遅い朝はミモザ色の朝食を
『テメェ! 待ちやがれ!』
怒声が裏路地に響く。転がっていたバケツが蹴り飛ばされ、生ごみを漁っていた猫が悲鳴を上げる。
前を走るやせっぽちの小男が振り返り、恐怖に眼を見開いた。
無理もない。6フィート超えの筋肉質の男が怒りに歯をむき出して、猛然と追いかけてくるのだから。
傍から見れば、ギャングの用心棒が哀れな男に借金を取り立てている光景にしか見えないが、追いかけている方はれっきとしたスコットランドヤードの捜査官、アーサー・バートレットである。
意外にもすばしこい小男は器用に路地の隅に置かれた樽に飛び乗り、板切れで出来た塀をひょいと飛び越えた。
だが、アーサーはそのままのスピードで身を低くし、板塀をぶち破った。
激しい音に驚いた男が足をもつれさせ転倒する。
分厚く節くれだった手が男の襟首をむんずと掴んだ。
『昨晩だ。昨晩、お前があのバーにいたのは判ってるんだ』
顔を近づけ、飢えた野犬のような唸り声で問うと、男の唇が震えながら何かを言った。
『何だって?』
もう一度問うと、大きな眼をぎょろぎょろさせて口を開いた。
————目を覚まして。アリス!
がばりと身体を起こした。
大きな窓からは陽光が真っ白な天井に差し込み、ただでさえ眩しい部屋が余計眩しく感じた。
ちかちかする目を瞬かせながら周りを見ると、ベッドの周りに、ずらりと並んだ人垣にびくりと肩を震わせる。
先程大声を上げた大柄なメイド、灰色の髪と髭の老執事、ミモザ色のドレスの美しい貴婦人と、仕立ての良さそうなベストとシャツを着た紳士が、皆一様に涙を浮かべてこちらを見ていた。
貴婦人が紳士の手を握り、涙を流した。哀しみではなく、驚きと、喜びに。
アーサーにとっては全員が見知らぬ人間である。
酷く奇妙で、まるでずっと覚めない悪い夢を見ているようだ。
「あ……」
自分の口から、駒鳥のように可愛らしい声が聞こえた。
ぺたぺたと顔を触る。メイドが怪訝な顔をしたが知った事ではなかった。
すべすべとした磁器のような肌だ。当然、其処にはざらついた無精髭なんて欠片も無い。
それでも何とか、これが夢ではないかと声を絞り出す。
「あの……」
「アリス!!! 良かった!」
視界が一面ミモザ色になった。高価そうな香水の香りに頭がくらくらする。温かな体温に、自分がようやく貴婦人に抱きしめられているのだと分かった。
「ああ、アリス。私の愛しい娘……」
残念ながら、この悪夢が現実なのだという事をアーサー・バートレットは理解するしかなかった。