星降る街の願い事
この街の神様はひどく気まぐれだと思う。
神様に従事していた私だからこそ、心からそう思った……
「おはよう。今日はいい天気だね」
薄紅に染まった唇が、蜂蜜のように甘い声を紡ぎ出す。言葉としては何気ないものなのに、彼女の口から出た言葉というだけで特別に感じるから不思議だ。
私の手元を見た彼女は嬉しそうに眼を細める。
「今日の朝餉も私の好きなものだね」
お出汁が口の中でじゅわっと広がる、ふっくらと柔らかなだし巻き玉子。朝のうちに畑で収穫したばかりの野菜に、濃厚な特製の合わせ味噌を溶いた味噌汁。磯の香りが豊かな海苔。艶々に仕上がった炊き立ての白米。
これが神様である彼女へ、毎朝出している献立だった。
正直なところ神様には食事が必要ないのだけれど、私と食事という行為を共にすることが彼女にとっては娯楽らしい。神様ってよくわからない。
机に食器を並べていると、彼女は縁側のガラス戸を開けた。
フワリと風が舞い込み、彼女の腰まで伸びた髪が藤の花のように揺れた。日光を照り返し、星空のように光を纏う姿に、自然と感嘆の息が漏れる。
ふと、空を見上げていた彼女が、突然顔を曇らせてしまった。視線を追ってみたけれど、雲一つない清々しいほどの青空が広がっている。
「……今夜は流星が見られるよ」
数年に一度、この街には星が降る。それは何の前触れもなく、神様だけがその日を知ることができた。
星が降る日は神様である彼女によって、街の誰かの願いが叶う日だ。都市伝説の一つとして、まことしやかに噂されているけれど、私はそれが本物だと知っている。
私がここに――彼女の隣にいることが、その証明だった。
今日は忙しくなりそうですねと彼女に言うと、彼女は「忙しいだけならよかったのだけど……」と言葉を濁し、私の視線を避けるように顔を背けた。
暗い空気を誤魔化すように「食べようか」と声をかけてくれる。けれど水へ石を投げ入れたかのように、不安は波紋となって私の中で広がっていた。
彼女は一口一口を噛み締めるように、今を大事にするように味わって朝食を食べていた。いつもの倍くらい時間がかかっていたように思う。
食器の片付けを終えた私が戻ると、彼女は縁側でのんびりと寛いでいた。
トントンと空いている場所を叩き、私が来るよう促す。
ちょこんと隣に座ると、彼女は潤んだ瞳で私を見つめた。まるで迷子になった子供がすがり付くような視線に胸が痛む。
どうしたんですか? と問いかけても、彼女は答えられないと首を振るだけ。彼女の手に私の手を重ねると、ぎゅっと力強く握られた。
「神様とは人間には万能な存在に見えるかもしれないけれど、自由ではないんだ。人の願いを叶えるという制約上、私という個が持つ心を雁字搦めにされてしまう……」
神様は願いを叶える度に自分らしさを失う。そう言っているように感じた。
「今の私がただ一つ持っていた自由は、この街の人々の中で、君の願いを叶えたということだけだよ」
寂しそうに目を伏せる姿が見ていられなくて、サッと目を逸らした。ポツリと、握られた手の上に雫が落ちる。
「君は君の願いを覚えているかな?」
その質問にドキリと心臓が跳ねる。
もちろん覚えている。むしろ忘れられるわけがない。
子供の頃、私は両親によってとある社へ連れていかれた。
鳥居をくぐり抜け、歩幅と同じくらいの高さの石段を、一歩一歩ゆっくりと登っていく。
そうして登りきった先には藤の花に囲まれた、歴史を感じる社殿があった。
参拝客は他にもいて、社殿に向けて膝を付いている。
よくわからないまま真似たまましばらく待っていると、賽銭箱の前に艶やかな着物姿の女性が現れた。絹のような黒髪はよひらの簪により纏められ、肌は雪のように白い。浮世離れした美しさだと、子供の身でも理解できた。
自分の全てを差し出してもいいと思うほど、心を奪われていた。
その瞬間、確かに私は願った。
『あなたのものにしてほしい。あなたに愛してほしい』と。
自分が女性の身でありながら女性を……それ以前に人間が神様を求めるなんて烏滸がましいことだけれど、私の願いは叶えられた。
そして今、私は彼女に従者として尽くしている。
私との出会いを懐古した彼女は、憂うように私の頬を撫でた。細長く繊細な指は頭へと移動し、柔らかく髪を混ぜる。
頬が熱を持ち、赤らむのを感じる。
くすぐったくて目を閉じると、フフッと楽しげな笑い声が聞こえた。
けれど目を開いた時には、彼女は哀しげな表情を浮かべていた。
見ていられなくて空を見上げると、まだ日が高いというのに、すでに星がちらついていた。
重ねていた指をほどき、自分の前で両手の指を組む。
目を瞑りながら、私は遍く星々へもう一度願う。
『どうか二人で末長く暮らせますように……』
願いと共に不意に眠気に襲われ、彼女の膝に倒れ込んだ。
耳にかかった髪を掻き上げられ、そっと唇を寄せられる。息がかかってくすぐったい。
けれど、そんな気持ちが吹き飛ぶような内容を囁かれ、急いで身体を起こそうとした刹那……私の意思とは裏腹に、視界は闇に飲まれた。
次に私が目を覚ました時、私は見知らぬ天井の下にいた。
どこにあるかわからない街の、とある病院。
私がいた街の存在が知られていないほど遠い場所だということはわかった。
私はこの病院の近くにある山の中で発見されたという。要するに彼女に捨てられてしまったのだ。
叶えるべき願い事は自由に選べるのに、彼女は私の愛があるうちに、関係を終わらせた。
星が降ると言っていたあの日、彼女自身の願いが叶えられた。
意識が途絶える瞬間、最期の言葉を思い出す。
「神は本来、ものを持ってはいけない。それは愛のように人間へ全て与えるべきだからだ。
私は君を愛している。けれど、私には君の願いを叶えることはできない。だって」
――神様はもういらないと、願われてしまったのだから。