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雨垂の章

某賞で二次落ち作品!(^ω^)よろしくお願いします。

足音が近づいてくる。最早これまで。


 心残りはお前、愛しき我が娘よ。

 ――ああ、お前を永遠のものにできたなら。


 そうだ。父に妙案がある。なに、心配はいらない。

 たとえ私が死んでもお前は未来永劫、生き続けるだろう……。




雨垂の章 



 伊織(いおり)が突如父の訃報を知ったのは、さる九月の中頃であった。

 実家から通うには遠すぎる関東の大学に進学し、今は築四十年の格安アパートに下宿している。母子家庭である伊織は学費をすべて奨学金で賄うつもりでいたが、ただの借金だと母から反対され、出世払いを条件に母方の親戚に都合をつけてもらった。学生の本分は勉強と言われ、学業に精を出しているがそれでも週二日はアルバイトをこなしている。せめて家賃や遊興費くらいは自分で賄わないと、と思ったからだ。今日も友人に誘われ、単発の引っ越しのアルバイトをこなして帰ってきた。単発の仕事はキツイものが多いがその分報酬はいい。すぐに現金を手にできるのも都合がよかった。

必要な参考書を買うか、くたびれたスニーカーを買い替えるか思案しながら伊織はチラシだらけの郵便受けを開け――そこにそれは入っていたのである。


 白い和紙の長封筒。


 切手は貼られておらず、糊の跡さえわからぬほど綺麗に閉じられていた。下宿先の住所は書かれておらず、ただ「雨宮様」とだけ記されていた。伊織の名字は斎藤である。ただ雨宮の名には心当たりがあった。

父の名字だ。父は伊織が幼いころ母と別れているが、父は母の家の婿養子となっており、以降雨宮を名乗った事が無かったという。斎藤として育った伊織にとってあまり関心のない名字だ。封筒の裏には差出人の名前も住所も書かれていない。

 「変なの。怪文書か?」

 それとも、まさか父からだろうか。父が今どこで何をしているか伊織は一切知らない。自分の下宿先を知っているとは思えないが、母から問いただした可能性もある。伊織は父と母が別れた詳しい経緯を知らない。あえて聞いたことはない。母は父を悪く言ったことはないし、それは祖父母も同じだったからだ。何かあったのだろうと……いつか聞こうとは思っていたのだが。

 部屋に入り、夕飯に買ってきた売れ残り弁当をレンジにかけると、冷蔵庫から麦茶をとりだして一気に飲んだ。汗だくになって帰ってきた身にじわりとしみる。サアサアと雨が降ってくる音がしたので少し涼しくなるかもしれないな、とぼんやり考えたところでレンジがチン、と音をたてた。弁当を腹に収めると床に置かれた例の封筒を前に、伊織はあぐらをかいて大げさに腕を組んだ。

「……」

もう一度封筒を手にして眺める。あまりにもぴったりと封をされているのでどこから開けたものかわからない。迷った末、ハサミで端を慎重に切り落とした。中を探るとこれまた和紙でできた上品な一筆箋が入っていた。


 『登志彦往生したり、雨宮の跡継ぎを切に願う

  村へ入られたし

                                 墨染莞爾』


 簡潔である。余計なことは一切書いていない。そして意味のわからない内容だった。登志彦とは父の名だ。往生、ということは死んだということか。

 (後継を切に願う、ね……)

 訃報であることは間違いないだろう、しかし……。

 ――村に入られたし。

 わからない。もしや父はどこかいい家の生まれだったのだろうか。代々歴史ある良家、政治家、先祖が有名な武士とか……? なんでもいい、跡継ぎを欲しがるような家……。

 「すみぞめかんじ、かな」

 下の方に記してある名を読みあげてみる。この手紙の送り主だろうか。これも知らない名だ。父の知り合いだろうか? 伊織は父の事を何も知らない。知っているのは非常に達筆な人だったということだけだ。伊織の書いた字を見て母が「登志彦さんそっくり」とつぶやいていたのをひそかに聞いてしまったことがある。父の腕は伊織に遺伝したということだろう。習字は学校では常に金賞。薦められて本格的に書道を習うか迷ったくらいだ。

 (父さんのことを聞くなら母さんしかいないんだよな……消印のない手紙。誰かが直接郵便受けに入れていったってことか)

 なにか不気味だ。父の訃報を父が知らせるわけはない。この墨染莞爾という人物は何者なのか。彼が置いていったものなのか。母なら知っているかもしれない。訃報なら母にもこの手紙が行っている可能性はあるだろう。伊織は決心して母に電話をかけることにした。

 「――もしもし、母さん? 俺だけど」

 「あらまあ久しぶりね。ちゃんと食べてる? 年末は帰ってくるの」

 「戻るよ。それよりさ、ちょっと変な手紙が来て。そっちにも来てないかな。父さんが――死んだって言うんだけど」

 「登志彦さん? 突然ね。どうしたの」

 母は父の事を名前で呼ぶ。多分、今でも父のことを好いているのだろう。

 「こっちの下宿あてに、手紙が届いたんだ。それによると父さんが死んだっていうんだよ。多分。で、俺宛てみたいなんだけどなぜか雨宮様ってなってる。斎藤宛てじゃないんだ。変だろ。これ父さんの名字だよね?」

 「登志彦さんの元の名字は確かに雨宮よ。……亡くなったの?」

 「この手紙がインチキでないなら。でも切手も貼ってないしちょっと気持ち悪いんだよ。直接誰かが届けに来たとしか思えない。そっちに父さんについて連絡とかきてないかな。あと父さんっていいとこの坊ちゃんだったの? なんか雨宮の跡継ぎが欲しいみたいなこと書いてある。――あの、母さん父さんのことあんまり話さないからさ、別に無理して聞かないけど」

 しばらく沈黙が下りた。回線のむこうで母が思案しているのがわかる。

 「……手紙にはほかに何か書いてあるの」

 「村へ入られたし、ってある。あと墨染莞爾って名前が書かれてる。それだけ」

 「その人は知らないわ……あのね、伊織」

 母、琴子はすこし緊張した声で伊織に話しかける。

 「昔も言ったけど登志彦さん――お父さんと別れたのはどっちかに問題があるとか、そういうことじゃないの。あの人は礼儀正しいし優しいし何も文句のつけどころなんてなかったわ。登志彦さんは自分について何も聞かないで欲しいと言ったの。故郷は捨てたからって。自分の出生について探ってほしくないと……人間生きていれば色々あるでしょう。私は登志彦さんが好きだったから、そんなことはどうでもよかったのよ。雨宮の名を捨てたいから婿養子にしてほしいといわれ、そうした。おじいちゃんもおばあちゃんもお父さんの悪口を言った事が無いでしょ。本当にいい人だった……別れをきりだされたのは伊織が小学生になる前だったわね。びっくりするほどの慰謝料と養育費を渡されたのよ。あなたの大学資金は本当は援助されたものなんかじゃなくて……そのお金なの。登志彦さんはなにも言わずに別れてほしい。その代わりお金を置いていくって。やっぱり駄目だったからと言ったのよ」

 ――私はやはり駄目だった。すまない琴子。

 「駄目?」

「……一体何が、私がそう問いただそうとする前にいなくなってしまったのよ。離婚届に判を押していって、それで」

 「それで」

 「信じたくないけど他に女の人ができたのかもって、思ったわ……私との仲が駄目だったのかと思って。だから興信所に頼んだのよ。でも出てきたのは登志彦さんが北陸の篭目村っていうところの出身ということだけ。他に女性の影どころか知り合いさえも出てこなかった。どこにいるかとか、まるでわからなかった」

 「篭目村……」

 「きっとそこに、故郷に戻ったんだってそんな気がしたわ。だってどこにも行くあてがあるとは思わなかったし、だとしたら故郷かなって。でも本当に帰ったかどうかはわからなかった。故郷は捨てたと言ったのだもの。それなりの理由があるに決まっているじゃない? 結局それ以上詮索するのはやめたわ。なにか怖い気がしたのよ――そう、やはり帰ったのね」

 「……」

 「女の人がいたほうがわかりやすかったわね。思えば登志彦さんは時々変なことを言ったりすることもあったし。結婚して名字が変わった時はとても嬉しそうだった。そんな人めずらしいでしょ? うちは特別な名字でもないし……だから「雨宮」の名は今でも無気味に思うの。それほど捨てたかったものって、何なのかしらって」

 「じゃあ母さんは父さんがいなくなった理由も知らないし……父さんの故郷についてもそれ以上知らないって事?」

 「ええ。興信所の人も出身地を見つけるだけでもかなり骨を折ったそうよ」

 「……」

 伊織は話しながらノートパソコンをたちあげてネットに繋いだ。

 (北陸地方、篭目村でどうだろう……)

 検索すると意外にも簡単に引っかかった。北陸の某所にあるらしい。現在の情報をみるかぎりただの過疎化が進む地域だ。

 「父さんについて他にわかることってない?」

 「さあ……そういえば結婚前友達から文楽のチケットをもらったことがあって、二人で観に行ったことがあったんだけど……大学の同窓に人形作家の知り合いがいたの。作るのは西洋人形だけど人形についていろいろ勉強していたから、その縁でチケットをもらったのよ。文楽なんて珍しいから登志彦さんを誘って出かけたんだけどあまり乗り気でなかったわね……私のために我慢してくれていたのだと思うけど、いな……ば? かしら。彼らみたいだとかなんとか言って。本当の人形は元々生きているんだよ、なんて言うのよ。何のこと? って聞いたんだけど古い知り合いの話としか言わなかったわね。人形はあまり好きじゃないっていうのに妙に詳しい感じで……今でも印象に残ってるわ」

 「イナバさんていう知り合いか。ふうん……よし、母さん、俺篭目村行ってみるよ。場所わかったし。さあすが、今はネットでわからないことはないね」

 「ええ? よしなさいよ。お父さんも構うなと言っていたところなのよ。心配だわ」

 「でも死んじゃったなら拝みに行くくらいしてもいいと思う。もしかしたら葬式の報せかもしれないし」

――それに父が何者だったか知りたい。

 伊織はそれほど大げさに考えていたわけではなかった。父が帰りたくなかった故郷、雨宮という家、それを継げという墨染という謎の人物とイナバ……そして篭目村。父が一度捨てたにもかかわらず帰った故郷……この村に一体何があるのか好奇心が湧いた。伊織はちょっとした探偵気分で篭目村を目指すことにしたのである。



 新幹線に乗り、そのあと電車を乗り継いで伊織は目的の土地にたどり着いた。ネットで探した中でもっとも篭目村に一番近い土地だ。しかしここで伊織の足は止まってしまった。小さな町で、バスもまばらだ。駅に掲げてある地図を見ると篭目村の名は無く、隣接しているわけではないらしい。

 「まいったなぁ」

 駅周辺だというのに人も少なく、とくに若者はほとんど見当たらない。過疎化が進んでいるというのは本当の様だ。まぁ田舎は大抵過疎化してるもんな、と伊織は近くをふらふら歩いた。伊織の実家も過疎が進む地方都市である。だがここは一層それが進んでいるようだ。おそらくこの街唯一じゃないかと思えるコンビニを見つけて入ると、おにぎりとお茶をとってレジへ向かう。会計の際、若い店員に話しかけてみた。

 「あのすみません、この近くに篭目村ってありませんか?」

 「篭目? さあ。ちょっとわかんないですね。でもきいたことないですよ」

 意外に訛りのない声だった。

 「ここらの村はみんないっしょになって市に格上げしちゃいまして。村は殆ど残ってないんですよ。地名なら残ってますけど――ああ、でもぼくは東のことしか詳しくないんで。そう、東口。ここもそうだけど西口はもっとさびれてますよ。そっちは全然知らないからわからないけど、とにかく東口には篭目村ってのはないですね」

 「そうですか……ありがとうございます」

 伊織は商品を受けとり、外に出た。腕の時計を見ると午後三時。空を見上げると曇天が広がり、湿気でアスファルトの濡れる匂いがした。

 (ひと雨来るかな)

 篭目村はすぐ見つかりそうにない。ならさっさと寝床を確保するに限る。伊織は交番で宿泊所を探してもらい、駅近くに奇跡的にあった小さな旅館に泊まることにした。雨がパラパラと降ってくる。篭目村のことは交番でも聞いたが、知っているものはいなかった。東口だからだろうか、と思いながら旅館に着くと突然雨が激しくなり、雷雨となる。バリバリという雷の凄まじい音に雨音もかき消される程だ。伊織の実家も大層な雷が落ちたものだったが、都会に出てすっかり感覚が鈍っていた。都会の雷はおとなしい。人間に飼いならされているのだろうか、田舎の雷は人の手に余るほどのまさしく神鳴りだ。

「にしてもはやく寝床をみつけてよかったな」

この雨では軒の下でもずぶぬれ確定だろう。伊織は年季の入った部屋でくつろぎながら、夕食までにと地図を広げる。スマホのGPS機能に頼ってもいいが、今のところこの駅周辺までしかしぼれない。もしものために地図を印刷しておいたのだ。駅周辺、東口は市役所もあるのでおそまつなものだがそれなりに賑わっている。繁華街が集中しているのだ。図書館や警察署など公共施設はほとんど東口にある。

 「ん?」

 地図に篭目村の文字が見当たらない。確かに検索した地図上にあったはずだが……篭目村の「か」の字さえ見つからない。

 「印刷ミスか?」

 薄い文字は印刷にでない時があるのだ。伊織は少し考え、

 (図書館にいってみようか)

 しかし明日は祭日だ。閉まっているだろう。伊織は西側に視線を移動させる。白い。駅を出るとすぐ小さな商店街があり、あとは広大な田畑が広がっている。

 「あの兄ちゃんの言った通りだな。たしかになーんにもない。ド田舎だ」

 限界集落って奴かな、と伊織はバタンと部屋に大の字になった。初日からなんにもでてこない。篭目村をスマホで検索してみた。

 「あ、あれ?」

 篭目村が検索にひっかからない。たしかにヒットしたはずの地名だ。そのおかげでここまで来られたのに。

 「なんだよ、まいったな! パソコンじゃないと見られないのかな」

 困った伊織は他に別方向でなにか手掛かりはないか考えてみた。目をつぶって瞑想する。静かに、足跡を追うように。手掛かり、手掛かり……。

 『墨染莞爾』

 伊織は飛び起きると部屋から飛び出して階段を下り、夕食を用意していた女性にばったりとあった。

 「あ、ちょうどよかった! あの、女将さんですか?」

 「はあ、なんですか、すみません、夕餉はまだ」

 年配の女将は驚いて手に抱えたお盆を強く握りしめた。

 「そうじゃなくて、す、すみぞめかんじって言う人知りませんか! ここらに住んでません? 墨汁の墨に染めるの染、あとは難しい字なんだけど」

 「す、墨染? ……お母はーん、知っとるー?」

 女将さんが部屋の奥にむかって大声を出す。どうした、どうした、と声がして歳は八十を過ぎたか、しわくちゃの老婆が小さな台所からでてきた。

 「はい?」

 「こん人が墨染さんいわはる人を知らんかって」

 「炭焼き長者さんのことかネ」

 「えっ! 知ってるんですか!」

 伊織は背中がぞわりとした。

 「ホラ、隣の、炭焼(すみやき)ってとこがあんでしょ」

 「ああ、西口のね、あったわぁそういえば」

 女将さんが思い出したようにお盆を叩く。伊織は猛スピードで部屋に戻り地図を見直した。西口の商店街からずっと離れて、川を越えたところで「炭焼」の字があった。伊織は地図を抱えて女将たちのところへ戻ると、

 「お、お祖母さん、これですか? これ!」

 伊織は炭焼の字を指でさす。御老体は目を凝らすと、

 「そう。これ。ここの、川から先の土地じゃァ大昔から炭作ってたんで、この地域は炭焼いうとるの。でもえらい昔の話で、炭つくってたんと儲けたのが墨染って人。長者様ョ。私はその近くからこっち嫁に来てね。小さい頃からよく聞かされたわ」

 「あらそうなん? 全然知らへん」

 「昔の話だもの。東京へ長く働きに出てたしねえ、忘れとったわ」

「東京?」

「ここらは東京や大阪出る人多くてねえ。なーんもないでしょ。稼げるとこいくんだわ。帰ってくるもんもいるし、いないのもいるのよぉ。私も短大は東京、ふふ、やっぱ憧れたし無理していかせてもろて。いや人の多い事、びっくりしたわぁ」

女将さんの話が長くなりそうだったので伊織はそれで、と聞いた。

 「墨染と言う人は今でもいるんですか」

 おるんとちゃう、と老婆は至極あっさりと応えた。

 「戦争でくたばってなきゃね。見たこたぁないよ。御伽話だと思っとったし。探しとるのかえ? それなら炭焼行ってみればええよ。跡継いどる人がいるかもしれんしね」

 でもねえ、と続ける。

 「あんま薦めもしないよ。炭焼のね、もっと奥のほうかねえ。そっちにゃ昔は女子供は近付いちゃならんって言われとって。理由? さあ」

 ――こうして伊織の行き先は決まった。



 次の日、西口に降りてとりあえず伊織はバスの停留所を探した。現在十時十二分。駅から出てすぐ寂しげなロータリーがあり、タクシー乗り場とバス乗り場が見えた。急いで発車時刻を見ると既に出てしまったあとで、次に来るのは十三時四分。三時間近く待たなくてはならない。

 「まいったな、どうするか……。時間つぶせるような場所もないし……」

 仕方ない、金はかかりそうだがタクシーを使うことにした。タクシー乗り場に行くと三台ほど止まっていて、運転手たちが談笑している。人が来なくて暇なのだろう。

 「あの……」

 三人の運転手の誰と決めた訳でもなく、伊織は視線を泳がせながら、

 「炭焼って地域に行きたいんですが……乗せてもらえますか」

 「おや、お仕事だね。このお客は俺がもらっていいかな」

 五十代くらいだろうか、眼鏡をかけた男性がニコリと伊織を見る。

 「よくいう。年中さらっちまうくせに」

 「まあ、しばらくしたら北沢のばーさんがくっから、許したるわ」

 他の二人の運転手がからかい、そいつは悪いね、と男性が笑いながら車へと乗った。

 「どうぞお客さん」

 運転手が黄色い車体に体を押し込めると後ろの席のドアが開いた。

 「ど、どうも」

 伊織は衣服の入ったスポーツバックを先に席に置いて乗りこむ。バタンとドアが閉まった。

 「それで? 炭焼までいけばいいんです? あそこ広いですよ。もうちょっと具体的に言ってもらった方がありがたいんですがね」

 「あっあのっ――実は場所って言うか――人を探してるとこなんです。炭焼にいるかもしれないと旅館の人に聞いて……墨染さん、てわかりますか。墨染莞爾さん」

 前を向いていた運転手がおもむろに振り返って伊織を見つめた。怪訝な顔だ。フロントガラスの右下に「神田」と書かれたカードが顔写真と共に貼られている。それは古びてセピア色に染まっており、タクシー運転手としての経歴を偲ばせる。

 「お客さん、篭目村にいきたいの? 人形もってきたんですかね」

 ドクン、と心臓が震える音がした。篭目村。今確かにそう聞いた。人形?

 「あ、まあ……その、篭目村、知ってるんですか?」

 「しっとりますよ。川越えた土地の連中なら……一部ですがね。知ってます。仕事仲間も知ってますよ。炭焼の集落の一つです。行けばいいんですか?」

 「――はい! お願いします!」

 興奮気味に伊織は答えた。ついに見つかったのだ。バスに乗らないでよかった。思えばタクシーの運転手の方が地元に強そうではある。車はロータリーから出て何回か右折左折をくりかえし、次第にまっすぐ走り始めた。商店街やら何やらはあっというまに見えなくなり、辺りは赤とんぼが飛ぶ田園風景へと変わっていった。空は青く晴れていて、昨日の雷雨が嘘のようだ。

 「何にもないとこでしょう」

 運転手――神田が話しかける。

 「いや、うちの実家もこんなもんです」

 「お客さんこの辺の人じゃないですよね。今日はどこから?」

 信号にあたって車が静かに止まった。

 「東京です。実家は東北なんですけど、今上京して大学に行ってて、近くに下宿してるんです」

 「ああ、東京じゃないかとは思ったんですがね。ニアピンだったな。私もねえ、親が転勤族だったもんで、東京にいたことがあるんですよ。あちこち引っ越したけど東京が一番長かったかな。大学も東京ですよ。そのせいで今でも標準語です。ここらは東京に比べるとほんと田舎だよねえ」

 「ハハ、東京が混みすぎなんですよ」

 「それはわかりますねえ。まあ首都ですからね。首都なのかな。スカスカしてても困るけどね。若い時に都会を経験しとくのはいいことですよ。こんな田舎しか知らずに終わるってね、ちょっと怖いじゃないですか。他の世界を知らずに終わるというか。私の実家は炭焼の隣の(おり)(なぎ)って地区にあって、まあ結局東京から帰ってきたんですよ。親父たちが定年で祖父の家に帰ってきてね、農家継いでえっこらやってますよ。農家に定年なんぞないですわ。畑潰すわけにもいかないし。私はこの仕事やってますけど、繁忙期は手伝ってます。ここらは大抵農家ですよ」

 そう神田が饒舌に話すと、ぱっと信号が青に変わった。

 「で、お客さん人形持ってきたわけじゃないんですか、篭目村に何しに行くの」

 「その、呼ばれて……でも俺も知らない人なんですよ。住所もネットで調べてやっとわかったし。あとは聞きこみでなんとか」

 伊織は何となく父親の事は伏せておいた。

 「知らないのに墨染さんに呼ばれたの? ふうん。しかしねえ、よくネットでわかったね。篭目村ってのは区画扱いされてるわけじゃないんですわ。ホントにね、昔話で言う様な集落で、炭焼の連中くらいしか知らない場所です。ただの呼び名ですよ。それがひっかかるなんて今は進んでいるねえ」

 「でももうヒットしなくなっちゃって……」

 「見つかったほうがおかしいんですわ。普通はひっかかりませんよ。呼ばれたのかな」

 「はあ。それで、墨染さんてまだいるんですか?」

 「まだ?」

 「旅館の人に話をきいて……生きているかわからないっていうもんで」

 「ちゃんとしとりますよ。今の人は何代目かなあ。私もちょっとしか見たことはないもんでね。篭目村の一番偉い人」

 「ええと炭焼き長者?」

 「あー、大昔はねえ。たいそう儲けたみたいですね。ただ炭焼周辺は最初は籠つくって暮してたみたいですよ。だから篭目村。今は炭焼と篭目村はわけられてるんですが炭焼も元々篭目村。籠の文様、篭目紋てあるでしょ。魔除けの。あれからきてるんですわ。そのうち何でか知らないが墨染さんの住んでる地区が篭目村って呼ばれるようになって。でも今はねえ、人形屋敷ですな」

 「人形? 炭じゃないんですか」

 「炭で儲けたのは相当昔のことです。それこそ江戸より昔のことかな。大正辺りになってからは電気やガスも普及したから。あそこは人形師が住んでたとか言う話でね。その子孫がねえ、いまも現役なのかなあ」

 「墨染さんが人形師……」

 「違う違う、墨染さんはね、炭で儲けた長者様の家で、人形作ってたのはええと、あま、あま、天児(あまがつ)ていう人――だったかな。私も又聞きで詳しいことは知らんですが墨染さんはその、今でいうスポンサーみたいな人だったらしくてその人の作った人形を売り出してたの。出来が良くて評判だったとかで、昔作ったのが今でも残ってて――それで食ってるとかいないとか。今は人形供養やってるみたいでねえ。でも多分もう作ってはいないと思うね。人形師がいるって話は聞かないし。でも人形は配達もされるし、色んな地方から篭目村に人形納めに行く人がやってくるもんで。大抵でかい段ボール箱に入れて、それ持ったまま篭目村にいってくださいってタクシー使うんですよ。年に二十件くらいあるかな。トラックが乗り付けることもありますよ。でもお客さんそうじゃないわけだ。初見の様だけど大丈夫ですかね」

 「な、なんかまずいことありますか」

 ううんと神田はうなって車を走らせる。大きな川にかかった橋に入った。

 「なんていうかね……わからんことが多いんですよ、あそこは。さっき人形供養やってるっていったでしょう。でも煙がたったところなんぞ見たことないんですよ。窯でもあれば煙突くらいあるもんでしょ。それもない。私達はたまに大きな人形運んできた人を手伝って村の中まで入ったりするんですがね、奥まではいきませんけど。村の人が何人か出てきて人形を連れていく。その家の人も見たことないし。買い物とかどうしてるんだろう、て気になりますよね。篭目村に住んでる人達はあそこから出た事が無いんじゃないかな。まさかとは思うけど」

 「……人形は埋めてるとかではなく?」

 「詳しい事はわかりませんな。でも普通人形供養って焼くものでしょう。ほらなんですか、埼玉辺りに人形で有名なとこがあるでしょう。えーと」

 「岩槻?」

 「そう、それですわ。お焚き上げやってる。供養でもやってなきゃあれだけ人形が運び込まれる理由がわからんのですわ。まあとにかく無気味なとこですよ。村の中にね、桜の森があるんですがね、遠目から見ても見事なもんで。むかーし花見でもさせてくれないかって村の外の連中が言ったんだけど、墨染さんからあそこは神聖な場所だから駄目だーって言われて。みんな文句たらたらでね。田舎って同調しないと孤立するでしょう。そういうすれ違いが結構あって、もともと疎遠だったけどますます地域から孤立して。でも村の人は気にしてないでしょうね」

 「あの、運転手さん、篭目村について詳しいですね」

 「あそこは一部では有名だから。それにここらの地域は篭目村から始まってるんでね。学校の校外学習とかで嫌でも知ることになるんですわ。でもひそひそ話すくらいですよ。ちょっと変わったところだって。――ここらのタクシー乗りは地元密着でね。そうでもしないと食っていけないんだけど。いつもはじいさんばあさん達の足代わりに使われとるんですよ。駅前まで買い物とか、病院とか役所とかね。んでまあ、そのついでで手紙とか小包をとどけてくれっていいだす人なんかも結構いてね。足が届かないところもいけたりするんで、ちょっとした郵便屋ですわ。届け先に詳しくなる。篭目村に行く人も乗せるから、あの村に誰が住んでいるかは大体知ってますよ」

 「じゃ、じゃあ」

 膝の上にのせていた伊織の手が少し震えた。

 「雨宮って家、ありますか」

 「ありますよ。ああ、ここから炭焼です」

 神田の返答にどぎまぎしながら、伊織は窓の外に目をやった。川をわたって、ぽつぽつと家が見える以外変わらぬ田園風景だ。しかし、川を渡ってからのほうが圧倒的に小さな森や林が多い。防風林だろうか。

 「大きい川ですね」

「今は違う名前ですが昔は天竜川って言って、度々氾濫してみんなここらを飲み込んでしまったそうですよ。大きな声じゃ言えないけど、大昔には人柱をたてたなんて話もあるくらいです。今は治水工事でどうってことはないけど、雨が降るたび心配になります。お客さん、雨宮さんの知り合いですか?」

 「え、ええちょっと……」

 「雨宮さんは私が唯一、ちゃんと会ったことのある篭目村の人です。といっても子供の頃の話ですよ。小学校の頃同窓でね。私が親について転校することになったとき「俺も外へ行ってみたい」って言ってね。駅までみんなで見送りにきてくれたんですわ」

 懐かしいな、と神田はつぶやきながら、

 「えらく筆の達者な子でね。普通はみんな楷書でしょ。綺麗な行書が書けるもんでみんなびっくりして。ただ不思議と褒められてももじもじしながらうつむくだけでね、あれは恥ずかしがってたんだろうなあ。こんな田舎から出て行きたかったんでしょう。まあ田舎出身にはよくあることです。登志彦君と言ったかな」

 登志彦。

 伊織の思考が止まる前に車が止まった。

「はい、到着。ほらみて、右手の方、畑の奥に林が広がっているでしょ。あそこが篭目村」

 「あ、あそこが」

 それは畑の真ん中に突如現れた広大な雑木林だった。林というより森である。森は暗く、真っ黒い綿の塊のようにも見える。本当に村なのだろうか。家などまるで見えない。その黒い森の中心に、入口のような――穴があいていた。鬱蒼とした森へと続く小径。誰かを迎え入れるために開いた、まるで大蛇の口の様に。畑の畔道がまっすぐそこへとつづいて、そこ以外どこにもこの森に入ることはできないようだった。本当に人が住んでいるのか怪しいものだ。陸の孤島に思える。陰鬱とした緑が深い。だが確かに家を数軒のみこめるだけの広さはあるようだ。

 「篭目村は森に囲まれているんですわ。ここからみると森の端がわかるけど、中に入ると終わりがわからない程広い。不思議なもんです。車はここまでしかいけないから、あとは畦道を歩いていくしかないね」

 「わ、わかりました。ありがとうございます」

 伊織は料金を支払うと運転手にお辞儀をした。神田は気をつけてね、と言って去っていった。黄色い車を見送りながら伊織はスマホをチラリと見る。時間は十一時三十六分。スマホをバッグにしまい、畦道を歩きはじめた。まっすぐ続く村への一本道。畦道には彼岸花がところどころに生えて、赤い花が風に揺れている。入口にたどり着いて見上げると左右の高い木に御幣のついた縄が垂れ下がっていた。注連縄だ。

ならばここは聖域なのか、それとも。

 (わからない……父さん、確かめに来たよ……)

 篭目村――伊織はその入口へと足を踏み入れた。



 森の中は薄暗いが、木々の隙間から光が差し込んでところどころ眩しい。それにしても暑いなと伊織は額を拭った。蝉の鳴く声が聞こえる。どうしたものか、村の外はすっかり秋の季節だったというのにここはまるで初夏のような暑さだ。森の中なのに涼しさも感じない。

 (どこまでいけばいいんだ)

 入口からかなり歩いたものの森を抜けられる気配が無い。出口になかなかたどりつけないのだ。不安になって伊織は早歩きで進んだ――が、思わずギクリとして歩を止める。

 先に誰か立っていた。

 逆光で顔は見えない。村の者だろうか。背格好は伊織と大して変わらなくみえる。緊張しながら伊織は人影に近付いた。後ろに出口らしき光が見えるのでとりあえず森はぬけられそうだ。誰だか知らないが、道の真ん中に突っ立っているので避けるわけにもいかない。顔の見えない人物に声をかけようとしたその時、

 「雨宮様ですねェ」

 低いしゃがれた男性の声が響く。

 「お待ちしとりました」

 伊織は一瞬ひるんだが一歩踏み出してその顔を見る。老人だった。顔がのっぺりとして凹凸は少ないのにしわが深い。頭を手ぬぐいで巻いた野良着姿である。まるで時代劇の野菜売りの様に長い棒をかついでいた。両端に籠が山とつながれていてぶらぶらと揺れている。その痩せた体躯でどう運んでいるのだろうか。雨宮と言われて伊織は驚きと共に混乱した。なぜ自分が雨宮の、登志彦の関係者だとわかったのか。自分の事を知っているのか? まさか。このじいさんが墨染莞爾なのか?

 ――無気味なとこですよ。

 一瞬神田の言葉が頭を横切る。

(いや、怯むな――)

伊織はキッと正面を見据え、

 「俺は斎藤伊織です。雨宮じゃない」

 「それより村長がお待ちですんで。ついてきてくだせェ」

 そういって老人は腰を曲げた格好で森の外へと歩きはじめた。背が小さい。伊織は慌てて、

 「あの、あなたは」

 「儂のこたァはおかまいなく」

 とりつく島もない。あなたは誰なんですかという言葉は結局飲み込んでしまった。

――森から出て村の中に入ると意外にも村へ入る前の風景とそんなに変わらなかった。ところどころ小さな畑があり、野菜がなっている。とくに舗装もされていないが確かな道があちこちに続いており、伝統的な日本家屋が並んでいる。どれも大きく、蔵もあって立派だ。しかしあまり手入れがされていないようだった。いくつかの家は草に覆われて寂しげである。森の妙な雰囲気にのまれていたせいか、余りにも平凡な村の様子に拍子抜けした。それにしても――

 (静かだ)

 人が住んでいないのではないかと思うほど草や木の擦れあう音しか聞こえてこない。道の左右に並んでいる立派な家は静かすぎる。表札も見当たらない。

 「ここいらはみぃんな戦争やら病気やらで死にましたわ」

 伊織の心を読んだかのように老人が喋った。

 「跡継ぎがいないって事ですか?」

 「血が残ってたら村に入るでしょう。みな断絶です」

 村に入る。伊織は墨染からの手紙を思い出した。スポーツバックの中に入っている。村に入られたし。そう書いてあった。やはり自分を跡継ぎにしたいのか。しかし疑問がわく。

 (父さんは雨宮の家の人で、父さんが死んだから跡継ぎが欲しい……それはわかる。でもそれって雨宮の人が思うことなんじゃないのか。僕に手紙を出してきたのは墨染さんだ。なんで墨染さんが雨宮の跡継ぎを欲しがるんだ)

 墨染さんと懇意だったとしても跡継ぎをほしがるなんておせっかいだ。それとも父さんが遺言で僕を呼ぶように言ったのだろうか――。伊織が理解しあぐねていると、道が二つに別れたところにでた。右手の道は周囲よりゆるやかに土地が高くなっており、その先に朱色の鳥居が立っていた。神社があるのか、石階段が先へと続いている。鳥居には「稲葉神社」、とある。

 (……稲葉! 父さんの言っていたイナバさんか?)

 「どうしました。こっちです」

 老人は左の道に進んで鳥居を見上げている伊織に手でおいでおいでをした。

 「は、はあこの神社は」

 「稲葉の家です。はよきてくだせェ」

 落ち着いた声だが有無を言わせぬ物言いだ。仕方なく伊織が左の道へと曲がると、ふと鈴の音が聞こえた気がした。おもわず振り返ると、誰かがすっと――階段を登っていく気配がした。一瞬でよくわからなかった。村の人間だろうか。他にも誰かいるのか。いや、「村」だというなら他に誰かいてもおかしくはあるまい。気になったが小男の視線が痛いので伊織は道をすすんだ。



 老人が案内したのはたいそう大きな家だった。おそらく見た中で一番立派な家ではないか。そう思わせるだけの風格があった。屋敷は山茶花の生垣ではりめぐらされていて、伊織はおそらくここが村長の家なのだろうと思った。

 きっと――墨染莞爾の家だ。

炭焼き長者の子孫というのは受け継ぐ財産も相当なものなのだろうか。老人は玄関まで伊織を連れて来ると中に入る事を促し、そして籠を棹に担いだままどこかへいってしまった。伊織は生まれてからこの方一軒家に住んだことが無い。ずっとマンション暮らしだ。母方の祖父母は二階建ての戸建てに住んでいるが、こんな武家屋敷のような家ではない。立派な玄関に怖気づいていたが、どこかであの老人が見張っている様な気がしたので思い切って中に入ることにした。そもそもあの手紙の差出人に会わないことには始まらない。伊織はガラガラと戸を開けた。

 「失礼します……」

 伊織が玄関に足を入れると正面中央、壁と一体化した机の上に桔梗の花が見事に活けてあった。その後ろには能の面が飾られていて――広い。左右の壁には暖簾がかかった出入口があった。建築に詳しいものなら何とか造りとかわかるのかもしれないが、伊織にはひどく古風でとにかく広いということ以外思いつかなかった。玄関だけで下宿先のアパートの広さがある。

 「あの、誰かいませんか」

 声を張り上げてみると、しばらくして遠くから衣擦れの音がし、右の暖簾をくぐって若い女性があらわれた。二十歳過ぎくらいで、やわらかな薄卵色の着物姿だ。伊織を一瞥した後、腰をおり、手をついて頭を下げた。

 「お待ちしていました雨宮様。(おさ)がお待ちです。こちらへどうぞ」

 高い声で女性は老人と同じようなことを言った。美人だが、伊織は何となく昔話に登場する押しかけ女房を思い出した。正体は鶴です狐ですというあれだ。得体の知れない屋敷で突然出てくる美人というのは出来過ぎているように思える。だがあがるしかない。伊織は女性に導かれて広い畳の間に通された。本当に広い。庶民の暮らしをしてきた伊織にとって未知の広さだ。八畳以上はある、としか判別できない。部屋の中はあまり暑くなく、座布団が二つ敷かれていて、上座の座布団には脇息が添えられていた。伊織は下座の座布団の方に座るよう案内されて正座する。正座など祖父母の家で仏壇に手を合わせて以来である。女性はしばしお待ちくださいと言って出ていった。伊織の前にある座布団には誰が座るのか。緊張の面持ちで待った。

 「いやいやいや」

 突然何の人影もなかった廊下側からせわしない声が聞こえてきた。ぬるりと壮年の男性がばたばたと扇をあおぎながらだだっ広い部屋に入ってくる。五十代くらいだろうか。藍色の高そうな和装で前髪を後ろに撫でつけ、ぎらぎらと整えた髪に白髪が混じっている。顔は汗のせいもあるのか、酷く油ぎってみえた。

 「長旅御苦労さんです。雨宮伊織さんですな」

 そういって男性は伊織の前に座った。二人の間は二メートルあるかないかの距離だ。

 「あなたは」

 「初めまして。墨染莞爾と申します。まあ、楽にしてください」

 そういって破顔した男性――墨染莞爾はごく普通の男に見えた。伊織はもっと癖のある人物を想像していたのだが、色黒で、少々肥えていて油っぽいな、という以外特徴はなかった。目尻が垂れている。

 「僕に手紙を送ってきた、墨染莞爾さんですか」

 「そうです。あれは他のものに届けさせたんですがね」

 「父が死んだと。だから俺葬儀に出るつもりできました。それとももう終わってしまいましたか」

 墨染はニコニコしながら、

 「ああ、登志彦君ね。彼は一年前に死んだんですよ。もう墓の下です」

 「――え」

 一年前? 伊織は衝撃を受けた。

 「だって、あの手紙は」

 ここ数日の話ではないのか?

 「彼はここに帰ってきたんですが元々体が弱くてねえ。帰ってきて数日で亡くなりましたよ。雨宮の跡継ぎだというのにいなくなって雨宮家は大騒ぎだったもんです。子供がいると知れるまで時間がかかった」

 だから一年のブランクがあるということか。

 「墓にはあとで案内させてあげますよ。ところで雨宮さん」

 伊織はなにか腹立たしくなって答えた。

 「俺は斎藤伊織です。雨宮の名を名乗ったことなんてない。なのにこの村に入ってから俺は雨宮雨宮言われてる。俺は雨宮じゃない。この村じゃ全員俺の顔でも知ってるんですか」

 「この村のものならわかりますよ。あなた、人間と犬が並んで立っていたらどっちが仲間だと思います」

 「は? そ、そりゃ」

 「人間でしょう。畜生は同類ではないですからな。そういうことです」

 「……」

 伊織は何と返答していいかわからなかった。

 「まあ……つまり雨宮の事は……この篭目村の事もよくご存じない」

 「ここを探すのに苦労しました。雨宮なんて知らない。父は故郷は捨てたと言っていた。雨宮というのは大層な家なんですか」

 「たいしたこたぁないです。古い家ですがね。雨宮の先祖はうちの下働きでした。鉄蔵という、ごく普通の小男。旅の僧侶がたまたまこの村を訪れた際、きまぐれに字を習った。筋がよかったようでめきめき腕をあげました。そのころはここいら一帯で炭を作ってたんです。帳面に色々記録する事も多かった。鉄蔵にその役を与えたのがうちの先祖です。以来ずっとその子孫は記録係だった。みな達筆なものばかりが生まれました。いや、雨宮だから達筆なのだと思いますがね。鉄蔵が雨男だったので子孫が雨宮を名乗ったんです。うちも炭で財をなしたので墨染と呼ばれるようになった。字が違いますがね。炭がやめになっても雨宮はずっとこの村ですべてを記録し続けてきたのです。あなたの家はそういう家なんですよ」

 記録? 歴史書かなにかだろうか……。

 「……この村は孤立していると聞きましたが」

 「口さがないものはいるもんです。この村は応仁の頃にはあったようでね、歴史が古い。そのころはみな米を作って暮していた。そんな中炭を作り始めたのがうちです。炭は年中使えますからな。そのおかげで村は割と豊かになった。村の采配をしていたのがうちの先祖。伝統ある家に嫉妬するというのはよくあることですな」

 「今は人形供養をしているそうですね」

 「昔、村に住み着いた人形師がいましてな。腕がよく、雛人形とか、土人形なんか作っていて、頼まれてもいないのにずっと作り続けていた。まあ変わり者です」

 伊織はもっと父の事を聞きたかったはずなのに話がどんどんそれていっている。

 「そのうちねぇ……小さい人形じゃ満足できなくなったのか、こう、大きな人形をつくるようになった。等身大のね。それがよく人間に似ていてね……なんだっけか、今でもあるでしょう、西洋風の大きい奴」

 「球体関節人形ですか」

 母の友人が作っているものだ。ビスクドールをもっと大きくしたような、人間の表情をリアルに形作られた人形で、ちょっと近寄りがたい程の生々しさと作りものの無機質さが同居する、ため息をつくような美しさ。大抵は少年少女の人形で熱狂的なファンが多いのだと写真を見せてもらったことがある。

 「ああ、それかな。西洋の」

 「日本風のものもあるそうです」

 そうなの、と墨染が物珍しいものを見る様な目で顎を手で擦った。

「成比佐君のほうが詳しいかな。管理させてるし」

そこで失礼します、と声がして伊織を迎えた女性が茶を持って入ってきた。墨染は笑顔で、

 「嫁です」

 と言った。女性がどうぞ、と茶器を差し出す。嫁ならかなり若い嫁だ。多分墨染とは二十は離れているだろう。見かけによらず女好きなのかと下衆なことを勘繰っていると女性は部屋から出ていった。正直喉はかなり渇いていたので有難かった。冷たい緑茶は美味かった。 墨染も茶を飲みながら続けた。

 「私は人形師じゃないから詳しくは知らないんだけどね。生人形というそうで、まるで生きた人間そのものの人形を作る。そういう人形をいくつも拵えて、どれもよくできていた。どっから話をきいたのか人形を買いに来るものも増えた。昔の事だから厄払いや呪詛をかわすために使うわけですな。でも天児はそれだけでは満足できなかった。もっともっと……美しい、本当の生きた人形を欲しがった。憑かれてたんですかね。そして作り上げたのです」

 「生きた人形を、ですか?」

 ニッと墨染はうなずく。

 「蛍雪篁姫。我々は篁と呼んでいます。天児の最高傑作ですよ」

 けいせつたかむらひめ、と伊織はゆっくり記憶するようにつぶやいた。墨染はとろりと夢現の表情で虚空を見ながら続ける。

 「見た目は公家のお(ひい)様です。真っ白の滝のように流れる長い白髪に氷襲の十二単と、朱色の袴。見事な檜扇を持って顔は雪の様に白く、その瞳は閉じられている……かぐや姫っているでしょう。竹取物語。あれと同じ、月の世界の姫をこの世に具現化したんですわ。だから篁姫。天児はこの人形をまるで自分の娘の様に扱ったそうですよ。米や汁ものを並べて一緒に食べるし、髪も梳く。姫や姫やと毎日話しかけて、天児の目には篁姫しか映っていないようだったと――ああ失礼、雨宮の事を話していたんでしたね」

 墨染は惜しむように笑うと茶を飲み干す。

 「まあそれで、御父上が亡くなったので君を呼んだのです。雨宮の家は掃除させてあります。すぐ住めますが色々点検させているから今日はうちに泊まるといいですよ」

 「――ちょ、ちょっと待ってください!」

 伊織は思わず立ち上がった。

 「俺は父の事が気になってきただけです! もう墓に葬っているというなら手を合わせて帰ります! ここに住む気なんてないですよ!」

 「ははは」

 墨染は嗤った。

 「あなた達筆でいらっしゃいますよね。御父上も」

 眼だけが嗤っている。伊織は玄関の能面を思い出した。

 「雨宮はみんなそうだから。あの手紙も読めたでしょう。普通ならミミズがのたくった字にしか見えない。読めてしまったなら仕方ないんですよ。あなたには鉄蔵の血が流れていますからな。あとは出会うだけ」

 「出会う?」

 あれはね、と墨染が続けた。

 「御父上に書かせたものなんですよ。いい字でしょう。死ぬ間際に書かせた割には綺麗に書けてる」

 登志彦往生したり、ただ雨宮の跡継ぎを切に願う

 村へ入られたし

 「ただ意識が朦朧としていたのでね、何をどう書くのかは私が指示しました。途中で息絶えてしまったので残りは私が書いたんですよ。彼の字を真似たのですがなかなかのものでしょう?」

 笑って話す墨染に伊織は嫌悪感で背筋が寒くなった。

 「あ、あんた、おかしいよ! どうかしてる!」

 「遺書がないと雨宮が困るでしょう」

 「知ったこっちゃないね! 墓に案内してください。俺もう帰りますから!」

 おお怖い――墨染は嗤ったままゆっくりと立ち上がると、昼餉の用意ができていますよと言った。

 「食べますか」

 伊織の中で墨染の非常識さと無気味さが渦巻いている。声が出ない。

 「荷物は預かりましたから、昼餉が嫌なら村の中でも見て回るといいですよ。いい村ですから」

 伊織ははっとして足元を見た。隣に置いておいたスポーツバッグがいつのまにか無い。あの中に手紙も財布もスマホも入れたままだ。

 「か、返せ!」

 「ごゆっくり……」

 そうつぶやくように墨染は笑みを向けたまま言うと幽霊のように音をたてず部屋を出ていった。伊織は汗ばんだ両手を強く握った。理由はわからないが墨染はどうやら伊織を帰すつもりがないらしい。――好奇心に殺された猫。

 あの手紙は餌だったのだ。



 墨染の屋敷にいるのも腹立たしく、伊織は村の中へと足を向けた。

 (何とかしないと)

 なんだかえらいことになってしまった。今更後悔しても遅いが、とにかく帰りたい。それには荷物を取り戻さないと。財布と電話は諦めてもいいが、あれには父の絶筆が入っている。それにしても墨染があそこまで自分にこだわるのはなぜなのか。「雨宮」という家はそんなに大切なものなのだろうか。考えながら村へ入った道を戻り始めた。しばらく歩いていくと村の入口――出口でもあるだろう森の小道がみえてきた。このまま逃げた方がいいかもしれない。

 (墨染はまるで俺が村から出ないような言い方だった。荷物を人質にして得意になっているのか)

 なめやがって。一旦、村を出て助けを呼んだ方がいいかもしれないな。伊織は小道に入った。森の中を歩きながら伊織は墨染の事を考えてみる。

 (あいつが村で一番偉くて、ああも頭がおかしいのか。父さんがこの村を捨てたというのもうなずける。……でも父さんは帰ってきた。なぜだ? 俺や母さんを捨ててまで戻る理由があったのか。いや、墨染の言うことが本当だとは限らないな……父さんは脅されて戻ってきたんじゃないか。あの男、何でもやりそうだ)

 父の墓についても怪しいものだ。本当に父の墓はここにあるのだろうか。歩きながらやがて伊織は異変に気付いた。出口が見えない。さっきから歩き続けているのにずっと森の中だ。

 (おかしいな)

 入ってきた時も距離は感じたがこれほどではなかったと思う。伊織は走りだした。走っても走っても、どこにも辿りつかない。どうなっている? と後ろを振り返ると村の中に立っていた。

 「ヒッ」

 棒立ちになった。伊織は村の森の出入り口の前に立っている。

 「馬鹿な」

 寒気がした。本当に俺を出さない気なのか。この村から。

すうっと血の気が引いていくのがわかった。ホラー映画ならここで終わってほしい。ここは何かおかしい。

 (父さん、助けて……!)

 ――りん。

 はっとする。なんだ? 鈴の音? 

 伊織が振り返るとそこには振袖姿の幼子が立っていた。

 「わあっ」

 思わず地面に尻をついてしまった。目の前に幼い娘が立っている。女童、という言葉がとっさに浮かんだ。場違いに赤く、極彩色の振袖を着ている。帯は細かい刺繍の入った深緑。歳は七歳ほどだろうか。長い黒髪を頭の上で一つに縛り上げ、かんざしやリボンで飾っている。ひときわ大きな――赤子のこぶし大ほどもある赤い玉のかんざしが伊織の目に焼き付いた。りん、と音が鳴る。かんざしに鈴が付いているのだ。七五三のような格好の女童は伊織をじっと見ている。無機質な瞳。そこで伊織は初めて彼女が右手に背丈にあわぬ日本刀を持っている事に気付いた。拵が古い。

 (斬る気か!?)

 普通なら考えられないシチュエーションだ。大学生が限界集落で幼女に日本刀で斬られて死亡。三流スポーツ紙にさえ載りそうにない。だが、今は何が起きてもおかしくないような気がした。愚弄され、荷物を盗られたあげく、魔性の振袖童に殺されたとしても――。恐ろしいのか恐ろしくないのか、伊織は尻餅をついたまま動けず思わず片目をつぶった。

 「桜、どうした」

 穏やかな声がした。途端に少女が鈴の音を響かせながら目の前から去っていく。伊織ははーっと息をついた。油汗が噴き出している。視線の先には、女児の頭をなでて微笑する青年の姿があった。妙な格好をしている。和服姿なのだが、普通の着流しではなく真っ黒の……ああ――黒子の姿なのだ。

(もしかして神社で見かけた人……?)

青年がゆっくりとこちらに近づいてくる。額には白い布を巻き、右側で結び垂らしていた。時代劇で病人がよく額に布を巻く、病鉢巻と似ている。

 「あの、大丈夫ですか」

 彼は右手を差し出す。色白で、どこかで見たことのあるような端正な顔だった。左側の前髪が少し長く、目元が少し艶っぽい。伊織は講義の資料にあった大正時代の書生の写真を思い出した。現代人にはない、生きたまなざし。青年の手に引っ張られて伊織は起きあがる。青年は伊織と同じか、少し年上くらいに思えた。多分クラスに一人はいる、ひっそりと忍ぶように教室で本を読んで過ごすタイプだ。

 「業者の方ですか」

 人形供養の事を言っているのか。

 「いや、その……俺は斎藤と言います。父を拝みに来て。ここでは雨宮というらしいんですが」

 青年の顔がこわばった。

 「雨宮の、登志彦君の息子さんですか」

 伊織は驚いた。父を知っている。いや、彼がこの村のものなら知っていてもおかしくはないだろう。しかし、父を――「君」と呼んだ。父より遥かに若いのに妙である。青年は手で前髪を掻きあげ、視線を落とした。

 「参ったな……来てしまったんですか。どうやって……」

 「手紙が来たのでここを探してきたんです。……後悔してますよ。墨染莞爾とかいう人にあったがどうも頭がおかしい。あなたもこの村の人なんですか」

 伊織は今までの経緯を軽く説明した。なんだか、この青年になら言ってもいいような気がしたからだ。もしくは八つ当たりをしたかったのかもしれない。青年は視線を落としたまま言った。

 「僕は稲葉と言います。稲葉紺之助」

 伊織ははっとした。父の言っていたイナバという人物。だが明らかに父のほうが年上……同一人物ではあるまい。親戚か。

 「この村の家の一つ、稲葉家の次男です。……今日僕が来ることは莞爾さんに知らせてあったから……あなたが来たのは偶然でもない、か……」

 「どういうことですか」

 「彼は貴方をこの村に「呼び戻したい」んですよ。雨宮の席が空いているから……篭目村の一人にしたいのです」

 「あの」

 「あなたをここから出してあげたい。どうにかできると思います。こんなところではなんですから、こちらへ」

 紺之助が歩きだしたので伊織は並んで歩いた。後ろから桜、と呼ばれた女童がついてくる。気になったが何かしてくるわけでもなさそうだ。

 「出すなんてそんなことできるんですか。俺、森の中走ってもダメだったんですよ」

「あなたは村では例外の存在です。篭目村の人間が外に出るなどありえないから。登志彦君が何も言わなかったならあなたはここにいるべきではない。あなたを帰しましょう」

 「それはありがたいですけど、荷物とられちゃって。父の形見が入ってるんです」

 「桜に探させます。僕より鼻がきくから」

 「あ、あんな子供に!? いやでも、その紺之助さん……がそんなことして、平気なんですか。墨染というのはここで一番偉いと聞いた」

 「少し我慢すればいいだけですから」

 「我慢?」

 「折檻ですよ。……莞爾さんはそういうことをするんだ。それより莞爾さんの他に誰にも会ってませんか」

 「えっと……墨染さんの妻って人には会いました。あとお手伝いのおじいさんかな?」

 「あの人の正妻はもう亡くなってるんですよ。参ったな」

 なにがよくないのだろうか。しかし正妻とはまた古い表現だ。ではあの女は妾か何かなのだろうか。だとしても伊織には関係のないことだ。桜、と紺之助が呼ぶと後ろを歩いていた振袖童がパタパタと走ってきた。

 「この人と話したいから、露払いを頼むと龍之助に言ってきてくれるかい」

 やさしげに話しかけると少女はじっと顔を見上げて紺之助の事を見返す。

 「大丈夫、僕はなんともないから。さ、行っておいで」

 桜はうなずき、振袖を着ているとは思えない速さで走っていった。

 「龍之助?」

 「弟です。稲葉の家を守ってくれている。僕はこんな状態ですから」

 どんな状態なのかはわからなかった。変わった服装をしているなあ、というくらいだ。そう、人形を操る黒子の姿。

 「文楽です」

 伊織の心を読むように紺之助は答える。

 「黒子が人形を持って……操るでしょう。それと同じ」

 「あーやっぱり。テレビで見たことあります。でも人形を操っているというより俺には黒子が人形に操られているように見えたな。人形を操ることに必死なんだ」

 伊織は思わず言葉がくだけた。

 「それは間違っていないと思います」

 「やはりそういうお仕事をされてるんですか」

 「いえ」

 紺之助は苦笑すると、

 「でも同じかな。僕は「人形遣い」なので。さっきの娘……あの子の(しもべ)のようなものです」

 「僕……あの子の? 子供なのに」

 「主導権はなにも大小で決まるものではない。この村のように……さあこちらへ。村を出る算段をしなくては。急ぎましょう」

 そういって紺之助は足を速めた。

 


 朱色の鳥居をくぐるとそこは広い境内だった。稲葉神社。何を祭っているのかわからないが、賽銭箱があり、神殿は清潔に管理が行き届いている様子だった。賽銭を入れる人間がやってくるのか疑問に思ったが深く考える間もなく奥に案内された。社務所らしき建物に入り、裏に進むと出口があってそこは稲葉家の屋敷へ続いているという。屋敷は墨染の家ほど大きくはなかったがなんだか空気が澄んでいるような気がして伊織は安心した。墨染の家は澱んでいる気がした。狭いところですが、と遠慮しながら紺之助は伊織を屋敷の中に促す。

 「中に入って待っていてください。僕は用をすませてくるので。頼むよ桜」

 そういって紺之助は小走りに去っていった。伊織は迷っていたが、玄関にいつの間にか先ほどの女童、桜がお盆に茶と菓子をのせて待っていた。横に首を動かす。入れ、と言っているらしい。

 「し、失礼します」

 中に入るとよく磨かれた廊下があり、桜が先頭に立って歩いた。伊織はその後ろを行く。やがて中庭が見える廊下に出た。大正風のガラス窓で外と内が仕切られた廊下はなにか懐かしい。桜はそこでスッと雪見障子の前で膝をついた。

 「桜か。連れてきたんか。入れなさい」

 桜は襖を開けると盆を持って伊織を中へと促した。

 部屋の中には老人が座っていた。畳の上に藤の蔓で編んだ柔らかな座椅子に座り、膝には毛布が掛けられている。すぐ近くに杖が置いてあった。足が悪いのだろう。伊織はそのまま部屋に入る。桜は茶と菓子を机に置くと去っていった。老人は机の傍の大きな座布団を指さし、

 「座んなさい、ここじゃ墨染の目も届かない。兄上がうまくやってくれるはずだ」

 「あ、あなたは……龍之助、さん、ですか」

 「その通り。稲葉の三男、稲葉龍之助」

 部屋の中は薄暗く、昼間だというのに行灯が燈っている。稲葉龍之助は古風な煙管を吸うとふうと紫煙をくゆらせた。頭は禿げ上がっているがそれが妙に粋な姿で、いっぱしの文化人に見えた。

 「兄上がせっかく帰ったというに、また面倒なことになったものよ」

 年寄りとも思えぬはっきりとした声音で龍之助はきりだす。

 「話は聞いた。あんた雨宮の子だそうだな」

 「俺は斎藤です。……でも父は雨宮の人間、だそうですが」

 「雨宮の血を引くものはみな雨宮よ。登志彦は失敗した。奴は書道を極めると言って村から一時的に出る許可を得て――逃げた。だが篁の魔力から逃れられなかったのだ」

 「篁……それって蛍雪篁姫のことですか?」

 「そうだ。墨染が話したか」

 「はい。……一体どういうことです。この村は何なんですか? 俺は村から出してもらえない……雨宮だから? なぜ」

 「この村は人形に支配されておる」

 龍之助は倦んだものを見つめる目で言った。

 「人形のために村が成り立っているといってもいい。この村の住人は何百年もの間、篁姫に魅入られてきた。篁に魅入られたものはここから出ることができん。あんたの父上のようにな」

 父は結局村に帰った。父はその篁とかいう人形に――魅入られた?

 「どういうことです。ここは……あなたたちは一体」

 「……知らんでもいいことだ」

 「ここまできたら知らないと気が済まない、です」

龍之助は深くため息をつくと、少し長くなる、と前置きをして話し出した。

 「大昔のことだ」

 行灯の明かりが薄闇に揺れる。

 「ここ篭目村は炭を作って豊かになった。それまで籠を作ってカツカツで暮らしてたのを村の長者が炭を始めてたんと儲けた。その長者が墨染だ。そして村には天児という人形師がいた。いつからいたのかは知らん。なかなか出来が良いものだから墨染が仲介して人形も売った。が、そのうち天児は人形作りに没頭してろくに飯も食わぬ始末。村の者が時々差し入れをしてやったりした。ところがある時何年も続いて近くの川が氾濫を起こしてな。付近の村は壊滅状態になった。ただ人が死ぬだけじゃない、農作物がとれないから飢饉が起こった。どうしたと思う」

 「……治水工事?」

 「人柱だ。人柱をたてて龍よ鎮まり給えと願った。水は竜神と関係があるからな。その時人柱に選ばれたのが天児だった」

 (奴は流れ者)

 (余所者だぁ、もしかしたらあいつが禍を連れてきたのかもしれねえぞ)

 「村人から犠牲を出すと後味が悪い。ちょうどいいと思ったんだろうな。だからだ。ひどい話だろう。だが天児は覚悟を決めたのか、村長の墨染を家に呼んだ。娘を嫁にもらってくれないかという」

 「娘さんがいたんですか」

 「そんなもんおらん。天児が娘として墨染に差し出したのは人形だった。それが篁姫よ。わしは実際に見たことはない。ただ精巧に描かれた絵を見て知っているだけだ。見た目は人間とさして変わらん。月に帰ったという伝説の姫君を模した人形らしい。そうさな……少し――気がふれそうな美しさがある。気品というか風格というか。普段は目を閉じているが、天児から譲られた折、墨染は篁の目を見てしまった」

 満月の美しさ。

 白き玉の肌の儚さ。

 その瞳の麗しさよ!

 天上の心地とはまさにこのこと。

 ――我が妻に迎えり。

 「墨染は篁を嫁にもらうことにした。天児は喜んだらしい。どっちの心境も私にはわからん。人間の嫁もいたようだが墨染は篁を正妻として一部屋を与え、その世話を下男にさせた。それがあんたの先祖だ」

 「確か鉄蔵と……墨染さんもそういうことを言っていました」

 「それくらいは話したか。で、篁が墨染の家にいった後、天児はすぐに人柱にたてられて埋められた。言い伝え通りなら――この先に大きな川があったろう。あの水底に眠っているはずだ。川はおさまり……問題は――そのあとからだった」

 龍之助の声色が少し変わった。

 「そして稲葉の歴史も始まる」



 異変が始まったのは天児が死んでから三年ほどたってからだという。村の者が真夜中に篁姫が「歩いている」のを目撃したというのだ。篁が墨染の家に輿入れする際、村中の人が祝いに来ていたのでその顔は誰もが知っていた。長者様は変わったことをするものだと隣村からも人が来たほどだったのだ。目撃した村人はよく酒を飲んでは夜中にうろつく癖があったので、酔っ払いの戯言として取り合ってもらえなかった。しかし次第に「見た」という人々が増えた。普段は目を閉じている篁が目を開いて歩いているというのだ。篁の目は「見えない」はずだった。通常は瞳を閉じている。天児は篁を盲目として作ったからである。噂は大きくなり、困った墨染は篁の世話をさせていた下男の鉄蔵にその様子を聞いたが、鉄蔵は異常はないという。しかし鉄蔵が日々つけていた日誌を盗み見したところ、

 ――儂の姫様が夜の散歩に出た

と書かれていた。鉄蔵を責めても申し訳ねえ申し訳ねえというばかりで埒が明かない。墨染は自分以外の人間が篁と秘密を共有していることに嫉妬した。

 そしてついに篁を目撃したものが次々死にはじめた。発狂する者もあり、村は異様な雰囲気にのまれていった。皆篁を恐れ、外にも出たがらない。農作業に支障も出るし、なにより篁を目撃し、命を落とすものがやまなかった。墨染は篁を部屋に閉じ込めたり柱にくくって動けなくさせたりしたが無駄だった。ひそかに篁を燃やすべきではと声があがりはじめていたが、墨染はそれには頑として首を縦に振らない。そんな騒動のさ中、嵐の夜に村人の家の戸を叩くものがあった。

 もうし、もうし。この嵐で難儀しております。

 どうか一夜だけでも宿を貸してはいただけないか。

 そう言って戸を叩いた男は家族を連れていた。

 「私は稲葉と申します」


 応対したお里という女は困った末にこの一族を墨染の家に連れて行った。

 男は稲葉丞爲(すけため)と名乗り、他に息子三人と妻一人、他に幾人かの家人を伴っていた。元々京の人間で朝廷の陰陽寮に属する役人だったのだが、都が戦で荒れ始めたので見切りをつけ、地方の縁者を頼りに下ってきたところだという。墨染は稲葉が陰陽師と聞いて、宿を貸す代わりに篁のことをどうにかしてほしいと頼んだ。丞爲はこれに応えて篁の様子を視たのだが……。

 「これは……」

 ――情念が強すぎる。この人形の裡にあるものが、昏い。人の魂を欲している。魂を喰いたがっている。何故喰うのか。丞爲は篁に問うてみたが返事はない。

 「理由はわからないがこの人形は何かを欲している。情念が形を作り、人と同じ魂が宿ったのだ。人形には魂が宿りやすいが、その魂が曇ってきているようだ。むやみやたらと他の魂を取り込んでいる。このままでは悪鬼羅刹となろう。穢れを払い、清めればむやみに人を食うのはやめることだろう」

 丞爲は篁の魂を清めることにした。そのための儀式の日を占い、嵐がやんだらすぐに行うことにした。勝手に動けぬよう、篁姫の長い髪の下の背には霊符を貼る。たちまちピタリと篁の徘徊はおさまった。安堵する村人たちをみて、墨染は儀式の手伝いに何人か集めるとあとは吉日を待つのみとなった。そして当日村民たちが見守る中、篁を椅子に座らせ、その周りを注連縄で囲い、丞爲は三人の息子とともに精進潔斎してこの人形に挑んだ。祓詞を唱え始めた矢先、篁がぐらぐらと揺れ始める。

 「動いているぞ!」

 様子をうかがっていた墨染が叫ぶ。

 「どうしたことだ」

 丞爲が気色ばむ。貼った霊符は強力で簡単に抵抗はできないはずだ。

 「父上、符が貼られていないのでは」

 次男が立ち上がった。

 「あ、あれは」

 儀式の様子を眺めていた村人の中に仄暗い笑みを浮かべてこちらを見ている男がいた。手の中にくしゃりと丸めた赤い霊符を持っている。

 仕方ねえ。

 仕方ねえ。

 姫様の頼みとあっちゃ仕方ねえ。

 ――男は天児の家にたびたび差し入れをし、世話を焼いていた男であった。家を訪ねる間、いつのまにか篁の術中にはまっていたのだ。いや、魅入られたのかもしれない。だがもちろんそんなことは誰も知らない。稲葉の次男が霊符を取り戻そうとその場を離れたとたん、篁を囲んでいた注連縄がブチブチと切れた。

 「いかん」

 陰の気が強い。盛り返す気だ。丞爲はすばやく印を組み、調伏の姿勢をとったが遅かった。篁は宙へふわりと浮かぶと丞爲を避けてぐわりと飛び、父に加勢しようとした長男へと手を伸ばして眼を見開いた。目と目が――あった。

 『   』

 何かを囁いて篁がいとおしげにその頬をさすった途端、丞爲の息子は「喰われた」。まさしく魂をとられたように呆然として動かない。が、すぐに篁を抱きしめると愛でるように見つめ返し、その場から篁を抱えたまま人とは思えない速さで遁走した。

 「兄上!」

 次男が狼狽した。

 「何をしている!」

 墨染の怒気をはらんだ声が上がった。

 「篁をどうする気だ!」

 「やめてくれ! 連れて行くのは」

 丞爲が悲痛な声を上げた。その声にこたえるように篁が微笑むと、稲葉の長男は足で空をけり、瞬く間にその場から姿を消した。まるで天狗のように。あっという間の出来事だった。

 「これはどういうことだ」

 墨染が丞爲ににじり寄る。

 「篁を盗むとは!」

 「待ってくれ。あの男が霊符を」

 そういって次男は指をさすとそこはもうただの人だかりの山だった。

 「――儀式は失敗した」

 丞爲はうなだれた。三男は盗んでなどいない、といきりたったが墨染も詰め寄る。

 「ならこの始末をどうしてくれるのだ。篁は私の妻だ。ほかの男になぞやらん。恩を仇で返すのか! 都の陰陽師が聞いて呆れるわ。さあ、どうする!」

  村中の人々が静かに、そして軽蔑の目で稲葉の一家を見ていた。

 「おそらく息子はあの人形の「足」にされたのであろう……」

 地べたに座り込んで丞爲は言った。

 「あの人形、人を惑わす癖がある。たくさんの人間を食うには遠くまで行く必要がある。ゆえに我が子を傀儡としたのだ」

 「子供をとられたことは同情するがそれはお前たちがしくじったからだ。それに失ったのは私も同じ。篁はどこかへ行ってしまったぞ!」

 「……あの人形は息子を連れている。どこにいるか、探ることはできなくもない……」

 ふむ、と墨染はしばし思案すると、

 「たしかあなた方は都を落ちのびてきたのだったな」

 「左様」

 「ならばこの村に住まわれては如何」

 「住む……」

 「この村に根を下ろし、篁を取り戻していただきたい。なに、取り戻してもらえばそれでいいのだ。その後親戚でも知り合いでも訪ねればよかろう。ただし取り戻すまではいてもらう。家も飯も用意しよう。その代わり必ず篁を探して連れ戻してもらう」

 「逃さないということか」

 「責任は取ってもらわねば。約束を。鉄蔵、こちらへ」

 人々の中から小男がひょこひょこと紙と筆を持って現れた。

 「この男は字がうまいのです。一筆書かせましょう」

 ……結局、稲葉はこの条件をのんだ。儀式を失敗させた後ろめたさと、長男を取り戻したい気持ちがあったからだ。しかし篁はなかなか捕まらず、やっと居場所をつきとめた時そこに横たわっていたのは丞爲の長男の骸のみだった。まるで歳をとらず昔の、若いままで。見つけたのは丞爲の三男の孫であり、稲葉はすっかり篭目村に根を下ろして暮らしていた。篁はまたほかの人間を惑わして「足」にしているのだろう。孫はその骸を村に連れて帰り、床についていた丞爲へみせた。落涙し、丞爲は亡くなった。

 そして稲葉の一族は篁を追い続ける。子、孫、ひ孫――子々孫々に至るまで。

約束を果たしたら村を出よう、出ようと数えて数百年。

彼らは篭目村の一部となり、神社も立てて氏子たちもできた。先祖はみなこの村に眠っている。

あとは約束を果たすだけ。約束を。



 「近代に入ってのちに篭目村ははっきりと独立した村になった。木が生い茂って、森の中に放り込まれたような形で」

 「ちょ、ちょっと待ってください」

 伊織は納得がいかない顔で龍之助に問う。

 「儀式が失敗したのってその、符をはがした男のせいなんでしょう。そもそもなんではがしたりしたのか……」

 「はがした男の末裔は今、天貝(あまがい)と名乗っている。墨染に次ぐ大きな家だ。天児の家の跡地に住んでいる。天児に差し入れをしていたから、そのころから篁に惑わされていたのかもしれん」

 そうだ。雨宮も――鉄蔵も篁が夜外に出ているのを知っていて黙っていた。それが自分の先祖なのだと思うとゾッとする。鉄蔵も篁を独り占めしたかったのだろうか。誰もかれもが篁を自分の物にしたがっているようだ。

 「村というのは怖いものよ。その村にしか通じない掟がある。村に旅人が宿を求めるのには結構な覚悟がいる。「外」の人間を村人が食ってしまう話はよくあるものだ」

 「ああ、旅人を泊めて金品を奪うとか……」

「そうさな。天貝は村の人間だったから、稲葉(うち)も強く言えなかったのかもしれない。儀式を失敗したことで殺されるかもしれないと恐れた……」

 「そんな……」

 「つまりな、この村は人形、篁姫に魅入られた者でできた村なのだ。天貝だけじゃない、他にも渦正、虞世……いろいろおる。どれも篁に魅入られたものたちの末裔よ」

 「篁を作った天児って人の子孫はいないわけですよね」

 「おらん。ただ、天貝が末裔を名乗っとる。関係ないがな」

 「……墨染は俺をどうしたいんでしょう」

 「雨宮の、鉄蔵の子孫が欲しいのだ。共に篁姫を求める篭目村の一員をな。稲葉は途中から入ったから詳しくはわからんが、この村を構成する家というのはおそらく大昔から変わっておらん。どの家も篁を求め、結果その身を共有しようとすることも。篁はこの村だけの秘密だ。人形に魅入られた者たちだけの秘密。そういったものが篭目村には溢れている。そして決して漏らしはしない」

 人形。篁姫の秘密。秘密の共有。秘密の漏洩は許さない。篭目村を包む、籠の目。

 「この村にある「家」の当主はみな篁に魅入られている。何らかの形で篁と「会っている」。絵だったり語り聞かせだったり……本人に会うこともな。篁は時々この村に帰ってくるのだ」

 「帰ってくる?」

 「長い年月の間、篁は篭目村に「戻ってくる」ことがある。理由はわからん。ただの「足」探しなのか、魂を食いにきているのか……我々稲葉は常に篁の居場所をつきとめるために行方を占う。近づいてくるのがわかれば人々が食い殺されないようにたくさん人形を用意して篁の目をくらませる。人形は人の形をとったときに何かしらの「魂」が宿るものなのでな。それで誤魔化すわけだが、結局食われて終わった家もある」

 それで大量の人形を集めているのか。伊織はやっとタクシー運転手の神田の話に合点がいった。

 「人形たちはどうなるんです」

 「篁が連れて行ってしまうのでわからん。残したりもするが」

 まさに食い散らかしだ。

 「その際に篁に会ってしまうものがたまにいる。会うというより呼ばれているのかもしれんが――篁姫の目を見てはならんのだ。見れば魅入られるか、食われる。だが率先して家の跡継ぎに篁に会わせようとする馬鹿者もいる」

 「? 危険じゃないですか。どうして」

 「この村は篁に魅入られているからだ。篁に心酔していて一人前という考えなのだ。いい加減やめるよう何度も言ってるのだが、奴らはやめん。つまりな……この村の人間は篁姫に心奪われなければならんのだよ。それが前提なのだ。それが篭目村という村なのだ。骨抜きというか、この村の目的は篁を取り戻すことだから篁を常に第一に考えるようでなきゃいけない。それには一度会わせれば話が早い、というのが墨染などの意見。目があえば取り殺されることが多い。死なずとも篁に心酔してしまう。だから遠くから篁の姿を見せてその存在を焼き付けさせることが多い。それだけで篁に傾倒する。それが当主が通る道だ」

 「狂ってる」

 伊織は吐き捨てた。

 「死んでしまうかもしれないのに」

 「村の奴らに外界の道理は通りゃせん。あんたも村に入ってからそれを感じているだろう」

 「……稲葉さんは、龍之助さんは違うんですか。紺之助さんは俺を助けてくれると言いました。あなた方もこの村の人なんでしょう」

 「稲葉は篁を捕え、封じることを目的としている。元々先祖は篁を捕まえて村人に返すことを約束としたからだ。篁の探索、奪還には我々稲葉があたっている。……だから篁の犠牲になった者は稲葉が一番多い……今は兄上がその役を……残酷なことだ……雪之助のせいで……。稲葉は魅入られたりそうはならなかったり、ムラがある。術者としての技量の差かもしれん。私も老いた……もう兄上の片腕となることさえできん。口惜しいものよ」

 伊織は訝し気に龍之助に問う。

 「すいません、あなたが言う兄上というのは紺之助さんのことですよね。どう見てもあなたの方が年上で……いや、年上だなんてレベルじゃない、孫ほどに違う。紺之助さんは僕と同じくらいの年じゃないですか」

 「兄上は明治生まれよ。私とは十歳違いだった。もう百歳以上になる。」

 「まさか!」

 伊織は軽く首を振った。

 「篁を捕まえるために人の道を捨てたのだ……稲葉には門外不出の外法があっての。それを使った。信じなくてもいい。現実でなければどれほどよかったか」

 龍之助は視線を落とした。疲れ、膿んだ様な表情をしている。

 「稲葉の家の人はみんなそういうことをすると?」

 「外法を使ったのは紺之助の兄上だけよ」

 「……」

 伊織はなにか違和感を覚えた。篁を追っているのは稲葉の人間……つまり代々篁を追っている家だという事だろう。何百年にもわたって……しかしなぜ紺之助だけが外法に手を出したのだ? 

 「なぜ兄上だけがという顔だな」

 龍之助が伊織の考えを察したように答える。

 「聞くな。お前さんが聞いても仕方ないことだ。あいつさえ務めをきちんと果たしていたなら……ここから出たいのだろう。なら聞いても無駄なことだ。」

 「げ、外法って……なにをするんです?」

 「……人形に自分の魂を半分やることで自身の魂と人形の魂を共有する呪術。これを行うと歳を取らなくなる。つまり、篁に魅入られさえしなければ篁を永遠に追うことができる……おかげで村の者は安心している。私には子がいない。稲葉はじき絶える。しかし稲葉の子孫はいなくとも兄上がいれば篁はいつか必ず手にできるだろうとな」

 「――そんな! 酷いですよ! そんなのは……生贄だ!」

 伊織はつい声を荒げてしまった。

 「反対はしなかったんですか? ――そうだ、紺之助さんは自分のことを「次男」だといっていた。お兄さんがいたんですよね? なぜ紺之助さんだけがそんなことに……」

 ばし! と突然龍之助が膝を叩いた。伊織はおもわず言葉を止める。俯いた龍之助の表情は見えない。

 「あいつを兄などと呼びたくもない! あいつがしっかりしておれば……!」

 「実の兄をあいつなどと言ってはいけないよ龍之助」

 はっとして伊織は振り返った。いつのまにか襖があけられ、そこには紺之助が膝をついて顔をのぞかせていた。

 「兄上……」

 「前から言っているだろう。兄さんが連れて行かれたのは僕のせいなんだよ。だからそんな言い方をしないでおくれ」

 「兄上が犠牲になることはなかった。私は今でも止められなかったのを後悔しております」

 「――すまない龍之助。お前には苦労ばかりかけている。さて伊織殿」

 名を呼ばれて伊織はかしこまった。

 「墨染の下男があなたを探している。もう、外は陽が落ちかかっているから」

 「え、もうそんな時間」

 村のことを聞いているうちに随分時が経ってしまっていたようだ。

 「村を出る方法があります。墨染は今夜あなたを家に泊めるでしょう。雨宮の家は今、人の手を入れて住めるように準備しているようだ。雨宮の血筋はあなた以外もういないので、家の管理は墨染がやっているのですよ。すべて済むまで墨染の家に泊めるはずです」

 やはりなんとしても伊織を村に留め置くつもりらしい。

 「墨染が人を泊める時に使う部屋は決まっています。黒百合の掛け軸がかけられた部屋です。とりあえず墨染の家に戻り、大人しくその部屋に泊まってください。そして夜になったら、厠を借りてください」

 厠……トイレのことか。

 「そうですね……夜十時くらいなら村の外は真っ暗ですからそれくらいがいい。部屋近くの厠には隠し扉があります。墨染の家と雨宮の家は主人と下働きであった関係から、繋がっていた名残があるんです。厠の入り口の左側の壁を少し強く押してください。外に出られるはずです。いいですね、左側ですよ」

 「えっと、でも荷物が……」

 「桜にとってこさせました。隠し扉を開けると蓋をされた今は使われていない井戸があります。その上にのせたそうです、すぐわかりますよ」

 「――あ、ありがとうございます!」

 「外に出たらすぐに村を出てください。今は「出られるように」してあります。振り返ってはいけない。二度とここに来てはいけませんよ。今夜は「結界」をゆるめるので村の出入り口は簡単に出られます」

 「結界?」

 「昔色々ありまして。対策のためにここには結界がはられ、中は異界と同じなのです。……今夜、篁姫が篭目村にきます。今日僕が村に戻ってきたのもそれが目的」

 伊織はごくりと唾を飲んだ。では篁を今度こそ捕らえる気なのだろう。

 「……大丈夫なんですか」

 「うちのことよりご自分の心配をなさったほうがいい。篁が今日やってくることは占術で前々からわかっていた。村にも伝えてあります。それにあわせて墨染はわざとあなたをおびきだした。あなたを篁に会わせて完全な雨宮の当主にするつもりなんです。その前にこの村からでなさい。でないともう「雨宮」としてしか生きていけなくなる。ここのことは忘れて」

 そういう算段だったのか。伊織はひやりとした。

 「うちに来ていたことは言わないでください。稲葉に来ていたとわかれば墨染はあなたの挙動に警戒する。夜は助けに行けません。篁を捕まえる儀式がありますから。いいですか、荷物を持ってすぐに村をでるんですよ。大丈夫、通れます」

 「……わかりました。ありがとうございます。――ただその前に親父の墓を見たい。あるのなら。無理ですか」

 「お連れします」



 紺之助に連れていかれた場所は村のとても奥深いところだった。木々が生い茂り、天井は桜と思える木の枝で網目のようになっている。開花すればさぞかし美しい桜の森となるだろう。そしてその桜の木の下にたくさんの祠のような、石が集まっているところがあった。塚のようであった。

 「ここが村の墓場です」

 紺之助が端を指さす。まだ新しくつくられたと思える塚があった。やや適当とも思える丸い小さな墓石がのせられている。

 「登志彦さんです」

 そういって紺之助は手を合わせた。

 「彼とは生まれて二か月たったころ初めて会った。登志彦さん、息子さんです」

 「……」

 伊織は墓の前に立ち、そして腰を落とした。

 (親父……)

 母さんにも報せてやりたかったな、と伊織は思う。この村は伊織の住む世界とは何もかも違いすぎる。結局何にもなかったと母に伝えよう。伊織は両手をあわせて深く拝んだ。そして立ち上がる。

 「気がすみました。墨染の家に戻ります。出ていくのはかなり夜のほうがいいかな」

「十時を回っていれば十分。その頃は皆、うちの境内にきますから人の目はほとんどない」

 篁がくる。

 ――なんだ? 

伊織は心の中に妙なものが渦巻くのを感じた。散々恐ろしい話を聞かされたからだろうか。

「莞爾さんは丑三つ時にあなたを連れに来るでしょう。篁が一番活発になる時間なんです。その前に逃げ出してください。何があっても――寄り道したりしないように」

 「はい、いろいろありがとうございました。その、変な言い方かもしれないけど……元気でいてください」

 「――はい」

 余り代り映えのない表情の紺之助の顔が柔らかに緩んだ。――きっともっと朗らかな笑顔の似合う人だったのだろう。そんな気がした。

 (だけど俺ができることはない)

 自分は村を出る身だ。これ以上深くかかわるのはよそう。



 伊織が墨染の家に戻ると家の前で莞爾がウロウロしていた。伊織を目にすると笑いながら、

 「探しましたよ。村はどうでしたか」

 そういって親しげに話しかけてきた。油ぎった顔と髪の毛がやたら不潔に感じる。

 「色々みましたよ。随分広いんですね……畑も多いし」

 伊織はさもずっと村の隅々を歩いてまわっていたようにしゃべった。

 「この村はほぼ自給自足なんですよ。肉や魚なんかは外で買ってきますが何しろ皆菜食主義でねえ。今日の夕餉は天ぷらですよ。先に風呂に入りますか」

 「風呂はいいです。……疲れたんでさっさと寝たい気分ですよ」

 「もちろん部屋は用意していますよ。明日は雨宮の家に移動するといい。四方(しかた)がきれいにしておきました」

 「いろんな家があるみたいだけど雨宮の家ってどこにあるんですか」

 「うちの隣です。鉄蔵の家系はうちの下男でしたからなあ。隣だと便利でしょう。近くに稲葉神社の敷地があります。今日はそこで祭事がありましてね」

 「はあ」

 伊織はなるべくまるで興味がない、というように答えた。紺之助は篁姫が来るのだと言っていたから彼女を捕まえるための儀式のことだろう。

 「帰ったぞ」

 墨染が玄関に入ると、昼間伊織をこの家まで案内してきた小男が現れた。

 「夕餉は」

 「できとりやす。お部屋まで案内します」

 男はぼそぼそと答えると廊下を歩き出した。

 「彼についていってください」

 墨染が促す。伊織はなるべくこの家の構造を意識しながら男の後を追った。少し振り向くと墨染がニコニコしながら腕を組んでこちらを見ている。

 ――監視されてる気分だ。

 伊織は屋敷の奥と思われる部屋に案内された。六畳ほどの部屋で、この屋敷のことを思うと割と狭い部屋に思えた。部屋の壁には黒百合が描かれた掛け軸がかかっている。紺之助の言う通りの部屋の様だ。電気が通っているのかいないのかわからないが、照明器具は見当たらない。その代わり行灯がいくつか燈っているほかに燭台に時代錯誤な赤い蝋燭が燃えている。火を揺らしているせいで部屋は存外明るく感じた。机が用意され、その上に様々な菜物の料理がおかれていた。墨染の言う通り野草の天ぷらがメインのようだった。小男が桐の櫃を開けて白飯を盛り始める。伊織は用意された座布団に座り、男に差し出された茶碗を受け取った。

 「もっと盛りますかぃ」

 「いや、これでいいよ……そういえばこの部屋は時計がないようだけど、時間ってわかりますか」

 「今は六時すぎです」

 「時間が分からないと落ち着かないんだ。時計が欲しい」

 「一時間ごとに蝋燭の様子を見に来ますんで」

 「一時間しか持たない蝋燭とはめずらしいね」

 「和蝋燭なので。この村で作っとります。ではどうぞごゆっくり。白米は好きなだけ食べてくだせえ。しばらくしたら片づけに来ます」

 そういって小男は部屋を辞した。伊織は黙って箸を進める。一時間ごとに人が来る……次に来るのは七時か。十時ごろを目安に去るよう忠告を受けている。となると、四番目に人が来たら十時だ。厠の場所を聞いて部屋を出るのがいいだろう。くやしいがこの天ぷらは美味いな、と思いながら伊織は力をため込むように夕餉を食った。

 食べ終わってからしばらくするとさっきの男がやってきて膳を下げていった。伊織は朝食は何時になるかと、わざと聞いた。もうここで過ごすと考えている印象を与えるためだ。男は朝は呼びに来ると言い、机を端へ動かすと部屋の押し入れから布団を取り出して綺麗に敷いた。そして水差しと湯呑を置いて出ていった。伊織は布団の上に転がり時を待った。やがて男の言っていた通り、初老の女が何回か蝋燭を換えにやってきて、数えて四人目に昼間、伊織と墨染に茶を運んできた若い女がやってきた。女は蝋燭を変えると伊織が転がっている布団へと足を進めて膝をついた。不審に思った伊織は、

 「な、何ですか」

 「もう夜ですから」

 女は笑顔のまま言った。

 「抱いてくださいまし」

 一瞬伊織の思考が止まる。

 「私はあなたの妻ですもの」

 ――妻です、と昼間墨染は彼女を紹介した。年の離れた妻だと思った。

 違う。自分の――伊織の妻だったのだ! 

思考回路が狂う。心臓が嫌な音を立てている。伊織はにじり寄る女と距離をとりながらなんとか冷静になれ、と胸を抑えた。あの男――墨染はここで既成事実を作って村に留め置くつもりなのだ。流石にそこまで考えつかなかった。

 「あ、あのですね。あなた俺と一度しか顔を合わせてないでしょ。いくらなんでも」

 「私たちは嫁ぐこと、子をなすことがこれ以上ない幸福。だってそれが虞世家の理ですもの。さあ、私と交わって、早く。そうすれば私は」

 「あ――の」

 時間がない。もう十時過ぎのはずだ。

 「わ、わかりました。でも俺も、その、男にも覚悟がいります。トイレに行ってきたいのですが、場所はどこです」

 伊織は脂汗をかきながらなるべく落ち着いて女に聞いた。

 「厠でしたら……」

 この部屋を出て左に進んで右の奥、と潤んだ目で女は答えた。

 「そ、そうですか。じゃ、ちょっと失礼します」

 伊織が慌てて立ち上がり部屋の襖をあけると女もついてきた。

 「すいません、お、男の覚悟はちょっと時間がかかるので部屋で待っていて下さい」

 我ながら苦しい。だが女は少し思案した後納得したのか、お待ちしております、と柔らかく手をついて頭を下げた。伊織は静かに襖を閉めると厠に急ぐ。心臓の鼓動はこの上なくせわしない。まったくの予想外だった。

 (何なんだ……一体どこの(ひと)なんだろう……洗脳でもされているんじゃないのか)

 女の言うとおりに廊下を進むと、厠と思える戸が見えてきた。

 (落ち着け、落ち着け、確か)

 右側の壁だったか。

 静かに白い壁を押す。伊織は早くここから去りたい気持ちでいっぱいだった。だから壁がへこんで忍者屋敷のように回転したとき、ここだと思ってしまった。中に入ると下へ数段降りる階段があり、その先は細長い廊下になっている。蝋燭があちこちに燈っていて、伊織が中に入ると壁が閉まり、一人きりとなった。

 (しまった)

 ――間違えた。本来なら外へ出るはずだ。慌てて振り返って壁を押したがびくともしない。こちらからは開けないようだ。廊下には蝋燭以外何もない。

 「……しかたない。行くか」

 どこに続いているかわからないが、とにかくこの村を出ることができればいいのだ。そう思って廊下を進むと右側に先が折れている。そのまま進むとあまり歩かないうちに出口と思える階段が見えた。

 (ここか)

 階段を上って戸らしきものを引くと薄暗い廊下に出た。きょろきょろとあたりを見回すと、そこはどうやら人の家のようだった。

 (おいおい……大丈夫かな)

 伊織は足音を立てないように廊下をすすんだ。見つからないようにしなければ。だがどこを行けばいいのかわからない。歩いているうちに前のほうから人の声が聞こえたような気がしたのでまずい、と伊織は特に何の考えもなく左側の廊下に進んだ。先に、網の張られた引き戸がある。それを開けると伊織は中に飛び込んだ。外の人の声が通り過ぎていく。

 (やれやれ……危なかった)

 胸をなでおろしたところで伊織の手が何かのスイッチに触れた。

 「?」

 パチリ、と音が鳴ると真っ暗の闇を光が照らし出す。

 そこは蔵だった。土蔵だ。電気が引かれていたのか、天井に蛍光灯が設置されていて蔵の中をやや薄暗く照らしだしている。

 「これは……」

 伊織はその異様な光景に息を飲んだ。狭い蔵の中に天まで届けと高く積まれた朱色の棚。そこには大量の巻物と綴じ物がみっしりと収められていた。部屋の端に二畳ほど畳が敷かれていて古い文机が置かれている。その左右にも書物が床を埋め尽くすように置かれていて、文机の上には一冊の記帳がまるでさっきまで誰かが使っていたように開かれていた。傍らには硯と筆があり、ふわりと墨の匂いがした。

 「……」

 伊織はおもむろにそれを手に取ると何枚か紙をめくった。

 『四方の父が病気になったようだ。心細いと漏らしている。』

 達筆な字は少し薄い墨で書かれている。四方? どこかで聞いたような名……。紙をめくるとまた何か記されている。

 『今日は例の人形がやってくる。紺之助さんは間に合わないので龍之助さんが人形を押さえるようだ。家にいたほうがいいというが、文雄さんは見に来るといいといっている。どうするか迷っている。』

 文雄?

(もしかして誰かの日記か)

 『私はおかしい』

 紙をめくると唐突に口調が変わった。何枚もおかしいおかしい、と綴られている――と思ったら突然朱色で全面が塗りたくられていた。それが続くと、

 『私は鉄蔵と同じだ』

 そこで文は終わっていた。このあとに書かれた様子はない。鉄蔵。鉄蔵と同じ。だとすればこれを書いたのはおそらく――

 (父だ……)

 村に戻って死んだ。父はいったいどうしたのだろうか。伊織は棚からいくつか書物を取り出してみた。途端に冊子などのバランスが崩れて山になっていた巻物やら書状やらが雨のように降ってきた。本が、書物が、その中身を晒して落ちる。中身は――文字という名の臓物だ。それは伊織の全身にぶちまけられ、何百何千とその身にこびりついていく。臓物の――書物の海の中で伊織は紙をめくった。

 『篁はいまだ我々のものにはならず。なお一層の努力を稲葉に求めるものである』

 『憲兵がきた。渦正が始末した模様。面倒なので稲葉が結界をはり移動させる』

 『敵国とは外のことを言うものである。残念至極』

 どれもこれもなぜか年月日が記されていないので中身で時代を判断するしかない。伊織は無心になって巻物の紐をほどき、読んだ。巻物が手から床に落ち、直線に転がる。そのあとを追って這いつくばった。それはミミズがのたくったような文字で普通の人なら読めるはずのものではない。が。

 「読める。読めるぞ」

 伊織は興奮してかび臭い紙面を追った。

 (あなた達筆でいらっしゃいますよね。御父上も)

 「これも……これも、みんな読める!」

 (あの手紙も読めたでしょう。普通ならミミズがのたくった字にしか見えない)

 (雨宮ならみんな読めるから)

 『其ノ姿竹取ノ姫ナラバ化シテ月ノ魔物トナリ害ヲナスモノ也。然シ伝エルトコロ、其ノ心望月トハ程遠ク、心埋メル様ニ人ヲ食ラウモノ也』

 『食ラワレルハ至福』

 『篁ハ何ニモ代エガタシ』

 そうだ。ここは……この土蔵は雨宮の家なのだ。記録係だと墨染は言っていた。雨宮がずっと記してきたもの――それは。

 (読めてしまったなら仕方ないんですよ。あなたには)

 申し訳ねえ。

 申し訳ねえ。


 ――鉄蔵の血が流れている。


 伊織は顔を上げた。墨染の目を盗んで篁を外に出していた鉄蔵。いつのまにか篁に魅入られて――いや、自ら篁を欲したのか。

この土蔵は鉄蔵の心中だ。

この大量の書物のどこかに鉄蔵の心が眠っている。鉄蔵という、雨宮の一族の心。篁を愛した鉄蔵の心は記されることで子々孫々に受け継がれた。記録を継いだ雨宮たちは知らず知らずの間に鉄蔵の心を覗き、心変わりしていく――鉄蔵の心に触れること、それは篁への思慕が受け継がれることに他ならない。紺之助は篁を見ることで傾倒するといったが、それはきっかけに過ぎないのではないか。すでに植え付けられていた篁への昏い想い。篁に会う事でそれは完成する。心の裡がすべて篁に染まってしまう――のではないか。雨宮だけではない、この村のいずれの家も、形は違えど魅入られた心がそれぞれの家のどこかに眠っていて……。

 (知りたい。どういう歴史がこの村にあるのか。他の家も)

 ここの書物を読み切ればそれは可能かもしれない。

 (この蔵にはきっとその答えがあるはずだ。すべて読めば見つけられる)

 だがそれは斎藤ではなく雨宮になる――ということだ。

 『私は鉄蔵と同じだ』

 は、と伊織は我に返った。一体何を考えていた?

 「そうだ、俺……外に出ない――と」

 ふらふらと伊織は書物の山から立ち上がった。そうだ、村からでなければ。散らばった書面に足を滑らせながら蔵の奥にアルミ製のドアを見つけた。鍵はかかっていない。ドアを開けると鬱蒼とした森の中に出た。遠くからなにか聞こえてくる。

(お囃子?)

伊織は音のほうに明かりを認め、魅かれるように歩き始めた……。



 蔵の外は深山のように鬱蒼とした森だった。ザザ、と木と草を掻き分けて少し進むと――何かの気配を感じた。誰かいる。

(紺之助さんか?)

密かに近づいてみるとぼそぼそと声が聞こえる。どうやら男と女……のようだ。月明かりがわずかに木々の隙間から彼らを照らしている。女の髪は異様に長い。体勢から言って男が女を肩にのせているようだ。暗闇の中、男女二人の髪は月明かりに輝いている。

二人とも真珠のような白髪なのだ。

伊織に背を向けているので顔は見えないが、彼らの視線の先にはたくさんの人形が並べられているのが見えた。明るい。人形の周りには無数の篝火がたかれている。儀式のためだろう。あの人形は――餌だ。

 ならまさか。

 伊織は離れようとして足を動かすと、枝を踏み、思った以上に大きな音を立ててしまった。

まずい。そう思った矢先、その音に気付いた男女がぐるりと振り向いた。

 ――男は肩より少し長い癖のある真っ白な髪。紺之助とよく似た服を着ているが色は黒でなく白。整った顔立ちだが青白く無表情で目が濁っている。こちらを見ているようでどこも見ていない気がした。無言で伊織を見ているが視線が感じられないのだ。男は女を抱えていた。二人とも暗闇の中、朧月のように発光している。女――古文の平安絵巻に出てきそうな白を基調とした十二単に緋袴。目をつぶっている。今更誰だなどというまでもない。話に聞いたこれが――

 篁姫なのか。

 伊織の想像に反してずっと――幼い。幼子ではなく童顔なのだ。白い顔はぼう、と闇夜に浮かび上がるようにきめが細かく、おそらく魔よけのために赤く縁どられた瞳は閉じたままである。そしてなにか――か弱い。無表情なのにどこか僅かに苦悶しているようで――何に心悩ませているのか、見ている側を煩悶とさせるその気配、強く庇護欲をそそられる。ただの人形なのに。人ではないということを忘れさせてしまう。――いや、騙されるな、これは邪念こもりし咎ある人形。人の魂を食う悪鬼。でも――なぜだ。そんな風にとても見えない。目が離せない。伊織はしばし恍惚とした。女が、人形が、篁がゆっくりと目をつぶったままこちらへ近づいてくる。

いけない。

心の枷が、カタカタと頭に響いた。あふれる。鉄蔵の心が。鉄蔵の欲望が。

 ――ああ、その瞳を見てみたいのだ。

 「そこにいるのは誰だ!」

 紺之助の声だった。辺りがざわつく。ほかに人がいるのか、急ぎ草木をわけて進んでくる足音。提灯の明かりが揺れ、その光は思った以上に明るい。

 「――! 雪之助兄さん!」

 紺之助の驚きの叫びに白髪の男は伊織から目をそらすと、紺之助へと向いた。男は――雪之助は、その場に固まって動けない紺之助の方をじっと――見ている。一方の篁は紺之助の声に動じない。手をのばして伊織の頬を両手で包み、薄く紅をひいた口が開いた。

 『     』

 ――何を言っているのか聞き取れなかった。篁が笑う。目を――開いた。白い目。特別なことは何もない。が、その瞳と笑みが揃ったとき伊織は脳を真白に塗りつぶされた。

 美しい。この一瞬の煌めきをしたためたい。永久に残したい。記したい。

 ずっと。

 「なにをしてるんです! 伊織さん! だめだ!」

 ――ヒュッ、と何かが飛んできて篁が後ろに下がった。すぐそばの木の幹に刀が刺さっている。紺之助の隣に極彩色の着物を着た若い女性が立ってこちらに向かい手を投げ出していた。彼女が刀を投げたのだろう。――まさか桜なのか? 途端、篁を連れ、雪之助が韋駄天の速さでその場から去っていく。紺之助は追おうと一瞬ためらったが、すぐにぼうっとしている伊織の腕をつかんで引きずるように森の外へと連れ出した。

 「あ……す、すみません俺」

 伊織は謝ったが紺之助は無言のままだ。怒らせてしまったな、と伊織は思った。篁を逃してしまったのだから当然だろう。紺之助は村の出口までくると荷物はどうしたのか聞いた。

 「それが荷物が見当たらなくて」

 「もう探している余裕がありません。このまま村を出て下さい。とにかく村を出るんです」

 そういって森の隧道に伊織を突き飛ばす勢いで背を押した。

 「ここをいけば外です。まだ気づかれてない。――走って!」

 紺之助の声に慌てて伊織は走り出した。チラリと後ろを見たがまだ紺之助の姿が見える。とにかく走った。走って、走って――外に出た。

 伊織の頭はかき乱されたように混沌としていた。

 あたりは真っ暗で虫の音がしている。月明かりを頼りにふらふらと伊織は田圃を歩いた。道に出てとぼとぼと歩き、かなり時間がたったころ夜回りの警官に出くわした。篭目村に来たが道に迷い荷物もなくしたと適当に話すと警官に同情され、派出所に泊まらせてもらうことになった。交通費を貸してもらい、そのお金で伊織は逃げるようにこの土地を後にして東京へと戻った。母には何もなかったと伝え、しばらくぼう、として過ごした。

 その後伊織は普段通りの生活を取り戻し、やがて大学を無事に卒業した。そのまま就職してしばらくしてから母に家に戻ると伝えた。下宿先の物は譲るか売るかして処分し、伊織は東京を出発した。故郷に帰るのだ。



 気づけば伊織は稲の刈り終わった田圃の畦道に立っていた。目の前には暗い森が広がっている。そこは注連縄の垂れ下がった篭目村の入り口。

 何も迷うことはなかった。村を出てからあの人形のことばかり考えている。

あの人形はどうしているだろう。この気持ちを記しておきたい。

もう一度篁姫を見てみたい。あの村に行けばあの人形を知ることができる。

帰ることがあるというのだからまた会えるだろう。少しだけ、少し尋ねるだけだ。荷物も取り戻さなくてはならないから村に行くだけ。父、登志彦が帰ったように篭目村へと帰る――父がなぜ戻ったか今ならわかる。

そこが鉄蔵の、雨宮の故郷だ。


 伊織はもう何も考えない。注連縄の下をくぐったとき、誰かの嗤い声が聞こえたような気がした。気のせいだろう。伊織は満たされた気持ちでゆっくりと歩を進める。

 昏く深い、森の中へ。






 



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