見たときは、どこかのお姫様かと思ったぐらいだ。
霞は今の自分を卑下しているような口調だったが、今の霞だって上半身は凄く綺麗だと思う。何せ、猫のような瞳以外は人間と全く変わらないのだ。少なくとも、皐月が生で見てきた女性の中では一番綺麗だと思う。
「まぁ、もてておったと言うても、恋人になるまではいかんかった。あの頃は面食いじゃったからのう。すると、わしは神様に言い寄られた。神様に言い寄られるなど、光栄なことではないか。わしはその誘いに頷いたよ」
これだけ綺麗なだけに、恋人がいなかったというのは少し意外だ。
「しかし、わしに言い寄ってきた神様に惚れておった神様に逆恨みされてしもうてのう。ある朝、気がついたらこんな姿になっておった。それっきり、歳も取らぬし腹も空かん。色々なところをふらふらしながら悠々自適に暮らしておったよ。ここには随分と長いこと住んでおるがの。まぁ、人のままでいるよりも、随分と気楽な生活を送っておるよ」
ふと、昼下がりにやっているメロドラマを思い出した。人間関係は霞の話よりも複雑だったが。
「……その神様とは?」
「音沙汰なしじゃな。薄情な話じゃが、まぁそんなものじゃ。何せこんな体じゃ。蓼食う虫も好き好きとはいえ、好き好む奴はおらぬじゃろうよ」
霞が笑った。その笑みには自嘲が感じられる。確かに霞は異形だが、そこまで忌み嫌われるものだろうか。皐月はそこが少し引っかかった。
「最近、わしに会いに来るのは肝試し目的の者ばかりじゃ。まぁ、そういう輩はお望み通り驚かせてやるのじゃがな」
霞は尻尾を指差しながら、今度は悪戯っぽく笑う。肝試しで霞を見れば、間違いなく腰を抜かすと思う皐月だった。何せ、予備知識のない初対面のときは気絶してしまったのだ。
あのとき気絶してしまったのは霞に悪いと思う。自分に言い寄ってきた神様には捨てられ、異形の体になり、ずっと独りぼっち。自分と会った者は皆怖がってしまう。
自分がそんな状況に置かれてしまったら、間違いなく耐えられそうにない。霞はこうして笑っているが、本当は凄く寂しかったんじゃないのか。
「……いかんいかん、湿っぽいことを話してしもうた。せっかく持ってきてくれたのじゃ。呼ばれるとしようかのう」
霞の口調は少し慌てていた。どうやら難しい顔を浮かべていたようだ。気を遣わせてしまったのかも。少し反省。
「あ、うん。オレが好きなやつばっかだけど」
皐月が買ってきたのは、棒状のスナック菓子を数本に、味付け梅、バラ売りの飴玉を数個。割と無難なチョイスだと思う。
「ふ、ふむ。初めて食べるのう……」
霞はおそるおそるスナック菓子に手を伸ばした。この菓子には味が何種類もあり、今回買ってきたのは「たこ焼き味」に「チーズ味」、「めんたい味」の三種類だ。皐月はチーズ味が一番美味しいと思っている。
「では、これをもらうぞ?」
「うん、どーぞ」
霞はたこ焼き味―ほとんどソース味だが―を手に取った。手に取ったのはいいが、開け方がよくわからないのか、固まってしまっている。
「あ、こうやって開ければいいよ」
皐月はチーズ味を手に取り、袋を縦に引き裂いて開けてみせる。この手の袋も見たことがないとは、世間と離れて長いようだ。食事を取らなくても大丈夫と言っていたが、本当に長い間何も食べていないのかもしれない。
霞は皐月の見よう見まねで袋を開けると、ひとしきり形を眺めたり匂いを嗅いだりした後、観念したかのようにかぶりついた。
「どう? おいしい?」
皐月の菓子ランキングでは、このスナック菓子のたこ焼き味とチーズ味は十傑に入る。一つ十円と、コストパフォーマンスが異常に高いことも含め、好きな菓子なのだ。
「……知らぬ味じゃ。食感も何やら妙な感じじゃし……」
霞がもう一口かじる。
「じゃが、気に入った。町にはこのような美味いものがあるのじゃな」
霞は気に入ってくれたようだ。外さなくて一安心。
「有り難うな、皐月」
霞の笑顔とお礼。それはとても可愛く見えて、見ていると恥ずかしくなってきて。
「べ、別にいいよ。これ安いし、オレも好きだし。気に入ったんなら、他のも食べてみる?」
皐月は恥ずかしさを隠すように饒舌になり、他の味を勧める。
「では、もう一つもらおうか」
急に饒舌になった皐月の様子が面白かったのか、霞はくすりと笑うと、別の味のスナック菓子を手に取った。
「ではな、皐月」
「うん。また来るよ」
皐月は霞に手を振ると、ゴミの入ったビニール袋を持って階段を降りていく。
あの後は菓子を食べながら少し雑談を交わした。内容は皐月の身の周りのこと。主に弥生への愚痴だ。彼女は人使いが荒く、ちょっとした用事なら皐月を使う。特にちょっとした買い物のほとんどは皐月の仕事である。まぁ、弥生は家事全般を請け負っているので、文句は言えないのだが。皐月がやっているのは朝食の洗い物と風呂掃除ぐらいのものだ。
ほとんど皐月が喋っているだけだったが、霞は楽しそうに話を聞いてくれていた。他人の声を聞くということが珍しいからだろうか。あれだけ楽しそうにしてくれていると、明日も足を運ぼうという気にさせてくれる。
自転車に乗って、家路を辿る。駄菓子屋の軒先にゴミ箱があったので、ゴミ袋を捨てる。小学校の時計台を見てみると、十五時過ぎ。少し時間に余裕があるから、少し遠回りして、来た道とは違う道を回ってみよう。団地は周りよりも高い建物だから、迷っても大事にはならないだろう。小学校の東側から脇道に入ってみる。
細い路地を抜けると、学校が見えてきた。下校している生徒がぽつぽつと見える。今は夏休みなのに制服を着ている。部活帰りなんだろうか。生徒の身なりから察するに、どうやら高校のようだ。学校の向かいにはそこそこ大きな神社がある。
見つけたものは高校と神社。特に収穫はなし。ここから団地の方に向かってみることにしよう。国道沿いを走ってみると、スーパーや大きなバス停があった。道を渡るべく適当な信号で自転車を停めると、隣に誰か来た。自分と同じぐらいの年頃の少女だ。
思い出した。昨日にちょっとだけ顔を合わせた、隣の部屋に入っている千代田千歳だ。皐月が忘れていた幼馴染。千歳も皐月に気付いたようで、チラチラとこちらを窺っている。昔は引っ込み思案だったが、どうやら直っていないようだ。
無視するのも悪い気がする。覚悟を決めて、声をかけてみよう。
「……あの、ひょっとして、『ちーちゃん』?」
「!! ……うん、そうだよ。『さっちゃん』」
ちーちゃんと、さっちゃん。昔呼び合っていた愛称だ。会話が続かず、なんだか気まずくなって、互いに視線を逸らす。
そうこうしているうちに信号が変わり、通りゃんせのメロディーが流れてきた。少し話しただけに、自分だけ自転車というのはどうかと思い、自転車を降りて押して歩くことにした。
千歳と一緒に歩いているが、特に会話もない。なんだかとっても気まずい。
彼女の手元を見てみると、スーパーの袋があった。お使いの帰りなのだろうか。袋はそこまで大きくないが、会話の種にはなるかもしれない。
「ちーちゃん」
「はいっ!?」
何気なく声をかけると、千歳は凄く驚いた。彼女の様子に、皐月は少し苦笑する。
「荷物、持とうか? 籠あるから」
「……え、いいの?」
「別にいいよ。そんなに重くなるわけじゃないし」
「じゃ、じゃあ、お願いしていいかな?」
千歳がおずおずと袋を自転車の籠に入れる。やっぱり中身はそんなに入っていない。
「……あ、さっちゃん、こっちのほうが近道だよ」
千歳が足を止める。その方向を見てみれば、商店街のアーケードが続いていた。
「あ、そうなんだ」
千歳と共にアーケードに入る。屋根があるうえに店の空調が漏れているのか、中はひんやりとしていた。
「……えっと、昨日はごめん。ちーちゃんだってこと、お姉ちゃんに言われてから初めて気がついた」
「う、ううん、別にいいよ! それに、言わなかった私も悪いんだし! それに私、苗字変わってるから、気付かないよ、普通」
千歳は「大丈夫だよ」と言わんばかりに手を振る。本当に気にしていないのならいいのだが。
「学校、キレイなの?」
「うん。西高田小よりもだいぶキレイだよ」
西高田小は二人が以前通っていた小学校である。三年生まで校舎が分かれており、低学年校舎はボロボロだったのだが、皐月が四年生になったとたんに建て替えられて綺麗になって、損した気分になったことを覚えている。なんにせよ、学校は外見通り綺麗なようだ。一安心。
「あ、三年生までの校舎はキレイになったよ。オレが四年になったとたんに」
「え、そうなんだ。あはは、ついてないね」
だいぶ会話が進んできた。千歳は引っ込み思案だが、こちらから話しかけると少し饒舌になる。昔と変わっていない。なぜか一安心。
「馬場先生、まだいる?」
「うん。ババアって呼んでもあんまり怒らなくなったなぁ」
馬場先生とは、以前二人の担任だった女性だ。高齢のため、男子は名前にひっかけて「ババア」というあだ名をつけていた。
「えー、前は怖かったのに」
「歳取ったからじゃないかな?」
話していると、アーケードを抜けた。むっとした熱気が押し寄せてくる。団地が大きくなってきた。もうすぐだ。
「そういえば、金曜日は花火大会があるよ」
「花火大会?」
金曜日といえば、三日後である。予定は何も入っていなかった。
「うん。そこの辛木川で」
「へー。そうなんだ」
「私は友達と行くんだけど、さっちゃんも行く?」
「……友達って、女子でしょ?」
「うん」
「やだよ。どうして知らない女子と花火見なきゃなんないのさ」
千歳以外全員知らない女子ばかりとか、完全にアウェイだ。気まずいに決まっている。
「あはは、それもそうだね」
皐月は断ると思っていたらしく、千歳は笑った。どうやら彼女なりの冗談だったようだ。
団地に着いた。籠から千歳の荷物を取り出して、持って上がる。
「あ、さっちゃん、もういいよ?」
「いいよ、あと少しだし」
ここで渡すのも格好悪い。千歳の荷物を持って、階段を上っていく。
皐月と千歳の部屋があるのは五階。最初は物凄く疲れたが、今では少し慣れた。
「じゃ、ちーちゃん、学校でよろしく」
五階に着いたので、荷物を千歳に渡す。彼女はそれを照れつつも受け取った。
「うん。同じ組になれるといいね」
「うん。じゃ、バイバイ」
「バイバイ」
千歳は手を振って、部屋の中に入った。その姿を見届けると、皐月も部屋のドアノブを捻る。鍵は開いていた。弥生が帰ってきたのだろう。
「ただいまー」
「おかえり。早速だけど、ケチャップ買ってきてくれる? きらしてたの忘れてた」
「えー。ちょっと休憩ぐらいさせてよ」
「はいはい」
弥生は居間でゲームをしていた。そんな暇があるなら自分で買いに行けばいいのに、と思うが、下手に口ごたえすると何倍にもなって返ってくるので、胸の内に秘めておく。ケチャップ代の小銭をもらい、弥生の横に座る。
「あ、さっきちーちゃんに会ったんだけど」
「お。気付いてなかったこと、ちゃんと謝った?」
「謝ったよ。それで、金曜日はそこの辛木川で花火大会だって」
「へー、そうなんだ。ちーちゃんはどうするの?」
「友達と行くんだって」
この後の言葉は想像がつく。
「え、一緒に行かないの?」
やっぱり。
「行くわけないだろ。周り知らない女子ばっかとか、無理に決まってるよ」
「はー。これだから君って奴は。周りが女の子ばっかとか、どう考えてもハーレムじゃん」
「何がハーレムだよ、バーカ」
「チャンスを逃すあんたのほうがバカよ」
「はいはい。で、お姉ちゃんはどうするの?」
「どうしよっかな。明日部活で話は振ってみるけどね。ま、辛木川でやるんなら、そこのベランダで見れそうよね」
「あ、そういえば」
この団地のベランダはあつらえたように辛木川のほうを向いている。辛木川までは歩きで十分程度とかなり近いので、結構見応えがありそうだ。
「さっちゃんは? ひょっとして、昨日話してた女の子と?」
「さぁね。じゃ、ちょっと行ってくる」
皐月は会話を無理矢理終わらせると、再び外に出た。
辛木川で花火をやるんなら、霞のいるところからでも見えるだろう。一緒に見るのもいいかもしれない。それに、焼きそばやフランクフルトといった出店の食べ物を持っていけば、また喜んでくれるだろう。
そんなことを考えると、なんだか楽しくなってきた皐月だった。