#1
夏休みも残り半月を切った、とある日の昼下がり。
その少年、如月皐月は居間で気だるく寝返りをうつ。ここは公営団地の五階と風通しはよく、部屋の窓は全開、扇風機もつけているが、彼に吹いてくるのは生温い風だけ。今年の残暑はなかなか厳しい。一人のときはエアコンを使うなと姉からきつく言われているので、蒸し暑くても我慢である。
父の転職に伴い、車で一時間ほど離れた町に引っ越してきて、もうすぐ一週間。高校生の姉は今日も部活に行っている。引っ越しても校区は変わらないので、自転車通学からバス通学に切り替えただけだ。前の友達とのつながりを保てるのだから、姉が羨ましい。
皐月はまだ小学六年生であり、その行動範囲はお世辞にも広いとは言えない。引っ越したおかげで、前の友達とのつながりはすっかり絶たれてしまった。かといってこちらで友達を作ろうにも、外に出る気が起きないから困ったものだ。友達は学校に通い始めてから作ろう。そんな自堕落な考え。
何もやる気が起きない。今日の分の宿題は終わらせているし、主にやっているテレビゲームも、昨日一周目をクリアしてしまったので、そこまでやりたいとは思わない。やり込み要素は多いようだが、それはまた今度。今日は本当にやる気が出ない。
皐月の耳に入ってくるのは、扇風機のモーター音と、テレビでやっているドラマの音。それに、窓の外から聞こえてくる遊び声。
なんだか凄く寂しくなってきた。
このままじゃいけない。なんだかダメになってしまいそうな気がする。
せっかくだから、二学期から通うことになる小学校へのルート確認も兼ねて、周囲を散策してみることにしよう。
そうと決めれば早く動かないと。ぐずぐずしているとやる気を無くしてしまう。皐月は麦茶をペットボトルに注ぐと、タオルを巻き付けて保温し、小さな鞄に突っ込んだ。戸締まりを済ませて、外に出る。やはりというか、外も蒸し暑い。
外に出てみると、隣の部屋からも一人の少女が出てきた。自分と同じぐらいの年頃に見える。なんだか大人しそうな子だが、なかなか可愛い。お隣さんだし、せっかくだから挨拶しておこう。
「あ、こんにちは」
「……こ、こんにちはっ」
皐月が挨拶すると、少女はぎこちなく返し、そそくさと階段を降りていってしまった。あの慌て方から察するに、人見知りなんだろうか。表札を確認してみると、千代田、と書かれている。引っ越しの時の挨拶は父しかやっていなかったので、一緒にやっておけばよかったと今更ながら思う皐月であった。
ともあれ、皐月は自転車で走り出した。
ここ辛木市は、以前住んでいた月野町よりもだいぶ栄えている。まぁ、栄えているといっても、人口四万人ほどの地方都市なのだが。ともかく、二十四時間営業のコンビニエンスストアなど、月野町にはなかった。月野町にあったのは、二十二時に閉まる「コンビニ」という名前の店だ。
細い路地を抜け、国道を渡って、コンビニエンスストアを通り過ぎると、二学期から通うことになる、市立辛木小学校が見えてきた。歩きだと二十分ほどだろうか。予想よりも近くて、少しホッとする皐月だった。
外から見た感じでは、まだ新しく見え、なかなか立派な校舎だ。以前通っていた小学校はボロボロだっただけに、あと半年しか通わないといっても、なんだか嬉しかった。
夏休みの昼下がりなだけあって、学校のプールでは何人か水遊びをしている。羨ましく思いつつも、そこはスルー。球技は人並みにしかできないが、泳ぐのと走るのは得意で、学年でも上位だった。
学校の場所はよくわかったが、せっかくだからもう少し走ってみることにしよう。
山のほうに走っていくにつれ、住宅は少しずつ減っていき、道の周りには田園風景が広がってきた。国道のバイパスを渡って、もう少し走ってみると、路面に傾斜がついてきた。どうやら山に入る道のようだ。道が貧弱になっているのがよくわかる。
かれこれ三十分ほどは走っただろうか。これ以上進むと迷いそうだ。そろそろ引き返すとしよう。
Uターンすべく、適当な場所で立ち止まったときだった。道の左手に階段らしき道が見えた。
木で作られた粗末な階段で、地面と同化している場所も少なくない。階段の先を見てみるも、階段は長く、頂上は見えない。
階段の先はどうなっているのか気になってきた。せっかくだから、上るだけ上ってみよう。
皐月は自転車を路肩に寄せて鍵をかけると、階段を上り始めた。
「ふう……」
予想通り階段は結構な段数があり、頂上についた時には息が上がっていた。なんというか、体がなまったような気がする。
頂上には、粗末な木造の建物があった。家というよりは、ほこらに見える。草刈り程度はされているようだが、建物は所々が朽ちていて、長い間放っておかれていたようだ。
一息ついて振り返ってみると、頂上からの眺めはよくて、自分の住んでいた団地どころか、近所の川まで見える。吹いてくる風も涼しくて、しばらくゆっくりしたくなった。鞄からペットボトルを取り出し、麦茶を少し飲む。少し休むべく、ほこらの入口にある階段に座ると、木がきしむ音がした。
「お、久々の客じゃな」
女の声がした。突然の声に、皐月は驚き、立ち上がる。周囲を確認してみるも、誰もいない。だが、空耳にしてははっきりと聞こえた。
「ふふ、こっちじゃ、こっち」
女の声は、ほこらの中から聞こえてくる。皐月は振り返って、ほこらの扉を見てみると、鍵はかかっておらず、ただ閉まっているだけだ。
思わず息を飲んだ。普通の人がこんなところにいるとは到底思えない。だが、女の声はどこか気になった。なぜかはわからないが、心に引っかかるような声。怖いもの見たさも手伝って、皐月はほこらの扉をそっと開けた。
ほこらの中は薄暗い。光源といえば窓からうっすらと射し込んでいる光だけだ。
「ほほう、子供か」
中にいたのは妙齢の女性。それもかなりの美人だった。前髪が揃った黒髪は肩よりも長く、目鼻立ちは鋭い。女優という感じではなく、お姫様と言ったほうが的確な感じがする、どこか古風な美しさだ。着ているのは小豆色の着物で、蜻蛉のような模様が入っている。そして、全体的に細身な体つきでありながら、胸元はしっかりと膨らんでいる。
……って、ドコ見てるんだ、オレ。
皐月は顔を赤くしながら顔を振る。
「他人と会うのは久しぶりじゃのう。そなた、名はなんと?」
女性の口調はどこか変だ。まるで時代劇のお姫様みたいな。それに、こんなに綺麗な人なのに、どうしてこんなところにいるんだろう。
皐月はいくつかの疑問を抱くも、問いかけぐらいには応じてもいいだろう。
「オレの名前? ……如月皐月だけど」
「皐月か。変わった名じゃのう」
「五月生まれだから」
我ながらそのままの名前だと思う。姉は三月生まれだから弥生なんて名前だし、親のネーミングセンスには疑問が残る。
「まぁよい。わしは霞じゃ。皐月、せっかくじゃ。今日はわしの話し相手になってくれぬか?」
「へ?」
「久々に他人と会うたのじゃ。人恋しゅうてのう」
霞は無邪気な笑みを浮かべた。彼女にはいくつか疑問があるが、話し相手ぐらいにはなってもいいだろう。どうせ帰ってもやることはないんだから。
「……うん、いいけど」
「では、もそっと近う寄ると良いぞ」
手招きしている霞に近寄ってみる。近寄ってみて改めて思ったことだが、彼女は本当に綺麗だ。皐月は少々どぎまぎしながらも、とりあえず座ろうと思い、足下に視線をやる。すると、若草色をした蛇の尻尾が見えた。それもそこらの茂みにいるような大きさではなく、人の胴体ほどの太さがあり、長さもかなりのものだ。動物園で見た大蛇よりも大きい。それが、霞の足下でとぐろを巻いている。
「……わっ!? 霞さん、そこ、凄くおっきな蛇がいるよ!!」
蛇は苦手ではないが、さすがにここまで大きいと驚いてしまう。
「うん? 蛇とはこれのことか?」
「そう、それだよ! 大丈夫? 危なくない?」
慌てている皐月を後目に、霞は悠々と立ち上がった。その表情には笑みすら浮かんでいる。
「ふふ、これはのう……」
立ち上がった、という表現は少々的を得ていないかもしれない。
なぜなら――。
「これは、わしの足じゃよ」
霞はくすくすと笑いながら、着物の裾を少しはだけた。本来ならば脚がある部分に肌色は見えず、代わりに光沢のある鱗が見えた。つるんとした、蛇の体。
そう、先程霞の足下に見えた蛇の体である。それが、霞の体につながっていた。
霞のことを簡単に言い表すなら、蛇女。
人とは違う、異形のモノ。
「うわああああっ!?」
いきなりの事態に、皐月は思わず後ずさる。腰が抜けてしまったのか、なかなか立ち上がれない。
「お、お、お化け……」
ようやくその一言を絞り出す。
「むう、このような美人を捕まえてお化けはないじゃろうに」
霞は少し寂しそうな表情を浮かべた後、皐月の元に這い寄ってきた。皐月の震えている顎に人差し指を当て、にっと笑う。本来ならば八重歯がある場所には、八重歯よりもやや大きい、牙と呼んだ方が的確な歯が生えていた。
「ぁ……ぅ」
このタイミングで牙を見せてくるなんて、ひょっとしてこのまま食べるつもりなんだろうか。テレビで見た大蛇みたく、丸飲みに。
そのことを考えると、震えてしまって声が出ない。
霞の真っ赤な唇は余計に恐ろしくて、次第に目の前が暗くなっていった。
「……おお、起きたか……」
目を開けると、そこには心配そうな表情を浮かべてこちらを覗き込んできている霞の姿があった。後頭部がひんやりするだけで、体はどこも痛くない。どうやら先程のことは冗談だったようだ。
起き上がろうとすると、霞が皐月の両肩を押さえてきた。
「気を失っておったのじゃ。もう少しゆっくりせい」
「気を失ってた?」
「そうじゃ。……ちと、驚かしすぎたかの。悪かった」
霞は申し訳なさそうに頭を掻いている。どうやら悪い人―人というのも変だが―ではなさそうだ。なんだか怖がったこちらのほうが悪い気がしてくる。
そういえば、お化けって言ったとき、霞は少し寂しそうな表情を浮かべていた。やはり、お化けと言われるのは嫌なんだろう。霞を傷付けてしまったのなら、謝ったほうがよさそうだ。
「……あの、霞さん」
「なんじゃ?」
「さっきはその、ごめんなさい。その、凄く、怖がったりなんかしちゃって。オレ、食べられちゃうのかな、なんて思ってた」
なんだか恥ずかしくて、霞の目が上手く見れない。すると、頭を撫でられている感触があった。
「……気にするでない。怖がられるのは慣れておるよ」
霞の声は優しかった。彼女のひんやりとした手が、皐月の癖毛混じりの髪の毛を撫でている。それは心地よかったけど、なんだかとても恥ずかしくて。
「な、撫でないでよ」
なんて強がって、顔を横に向ける。視界の端に、蛇の体が見えた。
そう、頭の下にあったひんやりとしたものの正体は、蛇の体。すなわち、霞の下半身。
霞の姿勢から察するに、今の状況は、膝枕。
「……~~ッ!?」
その状況を把握してから、一瞬で胸の鼓動が早まったのを感じた。
顔、多分赤くなってるだろうな。
「うん? どうかしたか?」
そんな皐月の様子を、霞は怪訝そうな眼差しで見つめている。
「う、うん、なんでもないよ、大丈夫」
大丈夫ということのアピールに、慌てながら手を振ってみる。
「随分と顔が赤いが……ははん」
やはり顔は赤くなっていたようだ。霞は悪戯っぽく、くすくすと笑う。
「さては膝枕に照れおったな?」
図星。
「え、えっと、そんなこと、その、ないよ?」
「隠さずともよい。顔に書いておるぞ。全く、初々しいのう」
霞はまだ笑っている。なんだかとても恥ずかしい。
そういえば、先程まで霞のことを怖がっていたのに、今は全然怖くない。胸がドキドキしているが、これは怖さじゃなくて、恥ずかしさだと思う。
「ぅ……」
「ははは、すまぬすまぬ」
返し方がよくわからず、むくれていると、霞は笑顔を浮かべたまま、少し頭を下げた。そして、自分の前を指差している。ここに座れということだろうか。とりあえず、霞の正面に座ってみる。
「久々に人と話して、少しはしゃぎすぎてしもうたのう。いや、面目ない」
「も、もういいよ。終わったことだし……」
皐月も先程のことは早く忘れてしまいたい。怖がって気絶してしまったのは情けないし、膝枕されたのは恥ずかしいし。
「それにしても、ここに来るとはな。そなた、この辺りの人間ではないな?」
「え? ……うん。一週間ぐらい前に引っ越してきたばっかだけど」
「成程、そうじゃろうな。この辺りの人間が一人でここに来るはずがないからのう」
「……それって、どういうこと?」
「まぁ、わしの体を見ればわかるじゃろう?」
「う、うん」
霞のことが怖いという感覚は完全に消え去っているが、それでも霞が異形のモノだということに変わりはない。霞本人は優しくないわけではないと思うが、それでも外見で損をしている部分は多いのだろう。
「わしは随分と前からここに住んでおったのじゃが、何せこの外見じゃ。気味悪がられてばかりでのう。わしとこうして話してくれていたのは、皐月のような子供ばかりじゃった」
確かに、大人なら霞を見た瞬間に帰ってしまいそうだ。子供のほうが本質を見ているということなのだろうか。もう十二歳になる皐月からすれば、子供扱いはされたくないのだが。
「じゃが、何年前かのう。ほら、戦争があったじゃろ?」
「戦争? ……五十年ぐらい前、かな」
戦争とは太平洋戦争のことだろう。それ以外に思い当たる節はない。数日前にテレビで特番をやっていたことを思い出した。毎年決まって同じアニメが流されて、毎年決まって同じ場面で姉弟揃って泣いてしまう。
というか、霞は年を取らないのだろうか。確かにそう言われても違和感はないが。
「もうそんなに経つのか。まぁよい。その頃ぐらいまでは、まだわしのところに通ってくれる者がおったのじゃがのう。じゃが、その者はいなくなってしもうた。おおかた、死んだんじゃろうな。それに、戦争が終わった後、ここらで人さらいがあってな」
「人さらい?」
「戦争が終わって、色々と騒がしかったからのう。昔はそう珍しいことでもなかったしな。とにかく、それがわしのせいにされてしもうてな。何でも、西洋には蛇女が子供をさらうという言い伝えがあるらしいからのう」
霞の表情は寂しそうだった。何か、嫌なことを思い出させてしまったのかもしれない。
「勿論、わしはやっておらぬよ。じゃが、否定するのも面倒でな。それっきり、ここに近付く者は肝試し目的の者ぐらいになってしもうた。親も子供が可愛いのじゃ。触らぬ神に祟りなしとも言うしのう」
霞は笑っているが、その笑顔はどこか寂しそうだった。嘘をついているようには見えない。
「……かわいそう、だね」
「まぁ、ここに来るのは肝試し目的の者ばかりじゃ。そういう輩は、望み通り驚かせてやっておるわ」
霞が尻尾を指差す。確かに、肝試しで霞と会えば、間違いなく逃げ帰ってしまいそうだ。
「じゃから、さっきも言うたが、他人とこうして正面から話すのは、実に久しぶりのことなのじゃ。そういう訳じゃから、先程調子に乗りすぎたことは許してくれぬか?」
「……別に、怒ってなんかないよ。オレだって、他人と久しぶりに話したりなんかしたら、はしゃいじゃいそうだもん」
怒ってなんかない。その一言で、霞の表情は無邪気に輝いた。やっぱり、皐月は彼女のことを悪人とは思えない。
決して悪人なんかじゃないのに、外見と事件のせいで誰も近寄らなくなる。来るのは恐がりに来る人だけ。もし自分がそんな状況に追い込まれたなら、到底耐えられそうにない。霞は笑っているが、先程までの笑顔には寂しさが混じっているように思えたし、本当は凄く寂しかったんじゃないのか。
そして、霞の状況は、話し相手が家族以外にいない自分の現状によく似ている。
話してみるとなんだか楽しかったし、せっかくだから――。
「……あの、霞さん」
「うん?」
「あの、よかったら、だけど。……明日も、来ていい?」
「明日も? ……別に構わぬが、どうしてじゃ?」
霞はきょとんとした表情を浮かべている。どうやら予想外の言葉だったようだ。
「どうしてって……。……その、家にいてもヒマだし」
「それだけか?」
「……ううん、それに……」
「それに?」
霞が続きの言葉を待っている。理由はもう一つあるが、それを言葉にするのはなんだかとても恥ずかしい。
やっぱり暇だからという理由にしておけばよかった。
いや、それだけだと、嫌々、もしくは同情だけで来るものと思われるのかもしれない。それは嫌だ。
確かに同情という気持ちはあるが、それは二の次三の次。
ええい、ままよ。
「……霞さんが、オレをからかってるとき。そのときは、凄く、楽しそうだった。だけど、昔の話をしてるとき。そのときは、なんだか、寂しそうだった。だから……」
「……だから?」
なんだか恥ずかしくて、霞の顔がうまく見れない。なんというか、上目遣いになってしまっている。
物凄くドキドキしてきた。絶対に顔、赤くなってるだろうな。
「……オレも、霞さんと話してると、ちょっと楽しかった。だから、その、霞さんの、話し相手に、なりたい。……そう、思ったから」
なんとか言い切った。ほんの少しの時間だっただろうが、皐月にしてみれば、何十分にも感じた。
顔を上げて、霞の反応を伺ってみると、皐月から目を逸らし、所在なさげに頬を掻いている。
「……なるほど。変わり者じゃの、そなたは」
「う……」
なんだか恥ずかしくなって、再び俯く。すると、ひんやりした感触が頬に伝わった。霞が皐月の頬を包むかのように、両手を両頬に添えている。上気した頬に、霞のひんやりとした手は心地よかった。
霞は皐月の顔を持ち上げ、目線を合わせる。彼女の瞳は金色で、薄暗いせいか、瞳孔が広がっていた。
「……じゃが、嬉しいぞ。例え気持ちだけであったとしても、な」
霞の声は優しげで、嬉しそうだった。彼女が喜んでくれたのなら、まずは一安心。
「き、気持ちなんかじゃないよ。約束する」
指切りをするつもりで、小指を出す。
霞は皐月の小指をしばらく見つめた後、少し嬉しそうな表情を浮かべ、小指を絡めてきた。彼女の指は細くてすべすべしていて、少しどきりとする。
「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーら、はーりせーんぼーん、のーますっ」
節に合わせて腕を上下させる。考えてみれば、指切りなど何年ぶりにしただろうか。少し懐かしい気分になる。
「ゆーびきったっ!」
皐月の合図で、二人は小指を離す。霞はしばらくの間、離した小指を見つめていた。
「……霞さん、どうかした?」
「……いいや、何もない。それよりも皐月、そろそろ帰らねば、家の者が心配するのではないか?」
「え? もうそんな時間?」
「細かい時間はわからぬが、昼から随分と時間が経っておるぞ。何せ、そなたは随分と長いこと気絶しておったからのう」
先程のことを思い出したのか、霞はくすくすと笑う。
昼がどうしてわかったのか少し疑問に思ったが、そういえば毎日正午にはサイレンが鳴っている。それで判別しているのかもしれない。
「……それじゃ、帰るよ。あと、今は怖くなんかないからさ」
誤解されたくはないので、一言付け加えておく。霞のことは、今では全く怖くないし、不気味でもない。外見こそ人間と異なるが、話してみると、中身は人間と変わらない。外見で人を判断するのはよくないことだ。
皐月は立ち上がり、ほこらの出口に向かった。
「……じゃあね。また、明日」
「……うむ。また、明日の」
皐月が手を振ると、霞も手を振り返した。
どこか、満たされたような表情で。
小学校の時計台で確認すると、時刻は四時を回っていた。団地に戻り、階段を上がる。家の鍵は開いていた。姉が帰ってきているのだろう。
「ただいまー」
中に入ると、まな板の上で何かを切っている音が聞こえた。
「おかえりー。どこ行ってたの?」
姉の弥生が帰ってきていて、夕食の準備を行っている。四歳年上の高校一年生だ。誕生日が三月三十一日で、早生まれになってしまうため、戸籍上では四月一日生まれになっている。髪型はショートボブで、容姿は中の上程度―身内補正で皐月は並だと思っているが―。
高校では合唱部に所属しており、熱心なのか、それともただ単に友人と会いたいだけなのか、ほとんど毎日部活に行っている。如月家は三年前に母親を亡くしており、当分の間は祖母が手を貸してくれていたが、引っ越した今では弥生一人で家事をやっている。母親は元々体が弱かったので、弥生は小さい頃から家事の手伝いをやってきていた。そのせいか、随分と慣れたものである。
「ん、ちょっとブラブラしてた」
流石に霞と会っていたとは言えない。今までの姉の言動を考えると余計にだ。
「へー、今まで引きこもりだったのに。友達できた?」
「引きこもりゆーな。友達は……まぁ、一応」
霞のことは友達と呼んでいいのだろうか。だが、それ以外に表現が見当たらなかった。
「お。おめでとー。男の子? それとも女の子?」
「……女の子だけど、別に……」
「女の子! よし、その話を詳しく」
弥生は夕食の準備を止めて、台所のテーブルに身を乗り出してくる。彼女は昔からこうだ。皐月と女友達との関係をやたら気にしてくる。女の子なんて言わなきゃよかった。
「別に、詳しく話すことなんかないよ」
「またまたー。あ、ひょっとして千歳ちゃん?」
「ちとせ?」
千歳という名前に心当たりはある。幼馴染だった少女だ。
「若宮千歳ちゃんよー。覚えてるでしょ?」
「……うん、まぁ」
若宮千歳。幼馴染で、かつて皐月と仲良しだった少女だ。千歳は今から四年ほど前に両親の離婚で母親方の実家に引っ越している。皐月にとっては、幼馴染のうえにファーストキスの相手だったりするので、顔はぼんやりと、名前ははっきりと覚えていた。彼女が引っ越してしばらくの間、文通なんかしていたが、じきに途絶えた。
「知らない? あの子、お母さんが再婚してね、苗字変わってるのよ」
「え、そうなの?」
「そ。千代田。……ここまで言えばわかるでしょ?」
千代田。その名字で、数時間前に出会った少女が脳裏に浮かぶ。
「……ひょっとして、お隣さん?」
「せいかーい」
なんてことだ。まさか仲良しだった幼なじみが隣にいるなんて。そしてついさっき会っていただなんて。
確かに千歳は大人しくて引っ込み思案で、人見知りがちな女の子だった。如月なんて姓は滅多にないから、向こうは気付いていたのだろう。だとすると、さっきの態度にも納得がいく。
自覚なしとはいえ、悪いことをしてしまった。今度会ったら謝っておこう。
「うわ、そうなんだ。……っていうか、知ってたんなら教えてくれてもいいじゃん」
「あたしだってつい最近知ったのよ。お父さんが忘れてて、教えてくれなかったから。それに、教えたところで今のさっちゃんは女の子と遊ばないでしょ」
「まぁね」
女子と遊ばなくなって随分と経つ。なぜ遊ばなくなったのか、今ではよくわからない。女と遊ぶのはみっともないという、変なプライドがあったように思える。そんな気持ちはだいぶなくなってきたが、女子と何の違和感もなく遊んでいた頃が懐かしい。
「でも、できた友達は女の子なんだ。怪しい。実に怪しい」
弥生はニヤニヤと笑いながら、肘で小突いてくる。これで返答していたらまた面倒だ。
「もう、別にいいだろ。ゲームしてくる」
話を無理矢理終わらせて、テレビが置いてある居間に向かう。弥生はぶつくさ言いつつ、夕飯の支度に戻った。
ゲーム機をテレビに繋いで、スイッチオン。コンポジットケーブルの調子が悪く、音は出るが映像が出ない。端子の下に挟んでいるティッシュペーパーの塊を調整し、なんとか音が出てきた。いい加減新品を買ってもらおう。
皐月は主にRPGをやっている。今回起動させたのも、昨日クリアしたゲームだ。セーブデータ画面が出てくると、三つあるセーブデータのうち、一つが消えていた。このゲームは家族三人でプレイしており、時間が有り余っている皐月が一番進んでいる。
「……あの、お姉ちゃん」
「なァーにー?」
「お姉ちゃんのデータだけ、消えてるけど」
このロムはどうやら外れらしく、何度もセーブデータが消えている。それは全て弥生のデータだった。
「……さっちゃん。あたしはあんたを殺さねばならないようね」
「何だよそれ!? 絶対オレのせいじゃないだろ!!」
その日の夕食は、皐月だけおかずが一品少なかった。
地名のモチーフは私が以前住んでいたF県の某市です。