上白沢慧音 - その2
寺子屋を出て稗田家に向かう道中。すっかり日は陰りを見せていた。
「今日もきれいな満月だ」
私は、天に輝く満月を見上げながら呟く。
その瞬間、私の奥から抑えきれない程強烈な高揚感が沸き起こってくる。
まるで自分ではなくなってしまうかのような感覚。
「何度味わっても慣れないな、この感覚は・・・くうぅ〜」
身体中に感じる違和感。自分の体の中から、外に何かが突き出るような感覚。痛みは皆無に等しいが、叫んでしまいそうな不快感が私を襲う。そのあまりの不快さに、突発的に誰かを襲いたい衝動にかられる。そして、それは決して気のせいなどではない。
しかし、これは今までに何度も経験してきたことだ。抑制することなど造作もなかった。
満月は私を変貌させる。
・・・姿を、能力を。
高揚感が落ち着いてきた頃になると、体の違和感はすっかり止んでいた。
頭から生えた二本の角と、ふさふさで手触りの良い尻尾。そして、身体中に溢れる妖力と、頭の中に、次々と流れ込んでくる幻想郷中の歴史。
・・・ハクタク。遠い国に伝わる伝説の獣。
これが私のもう一つの姿。満月を見たときだけ私はこの姿に変化する。そして、ハクタクに変化すると、幻想郷中の歴史を知ることができる。どこにも載っていないような小さな歴史や、隠蔽・改竄されてしまった裏の歴史など。この姿の時に不明瞭な歴史は一つもない。知りたいと思った時に、いつでも引き出してくることが出来る。
もともと、人間としてこの世に生を受けた私が、どうして後天的に半獣人となり、こうして今もまだ、生きながらえているのか。どうして、このような能力が身に付いたのか。
その理由は分からないが、私なりに解釈してみる。
きっと、これは天が私に与えた使命なのだ。数千年という、長い時間を掛けて身に付けた力で人間を守ること。そして、このハクタクの力で、人間の為に、書で歴史を伝え残すこと。
満月の時にだけやらなければならない仕事とはこのことである。
寿命が短い人間が、幻想郷の歴史を知るためには、基本的に書物に頼るしかない。だから私は、この歴史の知識を得る力を使って、満月の夜にだけ歴史の編纂作業を行う。
暗い歴史や、悲しい歴史。真実を知ってなお、それを真実として書き記すべきではない衝撃の歴史。私はいつも、つい感情的になってしまう。知られざる歴史を知るごとに、怒りや悲しみが込み上げてくる。ただ単に、幻想郷中の歴史を集めて、それを歴史書に記すだけの仕事ではないのだ。
・・・大変な作業ではあるが、愛すべき人間の為になるのなら、私はどれだけ大変な思いをしても平気だった。
「おっ、そうだ。忘れていたな」
私はいつも懐に持ち歩いている、赤いリボンを取り出した。そして、慣れた手付きで左の角に結ぶ。
「よしっ、これで完了だな。早く阿求様から幻想郷縁起を借りて、一ヶ月分の仕事を終らせるか」
明日は大晦日で寺子屋の仕事はない。なので、これが今年最後の大仕事になる。
私は、もう一度空に輝く満月を見上げる。
「フッ、相変わらず何年経っても変わらないな」
ずっと連れ添ってきた相棒のような感覚。
・・・これからもよろしく頼むぞ。
歩いて約10分。阿求様の家の前に到着した。師も走るほど忙しい師走。しかも明日は大晦日。だが、この里にとってはあまり関係ないようだ。
いつもと変わらない里の様子。道行く人と挨拶を交わす。
「いつも息子がお世話になっています。これからもよろしくお願いします」
ごく普通の、先生と生徒の親の間で交わされるやり取り。あまりにも自然で、何も違和感はない。
・・・私の、この姿を認めてくれている証拠だった。
ガラガラガラ・・・。
玄関をノックして数秒、扉が開く。
「こんばんわ阿求様」
私を出迎えてくれたのは、紫色の髪に、花の髪飾り、着物姿がよく似合う少女。この人間の里で最も由緒正しく、歴史のある家系、稗田家の当主、稗田阿求様だった。
「こんばんわ慧音さん。幻想郷縁起を借りにきたんですよね。とりあえず上がってください。今、みのりんも来てるんですよ」
私は言われた通り、阿求様に座敷まで案内してもらう。流石は知識と歴史の家系。どの部屋にも本棚があり、蔵書でぎっしりと埋まっている。私の知識と稗田家の歴史書・・・果たしてどちら方が歴史を網羅出来ているのだろう。これだけの歴史書の内容が、もし私の中に刻み込まれているのなら、私の頭はパンクしてしまうのではないだろうか。
幻想郷縁起は、稗田家で代々編纂されてきた歴史書で、人間の手によって書された歴史書の中ではかなり古いものになる。特に幻想郷の妖怪のことについて詳しく書かれており、歴史編纂作業や、私の授業資料にも非常に役立っている。
因みにみのりんとは、言うまでもなく最近になってこの里で暮らし始めた豊穣の神様である。
「あっ、慧音さん。こんばんわぁ〜」
「こんばんわ穣子。珍しくはないが、今日はどうしたんだ」
そう、穣子が阿求様の家に居るのは全然珍しいことではない。どう言うわけか、私の知らないうちに二人は意気投合し、妙に仲が良くなっていたのだ。
「実はね、今日はちょっと近くの人間の里まで、作物の収穫を手伝いに行ってたんだ。それで、お礼にお野菜たくさん貰っちゃって。私と姉さん二人じゃ、量が多すぎるから、あっきゅんにお裾分けに来たんだよ。あっ、勿論この後は慧音さんのところにも寄ろうと思ってたんだよ」
「おっ、そうか。いつもすまないな・・・夜食で食べさせて貰うぞ」
ハクタクが肉食だったか、草食だったかは知らないが、どういうわけか、この姿の時は妙に野菜の食が進むのだ。
「慧音さ〜ん。野菜が夜食なんて、それじゃ、草食動物だよ・・・って、慧音さん角!しっぽぉ!うわー・・・慧音さんが牛さんになっちゃったよぉー」
穣子は一人で勝手に慌てふためく。
「ハクタクだ!」
「え、はくたく・・・あっ、そうか。これが話に聞いた、満月の夜の慧音さんだね。うわ〜、可愛いなぁ〜」
「か、可愛いか?普通は怖がると思うのだか」
「う〜ん、そうかなぁ?」
穣子はこう見えても一応神様だから、変わったものは見慣れているのだろうか。
「まあ、穣子は世間ずれしてるからな」
「どうせ私は世間ずれしてますよ〜」
「あら、私も初見の時は、可愛いと思ったんですけど、それもやはり私が世間ずれしているからなのでしょうか?」
阿求様が、少し不満そうに呟く。・・・確かそうだったか。懐かしいな。
「やっぱり。・・・私とあっきゅんは、感覚が似てるんだね。意気投合するわけだよ!」
「ですね。私、友達と呼べる方があまりいなくて・・・だから、いつまでも仲良くしてくださいね」
「うんっ」
二人は嬉しそうに微笑む。・・・私からしてみれば、お二人の方がよっぽど、だな。
「フッ、可愛いか。今でこそ、そう言ってもらえて、素直にそれを嬉しいと思うことが出来るが、以前はこの姿になるのが嫌で仕方なかった」
「え、どうしてですか?」
「見た目が妖怪だから、みんな怖がるのだ。勿論、それが私だと気付いていない場合の話だが・・・穣子も、少し前まで人間の事で悩んでいただろ。まあ、それと似たようなものだ」
「ふ〜ん。でも、やっぱり可愛いですよね。特に、角に結んでいるリボンがすごく似合ってます。・・・自前ですか?」
穣子は、私の左角を指差しながら言った。
「これは、私の教え子達からのプレゼントだ。・・・まあ、私の宝物だな」
「えー、そうなんですか。私も知りませんでしたよ」
「そうですね、阿求様がまだ小さい頃の話ですから、知らないのも無理はありません」
そう言うと、阿求様はまるで夢見る少女の様に、瞳をキラキラと輝かせる。・・・いつの間にこんな技を!
「折角ですので、是非詳しい話が聞きたいです。幻想郷縁起のいいネタになるかもしれないですし。・・・実はですね、先代や先々代が残した幻想郷縁起にも、当然慧音さんの記述は載っていてイラストも付いているんですけど、そのリボンは描かれてないんです。・・・だから、少し気にはなっていたんですよ」
「う〜む。参りましたね。これから仕事だというのに」
「話してくれないなら、もう幻想郷縁起の貸出しは、永久に行いません!」
阿求様汚なっ!
「神様特権はつど〜う。・・・慧音さん、私にも是非その話を聞かせて頂けないでしょうか?」
・・・そんな特権は知らない。
「はぁ〜」
私は、大きく溜め息を吐く。観念する他無さそうだ。まあ、別に話しにくい話でも、恥ずかしい話でもない。
「少し長くなりますけど、よろしいですか?」
「いいとも〜(二人)」
・・・何か、阿求様も穣子に触発されて、少し変わってきたな。
これも時代の流れだろうか。
「それでは話します」
あれは、今からちょうど15年前のこと・・・