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氷の狩人とワルツを

 チェス盤をテディから受け取ると、アリスは赤く染まっている部分に顔を近づけた。


(おや……?)


 最初は血かと思っていたが何が違う。

 鼻がくっつくくらいにチェス盤を近づけ、すんすんと匂いを嗅いだ。テディがぎょっとしたようにそれを見た。

 甘酸っぱい、渋みのある香り。つい最近、というか今日の朝食で嗅いだ香りだ。


「スグリの香りだ。ジャムか」

「え?」


 テディに見せる。彼が恐々と顔を近づけて鼻をひくつかせた。


「あ、そうですね。何だ。血じゃねえのか」

「どう見ても外傷はなかったからな。だが、クランベリーのジャムはあったが、スグリのジャム瓶なんてあったか?」


 散乱したショートブレッドやスコーンと一緒にクランベリーのジャムが零れているのを見ながらアリスが言った。蟻がたかって、死んでいない事からこれらに毒物が入っている可能性は少ないだろう。


「ええと、ちょっと待ってください」


 散乱しているクロスやら色々を慎重に、荒らさないようにしながら覗き込む。

 アリスも辺りを注意深く見回す。早くしないと、ロンドン警視庁の誰かが入ってくるかもしれない。

 焦りに舌打ちしそうになった時、きらりと目の端に何かが光った。転がったテーブルの直ぐ近く、バラの植込みの影だ。

 アリスはわざと置きっぱなしにしていた手袋をはめる。棘に気を付けながらバラを掻き分けると、小さなジャムの小瓶が転がっていた。

 赤黒いジャムが零れている。クランベリーのジャムと同じように蟻がたかっていた。


「ん……?」


 首を傾げながら小瓶を取る。


「あれ……?」

「ちょっと、旦那! 早くしないと連中、来ちまいますよ!」


 アリスがまじまじとスグリのジャム瓶を見つめるのを、テディが慌てたように声を潜めて急かした。

 入り口を見ると、数人の話し声が聞こえ、足音がこちらに向かってきていた。


「やべえ。おいテディ、スコーンとショートブレッドを欠片でいいから一つずつ持ってこい。それとこのジャムを入れる何か……」


 ジャム瓶ごと持ち帰ると怪しまれる。布に包めば染みてしまう。何か入れ物は無いかと焦りながら辺りを見る。


「お、これだ」


 アリスはいばらの植え込みに眼を向け、にやりと笑った。


「何故貴女が此処に居るのですかな?」


 背中に絶対零度の声が突き刺さって、アリスたちはびくりと肩を震わせた。

 振り返ると、眉間に深い深い皴を刻んだグローヴァーがこちらを見つめている。

 アリスはふわりと笑みを浮かべて会釈した。


「申し訳ありません。捜査官。こちらに手袋を忘れてしまいましたので。そちらの親切な巡査殿に許可をもらって立ち入らせて頂きました。少し探すのに手間取ってしまいましたが、無事に見つかりました」


 睨み付けてくるグローヴァーにも一切動じず、柔らかな笑みを浮かべつつも、絶対に内側へ踏み込ませまいという強い意志がアリスの言葉の端々に滲んでいる。見えない火花が二人の間で散ったように周りの人間には見えた。


 グローヴァーは二呼吸ほどの間沈黙すると「そうですか。ならば早急にお引き取りください」と引き下がった。

 あっけない幕引きに若干肩透かしを食らいながらも「ええ、ありがとうございます。お邪魔しました」と殊勝な態度で彼等の横を通り過ぎる。テディも同じくその後に続いた。


「ああ、少しだけよろしいですか」


 出口の扉にアリスが手を掛けた時、グローヴァーが呼び止めて来た。どくんと心臓が大きく脈打つ。

 動揺を気取られるわけにはいかないとアリスは平静を装い振り向いた。


「何でしょう?」


 グローヴァーはこちらをじっと見つめるだけで、何も言ってこない。嫌な沈黙が温室の中に立ち込める。


「そちらの従僕どの、以前何処かでお会いしましたかな?」


 ぐ、と小さくテディが呻いたのが聞こえた。距離はあったので向こうには聞こえていないだろう。

 若くとも、テディも何度となく修羅場を踏んできた人間である。度胸も機転の速さも、そこいらの捜査官より優秀なのはアリスが一番よく知っていた。

 テディは一礼して「いえ、人違いではないかと」と静かに言った。


「では、捜査官。私たちはこれで」


 アリスは会話を終わらせると、テディを伴って、針の筵のような温室から脱出した。


 二人は足早に庭園の隅へ向かい、周りに人がいない事を確認してようやく大きく息を吐いた。


「うああああ、怖かったぁあ~。も~、絶対こんなの嫌ですからね!」


 テディは撫で付けた自分の髪をぐしゃぐしゃにしながら、恨めし気にアリスを見た。


「小せえ男だなあれくらいで。それ以上の修羅場なんかクソ程踏んできただろうが。ドックランズでバワリーの手下とやり合った時でも生きてただろ」

「あれはアンタが無理矢理連れてったんだろ! あれでケツに二発も弾を喰らったってのに!」

「俺は四発だ。まあいい、とりあえずさっきポケットに入れた奴を渡せ」

「ハイハイ。全く横暴なお嬢様だ」


 テディが上着の内ポケットからハンカチに包まれた何かを渡す。そっと開くとスコーンとショートブレッドの欠片、それとバラの葉を丸めた物が二つ入っていた。


「咄嗟とはいえ、ジャムを葉っぱに包むなんてよく思いつきましたね」

「昔な、チャイナタウンの食堂で葉っぱに巻かれたライスが出てきたことがあってよ。それを思い出したのさ」


 へえ、記憶力良いんですねぇ、とテディが感心したように言った。


「ああ、記憶力で思い出した。グローヴァーの野郎だが」

「な、なんです」

「アイツ、絶対お前の事覚えてるぜ。記憶力だけはクソ程に良いエリート様だからな。俺の下で動いてた事も全部知ってるはずだ」


 アリスは捜査会議の時のグローヴァーを思い出しながらそう言った。彼は捜査会議の際の膨大な報告だけでなく、何気ない小さな私語でさえ一言一句余さず覚えているという人間だった。優秀なのは認めるが、近代化と言いながら古い捜査方法を切り捨て、厳格に法に則って効率と分析だけで進めるような男とは、一瞬たりとも同じ場所の空気を吸いたくないのが本音である。


 アリスがそう断言するとテディはひぇっ! と鶏が絞められるときみたいな声を上げた。


「まあ、この中身が俺だってことは流石のアイツも分からねえだろうがな」

「ちょっと、イヤですよ! 身に覚えのない事でしょっ引かれて尋問とか!」

「そうなったら助けてやるよ安心しろ」


 ほんとうですよね!? 旦那!!と縋りつくテディを軽くいなしながら、アリスはまた別の事を考えていた。

 手を負傷したと言うと、いたわる様に手のひらに触れて来たグローヴァーの彼らしくない振る舞いだ。

 鉄面皮が剥がれたあの寂しそうな表情が、アリスの胸の中に妙に鮮やかに残っていた。

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