復讐乙女は二度、婚約を破棄する
エリザベス・サンデーは唖然とした。一瞬だけ横を向いた隙に、やられたのだ。
ガトーの上に飾られていたオレンジが消えている。おやつのガトーは今や、寒々しい白一色の塊と化していた。
唖然顔のまま、反対隣に目をやると、ローザ・マイルトンが口元を押さえてもぐもぐと何かを咀嚼していた。そして、彼女の前にあるガトーは、輝くオレンジからクリームのうねりまで、どこにも手をつけた様子がなかった。
二人の様子に気が付いたキエル・マイルトンは、あっはは、と大きな笑い声をあげた。
「やられたな、エリザベス。全く、ローザはいたずらっ子だ。お姉ちゃんに甘えられて嬉しいな?」
結局、何も言えずに口を閉じたエリザベスを見てキエルは満足そうに頷き、自分のガトーにフォークを入れた。
いや、エリザベスとローザは姉妹ではない。
血がつながっているのは、名前でわかる通りに兄のキエル、そして妹のローザである。
エリザベスはキエルの婚約者だ。今日は婚約者と湖の別荘まで遊びにきていた。心地よい風に吹かれ、白鳥が飛来するのを眺め、美味しいお茶をゆっくりと楽しんでいたところだった……婚約者の妹さえいなければ。
婚約者の妹ローザは、エリザベスを姉として慕っていた。デートについてきて一緒にキャアキャアと大声をあげてはしゃいだりする。
「お姉さま、お姉さま」
と、ローザが呼んでいると、キエルは目を細めて言うのだ。
「ああ、二人は本当に仲良しだなぁ。嬉しいよ」
……微笑ましい姿だろうか?
そうだろう。そうなのかもしれない。いがみ合うよりはマシなのだろう。だがエリザベスにはどうしても、この関係が無邪気で微笑ましいものとは思えなかった。
婚約が決まった頃ならいざ知らず、この頃になるとエリザベスは、キエルと二人きりになった記憶がとんとなかった。数年分はなかった。
いつもローザが目の前にいる。キエルとの間に挟まってくる。キエルとの会話に割り込んで、話題を持っていかれることなどしょっちゅうだ。エリザベスにはついでに、婚約者と満足に会話をした記憶が、これまた数年分なかった。
「たまには二人で会いたいんだけれど」
と伝えても、当日になると妹がついてくる。
「だって、ローザが一人で留守番は寂しいって言うんだ」
と、キエルもまた悪びれた様子もなく笑うだけだった。
さらにローザは遠慮がない。
ガトーのフルーツがなくなるなんて可愛い話だ。最近はエリザベスの部屋に招待してもらっては、すぐさまドレスやアクセサリーを褒めそやしてくる。
「あら、これ、いいわねえ。素敵。とても綺麗だわ。ねえどう?」
自分の胸にそれらをあてがい、エリザベスが……礼儀に則りしぶしぶ……「そんなにお気に入りなら、どうぞ」と言うまで褒めるのをやめない。
エリザベスは、ローザの笑顔を素直に受け取ることが出来なかった。どうにも、目つきだけは冷たい気がして。
もやもやとした気分を抱えたまま、エリザベスはシンプルになったガトーを食べる。
婚約者同士は、間もなく結婚を迎える年であった。
そんな、仲のいいローザとエリザベスが珍しく喧嘩をした、とキエルは思ったのかもしれない。
喚きたてる妹と青ざめた婚約者の間に入って、まずは妹をなだめた。
「どうしたんだい、落ち着いてローザ」
「お姉さまが、おばあちゃんの形見を壊したの!」
ローザは割れた手鏡を指さした。鏡は床に落ちて無惨に破片を広げている。
キエルはエリザベスを見た。エリザベスは静かに答えた。
「私じゃないわ」
「ウソつき! いつも意地悪ばっかり! 私、ずっと我慢していたのよ、すれ違うたびに嫌味なこと囁かれたり、こっそり撲たれたりして」
妹の叫びに、キエルは色めき立ってエリザベスを問い詰めた。
「それは本当か?」
「本当なわけないじゃない!」
ついにエリザベスも声を荒げてしまった。そこにローザがたたみかけてくる。
「このあいだだって、階段から突き飛ばされたわ!」
前回、三人で遊んだ時のことだ。確かにローザは、庭に出る階段を踏み外した。数段で終わるものであったので怪我などはなかったが、痛がる割にはエリザベスに対して、やけに意味深な視線を投げてくると思ったが……
エリザベスは眩暈を感じた。
「してないわ、そんなこと!」
「そうだ、するわけがないだろう、エリザベスがそんなこと。お前たちは仲良しだったじゃないか」
奇妙な間が空いた。ローザはフンと鼻を鳴らす。
「いいえ。この人、私を気に入らなかったのよ、だから意地悪するんだわ。お兄さまと私が仲がいいから、邪魔に思ったのよ!」
このローザの言葉に、初めてエリザベスは目を背けた。それは、事実の一端。痛いところを突かれた後ろめたさは、少しばかりある。
それを見て、キエルはエリザベスが全面的に罪を認めたと思ったようだ。
「そんなバカな、エリザベス……」
「でも、私はやってない」
エリザベスは真っ直ぐに婚約者の目を見て言った。そして、わかったことがある。
「エリザベス。君がそんな女だとは思わなかったよ。残念だ」
キエルはもう、エリザベスの言葉を信用していないという事に。そしてもう、彼の中では話は決まっていることに。
「僕は、妹と仲良くしてくれる人と幸せになりたかった。君とならいい家族でいられると思ったのに……婚約は解消しよう、エリザベス」
これで対話は諦めた。無駄だという気がひしひしとする。エリザベスは湧き出る憤りを抑えるために渾身の力を使いながら、何とかきっぱりと言い切った。
「わかりました。後ほど両親にも知らせましょう」
キエルはウキウキでジャボを整え、留めの金具を光らせた。
「よし、行ってくる」
「頑張ってよお兄さま。レジード侯爵家とお近づきになるなんて、これ以上ないチャンスよ」
ローザも兄にハッパをかける。
「お近づきじゃないぞローザ。モノにするんだ」
今日はランズ伯爵の舞踏会に招かれている。
招待客の中に、今をときめくレジード侯爵令嬢がいらっしゃるのも把握済みだ。
彼女を手に入れれば、社交界でまず一目置かれる。引く手あまたのトップスターなのだ。
「先週届けたラブレターが効いている頃だ。今日こそいい返事を貰えるだろう」
「お兄様はカッコいいもの。大丈夫よ」
「おっと、そうだ。今度は仲良くするんだぞ。エリザベスと違って、格の違うレディだ。頼むぞ」
「お金持ちでしょう? もちろんよ」
パーティの間がざわめいた。レジード侯爵令嬢、レディ・マデリンのお出ましに違いない。
キエルはテラスのベンチから立ち上がり、広間へと入っていった。
「……まあ、知らなかったわ。あなた方がマデリン・レジードと仲が良かったなんて」
背後にあるベンチから声がして、ローザはチラリとそちらを振り返った。
「あらいやだ。盗み聞きなんて、本当に躾がなってないわね」
「私が最初からいたのよ。そっちが気が付かなかっただけだわ」
エリザベスはそれまで遠慮していた扇をパタパタ動かした。隠れていたわけではないが、思わず聞き耳を立ててしまったのは本当だ。
口調だけは楽し気な世間話が始まる。まずは、ローザから。
「レディ・マデリンはもううちのお兄さまに夢中なの。じきに縁談が整うわ。これでうちはレジード侯爵と縁続きね。ヘタなことすると、レジード侯爵にも歯向かうことになってよ。バカなことは考えないでね」
「何を言っているのかよくわからないわ。バカなことって、何かしら。まるで自分が誰かの縁談を壊したことがあるような話しぶりね。だから誰かが同じことをするのを恐れているようだわ」
ローザは鼻先で笑った。
「ああ、貴女なんかとは、とっとと婚約破棄しておいてよかったわ。レディ・マデリンとは比べ物にならないもの」
「お金が? そう言ってたわね」
エリザベスも、キエル兄妹も、家は伯爵の身分となる。マデリン・レジードは格上なのだ。
「全てにおいてよ。レディ・マデリンは本当に綺麗な方だわ。お兄さまはひと目あった時から運命を感じたと言っていたわ。貴女には言ってなかったけどね! すぐさま、心乱された様子を手紙にしたためていたわ。薔薇の花を添えて……」
「あら。薔薇の季節は三か月前に終わったわよ。でも私との婚約破棄は二週間前」
二股かけられていた、ということか。
「だからなんだって言うの。お兄さまは素晴らしい男性だもの。モテて当然でしょう。魅力のない女が僻んでるんじゃないわよ」
「モテても貞操が整った方はいっぱいいますけどね。でも、せっかくだから、ハッキリしておきたいわ」
エリザベスは上半身を捻り、ぐいとローザに顔を寄せた。
「貴女がやったんでしょう? 私が嫌いだったから追い出した。デートの邪魔をして、鏡を割って」
ニヤァ、とローザは笑う。
「ええ。当たり前よ。気が付かないのはお兄様くらいよ。大好きなお兄様に寄ってくる寄生虫なんか、叩き潰すに決まってるでしょ、汚らしい。レディ・マデリンくらいのお相手でないとね」
「そう」
立ち上がるエリザベスを目で追って、ローザは冷たく言葉を投げた。
「告げ口したってムダよ。誰も信じやしないわ。意地悪な女が婚約破棄された、ってもっぱらの噂よ。もう相手にしてくれる男性なんていないんじゃなくて?」
「貴女が言いふらしたんでしょ。別にいいけれど。残念ね、私にだってまだお相手くらいいるわ」
「……そんな、強がりを」
そうは言ったが、ローザの目が鋭くなる。エリザベスは軽やかに笑った。
「強がりだと思う?」
「早すぎるわ。浮気してたの?」
「モラルのないキエルと一緒にしないでくれるかしら。モテるからに決まってるじゃない。僻んじゃダメよ」
ダンスが始まった広間に向かうエリザベスに、ローザは思わず叫んだ。
「相手は誰よ!」
「何故貴女に言う必要があるのよ」
歌うようにエリザベスは答え、扉の向こうへ消えていった。
婚約を解消された時、両親には相当な心配をかけた。
先方と話し合いをしようとも言ってくれたが、エリザベスにその気がなかったのでそこは止めた。あの別れ方だと、キエルとの結婚で幸せになる未来は見えない。婚約は無かったことにしてもいい。むしろスッキリする。
しかし、エリザベスが陰湿でいじめをする女だと噂になったのには腹が立つ。
このままではよくないと危機感を抱いた両親が、わざわざ隣国の身分ある方を見繕ってきたのはいいが……
「何を考えているの、エリザベス。俺がいるのに、他の男のことなんか考えてないだろうね?」
我に返ったエリザベスは、笑ってゆるゆる首を振った。
「いいえフェルナンド。どうしようもない私の不幸な人生を考えていたの」
フェルナンドと呼ばれた男は、エリザベスの手を取り、優しく叩いてみせた。
「そんなこと言うなよエリザベス。素敵な王子様はいつも隣にいるだろう?」
泣き笑いのような表情を一瞬閃かせ、エリザベスは男から離れた。
「ここでもういいわ、フェルナンド。家の者が迎えに来るようになってるの。今日はありがとう。楽しかったわ」
歩き始めた彼女の背中に恭しくお辞儀をして見送った後、フェルナンドは踵を返そうとした。
「きゃっ!」
「おっ、と。失礼、レディ。大丈夫ですか?」
振り返りざまにぶつかってしまった女性に手を差し伸べる。
「足をくじいてしまったかもしれないわ。いえ、そのうち付き人が探しに来ると思うの。申し訳ないけど、しばらく一緒にいてくださるかしら」
それから女性はフェルナンドの手を取り、ニッコリと笑った。
「私、ローザ・マイルトンと申します」
ローザの聞き込みによれば、フェルナンド・オルデンは隣国宰相の三男で、今はこちらに留学中ということだ。
この国の男とは違うワイルドさがあり、そのくせ女心をくすぐる術を心得ている。
あんな女と付き合うような男、どんなものだか見てみよう。
まるっきり下世話な下心で近づいてみたローザは、あっという間にフェルナンドを気に入ってしまった。そしてすぐさま、目的は別のものに変わる。
奪ってやろう。あの女にはもったいない。
ローザはさりげなく自分のアプローチをし、「兄はあのマデリン・レジードと恋仲なの」と言ってみせた。
ここでも効果は抜群。フェルナンドは俄然、興味を示してローザの話を聞いてくれた。まさにレジード様々だ。
楽しく会話が弾んだ後、再会の約束を取り付けるとフェルナンドは言った。
「この出会いに感謝します、レディ。もちろん、喜んでお相手いたしますよ」
それから大仰に腰を折り、ローザの手の甲にキスをする。彼にかかればキザな仕草もエキゾチックに見えた。
ローザはあちこちの舞踏会に熱心に出かけるようになった。勿論、お目当てはフェルナンドだ。
異国の雰囲気を漂わせる彼は踊り相手としてもよく映えた。
逆に、壁の花になっているエリザベスを見るのも、また愉快だった。自分の婚約者がずっと他の女と踊っているのを眺める気持ちは、どんなものだろう。いい気味だ。
「なんだお前、最近女らしくなったなあ。恋人でも出来たのか?」
自分以外の事にはあまり興味のない兄だけは呑気にしている。尤も、キエルはキエルでレディ・マデリンを落とすのに忙しいのだから仕方がない。レディ・マデリンの気を引こうと群がっている男性の群れは、いつも混雑している。
今日も大勢の人がいた。ホールも、次の間も。
ローザはやっと空いたソファを見つけ、腰を下ろそうと体の向きを変えた時。ぐっ、と喉元が引かれ、鈍い音と共にネックレスがはじけ飛んだ。
「あっ……! ごめんなさい、わざとではないのよ」
通りすがりの人が留め金でも引っかけたのだろう、とローザは思ったが、転がった宝石を拾い上げようとしゃがみこんだ人物を見て、思わず青くなり大声を上げた。
エリザベスだった。
「貴女……ウソでしょう! わざとだわ、絶対わざと! 返しなさいよ!」
「盗らないわよ……どうぞ。ちゃんと弁償するわ」
「ひどい! ひどいじゃない、やっぱり私に意地悪するんだ! ……ねぇフェルナンド!」
近くにいたフェルナンドをすぐに呼びつけ、ローザはエリザベスに指を突き付けて糾弾しはじめた。
「見たでしょう!? ひどいのよ、この女! 私を恨みに思って、それでこんなことをするの! 根性のねじ曲がった人なのよ! ねえ、こんな女やめなさいよ。ずっと私をいじめてきたのよ。貴方の奥方に相応しくないわ。本当に相応しいのは……」
言外に訴えたいことを潤んだ目に乗せて、親密な男女は見つめ合った。
やがてフェルナンドはエリザベスに向き直り、肩を竦めてみせる。
「エリザベス・サンデー、すまない。貴方には良くして貰ったが……そんなわけでね。これきりにして貰えるかな」
それを聞いて、ローザは晴れやかな笑顔を見せてフェルナンドの腕にしがみついた。
不義な二人を眺め、しばらく黙っていたエリザベスだったが、やがて目を伏せて呟くように言った。
「承知しました」
軽く膝を曲げて礼をし、エリザベスは身を翻してその場から立ち去る。
後には退場する令嬢を見送る人々の目と、勝ち誇ったローザの高い笑いが残っていた。
ローザとフェルナンドは結婚した。
あの舞踏会の折、そのまま「私たち、結婚します」と辺りに吹聴し、さほど日もおかず大慌てで式を挙げることとなった。
今はエリザベスを悪女として彼の目をくらませているが……と、ローザは考えている。気が変わらないうちに、玉の輿は捕まえておくべきだわ!
教会を出たローザは、列になって祝福してくれる人の中に混じって、ひっそりとエリザベスが立っているのを見つけた。
まあ! 未練がましい。コソコソと参列するなんて、よっぽど悔しかったのね。
ローザは驚き、そしてふてぶてしく笑った。
「まあ、お姉さま。可愛い妹のお祝いに来たの? 残念ねぇ、『わざと』ネックレスなんて引っかけなきゃ、今頃、結婚してるのはお姉さまだったかもしれないのに」
胸を張って近寄り、大げさなほど幸せアピールをぶつけてみれば、エリザベスの方もニッコリと笑った。
そして扇を口元まで上げて、囁くように返事をした。
「ええ。そうよ。あれはね、『わざと』だったの」
何故かエリザベスは揺るぎなく、笑顔のままだった。それを見てローザの方が、少しずつ表情を硬くしていった。
どういうこと?
答えを探る前に、エリザベスは去った。
「結婚おめでとう、ローザ。頑張ってね」
という言葉を残して。
髪に櫛を入れるのに忙しいキエルに、ローザが熱心にまとわりついて邪魔をしてくる。
「ねぇお兄さま、聞いてるの?」
キマった髪型に満足して、ようやく何だか言ってた妹の言葉を思い返す。
「何が。旦那がぐうたらって話か?」
「まだベッドルームにいるのよ」
「夫婦仲が良くていいことじゃないか」
そんなんじゃない。ローザは頬を膨らませた。甘い生活なだけならいいが、フェルナンドは酒瓶を抱えて大いびきをかいているのだ。時間はもう昼を回ろうというのに。
式を終えたローザは早速新生活に……とはならなかった。
留学中のフェルナンドは母国に帰るつもりは当分ないらしく、むしろマイルトンの屋敷に上がり込み、我が物顔でのびのびと過ごしている。
変わり映えしない暮らしでは、新婚気分など微塵も湧かない。むしろ居候が一人増えただけではないか。
時さえくれば彼と一緒に隣国にいって下にも置かぬ扱いをされるだろうが、今この時を、ローザは不満一杯に過ごしていた。
だがやはり、自分のことで手一杯なキエルは妹の訴えを右から左に流し、櫛を置くが早いか召使いを呼んだ。
「さ、行ってくる」
今日はレジード侯爵に呼ばれていた。きっと結婚式の話だ。
キエルが全力で口説いた結果、見事レディ・マデリンの関心を引いて婚約にこぎつけることができたのだった。大金星だ。
さっさと出かける兄に玄関口でやっと追いすがり、ローザは急いで声を掛けた。
「フェルナンドが、マデリン・レジードにご紹介いただけるのはいつかって気にしてたわ。レジード侯爵とお近づきになりたいみたいよ」
「焦ることはない。来年には僕がその名になる」
キエルは自信満々にそう言い切り、馬車を出すよう命じた。
キエル・レジード侯爵閣下、か。
悪くない、と独り言ち、輝かしい未来の自分に満足げに笑みを浮かべる。
「ああ、キエル・マイルトン君か。うちの娘との結婚の話だが、無かった事にさせてもらうよ」
「はっ……?」
レディ・マデリンの部屋はいつも招かれた淑女たちで賑わっている。
今日も楽しくカードゲームに興じていたところ、荒々しい足音が響いてドアが乱暴に開けられた。
「まあ……どういうことかしら、キエル・マイルトン。騒がしいわ」
入ってきたのはキエルだ。青ざめて切羽詰まった様子だったが、卓を囲む女性たちに気が付いて少し怯んだようだ。
「失礼レディ・マデリン、あの、お話が」
「どうぞ」
「ここではちょっと」
「私は構わないわ。それに、私は話すことはないわ。お父様とのお話は終わったの? 終わったのなら帰ってもいいわよ」
焚きつけられて(とキエルは思って)、堪えきれず訴えた。
「結婚を白紙にするとは、一体どういうことですか!」
「どうもこうもないわ。そのままの意味よ……ワンペア」
マデリンはお構いなくゲームを続けている。
「どうして突然! 僕のことを愛していたんじゃないんですか!?」
「愛ねぇ……そうね、素敵な方だとは思ったわ。でも結婚となるとそれだけじゃ困るのよ、キエル・マイルトン。あなたのお家、随分と左前なんですってね?」
キエルはグッと言葉に詰まった。確かにマイルトン伯爵家は今、財政が苦しいところだ。こらえ性のない一家は散財も止められない。
しかし、そんなのは一時のことだ。結婚さえすればいい。
初めにアテこんでいたのはエリザベスの持参金だった。だがそれより目がくらんだものがある。マデリンの地位と侯爵家の財産だ。比べ物にならない金額に、あっさりその気になって乗り換えた。
だから全力で口説いた。投資と思って貢物も値を張らせたし、あんなに苦労して、他人を押しのけ、マメに連絡を取って。
手に入るはずだった。ここで結婚は白紙にと言われてハイと納得できるはずがない。
「そ、それは……しかしこの愛は真実です。それでも結婚できないと言うのなら、貴女に捧げたこの命、ここで差し出しても惜しくはない!」
「ああ、ハートがこなかったわ! それがあったら私、フルハウスだったのに!」
決死の訴えだったがマデリンにとっては、キエルのハートなどカードよりも軽いもののようだった。
「次のカードを頂戴……キエル、貴方そんなお上手なことを言って。もし公爵夫人にでも目配せされたら、私のことなんかどうでもよくなるんでしょう?」
「いや、そんなことは」
「彼には前科がありますからね。信用できませんよ、レディ・マデリン」
卓から声が上がり、キエルは目を見張った。
「お前……エリザベス! どうしてここに……!」
「あら。私にだって友人を訪ねる権利はあるわ」
エリザベスはしれっと答え、カードを切った。
「わかったぞエリザベス、お前がレディ・マデリンに余計なこと吹き込んだな!」
「余計なことだなんて。でも嘘だと言わないだけ正直ね。『本当のことを話題にしただけ』よ。普通、結婚相手がどんな行いをする人なのか、そりゃあ知りたいものでしょう?」
なかなか聞きごたえがあったわ、と卓を囲む女たちがそれぞれに笑った。
「存外、無神経なんですってね」
「釣った魚にエサをやらないタイプだとか」
「妹さんのことも聞いたわ。エキセントリックなタイプだって」
「妹は悪くない!」
叫んだのは反射的だった。卓の女たちは、キエルのその様子を見て、まあやっぱり、と頷き合った。シスコンは本当らしいわ。
「帰った方がよくってよ、キエル・マイルトン。貴方のお家、最近、よろしくない人物が入りびたっているんですってね。きっと妹さんが帰りを待っているわよ」
それに、もう話すことは何もないから。と、マデリンは優雅にお茶を飲み、出口を促した。
キエルはエリザベスを睨み、その場から逃げるように去っていった。卓を囲む一同は息をついて扇を振った。
「教えてくれてありがとう、レディ・エリザベス。不名誉な結婚をするところだったわ」
「いいえ、間に合ってよろしゅうございました。あの思いをするのは私だけで十分ですわ」
「あら、マデリン様。レディ・エリザベスではなくて、オルデン夫人ですよ」
「そうだったわ。失礼しました、エリザベス・オルデン。旦那様はお元気?」
にこやかに問いかけるマデリンに、エリザベスは含み笑いを返した。
「今日こそはご自身の名誉を回復すると、張り切って出かけましたわ。上手くいくと良いですけれど」
ショックで呆然としていたキエルは、帰りの馬車の中で段々と冷静になってきた。
そうだ。まだ義理の弟がいる。妹の夫だ。彼に頼るしかないだろう。
祖国に一報を入れてもらおう。当面、自分が暮らすところの援助をと言えば、いくらか都合してくれるに違いない。
それに、そう、レジード侯爵家には隣国から圧力をかけてもいいかもしれない。
うまく執り成してもらえば、レディ・マデリンと復縁もできるだろう。レジード侯爵といえど、さすがに無視はできまい。
家につくなり急いで馬車から降りると、ローザが泣きながら駆けてきた。
「お兄様! 大変なの、フェルナンドが追い出されちゃった!」
「はぁ!? 何だそれは!? 何が起こった? 追い出された?」
「いや、違う。逃亡を図ったのだ。今、探索中である。見つけ次第連行する」
妹の後から出てきた男がいる。フェルナンドと同じく、どこかエキゾチックな雰囲気の美男子だったが、キエルはそれを「いけすかない奴」と受け取った。
「誰だお前は!」
「フェルナンド・オルデンだ……本物のな」
隣国の宰相令息だとでも言うのだろうか。いやそれよりも。
「本物?」
「私の留学に合わせて、どうやらケチな詐欺師もやってきたらしいな。あちこちの貴族から金品を受け取っていたと報告が上がっている。ただの詐欺師ならこちらの国に任せて放っておいてもいいが、私を名乗るなど言語道断。必ず我が手で犯人を挙げてみせるから安心しておけ」
「あ、あ、安心できるか!」
キエルは取り乱した。
「本当なのか? じゃあ今までアイツに使った金は? レジード家への口添えは?」
「さあ。残念だが、そこまでは保障できんな。口添え?」
「僕の結婚のだ!」
「お兄様の結婚なんてどうでもいいじゃない!」
ローザが地団駄を踏む。
「私はどうなるのよ! 私の結婚は? ……そうよ、私はフェルナンドの奥さんなのよ、だったら貴方が私の夫になればいいんだわ! ね?」
腕を取ろうと寄ってきたローザをスルリと避けて、本物のフェルナンドは眉ひとつ動かさず拒否してみせた。
「それも、残念だが。私にはもう妻がいるので間に合っている。エリザベスという、な」
兄妹は固まった。従者がフェルナンドを呼びに来た。
「捕らえたか? では行こう。……ああ。うちの妻が世話になったな。もう会うこともないだろうが、彼女は私が幸せにするので心配は無用だ。では」
兄妹は叫んだ。引かれてきた馬で颯爽と去るフェルナンドの馬尻に向かって、悔しさを滲ませて。最早、そうする以外に何も出来ないのだ。
「エリザベスぅぅぅ!!」
馬車の窓から、故郷が遠くなる様を眺めていたエリザベスは、咳払いの音に振り向いた。
「寂しいか」
問いかけるフェルナンド・オルデンの顔を見て、ふと笑う。
「いいえ。ありがとうございますフェルナンド様。あのまま家にいたら私の立場はなかった。悪評は一度立つと、拭うのは大変ですから」
「それを言うなら私もだな。わざわざ他の国で結婚詐欺師の汚名を着せられるところだった。こちらこそ、だ。偽者が接触してきたことをすぐに知らせてくれたおかげで、早く手を打てた。危ない橋を渡らせてしまったな」
「貴方のお役に立てるならお安い御用です。貴方の名前があったからこそ、みんな私の話を聞いてくれたことだし」
「……それにしても。また思い切って転落したものだな、あの兄妹」
元々、財産が擦り減っていた上に偽者フェルナンドまでのしかかっていた。
彼が逃げていく際にも壺や宝石を手あたり次第抱えていったというから呆れる。捕まりはしたが、どこかに売り飛ばしたらしく返還はできない有様。さらに、巡り巡った悪評が今度はマイルトン伯爵家に降りかかり、もう相手をする者もいないとか。
「拾い食いなんかするからです」
エリザベスはあっさり言った。彼女は必要上、偽者と仲良くしてみせただけ。ローザだったら、意地悪の為に横取りもあるかもしれない、とは思ったが結婚までするとは。
あえてローザに注意喚起をしなかったのが、復讐ではあった。
「過去は、もう結構。私はフェルナンド様の妻になったのですから。今後のために前を向きましょう」
「妻になったと言うなら、エリザベス。私の名前に様はナシだ」
夫婦は顔を見合わせて笑った。
「はい、フェルナンド」
妻の返事に機嫌を良くしたフェルナンドは、楽し気に外の景色を眺めた。
「我が国についたら、すぐに披露宴だぞ」
こっそり落としていたPixivでもランクインしていたようです。いつのまに……ありがとうございます。