蜩の章
よろしくお願いします。
「龍之助。僕は「人形遣い」になろうと思う」
そう兄から伝えられたのは夏の終わり、残暑の厳しい頃だった。兄・紺之助は十九歳、龍之助は九歳。龍之助は子供ながらも紺之助の言う意味を解っていた。
この優しい兄は人の道を外れる覚悟でいるのだと。
「……本当に?」
「本当だよ」
「村のため? 篁を捕まえるため? 稲葉だからなの」
「そうだよ」
「なら僕もそうする」
「それはだめだ」
「なんで」
「稲葉が無くなってしまう。お前に稲葉を継がせたい」
「継ぐのは嫌じゃないけど紺兄は嘘が下手だね」
「……嘘?」
「篁を捕まえたいんじゃなくて、雪之助の兄さんを取り戻したいんだ」
「……そうだとしても、同じことだよ」
「違うよ」
紺之助は黙った。龍之助は紺之助を困らせたいわけではなかった。駄々をこねているわけでもない。ただ、簡単に首を縦に振れるようなことではなかったし、したくもなかったのだ。
兄は幸薄い人であったと思う。龍之助を育て、稲葉を継ぎ、その人生のどこにも自分というものがない。紺之助はいつもどこか遠くを見て生きているようだった。毎年咲いては散る桜のように儚い。紺之助の視線の先に何があるのかそれは龍之助にはわからない。だがそれはおそらく――長兄に関係する。
龍之助は雪之助が嫌いだ。龍之助は生まれてからこの方自分の長兄を見たことはない。それは当然で、雪之助は龍之助が生まれる前に篁に連れ去られてしまったからだ。それを紺之助は己のせいだといい、その業を一人で抱えている。龍之助には詳しい経緯はわからなかったが、雪之助が勝手に魅入られただけで紺兄は悪くない、早く篁を捕まえられなかった雪之助や村の者達の責任だと勝手に思っている。そんなものだから、ともかく稲葉としての役割を果たせなかっただけでなく、弟の紺之助に「荷」を負わせた雪之助が嫌いなのだ。紺之助の憔悴を見て育った龍之助にとって雪之助は仇に近しい。その姿も声も知らないがともかく理屈ぬきで嫌いなのだ。自分にとって兄は紺之助ただ一人であり、その愛する兄を苦しめている雪之助が憎い。取り戻したところで魂は食われているからすぐにでも墓下へ埋めたい。そして紺之助を束縛している罪悪感から自由にさせてあげたい。そんな心地なのだ。
「もう決めたことだ……近いうちに天貝へ行ってくる。稲葉の家はすべてお前に譲る。面倒をかけることになるね。でも篁を捕まえる役目は僕がすべて担う。今もこれからも、ずっと。龍之助はこの村で静かに暮らしておくれ」
「……」
反対してももう紺之助の心は決まっている。動かすことはできない。できたとしたら、それは雪之助だけのような気がした。
紺之助が外法により人形遣いになったということはすぐ村中に知れ渡った。村長である墨染は上機嫌で稲葉の家を訪れ、紺之助の覚悟を褒めちぎった。
「稲葉の宿命に立ち向かうその姿は誠に見事。考えれば雪之助も憐れなものだが、このような弟がいるとわかれば捕らわれの身の上も救われるというものだ」
龍之助の両親は流行り病で死に、稲葉の家を十五歳の紺之助が継いだあと、そののち外法に手を出したことで家督は龍之助に譲られ、龍之助はわずか十歳で当主となった。もうその頃から紺之助は篁を追って村を空けることが多く、たまに帰ってくるとしばらく村に滞在して、また篁を追って去る――そんな日々だった。兄は一向に老けない。紺之助を出迎えるたびに龍之助は、
(ああ、いずれ自分は紺兄を越えてしまう)
そう痛感させられた。だから、長く生きようと思った。できるだけ長く、長く。ずっと、いつか紺之助が役目を終えるその時まで、その瞬間を笑顔で迎えられるように長く。この哀れな兄の帰るところを作っておかなくては。それは自分にしかできないことなのだから。
(篁が、早く足を変えてしまえばいいのに)
雪之助が役に立たなくなったらどこかで捨てるはず。そうすれば兄は村に――とどまるだろうか。
(雪之助なんて)
はやくくたばってしまえばいい。紺兄のために。
(……そうだ)
自分が雪之助を連れ戻せばよいのではないか。紺之助のようになれなくてもなにか篁に対抗できる強い力を得てさっさと雪之助を連れ戻す。そうすれば紺之助は村に居つくだろうし、もしかしたら普通の人の身に戻れるかもしれない。龍之助の考えは浅知恵ではあったが、兄を救いたい一心で次第にじわじわとその思いは育ちつつあった。
そんな矢先、龍之助は妙な話を耳にする。
龍之助は地元の中等学校を出たあと、稲葉家の主として村にとどまった。もう少し進学してもいいと思ったが稲葉としての役目もあったし、兄・紺之助をいつでも出迎える身でありたいと思ったからだ。天貝などは人形の商売のため、都会に出ることも多かったが村の多くの家は地元――篭目村を離れることはなかった。自然と村の外のことは天貝が仕入れてくることになる。天貝とそりの合わない墨染などはいい顔をしなかったが、東京の珍しい話などをねだって天貝の家には年ごろの子供が集まったりしていた。
「おや、龍之助君じゃないか」
天貝の主、天貝佳奈出が屋敷の縁側で煙草を吸っていたところ、龍之助の姿を認めて顔を上げた。周りには村の子供たちがこんにちわーと挨拶をしてくる。佳奈出の話を聞きに来たのだろう。
「君も何か聞きに来たのかね」
佳奈出は四十過ぎの洒落た男だった。子供が三人いるが、人の親と思えないほど何か浮世離れしている。といってもそういう人間が生まれてくるのが天貝という家の特徴だった。
「いえ……最近妙なことを聞いたので」
「妙?」
「篁や桜以外にも天貝は天児の傑作を持っていると」
佳奈出は煙草をくわえたまま意味ありげに龍之助を見、煙を吐き出して笑った。
「ああ、聞いたことがなかったのかい。君の家は早くに御両親が亡くなったしねぇ。伝え損ねたのかな。改めて君は若いながらも立派にやってるね。たいしたものだ。で、天児の作った傑作は確かに他にあるよ。でも貸し出し中なのさ」
「貸し出し? そんな大事なものを誰に貸してるっていうんです」
「まあ色々あってね。虞世に一体、貸してるのさ。天貝としては貸しているつもりだよ。虞世がどう思っているかはわからないがね。虞世に行けば見せてもらえるんじゃないかな」
「そんな簡単に? ……皆知っていることだったんですか。私は知らなかった」
「みんな、ということはないねえ。虞世をよく知っていないと。でもあの家には近寄らないほうがいいから。昔からそういわれている。だから知らなくてもいいんだよ。桜大夫だってうちしか知らない人形だったんだから。紺之助君はよくかぎつけたものだよ。龍之助君といい稲葉は好奇心が旺盛だね。若いからかね。そういえば雪之助君もそうだったな。珍奇な人柄だったしね」
「……」
歳をとるにつれて龍之助は篭目村が変わった村であることを認識し始めていた。小さく豆粒のように小さかった頃は稲葉と篭目村が世界のすべてであったし、そうなのだと思っていた。実際そうだったのだが、学校に行ったり中央の話を聞いたりするたび妙なところに生まれたものだと感じるようになった。村の外の人間に、兄は歳をとりませんなどと言っても信じないだろう。だがこの村では当たり前のことなのだ。
「あまり外のことに構ってはならんよ」
そう墨染が逐一触れ回っていたが、時代の波というのは大きければ大きいほど嫌でも末端まで届くというものだ。外の世界は目まぐるしくことが過ぎていくらしい。しかし篭目村に届いたのはさざ波程度で、学校へ行くようになったり税制が変わったり、少し隣の村とやり取りが多くなったその程度だった。
「虞世家にあるんですね」
「うん。いい人形だよ。篁や桜と違って華やかではないけれどね。なんというか、清いよ。邪なものを寄せ付けない。多分ね」
「霊験あらたかってことですか」
「うちに霊験あらたかな人形なんてないよ。化け物ばかりさ。でもそれでいい。人形は人の代わりだからね。人の代わりに妖でも鬼にでもなる。君はそいつになにか期待するものでもあるのかな」
「……別に。でも霊力のある人形なら、篁を捕まえるのに使えるんじゃないですか」
「ああ、なるほど。でもそれは無理だね。虞世が許さないよ」
「許さない?」
「まあ見に行ってみればわかるよ。君がその人形を使って篁を捕まえてやろうと思うならまず会わないとな」
――さてそんなわけで、龍之助は天児の傑作のひとつを借りているという虞世を訪れることにした。兄のために何かの力を得たいと考えていた龍之助は、天貝の言う人形が気になったのだ。しかし――母親は虞世の女だったが虞世についてはよく知らない。知っているのは女系の一族で、必ず女が生まれるということ。そしてその女たちは篭目村の家々に嫁ぐこと。たまに男が生まれると家業の蝋燭作りを手伝い、どこぞへ婿にやられること。長女は家督を継いで婿をもらい虞世の家を守る……篭目村のどの家にも虞世の血が混じっているという奇妙な一族なのだ。家は大層大きく、蝋燭作りの小屋もあってか、土地の広さは墨染の家に匹敵するだろう。村の端にありながら妙な存在感を示していたが、子供はともかく、男のみが近寄るのを良しとしない。村の男たちも虞世には遠慮しがちだ。それは古くから虞世には関わるなという掟があって、それにしたがっているからである。
虞世の女の多くは気性が荒く、普段はおとなしく良妻賢母としているが、時に火が付いたように癇癪を起こした。狐がついているのではないかと言われるほどだ。大抵は嫁いでからも実家である虞世の家に度々帰ることが多く、夫も承諾して息抜きをしている有様。龍之助の母は割とおとなしめで癇癪など見たことはなかったが、やはり実家に帰ることは多かったように思う。何せ昔のことだから、実家に帰って何をしていたかは知らない。
「こんにちは。稲葉の龍之助です」
玄関で声をあげるとしばらくしてガラガラと戸が開いた。
「おや稲葉の……どうしたかね」
出てきたのは虞世に婿入りした草二だった。もとは雨宮の三男で、虞世の家に入って結構な年月が立つ。夫婦の間に娘が三人、息子が二人。元気に育っていた。
「すみません、ちょっと。こちらに天児の人形があると聞いたもので」
「それなら確かにあるが、私には触れられない話だ……妻は今外に出ている。すぐに帰ってくるよ。中で待つといい」
「ありがとうございます」
客間に案内され、龍之助が待っていると草二が茶と茶菓子を持ってきた。
「大したものがなくてすまんね」
「いえ、突然すみません」
龍之助は礼をして茶碗に口をつけた。草二は笑みを浮かべながら、
「なんだか紺之助君に似てきたね。やはり兄弟だなあ」
「そうですか」
敬愛する兄に似ているというのは少しうれしい。
「今年で十七だろう。しっかりしたものだ。一人だと家のことが大変じゃないか」
「たいして。墨染さんから手伝いがよこされるし、料理をするのも楽しいですから」
「どっしりと構えているようでいいね。そこんとこは雪之助さんみたいだね」
長兄の名が出て、茶をすする手が止まった。口がへの字に曲がっている。
「似ていますか」
だとしたら嫌な話だ。
「もう昔のことだし私も幼かったからよく覚えているわけじゃないが、なかなかに不敵な人だったように思うよ。君は若いのに虞世にやってくるような度胸がある。そこらへんが似ていると思うね」
「……」
龍之助は黙って茶を飲みほした。
「あと何年かすれば君も嫁を貰って稲葉は安泰だね。あとは紺之助君が篁を連れかえれば君も安心だろう。紺之助君もこの村でゆっくり余生を送れる」
「私も兄には村で幸せに生きてほしいと思います」
「そうだよねえ。私はこの通りしがない婿の身。後悔してはいないが、毎日蝋燭を作っているとね、なんだかもっとほかの道もあったんじゃないかと思ってしまうことがある」
「蝋燭作りは退屈ですか」
「そうでもないよ。腕はまだまだだが面白い。ただ絵付けは妻や娘たちの仕事だもんで落ち着かない。君も知っている通り、私は元は雨宮の人間だ。何かを書いていないと気が収まらない。文字ではないが絵付けでもいいから筆を持ちたいのだがなかなかやらせてもらえなくてね」
「だめなんですか?」
「絵付けは女の仕事だそうだ。実際上手いからなんともいえない」
「はあ」
二人で話していると、玄関の戸を開ける音が聞こえた。足音が近づいてくる。
「あなた……あら」
「おかえり。待っていたんだ。お客様だよ」
「まあ、稲葉の方がどうしたのかしら」
長い髪を綺麗にまとめて編んで、田舎の村には珍しく少しあか抜けた雰囲気の女性――虞世二葉は艶めいた赤い唇を動かして言葉を紡いだ。
「龍之助さんお久しぶりね。同じ村なのに顔を合わせることも少なくて」
同じ村どころか血筋で言えば親戚同士なのだが、おもえば親戚づきあいというのは全くなかった。
「いいえ、あの」
「彼は「離れの人」に用があるそうだ」
「あら……」
二葉は不思議そうに口元を覆った。
「何かしら」
「いえ、その……天児の傑作がこちらにあると聞いてみて見たくなったんです。そんなの知らなかったから。駄目なら、出直します」
「いいのよ」
二葉はあっさりと了承した。
「あなたには桜大夫を持つお兄様がいる……桜大夫は「妹」ですもの、構いません」
案内しますわ。そういって二葉は歩き出した。草二はごゆっくり、と言って部屋を出ていってしまう。するすると歩いて行く二葉を、龍之助は慌てて追った。
複雑な廊下を進んでいくと、離れにべたべたと霊符が貼られた異様な部屋にたどり着いた。障子に匂いがしみ込んでいるのか、抹香臭い。
「こちらにおられますのが天児の傑作のひとつ、『天ツ狗伽羅』。あなたのお兄様たちが持つ蛍雪篁姫、傾城桜大夫の姉弟ともいえる人形……天児の人形を通せば稲葉は虞世と親戚ともいえますわね」
「実際に、親戚でしょう」
篭目村で虞世と血縁関係がない家はほとんどない。
「血の繋がりだけでは人は繋がりあえない。単に血が繋がっているだけならここには通せません」
二葉はニッと口の端を持ち上げて、
「あなたは「お姉さま」を持つ人の弟だから……会わせてあげてもよいのです」
そう言うと障子をすう、と明けた。
「お入りなさい」
「……失礼します」
二葉と共に中へ入ると障子がぴしゃりと閉められた。
――部屋はたくさんの赤い蝋燭の光で満たされ、少し蒸し暑い。八畳ほどの部屋の中、成人男子より少し上背のある――男の人形が立ったまま壁に飾られていた。その体にはたくさんの赤い糸がぐるぐると巻かれ、腕に足に絡まり、その先端は天井へと繋がっている。身体全体が上から赤い糸で吊るされているのだ。人形は修験者の格好をしていて目を閉じ、手に錫杖を持っている。その姿は歌舞伎の「勧進帳」の弁慶の姿をほうふつとさせた。顔はきりりとした男前の青年で、人形とは思えないほど人に近い顔をしている。少し前のめりの態勢で動かない。周りは銀で作られた花が飾られていて、橙色の蝋燭の明かりを乱反射してきらきらと輝き、焚かれた香から紫煙がゆるゆると立ち上る情景はまるで遠い極楽浄土のように思えた。
「これが」
天児の三作目――なのか。
「伽羅様です。無礼のないようにお願いしますね」
「伽羅……」
予備知識がなければ立ったまま眠っている青年に見える。これほど姿形が人間に近いとは思わなかった。表情は穏やかで平穏に満ちている。実を言えば龍之助は他の天児の傑作――篁を見たことはないし、紺之助が連れている桜の真の姿も知らない。彼女はいつも幼い娘の姿だからだ。天児の生人形に接するのはこれが初めてになる。ふと下を見ると伽羅の足元には食事の用意がされていた。供え物ではなく、一般的な昼餉と思われる。
「もうそろそろ夕餉の用意をしなくては」
二葉が献立に困っている新妻のようなため息をつく。
「食事を用意しているんですか」
龍之助は驚いた。まるで話に聞いた昔の篁姫のような扱いではないか。
「もちろんですとも。伽羅様は我々虞世の「夫」ですもの」
「えっ……」
「虞世の女はどこへ嫁ごうと皆、伽羅様の妻にございます……だからこそどこに行こうと虞世は虞世……」
ぶつぶつと二葉はつぶやきながら部屋の奥に入ってきて、置かれていた膳を持ち上げた。
「私は先に失礼しますわ」
決して触れてはなりませんよ。そういって部屋を出ていった。
「……」
淡い光の中で龍之助は目を閉じたままの伽羅をじっと見る。その視線を受け止めているのか、無視しているのか、何も感じていないのか。ピクリともしない。やはりただの人形――睨みつけるようにして様子をうかがっていた龍之助は息を吐いて頭を軽く振った。
(天児の、篁や桜が動くからといってこの人形まで動くわけじゃない)
龍之助は伽羅を一瞥すると外に出て、母屋に戻ると虞世の家を後にした。そういえば兄はどうやって桜大夫を自分の分身としたのだろうか。どうやったら桜大夫は動いたのか。想像がつかなかった。
「龍之助さん」
神社の境内を掃いていた龍之助は思わぬ人物に声をかけられた。
「五郎さん。どうかしましたか」
五郎は三十過ぎになる四方家の五男である。墨染の家に代々下働きとして出入りしている一族だ。他の家にも働きに出ている。昔のことなので身の上は詳しくは知らないが、今は家を構え独立しているとにかく古い家なのだという。五郎は陰気な顔が特徴の男だった。
「そのね……最近虞世の家に出入りしていると聞いたものだから」
「ああ……そのことですか」
あれから龍之助は度々伽羅を見に行くようになっていた。特に理由はなく気分だ……だがどこかで伽羅が動くのを期待していた。
「確かに訪ねてはいますが、なにか」
「いや、大丈夫かなと思ってね……」
五郎はきょどきょどと目を泳がせた。
「虞世は……あまり近寄らないほうがいいからね……」
「そりゃ女ばかりの家に行くのは気が引けますが、草二さんもいるし……それに私は虞世の人に会いに行っているわけじゃないので。あ、もしかしたら、そのことを言ってるんですか」
「人形のことかい……あれは虞世の物だと心得ているよ……墨染様もそう言っている。私は見たことがないが烏天狗の人形だと聞いているよ」
「烏天狗」
そういえば背中に何かついていたかもしれない。翼だろうか。
「修験者のようだと思っていましたが」
「まあそのことはいいんだよ……それより虞世は少しばかり気が振れているからね、君も巻き込まれると可哀そうだから」
鬱々とした表情で手に持っている帽子をもみながら五郎は言った。龍之助はなんだかその姿にいらいらして答えた。
「私の母は虞世の出ですよ。そういう家は多いじゃないですか。なんだってそう怖がるんです」
「龍之助さんは虞世が何者か知らないのだね……」
「? ただの人です。そりゃ少し変わっているかもしれないが」
「虞世は人形と結ばれて生まれた一族なのさ。あの家で囲っている人形の」
「伽羅ですか」
「そうだよ。虞世はね、篁が帰ってくるのを待っている。なぜだかわかるかい。虞世にとって篁は自分の姉だからさ。彼女たちはしたたか。墨染も天貝もだしぬいていずれ篁をとる気だよ……」
「? 墨染さんは篁を嫁として迎えたくて、天貝さんは天児の子孫として篁の所有権を主張している……はずだ。虞世が何か言ってるというのは聞いたことがない」
「そうだね……君はこんな話を知っているかい」
五郎はぼそぼそと語り始めた。
篭目村にはお里という娘がいた。
はやくに親兄弟を亡くして一人暮らし。残された畑を耕し暮らしていた。お里はよく働き、おなご一人ながらよく生活していたのだが、お里にはある悩みがあった。お里は村でももっぱらの醜女だったのだ。顔はごつごつとした岩のようにいびつで、髪の毛は縮れてまとめるのも一苦労。腫れぼったい瞼に隠れて目が重く、自然と目つきが悪くなってしまう。村の男からは「お里だけはごめん」と笑いの種にされ、容姿に対するからかいは日常茶飯事。村の集まりの席でよく働くも「酒がまずくなる」と敬遠され、また他の女たちも男たちを諫めつつそれは本気ではないのだった。井戸端で「あの顔はちょっとばかしかわいそうだねえ」と笑っているのをお里は知っている。お里は生来気立てがよく、ちょっとのことでめげる性格ではなかったが、彼女も女であったから村中から笑われていると思うと辛く、いつしか心に陰りが増した。
「おらはどうせ岩女だ」
最初こそ虚勢を張ってそう言い返していたが、だんだんと虚しくなっていき、人影のない森の中で一人泣くことが増えていった。
――おらはどうしてこんな顔なんだ
――何も悪いことしてねえのに神様もひどいもんだ
特に七兵衛という百姓男はなにかにつけてお里をからかった。悪酔いしてからんできたこともある。うんざりしながら七兵衛をやり過ごし、お里はせめて自分に何か良いところを見つけようと、針仕事に精を出した。ぐんぐん腕は上がり、村長である墨染からも仕事を頼まれるようになっていった。給金をもらい、それはなかなかの額になったのでお里は思いきって化粧を買ってみた。都の姫様はこれで毎日顔を飾るという。自分も少しは変わるかと紅をつけてみた。そこへ村の女が野菜の差し入れに来たものだから鉢合わせになり、女は化粧をしたお里の顔を見てしまった。数日のうちに村中にお里が化粧を買ったことがばれ、「化粧をして化け物になった」とお里を指して嗤う連中のどっと増えたこと。お里は化粧道具をどぶに捨て、だんだん家にこもるようになっていった。畑仕事こそするが、朝早くに起きだして仕事をすますとあとは家にこもって針仕事に没頭し、なるべく人と会わない。何回か七兵衛が来たようだったが無視した。
(だれもおらの気持ちなんかわからねえ)
村では心配するどころか、天の岩戸の神隠しだあい、といって構わなかった。
そんな或る夜。
「お里さん、いるかい」
蝋燭一本、明かりの燈った部屋の中で仕事をしていたお里は戸を叩く音に気付いて引き戸を開けた。蝋燭は高価だが明るいので買って仕事に使っている。外には子供が一人立っていた。
「切吉じゃないか。こんな夜更けにどうしたい」
お里の家にやってきたのは村の子供の一人、切吉だった。お里を悪く言わない数少ない人間の一人だ。
「おっかさんたちが心配するから帰りな」
「まって閉めないで。おら用があってきたんだ。お里さんは墨染様の家の着物縫うほど腕がいいんだろう」
「それがどした」
「縫ってほしいものがあるんだ。それを頼みに来たんだ。姫様の着物だ」
「姫様……」
お里の顔がカアと赤くなった。
「そ、そんなものしらね」
姫様みたいになれるじゃろか。
あの化粧は捨ててしまった。みじめだ。姫様になんてなれるわけがねえ。こんな顔で。
「姫様なんぞ……」
「なあお里さん、そのべべがないと姫様は素っ裸なんだ。だからあんたの腕が必要なんだ」
「は、裸?」
切吉は村のはずれに住む人形師の話をした。そしてお里をその人形師――天児のもとへ連れて行った。
「まあ……」
天児の家に入ってお里は驚いたというより呆れた。人形、人形、人形だらけだ。足元には人形の出来損ないがたくさん転がっている。
「てえしたもんだ。こげなたくさんの人形初めて見ただ」
「こっちだよ」
切吉は足元に気を付けて、といいながら部屋の奥へ進むと、床へ横になっている何かの塊を揺らした。
「おきてよう天児さん。切吉だ」
そういって切吉は行灯に火をともした。塊がむくむくと起き上がると人の形になり、ボサボサの頭を掻くと目をぎょろりと開けた。
「もう夜か。寝ていた」
「お針子が必要だって言ってたべ? 連れてきただ」
「き、切吉。おらはちょっと様子を見に来ただけで……」
村に住んでいるという人形師、人形の単衣を縫うための手を必要としている。そう聞かされてお里は好奇心からやってきた。お里はこの人形師の存在を知らなかった。だからどんな奴かと思ってやってきたのだ。
「お里さん、この人は天児さんていうんだ」
「天児……」
天児は無言でお里を見ている。
「お、おらは里だ……」
天児は立ち上がってお里の横を通ると部屋の隅に置かれた十二単の装束を手に取り、お里に突き付けた。ところどころ綻びや虫食いがある。
「これを縫って直せるか」
「え……」
お里は着物を手に取る。汚れているが大層な絹の単だ。こんな上等な着物をお里は見たことがなかった。おもわずはあ、とため息をつくと、
「直せるのか。どうなんだ」
しゃがれた声で天児が問う。
「……こんなもの繕ったことない……けど……やってみるべ……」
「娘の着物だ。頼む」
そういって天児は頭を下げた。お里は驚いて頭を下げ返してしまった。こんなに自分に腰の低い男がいただろうか。お里はなんだか慌ててしまって、薄暗い部屋の中で自分の醜い顔が天児にはっきり見えてはいないだろうかと気になって仕方がなかった。家に着物を持ち帰ったお里は早速直しにかかり、なんとか仕上げて天児の家に持っていき、また着物を預けられては家で着物を縫う日々。最初に訪れたのが夜だったせいか、なんとなく天児の家には夜訪れていて、そのせいで村の者はお里が天児の家に通っていることに気付くことはなく、知っているのは切吉のみ。切吉も親の目があるのであまり夜にはこられない。自然と天児とお里二人きりになることが多くなった。お里が着物を届けに来ると大抵天児は人形を作っている。
「天児さんは人形を作るのがうまいんだな」
「だからこんなことをしている」
「……天児さんはおらがいやじゃねえのけ」
「どういう意味だ」
「その……おらはこんな顔だからよ。みんな笑うし、寄ってくんなって言うし。とくに男衆なんぞはよ……はは」
「……」
天児は動かしていた手を止めると部屋の中に立ててあるいくつもの人形……その中のうち、等身大の大きさで白く透けた布をかぶっていた人形に近づき、
「見ろ」
そういって布をふわりと取り去った。布の下にはなんとも美しく愛らしい、不思議な銀の髪をした女の人形が裸のまま立っていた。作りかけだが念の入れようがわかる造形で、お里は目を丸くして瞬きをした。こんなに美しい女がこの世にいただろうか。村で一番と言われているむすめっこだって話にならねえ。
「私の娘だ」
「む、娘って人形だべ、これ」
「これほど美しい娘はいない。この世に一人として。この美しさは光となって体に宿るのだ。宿った美しさは心になる。わかるか。真の美しさは心にあるのだ。私はそれをこの娘で体現する」
「……心に……」
「それにな」
天児は人形に布をかぶせ、
「あんたが醜いかどうかなんてこの暗がりじゃよう見えん」
そういって作業の場に戻った。行灯の火が人形作りに熱中する天児の顔をほのかに照らす。痩せて余分な肉がそぎ落とされている分精悍に見える。お里はその顔をじっと見た。
「あとどれくらいで着物は出来上がる」
「えっ……ええと」
天児に聞かれてお里は慌てて答える。
「あと十日くらいで」
本当はもっとかかる工程だ。けれどお里はそうは言わなかった。
「なるべく早く頼む」
天児がこちらをみている。お里はこくりとうなずいて家に戻った。はやく、はやく着物を直さねば。直せばきっと天児は喜んでくれるだろう。お里の心は浮足立っていた。お里は生まれて初めて恋をした。人形のことはよくわからないが、醜い自分を疎んじない天児がたまらなく愛おしく感じたのだ。
それからお里は傍目から見てわかるくらいに偉く愛想がよくなった。村の男が「今日も岩みたいな顔だのお」とからかっても「そうかえ?」と笑って歩いて行ってしまう。女たちが何かいいことでもあったのかと探りを入れても、仕事が順調だからといって相手にしない。畑仕事だけでなく村長の家でも下働きとして働いていた七兵衛は相変わらずしつこくお里につきまとってからかっていたが、お里は笑って相手にしない。お里にとって天児の家に行くのは天児との秘密の逢瀬のようで嬉しく、誰にも知られたくなかった。幸い、お里と人形師の関係に気付く者はおらず、そのうち村の者はあまりにも悪口を言われたものだからお里がおかしくなってしまったんだと思うようになった。ニコニコしているお里を見かけるたび、村人は気まずく感じて避けてしまうようになる。だがお里はそのことには気が付かず笑って過ごした。
そしてとうとう人形の着物が完成し、最後の一枚を届けにお里は天児の家を訪れた。
「素晴らしい」
絹の十二単をまとった人形は本当に人の姫の、いや天女のようだった。天児は愛おしそうにその姿を見つめる。
「世話になったな」
「べ、べつに大したことじゃねえから……あの」
お里はもじもじしていった。
「ほ、他にもなにか縫うものあれば、やるから……」
お里は天児と関係を持っていたかった。娘の着物が出来上がってしまった今、なにかで天児と自分を結び付けたい。
「もうない」
「そ、そうか……」
「娘が世話になった代わりにこれをもらってくれるか」
がっかりしたお里が顔を上げると、天児はゆっくりと指をさした。お里が明かりを近づけると天児が指した先に大きな人形がたっている。僧の格好をした男の人形だ。
「娘を作る間に試しの人形を何体か作ったのだが、その一つだ」
よくみるとたまに村にくる生臭坊主の格好に似ていなくもない。そしてお里はその人形の面影が――少し天児に似ているように思った。
「作りかけもかわいそうだから娘の後に完成させた。こちらは衣服が調っていたのでな。名を伽羅と名付けた。この世の不浄と戦う修行僧……娘である篁姫の弟とでも言おうか。男の顔は存外難しい。どれでもいいように思ってしまう。姫に凝りすぎたか。弟とは言っても私はその人形の魂を求めてはいない……だがそれなりの価値はある。村長に頼めばよいところに売ってくれるだろう。金子は持っていないのでな。それで金を得てくれ。それが報酬だ。気に入らないならもう一体、女の人形がある。そちらでも」
「い、いやおらこれでいい! これをくんろ!」
お里は声をあげると、ひし、とその人形に抱きついた。
「そうか」
「こ、これ……大きいな。姉さんの人形も人と同じくらいの大きさだった。なんでこんな大きな人形作るんだ?」
「魂が宿るからだ」
天児は少し遠い目をして、
「そしていずれ人の器となる。その人形も篁姫も人と同じように動き出す。人も人形も境が無くなる……それが私の願いだ」
「この人形が人になるのか?」
「望めばそうなる」
お里は人形を見つめた。天児と似た人形。弟というだけあってどこかあの美しい人形とも似ている気がする。
「あ、天児さん」
「なんだ」
おらを嫁にもらってはくれないだか。おらあんたが好きじゃ。
そう喉元まででかかって――お里は言葉を飲み込んだ。おらを、おらを馬鹿にしたりせずに使ってくれてこんな大層な人形までくれてほんとにいい人じゃ――でも、でもやっぱり自分はだめだと思った。こんな顔だし村からは好かれてないし――
自信がねえ。自信がねえんだ。
「どうかしたのか」
「んにゃ」
なんでもねえ、とつぶやくと、
「こげな大きな人形どうやって持ち帰るべか」
「そんなに重くはない。中身は空洞だからな」
天児の言う通り人形は驚くほど軽く、ちょっと力を入れればお里でも持ち抱えることができた。闇夜の外に出て人形を背負って歩く。お里は人形――伽羅を傷つけないようにとそのことだけを気にしながら運んだ。運ぶことに懸命であったから周囲に注意が向かず――なんとか帰宅すると人形を家にいれ、戸を閉めた。
「そしてしばらくしてお里は子供を産んだ」
「え」
「お里は人形との間に生まれた子供だという。そのころはもう天児は死んでこの世にいなかった。村じゃいよいよお里が狂っちまったって、騒いだ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。なんか急に話が飛んでませんか。お里が人形をもらってから子供が生まれたんですか? その間お里はどうしてたんですか」
「だからその人形と関係を持ったんだよ。それで子供が生まれた。昔の話だからね。細かいことはわからないよ。ただね、お里が産んだ子供はそれは目の覚めるような美女に育ったそうだ。その子だけじゃない。その子の子供も、その子供も。醜いお里の子孫は皆美しい女だらけだった。今もだよ。わかるだろう。お里はね、こうもいっていたんだ。自分の子供が美しいのは姉様の血だと。姉様ってのは篁のことさ。伽羅は篁の弟だからつながりがあるってわけだよ」
「馬鹿な。そんな話があるもんか。人形の子供なんているわけがない」
「君のお兄さんは人形と魂を共にしているそうじゃないか。ない話でもないだろう」
先ほどまでおどおどとしていた五郎は心なしか意気揚々としているように見える。だが兄のことを持ち出されて龍之助は興がそがれた。急にどうでもよくなり、
「で、それが私と何の関係が?」
「だからさ、その子孫の――虞世家には気を付けたほうがいいって話だよ。虞世の本家とかかわると狂っちまうって話だよ」
「なんで狂うんです」
「虞世は伽羅だけが自分の「男」だと信じている。そう教育される。伽羅以外の男を憎んでいる」
はあ、と龍之助はため息を漏らすと、
「憎む? どうして? 第一虞世の女は自ら進んで村中の家に嫁に行くでしょう。男を憎んでいるならどうして嫁になんか行くんです」
「そこんところよくわからないがどうも虞世の女は少し気が振れていてね。嫁に行くことで人形の血が残ると思っているんだな」
「……人形の血。伽羅の子孫、つまり篁の子孫を残しているっていうんですか」
天児の人形の血をこの村の隅々までいきわたらせようというのか。
「まさか。どうしてそんなこと」
「実は私はね、お里は天児の子供を産んだんじゃないかと思うんだ。夜ごと家に通っていたんだからそういうことになってもおかしくはないだろう」
「……」
わからない話ではない。そう考えるのは自然だ。だが龍之助は話から聞く天児という男がだれかと所帯を持つような人間には思えなかった。あんな、潔癖な人形を作る人間が人間という雑念にまみれた存在と情を通わすとは思えなかったのだ。
「お里は天児の血を残したがっているのかもしれない……」
「でもそれなら天児の子だと言えばいい。別にやましいことはないでしょう。なんで人形の子だなんて」
「そうだね。やっぱりお里は狂っていたのかもしれない」
「……」
「おっと……そろそろ庭にふかしておいた焚火が終わるころなので失礼するよ……」
「……そんな話、虞世の嫁に嫌われるんじゃないですか」
「ああ、うちは、四方家には虞世の女がきたことはないんだよ」
「えっ」
意外な話だった。
「虞世の女は絶対に娶るなというのが私の家の決まり事なんだ。君だけに言うがね……虞世もうちに進んでくることはない」
「それ、墨染さんも知ってるんですか」
「いや」
五郎は肩をすくめて、
「実はこの話は他の家の者にしてはいけないことになってるんだ。それが、私にはなんだか気づまりでね。虞世の女がおかしいことは村の連中が知っているところだが、先祖の話までは知らないと思うよ。虞世自体も知らないことかもしれない」
「でも四方家は……」
「なぜかこんな昔話を知ってる。それはわからない。あまり考えないようにしているんだ」
「なんで私にそんな話ぶっちゃけてしまったんです」
「言っただろう、気づまりだって。君も知っての通りうちは皆陰気な人間ばかりだ。この昔話が影響しているんじゃないかと私は思っている」
じゃあね。そういって五郎は背を丸くしたまま歩いて行った。
(大変なことを聞いてしまったのだろうか)
龍之助はため息をついた。今日も虞世の家に行くつもりだったのだが、あんな話を聞いてしまった後だ。気後れする。兄のためになにかあの人形をつかえないかと探りを入れていたが、思わぬところから妙な話を聞いてしまった。
迷った末に結局龍之助は再び虞世家を訪れた。
「いらっしゃいな」
二葉が笑顔で迎える。
「どうも……」
「ちょうど昼餉を持っていくところなのよ。行きましょう」
龍之助はだまって二葉の後に従い、伽羅の部屋へと入った。相変わらず抹香臭い。
「さあ、お食事ですよ。たんと召し上がれ……」
二葉は伽羅の足元に膳をおくと、
「ではごゆっくりね」
そう言って出ていった。龍之助はため息をついて伽羅を見上げる。虞世の先祖、お里と情を交わした人形……いや、それは天児だったのか?
「……自分には関係ないけど」
お里が連れ帰った人形……兄たちの抱える人形のようにこの人形にも魂は宿るのだろうか。天児は願えばそうなるといった。もし自分が願えばこの人形にも魂が宿るのだろうか。そうすればなにかに使えるかもしれない――そう思って龍之助は無意識のうちに手をのばして――伽羅の顔に触れた。
途端。
「!?」
バチっと火花が散ったように――強い感覚が龍之助の身体を通った。
強烈に歪んだ意識、恐怖、怒り、悲嘆――体に蛇が入ったように、感情がのたうち回った。
龍之助はかはっ、とのどを鳴らすとその場に倒れこみ呻く。
「な――なん、だ――これ、は」
頭の中に何かが流れ込んでくる。映像だ。暗い。ここはどこだ?
おかしい。自分は――女の着物を着ていて、必死で暴れている。
「ヒッ」
男に襲われていた。
(やめろ、やめてくれ!)
恐怖に引き攣って声が出せない。男は自分を暴こうと力の限りを尽くしてくる。誰だこいつは。暴れる自分の手が何かにぶつかって――部屋が妙に明るくなった。その明るさは自分の上にのしかかってくる男の顔を照らし――龍之助は目をむいた。
――五郎さん。
「うあああああっ!」
龍之助は跳ね起きて首を振った。ハアハアと息を荒げて――立てない。額から汗が噴き出している。暗くはない。蝋燭の燈った部屋。目の前に置かれた昼餉の膳が目に入って、龍之助は現実に引き戻された。
(あれは、あれは)
息を整えながら胸をおさえる。
(五郎さん……いや、よく似ていたが別人……)
龍之助は目の前に立つ人形、伽羅を見上げた。
「まさか……あんたは、見ていたのか……」
この人形にしまわれている記憶。おそらく自分はそれを追体験したのだ。襲われていたのは当然自分ではない。あれは――お里、ではないのか。お里を襲っていたのは五郎――ではなく――、
「し、四方の先祖――なんといったか――」
「見ましたのね」
ビクッと龍之助が体を揺らすと、部屋の障子がわずかにあいていて二葉が覗いていた。
「ふ、二葉さん」
「伽羅に触れてはならないと言いましたのに」
二葉は部屋に入ると戸惑ったまま座り込んでいる龍之助のところに音もなく近づいてきて、
「忘れなさい」
顔色を全く変えないまま口だけ動かした。龍之助は前髪を拭う。
「ぐ、虞世は、お里の子孫――お里は」
「伽羅の子孫です。先祖がそう言ったんですもの。それでいいじゃないですか。そう願うならそれは事実となる」
「発狂したのは……そういうこと、なのか……夜襲われたら誰もわからない……」
お里は天児からもらった大事な人形の前で、天児に似た人形の前で乱暴されたのだ。
「悪口を言われていたから、ではなかった……でも村は勘違いしたままだったんだな……」
「……聡い子は好きですよ」
「あんたたちは知っていた。虞世の者たちはみんなこのことを知っていたんだな……なんで頭がおかしいふりなんて、するんだ」
「ふふふ」
二葉は笑った。
「狂っていた方が辛くないんですもの。この世は不浄ばかり。我が一族が穢れているように、これからも穢れていく。狂って狂って、そうすればもっと伽羅様を愛せるのよ。あの男……七兵衛などに、村の土臭い男に辱めを受けたなんて現実と、玉のように美しい人形と契りあった夢どちらを選ぶかなんて知ったこと。ふふふ、こんな昔話さっさと絶えてしまえばいいのに皆どうしても伽羅様に触れずにいられない。そして知ってしまうんだわ。それが虞世の呪いよ。だから狂うの。みんな狂ってしまえばいいんだわ。ねえ稲葉の坊ちゃん、もう諦めなさいな。お兄様の力になりたくてうちにきていたんでしょう?」
「そ、それは」
「伽羅様を使いたいのなら貸してあげてもよくてよ。でもあなたには無理だわ」
「なんで」
「天児の人形を使うなら狂っていなくては。あなたのお兄様のようにね」
「なっ……紺兄は狂ってなどいない!」
「嘘よ。だめよ。それじゃあ人形が使えるはずがないもの。人形には魂が宿る……魂を宿らせるだけの願いが必要なのよ。そんなもの、尋常な心の持ち主でなくては不可能だわ。私たち虞世が何百年も穢れた血筋であることから逃れるために狂ってきたように、紺之助さんもどこか狂っているのよ。じゃなきゃ自分が兄を殺したなんて耐えられないわ。違う?」
――龍之助は言葉が紡げなかった。
「人形遣いになるなんてそういうこと。でもあなたにはそこまでの覚悟はないしできないわ。あなたには稲葉を継ぐという役目が与えられているから。それは紺之助さんが残してくれた逃げ道のようなものよ」
「……私は兄のためになにかをなしたかったんだ……」
「でしょうね。でももう終わりよ。さあもう帰りなさいな。あなたにできることは少ない。だからこそまっとうしなくては」
「……二葉さんはいつ伽羅に触れたんです」
「そんなこと知ってどうするの」
「二葉さんがいつ虞世の跡継ぎとして覚悟を決めたのかとおもって。虞世の呪いを覚悟したんでしょう……私はちゃんとした覚悟が――なかった。兄を助けるとか、そういうのとは別の……虞世はなぜ村中に嫁に行くんですか」
「簡単なことよ。虞世を絶やしたいから。穢れた血を少しでも薄くして無くしたいから。でもこの家が絶えたら伽羅様は天貝か墨染にとられてしまう……それはできない。だから虞世は残り続けるだけ……」
龍之助は黙ったままたちあがり部屋を出、虞世家を去った。その後虞世に足を運ぶことは二度となかった。
それから龍之助は稲葉の当主としての務めに尽くした。紺之助を補佐しつつ篁捕縛にも協力し、稲葉の家から離れず篭目村の一人として生きた。それなりの歳になったとき、墨染から縁談をすすめられたのだがこれを断っている。龍之助は虞世の話を知ってからこの村における婚礼というものに一切の興味を失ってしまった。何度もつつかれたが妻帯することはなく、虞世から嫁が来ることもなかった。おそらく二葉の入れ知恵だろう。稲葉はもう他に生き残りがいない。龍之助の代で絶えてしまう恐れがあったが、紺之助が人をやめた以上、篁奪還の手段が残り続ける。なので墨染もそれ以上しつこく縁談を進めることはなくなった。そうして長い年月が過ぎた。外では大きな戦が何度かあり、また世が新しく移り変わっていったようだったが篭目村は変わらない。様々な家が代替わりしたが稲葉は龍之助で変わらず、ただ村は篁の帰還を待ち続けた。
ある夏の終わり、蜩がなくころ龍之助は体調を崩して寝ていた。
「残暑にあてられたか……こんな爺の介護なんぞつまらんだろう」
咳をしながら龍之助は枕元に座っている女性に向かって話しかけた。
「いいえそんな、お役目ですから」
彼女は龍之助が倒れたと聞いて世話をしに来た四紀という女性だった。まだ成人していない虞世の女である。
「まったく、体が思うようにならんというのはなんともいえんものよ」
「お茶でも飲みますか」
「むせてしまうからよしておく。それより」
龍之助はもうだいぶ衰えてしまった目で四紀を見ながら、
「私はもうすぐ死ぬようだ」
「なにをおっしゃいます」
「わかっている。虞世が進んで私の世話をしにきたときいて。誰から聞いたかね」
「……お母さまから。お母さまはおばあさまから。おばあさまはひいおばあさまから」
「そうか。二葉さんはそんな昔になるかな」
四紀はじっと龍之助を見ている。
「私を監視に来たのだろう」
「なぜそう思うんですか」
「虞世の秘密を知っているのは村で私だけだからだ。本来ならだれにも知られてはいけないものだった。私が臨終の際うっかりしゃべるかもしれない……それは防がねばならない。そうだろう、虞世よ」
四方の家はすでに数年前に絶えている。四方は村から唯一、跡継ぎが戦争のために収集された家だ。墨染が押し掛けた役人をを追い払うために村を代表して四方を行かせたのだ。骨は帰ることはなく、残っていた兄弟は病弱で若いうちに死んだ。その子供たちも夭折し、四方の家は細って結局断絶した。
「よくわかりましたね」
「君は雨宮に嫁に行くそうだが」
「その予定です」
「まさか雨宮が戻るとはな……虞世は嫁に行くことをやめんのかね」
「嫁に行かないと虞世の望みはかないませんもの」
「……長く、この村で生きてきて……なぜかな……私はなにかとても大切なことをわかっていない気がする。君の一族を見ているとそう思うのだ……」
「大切なこと?」
「そう……それは兄にも通じる、なにか……なんだろう……」
龍之助はゲホゲホと強く咳き込んだ。四紀は見ているだけである。
「この村は虞世も……墨染も天貝も……皆狂っているのか……娘さんや」
「はい」
「玄関を掃いておいてくれんか」
「玄関?」
「しばらく掃除ができなかった。玄関はいつもきれいに掃いておかなくては。紺兄がいつ帰っても……いいよう、に……結局私にできることは、そんなことしかなかった……私はもう死ぬ……無念だ……紺兄のために……私は何もできなかった……」
龍之助の言葉が途切れる。眠ったのだと思った四紀は水を飲みに台所へとむかった。コップの水を飲み干し、しばし逡巡したあと玄関を掃除することにした。黄昏の夕闇があたりを包み、蜩の声がいつまでも響いて鳴りやまない。四紀は玄関を無心で綺麗にするとやがて箒を片付け家に入った。眠っている龍之助を確認すると隣の部屋に布団を敷いた。
龍之助が死ぬ寸前まで見張らなくてはならない。
――ふと、
(私は何でこんなことをしているのかしら)
そういう考えが一瞬よぎったがすぐに霧散した。
私は虞世の女だもの。
言われた通りにするだけ。別に私だけが特別なんじゃない。
墨染様も天貝も渦正も雨宮も稲葉もみんな言われた通りに跡を継ぎ、この村で生きている……それが篭目村というところ。
それだけだわ。それがこの村の道理なのだから。
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