八章 リティルVSシェラ
風の王・リティルは、花の姫・シェラからは逃げられない
深夜の応接間の机の上。リティルが、羽根ペンを握ったまま突っ伏して眠っていた。
その背後に、シェラが立っていた。その瞳には、表情がない。
手には、クリーム色のブランケットを持っていた。シェラは、そおっと、眠っているリティルの体にブランケットを掛けた。そして、ジッと無防備に眠る彼を見つめていた。
ふと、玄関ホールに続く扉が開くのを感じ、シェラはサッとモルフォ蝶に化身した。
帰ってきたのは、仕事を終えた補佐官・ノインだった。ノインは真っ直ぐソファーに向かってくると、机で眠っているリティルを見つけた。
「リティル、こんなところで寝るな。リティル!」
ノインは眠るリティルの肩を揺さぶり、容赦なく起こしてしまった。揺すり起こされたリティルは、寝ぼけた顔でボーッとノインを見つめた。
「ノイン……ご苦労さん……報告は……?」
「こんな寝ぼけたおまえに、報告などするか!寝ろ」
欠伸をしながら、目をこするリティルをせき立て、ノインは花園の間の扉を開いてやった。リティルはおぼつかない足取りながら、部屋の入り口で翼を広げ、同心円の、淡く光る水路を飛び越えると、そのままベッドにボスッと落ちて動かなくなった。それを見届けて、ノインは扉を閉め、応接間のソファーに戻った。
ノインは召使い精霊の鳩に、机の上の片付けを頼むと、リティルが置いていったブランケットを、几帳面に畳んだ。
「シェラ、なぜいつも逃げる?」
ノインが声をかけると、化身を解いてシェラが姿を現した。
「もう、そこまで恨みの感情は強くはないのだろう?君がそばにいれば、リティルは安心する」
ノインの言葉に、シェラは顔を曇らせた。そして、無言で紅茶を二人分淹れると、お帰りなさいと、ノインに手渡して向かいに腰を下ろした。
「あの人の隣には、いられないわ。今でも、あの人はシェラが好きなのだから」
「それは、リティルを好きだが、過去の君を想って、身を引いているように聞こえるが?」
そう、真っ向から指摘されて、シェラは小さく困ったように微笑んだ。
「わたしの持つ、憎しみの記憶が偽物だということはわかっているの。けれども、それを理解しているのに、消えないわ。リティルはレジーナに、わたしの記憶を見せることを禁じてしまった。わたしは、わたしの過去を知ることができないの。わたしには、シェラの代わりはできないわ」
ラジュールを討ち、城に戻ったリティルは、休むことなく、すぐさまレジーナの所へ行ってしまった。詫びる彼女を許し、記憶の操作は絶対にしてはいけない!と釘を刺した後、誰にもシェラの記憶を見せないようにと約束させた。
「代わりを求めてはいない。リティルは君と、始まりたいだけだ」
「受け入れるというの?躊躇いなく刺すようなわたしを?」
「ああ。その思いっきりの良さ、記憶をなくしても、君はオレの知る風の王妃だ。後はシェラ、君次第だ」
そう言い切られて、シェラは臆病な瞳で俯いた。
「最近は大きな仕事もないが、いつまた行くともしれない。いいのか?一心同体ゲートも、君の霊力も持たないリティルは、命をいつ失うかわからない」
リティルは、今でこそ歴代三位の強さを誇るが、最上級精霊となる前は、歴代最弱だったとノインは遠慮なく伝えた。そして、今のリティルは、歴代最弱だと、言い切った。
だが、それは言い過ぎだ。原初の風の固有魔法である霊力の泉で、霊力が無尽蔵に湧くリティルは、例え生命力が弱まって、超回復能力が上手く使えなくなったとしても、生と魔の変換でそれを補える。やろうと思えば、花の姫の無限の癒やしがなくとも、なんとか死なずにすむだろう。現にリティルは、そうやって現状をなんとか乗り切っていた。
歴代最弱ではなく、九位くらいにはランクインしているだろう。
「ゲートを開き、あの人と交われと言うの?」
他の精霊と霊力を分け合う霊力の交換は、婚姻を結んだ精霊同士だけが行える、特別な魔法だ。それは、情交によって受け渡される。今まで、幾度となく傷を負うリティルを助けてきた、シェラの癒やしの力は、そうやってリティルの中にあった。シェラとの心を断ち切られた今、リティルの中に彼女の霊力はなかった。
ノインもインファも、あの無常の風さえも、リティルに、超回復能力頼みの、シェラの癒やしの力を当てにした、その戦い方を改めろと進言しているのだが、長年染みついた癖のようなモノで、リティル自身どうしようもなかった。
「リティルを失いたくなくば、そうしろ。君は、王妃の座を捨てていない。そしてリティルは、今でも君の夫だ」
シェラは思わず、髪飾りに触れていた。今でも夫婦。本当だろうか。一心同体ゲートは彼の中にない。生涯ただ一人の肉体にしか開けないその特殊なゲートは、それを持っているだけで夫婦とみなされ、霊力で作られたアクセサリーの交換は必要ないほどのものだ。
その魔法を、記憶を失う前のシェラは、リティルに使っている。それは、憎んでいる相手には、絶対にかけることのできない魔法だった。
風の城で過ごすうち、シェラは数々の矛盾に出くわした。副官のインファと時の魔道書・ゾナは、そんなシェラのことをよく見ていてくれて、混乱していると、優しく「記憶を整理しましょうか?」と言って、話を聞いてくれた。ノインはもう少し突き放すが、矛盾点を簡潔に指摘してくれるため、彼と話すと混乱がすぐに収まる。
「あの人が、今でもわたしの夫?一心同体ゲートがないのに……?」
シェラはどこか寂しそうに、俯いた。これで、リティルに心が向いていないとよく言うと、ノインは呆れていた。だが、ここまで心が傾いていて、それでも偽りの記憶は消えないのかと、ラジュールの遺した、呪いの様な言葉が負け惜しみではなかったことを痛感する。
だが、それでもこの城に留まる方を選んでいるシェラに、期待してしまう。
シェラを傷つけたくなくて、リティルは自分からは近づくことすらできない。
ノインは知っていた。リティルが、シェラを手放そうとしていることを。
それを未だ決断できないでいるのは、ひとえに、先延ばしにしているだけのことだ。何か、決定的なことがあれば、あれでいて決断力のある王だ、スッパリとシェラを神樹へ突き返すだろう。
「君の渡した婚姻の証がある。リティルはそれを、放棄していない。今でも、肌身離さず身につけている」
アクセサリーを持っている?それを身につけている?そう言われても、シェラには何を渡したのかわからなかった。
リティルは、たくさんのアクセサリーを身につけている。
左耳の、フクロウの羽のピアス。
右耳の、赤い血のような色の涙型の宝石のピアス。
右上腕の、クジャクの羽の腕輪。
左手首の、中で白い光の踊るビーズで作られたブレスレット。
そのすべてが魔導具だ。込められた霊力が混じり合い、彼に一つ一つ見せてもらわなければ、どれに花の姫の力が込められているのかわからなかった。
「シェラ、毎晩リティルの様子を見に来ているのだろう?それはなぜだ?寝首を掻きたいのなら、それが難なくできること、わかっているだろうに、しないのはなぜだ?」
馳走になったおやすみと、ノインは告げ、脇に置いたブランケットを、当然の様にシェラに返した。シェラはそれを、何も言わずに受け取った。ノインは翼を広げると、城の奥へ続く扉へさっさと消えていってしまった。
ネクロマンサーの事件からそろそろ四ヶ月。城の皆は気さくで、何も言わずに慕ってくれていた。彼等は、それとなくリティルの事を教えてくれる。
応接間でよく爆睡していると教えてくれたのは、頑なに「母さん」と呼ぶことをやめない、次男のレイシだった。
――あの人、母さんには無防備だから、寝首掻けるよ?試してみれば?
殺そうと思って、深夜の応接間に行ったわけではなかった。ただ、起きている彼には近づけなくても、寝ている彼になら近づける気がしたのだ。
それは、ネクロマンサーの事件解決から、一ヶ月が経った頃だったと思う。
深夜、シェラが応接間の扉を開けると、ドラゴンが悠々と舞えるほど高い天井のシャンデリアが、つけっぱなしになっていた。まだ、誰かが仕事しているのだろうかと、シェラは入ることを躊躇ったが、この扉を開いてしまった時点で、シェラが覗いたことはバレてしまう。シェラは、平静を装って、中へ入り、静かにソファーに近づいた。
そして、机に突っ伏しているリティルを見つけた。机の上には、書類が散らばっていた。彼は朝も早いのに、こんなところで寝て、仕事に支障はきたさないのだろうかと、心配になった。風の仕事は、命のやり取りだ。これが元で、動きが鈍ったら……。シェラはそれ以上考えないように、無意識に頭を振っていた。
起こして寝室へ!そう思ったが、シェラはリティルに触れることができなかった。
偽りの記憶が邪魔をする。血に濡れた手が、わたしを――いや、リティルと接して、これはあり得ないと理解している。その記憶が消えなくても、恐怖があっても、そんなことができる人ではないことを知っていた。
一番の理由は、そんなことではなかった。リティルの向ける瞳が怖いのだ。
よそよそしい優しい笑みならいい。もしも、愛しい者を見るような視線を向けられたらと思うと、怖い。彼が愛しているのは、過去のシェラなのだから。
眠るリティルを見下ろしていたシェラは、寝間着の上に羽織っていたストールを外すと、そっと小さな背中にかけた。
ここにいて、わたしはどうしたいのか。自覚のないまま、風の王妃に収まりながら、シェラは迷っていた。
リティルは、ラジュールを討って城に帰って一息つくと、鬼籍の書庫に呼ばれた。
そして、シャ・ファンとビ・ウジに、ある魂のことを打ち明けられた。
やはり、リティルが感じていた通り、彼等は生前深い関わりがあった。
リティルは、彼等の固執する、その魂――シャ・ファンの娘の魂を共に捜すことを、承諾したのだった。
ある晩、リティルは途方に暮れて、ボンヤリしていた。
イシュラース、グロウタース中から、無常の風が捜している魂の情報を集めていた。魔物狩り以外の時間のすべてを費やし、リティルは鳥達、風達をフル稼働していた。
さすがに疲れてきたなと、リティルは目の前の資料に目を落とした。
インファとノインには話してあるが、これだけ大規模に鳥や風を動かすとなると、烈風鳥王であるリティルがこなす以外になかった。
ハアと、リティルはため息をついた。専門家である無常の風が捜し続けて、それで見つかっていないのだ。リティルが関与したくらいでは、早期解決は無理だ。
これは、一度捜索を打ち切って力を蓄えなければ、命に関わるなと思い始めた。無常の風にも無茶はしてくれるなと言われているし、やり方を変えなければなと、リティルは思いながら、机の上の資料を集め始めた。今日は寝落ちる前に、ベッドに入ろうと思ったのだ。
毎晩寝落ちて、誰かが気を使ってブランケットを掛けてくれているが、もういい加減その誰かに、甘えているわけにもいかない。そのうち、怖い副官のインファや彼の妃のセリアに怒られてしまう。
控えめに城の奥へと続く扉が開くのを感じて、リティルは何気なく振り向いた。
時刻は深夜を回っていた。こんな時間に起きてくる者など――
「シェラ?眠れねーのか?」
入ってきたのはシェラだった。リティルの姿を認めて、彼女は入室を躊躇った。
ああ、そうだよなとリティルは思った。彼女は昼間、リティルに極力関わらないように努めていた。それが、こんな深夜に二人きりとは、気まずいだろう。
リティルは迷った。だが、彼女と同じ空間に、せめて居たかった。受け入れてもらえなくても、リティルにとって彼女は紛れもなくシェラだった。仕草から言葉、記憶はなくてもシェラはシェラだった。いや、彼女がリティルの記憶の中のシェラと違っていても、彼女が望んでくれるなら、このままでいようと思っていた。
シェラが好きだ……。別れを告げたはずの想いが、終わらない想いが、リティルの心を、切なく掻き乱していた。遠い昔、好きだと言ってくれたシェラを拒んだとき、彼女はこんな想いでいてくれたのだろうか。
――痛いな……でも、そばにいたい……。こんなの、狡いよな?
本当は、話をしたかった。けれども、彼女の植え付けられた記憶を思うと、傷つけたくなくて近づけなかった。
ラジュールを討ったとき、シェラを手放すと決めたのに、仕事が終わるまで待っていてくれていたシェラに「ご無事で何よりです」と言われ。手放せなくなってしまった。
単純だ。決意がグラグラだ。こんな、優柔不断だったか?とリティルは自分自身に呆れていた。だが、決断できないでいた。
「こんな夜中まで、仕事しているの?」
いつものように、深夜の風の王の見回りに来たシェラは、リティルが起きていたことに驚いて、二の足を踏んでしまった。そして、自分が寝間着姿であることに気がついて、慌ててストールの前を合わせた。こんな姿で、こちらが近づかなければ、近くにいないリティルを、刺激したくなかったのだ。とはいえ、声は風が難なく届けてくれるが、これだけ離れていればどんな恰好をしているかまでは、注視しなければわからないだろうと、少しだけ気が楽になる。
「ん?ああ、いつの間にか真夜中だったな。そろそろ寝るよ」
離れたほうがいいよな?とリティルは、平常心を装って作り笑いを浮かべた。
「そう……」
早く寝た方がいい。今日は、半日ほどの小さな仕事をこなして帰ってきた。一日城にいた日とは違う。疲れているはずだから。シェラは、少しだけガッカリしていた。いつものように寝てくれていれば、憎しみに邪魔されずに、その顔を近くで見られたのに……と。
寝ている彼には、憎しみが湧かなくなっていることに、シェラは割とすぐに気がついた。だから、深夜の訪問を日課にしていた。憎しみの代わりに募る想いを、育てる為に。
なぜ、育てているのか。答えなど、シェラの中にはなかった。ただ、無意識に従っているだけだった。
俯いて去らないシェラに、リティルは首を傾げた。けれども、どうした?とは問えなかった。リティルはシェラに背を向けると、資料を片付けるフリをすることにした。彼女の定位置になった、暖炉の前のテーブルセットに、何か取りに来たのかもしれないな、とも思ったからだ。オレが見ていたら、入りづらいだろうなと、リティルは気を使ったつもりだった。
シェラは、机の片付けを始めたリティルの様子に、そんなことはいいから早く寝て!と苛立った。そして、迷った末、ソファーに近づいた。
「手伝います」
敬語になってしまった。リティルが驚いていた。集めればいいの?と問うと、リティルは少し身を離しながら頷いた。その後、二人無言だった。
カサカサと、紙の触れ合う音しかしなかった。
けれどもリティルは、ああ、シェラがそばにいる!と嬉しかった。
シェラは、隣にいるリティルの顔が見たかった。けれども、見る勇気がなかった。憎しみは弱まっているかもしれない。彼がこんなに近くにいても、湧いてこないどころか、その顔を、至近距離で見てみたい衝動に駆られていた。けれども、見てしまって、また憎しみに支配されたら?せっかく育てている、温かな想いを冷やされたくなかった。
そうこうしているうちに、資料はあと一枚になった。何気なく、二人は同時に手を伸ばしていた。
ガタンッと、シェラが慌ててかがんでいた身を、起こした。ソファーとテーブルの間隔は狭く、つまずいたシェラはソファーにストンッと尻餅をついていた。手にしていた、せっかく集めた資料が、机の上に、再び散らばった。
「ごめん、大丈夫か?」
リティルと手が触れたことに驚いて、緊張も相まって過剰に反応してしまった。リティルの傷ついた瞳に、近づいた距離が急激に離れるのをシェラは感じてしまった。そんなつもりではなかったシェラは、リティルにどう言っていいのか言葉を失って、ただ彼の傷ついた瞳に、傷ついていた。
ああ、これ以上は一緒にいられない。
リティルは、シェラが植え付けられた記憶故に”リティル”という男が怖いのだと思っていた。それでもこの城に留まる理由はよくわからなかったが、恐れられていると思っていた。リティルはゆっくり、シェラの隣に腰を下ろした。体の触れ合わない距離を、意識しながら。
「シェラ、無理してここにいなくていいんだぜ?心がないのに、一緒にいる理由なんてねーだろ?婚姻の証があるからって言うなら、壊してやるよ」
そういうとリティルは、穏やかに笑ったまま、スルリと髪を縛っていたリボンを解いた。
それが、この人に渡したわたしの欠片なのだと、シェラは知った。
こんな、こんな何の変哲もないリボンを、婚姻の証としてわたしは贈ったの?もっと他にあったのでは?と、シェラは自分で自分を疑った。
彼の身につけているアクセサリーにくらべ、目立たず弱々しい。シェラ自身、あれをアクセサリーと認識していなかった。そんな古ぼけて弱いリボンを、この人は大切に持っていてくれたのだと、シェラは思った。
インファが貸してくれた『ワイルドウインド』という本を、シェラは最後まで読むことができなかった。
ゾナに史実だと言われ、シェラが花の姫として転成するときに叫んだ言葉に、答えたリティルの口づけに、二人の絆を感じてしまった。戻らない記憶が、リティルの心は過去にあって、今のシェラにはないと思い込んだ。偽りの憎しみが後ろめたくて、シェラはリティルに近づけなかった。
『わたしを待っていて!守りたいのよ、失いたくないの!リティルあなたを!消えてしまうかもしれないと思うなら、なおさらよ!わたしがあなたを繋ぎ止めてみせるから、どうかお願い……!』
まだ、花の姫の力を手に入れる前の、無力なシェラの叫び。本の中のシェラは、何の障害もなく、拒まれても、リティルに真っ直ぐ突き進んでいた。
そんなシェラに、リティルは……好きだと、答えた……。
わたしには、叫べない……。いつ、命を奪われるかわからない戦いの中、それに身を投じるこの人に、この人を守る力があるのに、それを、与えてあげられない。だから、選ばれない。シェラの贈った婚姻の証……それを、わたしのせいで、この人に壊させるの?あなたは、壊せるの?シェラは、リティルの手にある、黒いリボンを見つめていた。
リティルは、青い光を返す黒いリボンを手の平に乗せると、風を集め始めた。本気で壊すつもりなのだと悟ったシェラは、その手を掴んでいた。
リティルは、止められると思っていなかったのか、驚いていた。その表情にも、シェラは傷ついた。婚姻の証を壊すことを望んでいると思われていることが、酷く哀しかった。
「あなたが正しいことはわかっているのです。けれども、記憶が……目の前のすべてを否定するの!何が真実なの?教えて!教えてください」
壊してほしかった。偽りの記憶をリティルの言葉で否定して、君はこうだったと彼の口から聞きたかった。今を否定してほしかった。過去のシェラになれと、言われたかった。
この感情を何というの?彼の言葉で、教えてほしかった。
「君の記憶が真実だ」
泣きそうな顔で訴えるシェラに、リティルは穏やかに笑って言った。
「オレが何を言ったって、君の言う記憶は、消えねーだろ?だったら、無理することねーんだよ。オレは君の父親を殺して、君を辱めた憎い仇だ。それで、いいんだぜ?」
無理に否定なんかしたら、シェラの心が混乱して精神に傷がついてしまう。リティルは、シェラを守りたかった。強がりでも、独りよがりでも構わない。ただ、自分にできるやり方で、この城に留まり続ける最愛の人を、最大限守りたかった。
シェラは瞳を見開いた。
リティルは、この城の誰がこの記憶を否定しても、ただの一度も否定したことはなかった。命を狙われ、彼自身、シェラを好きだと言うのに、今のシェラの何も否定したことはなかった。
リティルに、事実無根だと言われて、けれどもそういう記憶があるのよ!と喧嘩でもできたら、何かが変わるかもしれないのに、リティルは、ずっと、何も言わない。
「なぜ否定しないの?この城の皆が言うの!わたしとあなたは――」
「憎しみでも、君の心にオレがいるならいいんだ。シェラ、明日セリアに送らせるから、神樹に帰るんだ」
リティルは、ヤンワリとシェラが掴んでいる手を放させた。
「今離れてしまったら、わたしは……」
偽りの記憶に勝てない。過去のシェラに、完全に負けてしまう。
上手く言える自信はなかった。けれども、今告げなければならないと思った。
この感情を何というの?この言葉で表す以外、言葉を思い付かない。
本当に?自分でもまだ、確信していなかった。けれども、この四ヶ月、ずっと見ていた彼に、この応接間で皆の中心にいる彼の姿を見ていて、そうとしか言い表せない想いが、シェラの中に確実に育っていた。
皆と、たわいない会話で明るく笑っているその姿。
インジュに、歌ってとせがまれて、しょうがないなと笑って、歌うその声。
時に、厳しい瞳で職務に赴く、その瞳。
疲れて眠っている、その無防備な寝顔。
彼のすべてが、シェラを惑わせる。憎しみと愛しさが、シェラを苦しめる。
――見て。わたしを見て!リティル!
「好きなの……!あなたが、好きです……リティル……なぜ、あなたなの……?あなたを、憎めば憎むほどあなたがほしくなるの!触れて……ほしくなるのです。記憶がすべてを否定するのに、わからないの。怖いわ……リティル……わたしはあなたを、愛しているの?憎んでいるの?」
泣きながら、リティルに詰め寄ったシェラは、なんとかリティルに、触れないように堪えていた。触れてはいけないと思った。こんな方向性の定まらない、滅茶苦茶な心で、触れてはいけないと思った。
「――両方……なんじゃねーか?オレはずっと、どうしてこんなオレを愛してくれるのか、疑問だったんだ。君の想いが深いほど、恨まれて当然なんだよ。オレは風の王だ。もしもクエイサラー王が風の理に反してたなら、オレは殺せる。君の記憶が、歴史上事実な世界があってもおかしくねーんだよ。オレは、そういう精霊だ。君は、間違ってねーんだよ」
オレは奪うだけで、君に何も与えられない。そう、いつか言ったリティルにシェラは、もらっていると、これ以上何をもらえばいいのかわからないと、そう言って笑ってくれた。
愛しているわ……と囁いて、抱きしめてくれるシェラに、リティルができることは、ただ、この城に、シェラのもとへ帰ることだけだった。何度も帰れないと思った。それでもリティルは、この城へ帰ってきた。シェラがいるから帰ってこられた。
今まで、シェラを手放せなかったのは、彼女が、憎しみの記憶があるはずの彼女が「おかえりなさい」と言ってくれるからだ。笑顔がなくても、硬い表情のままでも、シェラは、欠かさず、そう言ってくれていた。
手放せなかった。たった一言、シェラが言ってくれるその言葉を、リティルは今でも頼りに、この城へ帰ってきているのだから。
「もしもなど、必要ないわ!消し去って。わたしの記憶を!あなたを――憎むすべて!お願いです……」
俯いて涙するシェラを、抱きしめたかった。だが、リティルを仇とする、記憶の為に苦しむシェラに、リティルから触れることはできなかった。
突き放す以外に、今、シェラの心を守る術がなかった。傷つけたくない……リティルはシェラに「おかえりなさい」と言ってほしいという、小さな願いを犠牲にしても、シェラを守りたかった。
「シェラ……君はオレに、キスできるのか?」
いきなり何?と、シェラは涙をこぼしながら瞳を見開いた。
「オレは君が好きだよ。忘れられた今でもな。君は、今も昔も変わらない。記憶があってもなくても、君は君なんだ。もう、オレが限界なんだよ。今オレの前からいなくなってくれねーと、襲うぜ?ずっと君を、抱いてきたんだからな」
リティルの瞳が、鋭くなった。その視線に射貫かれて、シェラはゾクッと体の奥底が疼くのを感じた。知らない感情を感じる。この体は、もしかすると覚えている?頭が忘れた記憶を、この体が覚えている?唐突に、シェラは光を見た気がした。
答えられないシェラに、リティルは身の危険を感じて臆したのだと思った。当たり前だ。彼女はリティルに襲われたという記憶を、植え付けられているのだから。
好きだと言われたからと、そんな彼女に近づけるわけがない。
「わかっただろ?だったら、もう部屋に戻ってくれよ。明日の朝、セリアに送らせる」
フイッと視線を外し、リティルは机に散らばった書類を拾い上げた。黒いリボンはまだ手に持ったままで、解けた金色の半端な髪に隠れた横顔が、とても傷ついて見えた。言わせてはいけないことを、言わせたのだと思った。
この人は、こんなわたしを守るために!シェラを、激情が突き動かした。
「っ!――お、――シェ、待てって!君が襲いかかってきてどうするんだよ!」
いきなり抱きついてきたシェラを、咄嗟に引き離そうとしたりティルは、シェラに唇を奪われていた。抵抗して引き離そうとするリティルの顔を捕らえて、シェラはさらに唇を重ねた。やむを得ずリティルは、シェラをソファーに組み敷いて行為を止めるしかなかった。
僅かに息を荒げて開かれた唇が艶めかしく、リティルは慌てて視線を逸らした。そして、ここで気がつかなくてもいいのに、シェラが寝間着であることに気がついてしまった。
めくれてしまったスカートから覗く、ソファーから落ちた白い片方の足に、遠慮なく触れていたころの記憶が蘇る。シェラが怒ったように言葉をかけてくれなかったら、本当に襲っていたかもしれない。
「さっきの問いの答えよ!口づけできることが条件なら、これで証明されたでしょう?」
「風の城に居座る気かよ!聞いてたよな?ここにいたら、オレ、君を襲うぜ?」
リティルはわざと、シェラの両手を押さえ込んだ両手に、力を込めた。
「夫婦なのだから、襲ったことにはならないわ!」
悪ぶって鋭い瞳で、一度逸らした視線を戻してきたリティルに、シェラは言い募っていた。同意なく、そんなことができる人ではないことは、慌てて逸らした視線が証明していた。怖くなかった。シェラはリティルを、信じていた。
「どうしたいんだよ?君は……わかったよ、シェラ、風の城に居ていいぜ。けどな、オレの半径一メートル以内に、近づくな!」
そう言うとリティルは、翼を広げヒュンッと花園の間に飛び込んでいってしまった。
これ以上は追いかけられなかった。リティルは、わたしを拒絶して、傷つけないように守ってくれようとしたのだと、シェラにはそう感じられたからだ。偽りの記憶が薄れていく。あの人に襲われたのだという記憶が、砕けて消えていった。
やはり、この記憶は偽りだ。偽りは、真実には勝てない。この、心と体に残っている感情が、教えてくれた。真実の感情が、刃となって偽りの記憶を打ち砕いてくれた。
――オレは君が好きだよ
リティルの声が、憎しみを溶かす。彼のそばにいれば、この偽りの記憶を壊せる。
過去形ではない形で好きだと言ってくれた、あの人の声が、憎しみを凌駕していくのがわかった。
シェラは涙を拭いた。
「ありがとう……リティル。もう、逃げないわ」
シェラは、過去のシェラからリティルを奪う決意をした。
そんな決意をシェラにさせているとは、露知らず、リティルはベッドに突っ伏していた。
シェラが、シェラがオレを好き?そんな素振りなかっただろ!と、リティルは混乱していた。思わず、好きだと返してしまった。これは――これは、明日からどうすれば?
ずっと、遠巻きに睨まれていた。憎まれているのだと思い込んでいた。
最近、紅茶を淹れてくれるようになったが、ツンッと視線を逸らされる。城の者とは笑い合えるようになったのに、リティルとはまともに言葉すら交わしていなかった。
なのに、なのに!どこに惚れられる要素があったのか、リティルにはわからなかった。
彼女はシェラだ。紛れもなくシェラだ。半径一メートル以内に近づくな?こんなの、宣戦布告にしか受け取られない。
「オレ……理性保つのか?」
リティルは身の危険を感じていた。
時の魔道書・ゾナは、シェラの視線を感じて顔を上げた。彼女の瞳は、暖炉のそばの椅子に座るゾナを通り越して、窓際のソファーに注がれていた。
「シェラ姫、リティルに用事でもあるのかね?」
シェラがリティルに話しかけたり、近づいたりする姿は今まで見られなかった。それでも、そうとしか思えない視線を、シェラはリティルに、注いでいるようにゾナには見えた。
「接近禁止令を出されてしまったの」
接近禁止令?そんなもの出さなくても、シェラはリティルに近づかないのに?とゾナは首を傾げた。
ソファーに座るリティルは、突き刺さるような視線を感じて、振り向けなかった。
開き直ったな?とリティルは苦笑いした。こうなるともう、こちらが折れる以外に彼女の機嫌を直す術はない。接近禁止令を解いて、そばにいろと言わなければ、シェラは納得しない。しかし、そばには置いておけない。隣になんていられたら、仕事どころではなくなってしまうから。どういうつもりだよ?憎しみの記憶があるはずなのにと、リティルはどう行動すればいいのか、もう、わからなかった。
「お父さん、お母さんに何かしたの?ずっと見てるよ?」
正面に座っていた娘のインリーが、瞬きすらしないようなシェラの様子に、ヒソヒソとリティルに尋ねてきた。
「ああ?そんなわけねーよ。シェラがオレを見てるわけねーだろ?」
オレが振り向けば視線を逸らすかもしれないと、リティルは淡い期待を込めて、思い切ってシェラを振り向いた。
――うっっわー!
リティルが振り返ると、シェラは瞳を逸らすどころか、ニッコリと微笑んだ。思わず冷や汗が流れた。いつ折れるの?そう言われた気がした。おいおい!記憶どこ行ったんだよ!とリティルは混乱した。
「父さん、拒む理由なんて、ないんじゃないの?なんで逃げるの?」
インリーの隣に座っていたレイシが、疑問を口にした。
「へ?理由……ないか?」
背後からレイシに声をかけられて、リティルはやっとシェラから、視線を逸らすことができた。
「何言ってんの?あれ、どう見ても母さんだよ?」
遠慮なんて、いらないんじゃないの?とレイシは呆れて言った。
あれはシェラだ。それはわかっている。けれども――
そんな、リティルがレイシに、追い詰められていたときだった。中庭に続くガラスの扉が開いて、疲れた顔のインファが帰ってきたのは。
「ただいま戻りました」
「イ、インファ!」
「はい、オレですが、何か?」
ちょっとおかしい返答が返ってきたが、リティルには、インファを労う余裕がなかった。
「ちょっと……」
インファは、飛びかかるようにそばに来たリティルの様子に、ゆっくりと応接間を見回した。そして、こちらをジッと見つめる視線を見つけた。
「レイシ、ノインはまだですよね?」
インファは、こちらに視線を注ぐシェラを見つめたまま、淡々と問うた。
「うん。遅れてるね。いいよ、インリーに城閉じてもらうし、午後には師匠が来るっていってたし、父さんと行ってきてよ」
師匠とは、夕暮れの太陽王・ルディルのことだ。レイシは、力の使い方を、太陽王であるルディルに習っていたよしみで、今でもそう呼んでいた。
「ゾナ、そういうことですので、よろしくお願いします」
一方的にゾナに声をかけると、インファはリティルを促して、今し方潜ったばかりのルキルースへの扉を再び潜った。
ルキルースへの扉の向こうは、幻夢帝・ルキの住まう断崖の城だ。
「あれ?何か忘れ物かな?」
玉座にいたルキは、寝そべったまま数分前に別れたインファに、声をかけた。見れば、リティルが一緒にいる。これはシェラと何かあったのかな?とルキは察した。
「すみませんルキ、逃避しにきました」
「ふーん、ま、ゆっくりしていってよ。ボク、ここにいるから、用があったら声かけてよ」
ルキはおやすみと言って、リティルには絡まずに、コロリと背を向けた。リティルは、そんなルキに、ありがとなとだけ言った。背を向けたルキは、長い尾を立てて左右に振って答えてくれた。
インファに促されて、リティルは、針葉樹の森が見渡せる、バルコニーに出た。
「ごめん」
「いいですよ。母さんに何をしたんですか?絶対に譲らない、という目をしていましたよ?」
あんな目は、久しぶりに見たとインファは笑った。
「実はな――」
リティルは昨夜のことを、洗いざらいインファにぶちまけていた。息子にこんな話、とは思ったが、王と副官という立場なら、二人はこんな話しも平気でできた。
四ヶ月前、セリアと喧嘩していたという顛末も、リティルは彼の口からすべて聞いていた。
話を聞いたインファは、どこか同情しているような瞳をしていた。そんな息子に、リティルは力なく笑うしかなかった。
「母さんは、やはり母さんなんですね。しかし、偽りの記憶はどんな状態なんでしょうか?探ってみましょうか?」
インファは、リティルがシェラに向き合えない原因を、ちゃんと理解してくれていた。「偽りの記憶があるかぎり、近づけないですよね」と、インファは憎らしげに呟いた。
「オレが……やったほうがいいのか?」
「そうですね……母さんはそれを望む気がしますね。あの目は、逃げられませんよ?一度、話し合った方がいいと思います」
だよなーと、リティルはバルコニーの石の手すりに頭を置いた。
「抵抗あるんですか?」
「変に意識して、どう接していいのかわからねーんだよ。案外、隣にいたら今まで通りなのかもな」
「父さん達は、お互いを大事にしすぎなんです。気がついていますよね?母さんが深夜になると、応接間に来ることです」
「ん?来てたのか?何しに?」
「気がついてなかったんですか?父さんの寝顔を、見に来ていたんですよ」
「はあ?オレを殺しにじゃなくてか?」
驚きすぎて、声が裏返ってしまった。
「そんな素振りはありませんでしたよ?寝ている父さんにブランケットを掛けて、ジッと見つめてましたよ。声をかけられなかったんだと思います」
インファが知ったのは偶然だった。帰って来ると応接間の机でリティルが寝ていた。インファは当然起こして寝室へ行かせようと思ったのだが、誰かが部屋に近づく気配を感じて、咄嗟にイヌワシに化身するとシャンデリアまで飛んだ。そして、監視していると、部屋に入ってきたのはシェラだった。シェラは迷わずソファーまで行くと、寝ているリティルを見つけた。どうするのかとイヌワシの目で見ていると、シェラはブランケットを慣れた手つきで作り出すと、起こさないようにそっとリティルの背にかけた。
そしてしばらく、眠るリティルを見つめていた。その様は、なんとも切なく感じた。
「それで、昨日あんな時間に……躊躇ってたのは、オレが起きてたからなのか?ヤバイなこれ……知るんじゃなかったな」
まさか、ブランケットを掛けてくれていたのが、シェラだとは思っていなかった。昼間のシェラは本当に、素っ気ないのだ。それはもう、あなたに心などない!と切り裂かれそうなほどに。
「健気ですね。もう、抱きしめるしかありませんね。いっそ、寝室で話してみてはどうですか?」
インファのテンションが、微妙に変だった。徹夜での仕事だったのだ、無理もない。
「それ、アウトだろ?」
「理性保ちませんか?そうですか。では、深夜の応接間で待ち伏せしてください。さすがにあの部屋では、事には及べないでしょう?」
皆の気配が残り、広すぎるあの部屋では、さすがにそんな雰囲気になったとしても、我に返る可能性が高い。城から外に出るわけにはいかず、では、あの部屋しかなかった。
「深夜は応接間に近づけないようにしておきますから、気兼ねなくどうぞ。それにしても、慎重ですね。父さんはもっと、大胆なんだと思っていました」
「あの本読んだだろ?シェラはオレにとって、本物のお姫様なんだよ!おまえは、セリアとどうなんだよ?あれから」
雷帝妃のことを聞かれ、ああと、インファは曇りなく笑った。
四ヶ月前、炎の城から帰還したインファに、セリアは人目もはばからずに抱きついて泣いた。照れ屋で人前ではインファに触れないセリアを、いつもはからかうレイシも、何も言わなかった。
シェラに癒やされ、傷一つ残っていなかったインファは、大丈夫ですと言って宥めていたが、インジュが遠慮なく、どれだけ酷かったかを事細かに語ってしまい、収集がつかなくなって、インファはセリアを抱き上げて退散する羽目になった。
インジュはしれっと、これで仲直りですねと言った。
とりあえず自室兼寝室に戻ったインファは、閉じた扉の前で、即セリアを下ろしたのだが、彼女は抱きついて離れようとしなかった。傷はもう癒えているし、体に違和感もないと言ったのだが、セリアは離してくれなかった。こんなことは初めてで、インファは困っていた。セリアは照れ屋だが、気丈で明るい。涙脆い一面もあるが、こんなに泣くのは今までになかった。そんなに心配させたのか?と思いながら、輪切りにされそうなあの状況下でも、抜け出して逆転する気満々だったインファは、なぜこんなに?と思いながら、どうすることもできずに、ただ、抱きしめてやることしかできなかった。
「ごめんなさい!わたし、ずっと怖くて……」
いくらか落ち着いたセリアが、耳元でそう言った。
「ノインを頼っていたことですか?もう、いいですよ。もう、気にしていませんから」
それは本当だ。リティルが帰ってきて、インにセリアの行動の原因を聞き、インファは普段の余裕を取り戻していた。ノインはインから戻ったばかりで、まだきちんと話ができていないが、城に帰って一息ついたら、大人げない態度をとったことを謝ろうと思っていたところだった。
「そうじゃないの!生命奪取が強くなってきてて、夜だけじゃなくて、昼間、みんなの前でも発動したら……そう思うと、怖くて、それで逃げてたの!ごめんなさい!恥ずかしくて、言えなくて、ごめんなさい!」
顔を上げたセリアの瞳からは、ポロポロと宝石のような涙が、止めどなく流れていた。
セリアは「インファは向き合おうとしてくれたのに、逃げてごめんなさい!」とインファの瞳を真っ直ぐ見た。
「インファが好きって思うと、吸い取っちゃうのよ!止められないの!吸い取って、インファがまた倒れたら……そんなこと、したくないのよ!」
「オレが倒れたのは、最初の一回だけですよ?そんなに気にしていたんですか?セリア、教えてくださいよ。あなたが何を思っているのか、言ってくれなければわかりませんよ?オレは、恋愛には向かないんです。知っているでしょう?」
そういえば、初夜の時意識が数分なくなって、目が覚めると、セリアは全身蒼白だったなと思い出した。初めての経験だったインファは、霊力の交換とは、そういうものなのかと思ってしまった。だったら、意識を奪われないように気をつければいいわけで、インファは全く気にしなかった。
生命奪取という、固有魔法のせいだとセリアが告白したのは、三度目の霊力の交換の後だった。ああ、そうだったのかと、インファは思うだけで、やはり全く気にしなかった。
力の使い方の上手いインファにとって、生命奪取は取るに足らない魔法だったのだ。
しかしセリアには違った。初夜のとき、意識を失ったインファを前に、何が起こったのかわからなかった。彼の霊力と共に、生命力までも流れ込んできたことがわかって、一瞬インファを瀕死にしてしまったと思った。目が覚めないかと思った。数分が、とても長く感じられた。しかし、インファは目を覚ました。そして、ケロッとしていた。そしてその時は、生命奪取のことを、告げられなかった。
怖かったのだ。嫌われるんじゃないか。もう、触れてもらえないんじゃないかと。しかし、ずっと黙っているわけにも、拒み続けるわけにもいかず、セリアは意を決してインファに話した。だが、インファの反応は淡泊だった。固有魔法だったのかと納得して、それで終わりだった。その後もインファは全く気にせず、セリアがいいの?と聞くと、何か問題でも?という態度だった。
けれどもセリアの心には、罪悪感が募った。愛する人を――インファを傷つけているんだと、そんな後ろめたさがつきまとった。
そんなある日、セリアは気がついた。インファから吸い取ってしまう生命力の量が、増えていることに。それはつまり、生命奪取の能力が強くなっているということだ。セリアは、自分の意志で制御できない。生命奪取は、暴走状態なのだ。これ以上強力になって、見境がなくなったら?いつか、インファを吸い殺すんじゃないか?情交の最中に発動するこの力は、わたしの、インファを好きだという気持ちに反応しているとしたら?昼夜問わず発動し始めたら?怖くて、ノインに逃げた。
ノインは話を聞いて、インファを頼れと、彼は精霊大師範だと諭してくれたが、言いづらかった。インファの手を患わせたくないなんて、嘘の言い訳だ。本当は、取り合ってもらえないかもしれないことが、怖かった。取るに足らないと思われることが、心細かった。本当はインファに、助けてほしかったのに、言えなかった。
そして、インにまで諭された。
インファはいつ死ぬかわからないと言われても、飄々と仕事をこなして帰ってくる彼が、消えてなくなることなど、想像できず、踏ん切りがつかなかった。
そして、今日、インファが動けないほどの傷を負ったのを感じた。
息子のインジュが行くと言ってくれ、それに無断でシェラがついて行ったのには驚いたが、無限の癒やしを持つシェラなら、助けてくれるといくらか安堵した。それでも、体の震えが止まらず、ゾナにずっと大丈夫だと言われて慰められた。
帰ってきたインファは、普段通りの余裕さで笑っていた。心底ホッとしていると、インジュが言った。
「お父さん、エネルフィネラに、輪切りにされる寸前でしたよぉ!もお、シェラが来てくれてよかったです。ボクの治癒魔法じゃ、間に合わなかったかもでしたぁ」
インジュの苦笑交じりの言葉を聞いて、セリアは気がついたら、インファの首に腕を回して抱きついていた。インファが驚いたのがわかったが、離せなかった。体温を感じて、インファが生きていることを実感させてくれて、嬉しくて、涙が出た。インファはすぐに、背中に腕を回してくれて、優しく落ち着いた声で、大丈夫ですよと、言ってくれた。
インファの大丈夫を耳ざとく拾って、インジュは更に言った。
「そんなこと言って、首から空気漏れてましたよぉ?もう少しボクが遅かったら、首、落ちてましたよぉ?さすがに、首が落ちたらお父さん死んじゃいますよぉ?それで平気なの、ボクだけですよねぇ?」
すかさずリティルに、「首が落ちたらおまえも死ぬだろ!」とツッコまれていたが、インジュはケロリとして「ボク、しばらくなら生きてる自信ありますよぉ?」と胸を張った。
首……?首?と恐ろしい会話に、思考がグルグルしていたセリアは、更に信じられない言葉を聞いた。
「落ちなかったんですから、いいんですよ。父さんが来てくれてました。あと、右手の糸一本切れていたら、逆転できましたし。あなたがいなくても、何とか勝てましたよ」
「落ちなかったんですから、いいんですよ」ですって?それを聞いたセリアは、号泣してしまい、泡食ったインファに自室へ連れ込まれて、今に至る。
夫はこういう男だ。それに輪をかけて傷を負いまくる、リティルの息子なのだ!二人は、似たもの親子なのだ!
セリアは、そう思ってわかった。
シェラが、リティルが、互いに触れようとするわけを。
二人は、常に覚悟しているのだ。リティルは、シェラのもとへ帰れないかもしれないことを。シェラは、リティルが帰ってこないかもしれないことを、覚悟しているから、そばにいられる今を大事に、生きてここにいることを、確かめ合っているのだ。
セリアは、なんてわたしは悠長だったのだろうかと思った。インファから逃げて、彼といられる時間を無駄に消費していた。恥ずかしがっている場合ではなかったのだ。
インファを遠ざけたまま、彼を失ってしまう所だったことに、セリアはやっと気がついた。
「インファ……好きよ、好き!あなただけなんだから!こんな固有魔法で、傷つけたくないのよ!この力が怖いの!嫌いなのよ!」
どおして、わかってくれないの!と、セリアに泣きながら怒られて、インファはそうだったのかと、やっと気持ちを知った。
「あなたの想いに、気がつかなくてすみません。生命奪取のことはオレに任せてください。暴走しないように、制御する術を見つけますから、心配いりませんよ。セリア、オレにとってもあなただけです。手放しませんよ。大丈夫です。愛していますよ」
インファはセリアを強く抱きしめると、ヨシヨシと頭を撫でた。
生命奪取を制御できずにいたセリアは、インファの指導のおかげで暴走させることがなくなっていた。今では、照れ屋はそのままだが、インファから逃げなくなったどころか、一生懸命至近距離で見つめ合う姿が見られた。それは甘い雰囲気とはほど遠く、睨めっこして遊んでいるように見えたが、城の住人の癒しには、一役買うことになった。
何にせよ、仲直りできてよかったなと、リティルは思った。インファは、疲れているはずなのに、妃の話題で楽しそうにしていた。
「生命奪取は、かなり使えるようになりましたよ。オレから奪った生命力は、身代わり宝石に加工していましたし、気にすることはなかったんですが、気になるモノなんですね」
気にならないおまえが信じられねーよ!と、リティルは言いかけて止めた。インファは気にしていたから、生と魔の変換を編み出したのだから。これは、インファに話せないセリアの問題だ。
だが、初夜の時、意識を失ったというのだから、気にしてやれよ!とも思った。インファにそれを言って咎めても、二回目以降倒れていませんよ?と首傾げられて終わりだなと、その様がありありと想像できた。こういう男なのだインファは。対処したのだから、問題ないと言い放ってしまう。
「気にすると思うぜ?おまえタフだな。霊力交換中に、生命力まで奪われたら、オレなら一回で果てるぜ?」
「そんなに何回もするんですか?」
一晩に?とインファに何気なく問われ、リティルはしまったと思って、笑って誤魔化した。
「あ。あはははは。けど、セリアのヤツ、もっと早くおまえに言ってれば、こんな後ろめたいままで、いなくてよかったのにな」
「そうですよ。オレを誰だと思っているんですかね?精霊大師範ですよ?そんなに悩んでいるとは、思わなかったオレもオレですけどね。ノインに、気がついてやれと、怒られましたよ」
風以外の精霊にも難なく魔法の手ほどきができるインファを、精霊達は先生と言って慕っていた。精霊大師範という異名は、そんな彼等がつけたのだ。風の城は、他の精霊の居城と違って開かれた城だが、今はインファを尋ねて日中は訪問客が多かった。風三人の誰かか、ゾナがいれば対応できるが、今日のように居ないときは、最近では城を閉じる処置をしていた。というのは、入城チェックをわざわざしないので、よからぬモノが入り込むことがあるからだ。
これは四年前、リティルが不在となって一年が過ぎた頃、ルディルが始めたことだった。
風の王の護りが希薄になったシェラを狙い、よからぬモノが入り込むからだと、ルディルは言っていた。花の姫は、神樹にいるか、一心同体ゲートで繋がっていれば狙われにくいが、そのどちらもない状態では、美味しそうな匂いがするらしい。その匂いに誘われて、よからぬモノに狙われるのだという。
記憶を失う前のシェラは、自衛ができる精霊だった。それでも、一人では出歩かず、風の城から極力出なかった。
記憶を失ったシェラは、戦う力を失っていた。故にゾナが、日中そばにいてくれている。守られているのだが、シェラはそれにすら気がついていないだろう。
「父さん、一心同体ゲートは、できることなら急いだ方がいいかもしれません。無常の風の探している魂は、未だ行方不明です。関わっているのはネクロマンサーでしょう?」
「だと思うけどな。インファ、オレ、歴史の保管所に行ってみるよ」
歴史の保管所は、大地の城にある、終わった事柄が納められた書庫だ。風は常に新しい情報を運んでくるが、歴史の保管所に納められるのは、蓄積された知識だ。
そこには、リティル達が今まで解決してきた事件の記録なども保管されている。
「何を調べるんですか?代われるモノなら、オレが代わりますよ?」
「おまえ、帰ってきたばっかりだろ?引っ張ってきたオレが言うのもなんだけどな、大怪我してから、セリアが過剰に心配してるんだよ。顔見せて安心させてやれよ」
そろそろセリア、起きてきてるはずだしと、リティルは言った。
「では、何を調べるかくらい、教えて行ってください」
「ルディルと無常の風の事件のことが知りてーんだよ。……今、城に戻っても仕事にならねーし、気分転換させてくれ」
リティルは力なく笑った。
「了解しました。誰かつけますか?」
「ノインって言いてーところだけどな、あいつも朝帰りだしな。一人で行ってくるよ。無常の風のことは、デリケートだしな」
無常、連れていくわけにもいかねーしと、リティルは苦笑した。
「そうですね。しかし、気をつけてくださいよ?あれからセクルースは、どこか不穏ですから」
「ああ」
リティルは短く答えると、ルキの居る玉座の間に戻っていった。幻夢帝である彼なら、昼の国・セクルースのどこにでも扉を開ける。ユグラの居る大地の城に、風の城を経由することなく行けるだろう。
しかし、父は母を避けたなと思った。今のシェラを、記憶を失う前のシェラと変わらないと言いながら、懸命に重ねないようにしようとしている様が、見て取れた。
それは、今のシェラを愛していないからではない。リティルにとって、二人のシェラは同一人物なのだから。リティルはシェラに、過去を気にせず今のままでいてほしいのだ。過去のシェラになろうとしなくていいと、そう言いたいのだ。
本当に、母のことが好きなんだなと、インファは思った。オレだったら、躍起になって思い出させようとしてしまう。それをしないリティルは、今、何を思っているのだろうか。
リティルに近づくことを決めたシェラから逃げながら、何を、考えているのだろうか。
ルキは、何も聞かずに大地の城へ扉を開いてくれた。
「びっくりした!何?幻夢帝の所から来たの?直接?大物と繋がってると、便利ね」
大地の王・ユグラは、城門前に突如現れたリティルの気配に、わざわざ外まで出迎えにきてくれた。
大地の城は、大きな木に飲まれている、遺跡のような姿の城だ。城のある周りは、鬱蒼とした森で、案内人の猿を捕まえなければ、大地の城に近づくことはできない。
この城から、新たな魂達は旅立つ。
神樹により繋がる三つの異世界。
根にあたる最下層、生命の大釜・ドゥガリーヤ。
幹である中層、精霊の住まう世界・イシュラース。
枝葉である上層、生命の生き死にを繰り返す愛すべき世界・グロウタース。
輪廻の輪の終わりと始まりの地・ドゥガリーヤで産まれた魂は、大地の城に立つ生命の大樹に実る。ユグラはそれらを収穫し、鼓動を与えて、炎の王・エセルトのところに送る。
真っ新な魂を受け取ったエセルトは、体温を与え、水の王・メリシーヌの所へ送る。
メリシーヌは、グロウタースへ流れる生命の川に魂達を流し、グロウタースに流れついた魂達は、それぞれの母のもとへ旅立つのだ。
風は、肉体から離れた魂をドゥガリーヤへと導く。そうして、輪廻の輪は回っていた。
「ハハ、ユグラ、歴史の保管所に入ってもいいか?」
ユグラはリティルを中へ案内しながら、即仕事をしようとするリティルを、キッと振り向いた。
「リティル、ちゃんと休んでる?ただでさえ細くて小さいんだから、これ以上痩せちゃダメ!……シェラ、記憶戻らないの?」
「ああ。けど、城にいてくれてるぜ?心配いらねーよ。オレ達仲良しだからな」
リティルはそう言って、明るく笑った。ユグラは、はいはい、ごちそうさま!と言いながら、一心同体ゲートがリティルの中にないことに気がついていた。
シェラがリティルを受け入れていないことを、ユグラは察したが、何も言えなかった。シェラが記憶をなくしてしまったのは、ブローカーに踊らされたあたしたちのせいだと、ユグラは思っていたからだ。リティルが何も言わないのは、そう思わせたくない彼の優しさだ。
「ユグラ、あいつらの様子、どうだ?」
「あいつら?いつも通りよ!いつも通り、暇そうに仕事してるわ。だから、気にしなくていいの!」
ラジュールの事件後、無常の風の二人がメリシーヌとエセルトのところに出向いた。そして、あのとき狩った魂の面通りを行った。そして、その中にブローカーと名乗った者がいた。ブローカーの正体は、ネクロマンサーの使役した悪霊の一人と判明したのだった。
やったことがやったことだと、セクルースの王・ルディルは無常の風に、ノインとインファをつけろと風の王に命じ、リティルはそれに従って二王のところへは行かなかった。
副官と補佐官、そして、骨の翼を持つ無常の風にそれぞれ尋問され、メリシーヌとエセルトは恐れおののいていたと、リティルは報告を受けたが、未だに彼等の所には一度も足を運んでいなかった。
そのことも、彼の優しさだとユグラは思った。二王は、リティルに感情移入しすぎた。そして、業務を逸脱してしまった。今後そんなことにならないように、リティルが距離を取ることで風の敵に利用されないように、守ろうというのだ。それが、ユグラにはわかる。
だから、リティルを恐れている、メリシーヌとエセルトに何も言わない。それはかつて、十四代目風の王・インがとっていた行動だった。彼は、産み出す力を司る自分以外の元素の王を守る為に、恐怖を持って遠ざけた。故に、赤き風の返り血王と呼ばれた。
インと自分達が険悪だったわけではないが、二王は素直に彼を恐れていただろう。
「リティル、あたしもシェラの記憶のこと調べてみる!」
「ハハ、ありがとなユグラ。でも、いいんだ。シェラは記憶なんてなくても、シェラだからな。落ち着いたら、遊びに来させるから、そのときはよろしくな!」
リティルは本当にいつも通りだった。思い出してほしいはずなのに、こんな……記憶完全消去などということをされ、それをもう一度戻すことの負担を考えて、リティルは現状を受け入れようというのだ。
もう少し、我が儘になってもいいのでは?と思いもしたが、愛する人が苦しむ姿を、見たくないのだなと思うと、ユグラは口を噤む以外になかった。
ユグラは、城の地下への木の扉を開いた。一見するとただの大木で、そこに通路があるなどとは思えない作りだった。
「中にいられる時間は一時間よ。迎えに行くから、時間気にしなくていいからね」
「ありがとな!じゃあ、見せてもらうぜ」
歴史の保管所の中は、記録を最新のモノに保とうとする作用で、中に入る者の霊力を吸い取る。あまり長く居すぎると、霊力を貪り食われて保管所の一部にされてしまうのだ。
リティルは木の階段を降りた。中は、本の形をした実を実らせた、大樹の根が無数に垂れ下がっていた。ここの司書はモグラだ。モグラたちは、空間に垂れ下がった根を器用に登り、本を集めてきてくれる。
リティルはランプに光を灯すと、木の根で作られた机に座り本を開いた。
無常の風の生前の名は、シャ・ファンはファウジ。ビ・ウジはシャビと言った。
名前を分けて無常の風になったのか?とリティルは知った。そうすることで、同じ罪を背負う証としたのだなと、リティルは少し哀しかった。
二人は共に、グロウタースの空中大陸・戯れの泡玉大陸出身だった。
ルディルと関わったのは、ネクロマンサーの事件でだった。
シャ・ファンは、王国の将軍で、ビ・ウジは彼の部下だった。当時風の王だったルディルと契約していたのは、シャ・ファンだった。シャ・ファンは、殺人の容疑をかけられたビ・ウジを救う為ルディルと契約したのだった。
風の王と契約した者は、かりそめの不死を得る。その戦いの中で致命傷を負ったシャ・ファンは、契約の終了と共に死を得る運命に陥った。
シャ・ファンは、ビ・ウジにそれを告げなかった。
殺人の咎で、死刑を宣告されていたビ・ウジは、突然釈放される。シャ・ファンが尽力してくれたことを知り、ビ・ウジは彼を追い、橋の上で再会を果たした。
シャ・ファンは、ここを去ることを告げ、ビ・ウジに、娘・フェイユを託した。
フェイユ――彼女が、無常の風が捜している魂だ。
フェイユはなぜ行方不明になったのか。リティルは、モグラにあるキーワードを伝えてみた。
「グロウタース、空中大陸・戯れの泡玉。ナイデン橋。洪水。ファウジ、シャビ」
モグラはある本を持ってきた。正直期待していなかった。とても個人的なエピソードになるからだ。
早朝のナイデン橋の上、浅黒い肌の老人・ファウジは立っていた。そこへ、不健康に頬のこけた、老人より二重は若い男・シャビが息を切らしながら駈けてきた。
「ファウジ将軍!」
「おお、シャビ!無事牢から出られたようで、何よりじゃ」
「なぜ、あなたが去らねばならぬのですか!」
開口一番、シャビは食ってかかってきた。長い間牢獄にいたせいで、頬のこけてしまった元部下の顔を、ファウジは脳裏に刻むように見つめていた。この再会自体、本来なら許されないことだった。だが、最後に、部下であり、娘婿となるはずのシャビに、会っておきたかった。それを、風の王・ルディルは許してくれた。
「別の主を見つけたのじゃ。それはワシの意志で、今回の件とは無関係じゃよ」
ファウジは高らかに笑った。そんなファウジを前に、シャビは嘘を見抜いて俯いた。そんな二人の上に、雨粒が落ちてきた。
「シャビ、傘を貸してくれぬか」
「傘?将軍、ここで、待っていてくださりますよね?」
「頼んだ者がいなくなって、どうするというのじゃ?」
「すぐに取ってきます故、待っていてくださりませ!」
そう言うと、真面目な部下は家へ駆け戻っていった。
「フェイユのこと、頼むぞ?シャビ」
ファウジは、二人の未来を思っていた。愛し合う二人なら、このファウジがいなくても、生きていってくれると信じていた。
「行くぞ?ファウジ」
バサッと空からルディルが舞い降りた。
「ああ、ルディル王、老体の我が儘を聞き入れてくれたこと、感謝する」
これくらいはな、と、ルディルは少し悔しそうだった。
「そんな顔をなさるな!ワシは、未練などない。それに、次の仕官先も決まっておるしのう」
雨脚が強くなってきた。ルディルが差し出した手に、ファウジは手を重ねた。その途端に、意識が暗転した。ああ、これが死かと、思った。
ルディルは、足下に倒れたファウジの肉体を見下ろした。見下ろす彼の手には、ファウジだった者の魂が乗っていた。ルディルは、魂が雨に濡れないようにそっと、腕を傘にした。
ゴゴゴゴと、川の上流から地響きが近づいてきた。それを見つめながら、ルディルは地を蹴った。そして、振り向かずに暗い空へ飛び去った。彼等が去った数秒後、ナイデン橋は濁流に飲まれ、ファウジの肉体ごと押し流された。
――――――――
リティルは一旦、本から視線を外した。そして、続きを読む為、視線を戻そうとした時だった。
リティルは背後に立った気配に、ゾクッと背中に悪寒が走るのを感じた。慌てて席を立ち、剣を抜き放ちながら振り返った。
「!」
目の前に居たのは、俯いた女だった。暗いこの書庫の中で、彼女の姿は、別の光の作る影の中にあった。
「残留思念……?」
魂とは違う気配に、リティルは戸惑いながら彼女を注視した。ボソボソと、彼女は何かを呟いていた。何を言っているんだ?と、リティルは思わず彼女の方へ少し顔を傾けてしまった。瞬間に、滑るように距離を詰められていた。
リティルの目の前に、恨みのこもった瞳があった。
「父を殺した……あの男……」
父を殺したあの男?どこかで聞いた台詞だと思った。
女の頬に、つう……と涙が伝い落ちた。
「許さない……!」
キッと女がリティルを睨んだ。女の涙に、後悔と愛しさの感情を感じていたリティルは、反応できなかった。リティルは、女の恨みの一撃を受けてしまった。
「うあ……!君、は――」
彼女の握っていたナイフは、リティルの胸に突き刺さっていた。ナイフから彼女の哀しみが流れ込んできて、体が急激に冷えるのを感じた。汚泥にまみれた水の匂いを嗅いだ気がした。
「シャビ……!」
女は泣いていた。彼女が、激しく「シャビ」を責める声が聞こえた。「父を殺した!」と彼女は泣いていた。「人殺し!」と罵られながら「シャビ」は、何も言わなかった。
愛していた、はず――なのに……リティルは瞳を閉じた。
ユグラは、そろそろ一時間だなと、リティルと一緒にお茶でもしようと準備していた手を止めた。ピンクの花柄のテーブルクロスを引いた丸いテーブルの上には、サンドイッチやスコーン、ケーキなどを盛った、ティースタンドがすでに置かれていた。
「ユグラ、リティルが来ているか?」
「ノイン!ちょうど今、リティルを呼びに行こうと思ってたとこ」
忙しく茶会の用意をしていると、ノインが姿を現した。ああ、迎えに来たのかな?とユグラはなんだか微笑ましく思った。
「歴史の保管所だったな?オレが呼んでこよう」
「お願い!その後三人でお茶しようよ!」
「わかった。馳走になろう」
ノインはそう言って、涼やかに微笑みながら、歴史の保管所に向かった。
ノインがここへ来たのは、インファから、リティルが付き合ってほしそうだったと聞いたからだった。風の城に帰ることが朝になってしまったが、現地で仮眠は取っていた。こんなことなら、仮眠を取らずに帰るべきだったなと思いながら、大地の城へ赴いたのだった。
帰ってすぐ出掛けるノインを、シェラは呼び止めた。どこへ行くのかと問う彼女に、ノインは、リティルを迎えに大地の城だと告げると、シェラは城近くまでゲートを開いてくれた。リティルの事となると不機嫌そうだが、その行動は彼を案じる気持ちに溢れていた。素直じゃないなと苦笑しながら、ノインはシェラの開いてくれたゲートを通って、ここへ来たのだった。
ノインは隠し扉を開いて、歴史の保管所へ降りた。
「リティル、時間だ。リティル?」
ランプの灯った机には、本が開いたままになっていた。しかし、その席にリティルはいなかった。気配はあるのにどこへ?ノインは首を傾げながら、視線を何気なく下へ向けた。
「リティル!」
ランプの光が淡く届いた椅子の足下に、リティルが倒れていた。慌てて駆け寄ったノインが助け起こすと、その体が死んだように冷たかった。
「リティル!目を覚ませ!リティル!」
精霊は死を迎えると、その肉体ごと消えてなくなる。リティルがここにいるということは、死んではいないということだ。ノインはリティルを抱き上げると、保管所を飛び出した。
保管所から連れ出して、ユグラと共に呼びかけると、リティルは程なくして目を覚ました。大丈夫か?と問うと、リティルは寝不足かな?と言って力なく笑った。
平気そうな顔をしていたが、その体は、死んだように冷たいままだった。
城へ帰ったリティルは、ノインの手によってベッドに放り込まれた。
「リティル様!どうして、こんなに手が冷たいの?氷水より冷たいわよ!」
「お、おい!セリア!インファ!笑ってねーで、止めろよ!」
体中をベタベタなで回され、リティルは、セリアの背後で笑いを堪えているインファに叫んだ。しかし、なかなかセリアの触診を止めさせない。
「おまえ、これがノインだったら怒るだろ!」
「それは、怒りますよ。父さんには、セリアがやらなければ、オレがやっていますからいいんですよ?」
オレに触られたいですか?とインファにニッコリ微笑まれ、リティルはゾッとした。ノインはオレを引き合いに出すなと、苦笑していた。
「安心して!ノインだったらお風呂に沈めるわ!」
「セリア!それもいろいろ問題あるだろ!うわ!変なとこ触るなー!」
服きたままなら問題ないと言い返し、セリアはさらに触った。
「インファ、リティル様、体温がないわ」
ジタバタするリティルをなで回していたセリアが、パッと手を放した。羞恥に息の上がったリティルは、頭だけ出して布団にくるまった。
「リティル様、正直に答えて。本当に、何ともないの?」
「ああ。痛くも痒くもねーよ」
そう言い張る風の王からは、嘘の匂いはしなかった。セリアは「本当に?」と訝しがる顔をしたまま、インファを見た。インファは「霊力には乱れはありませんね」と彼にも原因はわからない様子だった。
「ケルゥ、体温、再生できないか?」
再生の精霊・ケルゥの肩から、リティルの様子を覗き込んでいた、破壊の精霊・カルシエーナが問うた。
「オレ様が再生できるのはなぁ、物体だけなんだよなぁ。そういうことの専門っていやぁ」
ケルゥは、ベッドに近づかないものの、硬い表情で佇んでいるシェラをチラリと見た。
「母さん、診てあげてよ」
インジュ、インリーと共に遠巻きにしていたレイシが、遠慮なく言った。精霊達の視線が、一斉にシェラに集まった。
視線を受けたシェラは、気丈に佇んでいたが、リティルに近づこうとはしなかった。それは、インファの言葉を待っていたからだ。副官は、シェラの行動の指針として「万が一、風の王の関わることで、手を借りなければならないときは、オレから頼みます」と言われていた。シェラは、近づいてこないリティルに、近づけなかった。接近禁止令も出されてしまっていて、出しゃばるわけにはいかない状態でもあった。
しかし、皆に背中を押されてという理由ならば、リティルは近づくことを許してくれるだろうか?シェラは、それを言い訳にしようか迷った。
「おう!リティル、このオレをパシリに使うなんざぁ、高くつくぞ?」
シェラが行動するよりも早く、部屋の入り口から威勢の良い声がした。皆が注目すると、開け放した扉に寄りかかって、左手に持った本を掲げながら立つ、夕暮れの太陽王・ルディルがいた。
「ルディル!待ってたぜ?悪いなみんな、インファとノイン以外出てくれ。仕事なんだよ」
リティルの言葉に、セリアが反応した。
「リティル様!こんな状態で仕事するの?だったらせめて、インジュかシェラ様をここへ残して!」
引き合いに出されたインジュが、ボクですか?と自分を指さして狼狽えた。
「わかったよ、セリア。インジュ!おまえが残れよ」
「ええ?わ、わかりましたよ。あのー、耳塞いでてもいいです?」
あくまで下っ端でいたいインジュは、そんなことを言い出して、おまえ、何言ってんだ!とルディルに肩を掴まれ、ズルズルとベッド脇まで連れてこられた。
王の言葉に皆は従い、ルディルとインジュとは逆に部屋を出て行った。ルディルは、隣をすり抜けるシェラを盗み見たが、彼女は硬い表情のまま、一度もリティルを振り返ることなく部屋を後にした。
リティルは、大地の城から連れ戻される前、ユグラに写本の作成を頼んでいた。その本を、ルディルに持ってこさせてくれと、更に頼んでいた。ユグラは承諾してくれたが、もう今日は休んだ方がいいと、心配された。
「リティル、今更こんなこと調べて、何していやがる?」
ルディルは、手にしていた本をリティルに手渡した。その時僅かに触れた彼の手が、恐ろしく冷たいことに気がついた。
「フェイユの行方、ここら辺にヒントがあるような気がしたんだよ」
この本は、歴史の保管所でリティルが読んでいた、ナイデン橋の歴史が書かれていた本の写本だ。原本は持ち出せないため、リティルは写本の作成を依頼したのだった。
「なにぃ?本当か?」
「その前にルディル、どうしてあの二人を無常の風にしたんだよ?シャ・ファンはいいとしても、ビ・ウジは……なあ、何があったんだよ?」
リティルに問われ、ルディルは口を閉ざした。そして、ポツリと言った。
「読んだんじゃねぇの?」
「シャ・ファンが死んだところまでな。この後、ビ・ウジは再建された橋で首を吊るよな?この本には、ナイデン橋で起こったことしか書かれてねーんだろ?オレが知りてーのは、ビ・ウジがここで死ぬまでの空白の時間だよ」
それは、ルディルも知らなかった。ルディルは、一人で風の仕事をこなしていた。終わった事案に関わっていられるほど、暇ではないのだ。ただ、ビ・ウジがそのあと、心を病んで自害したことは知っていた。ルディルからすれば、二人を無常の風にしたのは、成り行きだった。元々無常の風は、召使い精霊であまり優秀ではなかった。ルディルはシャ・ファンに、売り込まれたのだ。それをルディルは買った。フェイユのことは知っていた。だが、捨て置いた。
契約者を守れなかったこと、関わったことで、本来死ぬはずではなかった者を、自害させてしまった罪悪感から、ルディルは彼にはありえない杜撰さで、彼等を無常の風として召し抱えてしまった。
「フェイユの残留思念に会ったんだ」
インジュ以外の皆の目が、静かに言ったリティルに集まった。
「フェイユは、シャ・ファンの娘で、ビ・ウジの婚約者だったよな?」
リティルはルディルをジッと見つめていた。
「ビ・ウジの自殺の原因は、フェイユなのか?」
ルディルが息を飲んだ。
「二人が死んだ後、フェイユはどうなったんだ?天寿を全うしたのか?それとも、それより前に死んだのか?」
ルディルはやはり、知っているのだと思った。今、フェイユがどういう状態でいるのか、もしかするとそれも知っているのだろうか?知っているのなら、なぜ、無常の風に黙っているのか、理由がわからない。彼等を、ルディルは信用していないのだろうか?
リティルは、服を脱ぎ、上半身を皆の前に晒した。華奢だ、小さいと言われているが、細いながらバランスのとれた体つきをしていた。そんなことよりも皆の目を引いたのは、リティルの胸にある何かに撃ち抜かれたような丸い傷跡から広がる、濁った水の色をした亀裂のような模様だった。
「これは、呪いの一種なんだろうな。なあ、ルディル、オレは死ぬのか?」
「させません!呪いなら解く方法はきっとあります!調べさせてください!」
リティルはインファに、乱暴に肩を掴まれた。そしてインファは、リティルの肩に額を預けると、絞り出すように言った。一人で行かせなければよかった……と。
「――これと似たものを見た記憶がある。ネクロマンサーが捕らえる魂につける印だ。フェイユは、ネクロマンサーか?ルディル、なぜ黙っていた!」
そっとリティルの体を観察したノインは、ルディルの胸ぐらを掴む勢いで詰め寄った。僅かに残った理性が、彼の手を止めさせ事は明らかだった。
「このオレも……預かり知らん。ただ、薄々その可能性は感じてた程度だ。オレはその後、幽閉されちまったからなぁ。その後、風の王でまともに生きたのは、五代目と十四代目だけだ。無常の風だけじゃぁ捜しきれん。リティル、おまえは確かに確信に近づいたんだろうよ。だから、狙われちまったんだわ。すまん……」
ルディルは苦しげに肩を落とした。彼は白かと、リティルは安堵した。それを受け、リティルはノインの名を呼んで、怒りを収めさせた。
「……フェイユは、父を殺したあの男が憎いって言ってたんだ」
「それ、シェラが言ってませんでした?それで、リティル刺されたんです」
案外冷静に傍観していたインジュが、やっと発言した。リティルは、彼のオドオドした態度は、演技では?と最近疑っていた。
「シェラに偽りの記憶を植え付けたのは、フェイユか?とすると、レジーナをそそのかし、シェラの記憶を消させた、ラジュールも共犯?いや、しかし……ラジュールが、人間と手を組むとは思えない」
「そもそもどうして、このタイミングだったんです?ラジュールの行動、まるでリティルが狙いみたいですよねぇ?知り合いだったんです?」
記憶の万年筆事件、リティルの帰還を知って仕組まれたみたいだったと、インジュは言った。「鋭いですね」とインファに褒められて、インジュは「それほどでも」と照れた。そんなインジュの様子に、こんな時だが皆和んだ。
「いや。会ったことねーよ。ルキがラジュールを粛清する前から知ってた関係者は、スワロメイラだけで、エネルフィネラはその時敵だった。セリアのことは、全く知らなかったんだ」
「お母さん、呪い受けてたんでしたっけ?何なんですか?一日の命を繰り返すって、何なんですかぁ?」
人を何だと思ってるんですか!と、インジュは怒りだした。そんなインジュの肩を、落ち着きなさいとインファが叩いた。
「セリアには、呪いを受ける以前の記憶がないんです。ただ、彼女が言うには、恋をした罰だそうですよ。その相手がインだと思っていたんですが、インが言うには、そんな事実はないと。セリアは、ただ恋愛に憧れていただけだったそうです」
セリアがインファを避けていた理由が、生命奪取の暴走が後ろめたかった為だと知った今、変わらずノインに気安い姿を見ても、昔のようにインファは何とも思わなくなった。
今、セリアの境遇を口にすると、ラジュールの勘違いによって、彼女は呪いを受けたように聞こえた。
「恋愛感情に興味があったのは、もともとラジュールだ。彼女は度々インにちょっかいをかけていた。相手にしなかったインは、恨みを買ったのかもしれない。インファ、インはセリアが呪いを受けたことを知らなかった。助けられなかったこと、許せ」
「インを恨みなどしませんよ。まして、あなたに謝罪されるのもおかしな話です。セリアは記憶がなくても気にしていませんし、オレとの記憶は全部ありますからね。今のオレ達には関係のない話です」
「あのー、じゃあ、お母さんは勘違いで呪われたんです?」
インジュは、怖ず怖ずと挙手した。
「いや。あれは、実験だ。あの呪いを受けていたセリアの記憶は、一日しか保たなかった。ラジュールは、偽りの記憶を植え付ける実験に、セリアを使っていた。ルディル、ラジュールとはどんな精霊だった?」
インの記憶にあるラジュールは、どこかつかみ所のない精霊だった。会うたびにとは言わないが、たびたび雰囲気が著しく異なっていたように思えた。まるで、魂がいくつもあるかのように。
「ラジュールか……オレとは共闘してたんだがなぁ。オレ達夫婦のことを、羨ましがっていやがったなぁ。禁断の恋だと抜かしていやがったわ」
娘達と同様、気安かったと、ルディルは、ラジュールの変貌にはどこか、半信半疑のようだった。
「え?どうしてです?」
首を傾げるインジュに、インファが説明してやった。彼が知らないのも無理はない。太陽夫婦のこの話は、インジュが産まれる前の話なのだから。
「花と風だからですよ。花は風が吹けば散ってしまいますからね。ルディルの奥方も、母さんと同じ花の姫だったんです。今は、夜明けの太陽女王ですけどね」
「リティルとシェラと同じなんです?偶然なんですかぁ?インの思い人も、花の姫でしたよねぇ?」
風の王の三人が、同じ精霊と関わってるなんてと、インジュは不思議がった。
「どうだかな。風の王と同じ人数だけ、花の姫が目覚めていやがる。ひょっとすると、他の精霊達が噂していやがる通り、番として用意されていやがったのかもな」
リティルは思わず俯いた。運命。今、シェラが憎しみ苛まれながらも風の城にいるのは、オレが好きだと言ってきたのは、花の姫という精霊の本能だとしたら……と、リティルは思ってしまった。
「皆、お互い惹かれていたんですか?」
インファの問いに、ルディルは腕を組んで答えた。
「どうだかなぁ。オレにもそこまではなぁ……ただ、そうなんだとしたら、切ない話だわな。風の王が代替わりすると、いつの間にか、新しい花の姫が目覚めていやがったところを見ると、ひょっとするとなぁ」
花の姫はけっして散らない花だ。故に、風の王と共にいられる。死へ向かう風の王を、この世に縛り付ける鎖。体についた傷だけでなく、心についた傷までもを癒やしてくれる。
これは、生きながら、死に触れ続けなければならない、風の王を守る為に、世界が用意した救済処置だったのかもしれない。
シェラ……リティルは無意識に胸に手を当てていた。深く絆を繋いだ記憶を失っているにも関わらず、離れようとしないシェラは、世界の用意した理に、翻弄されているのではないか。もう、最大の産む力である原初の風を取り戻している。
風の王が原初の風の守護者だったのは、死という抗いがたい力から、生きている風の王を守る為だ。
死と産むは反属性だ。対となる力は、一方が強まれば一方が弱まる。産む力が強ければ、死は遠ざかる。故に、原初の風の精霊であるインジュは、戦い続ける風の城の皆の命を守る、最強の盾だ。インジュは自覚なく、見境なく、戦い疲れた皆の心を癒やしているのだった。
初代から原初の風を継承したリティルは、手招きする死に魅入られない。もう、花の姫が、風の王の犠牲にならなくてもいい。偽りの想いに、縛られなくて――
「リティル、疲れたか?その印のことも、フェイユのことも、おまえが一人抱えることはない。今は休め」
リティルが俯いていることに気がついたノインが、そっと肩に手を置いてくれた。彼の、労る言葉にリティルは頷くと、服を着て、ベッドに身を横たえた。
「この印のこと、シェラには言わないでくれねーか?」
「どうしてです?シェラ、リティルの事好きですよね?シェラなら、もしかすると何とかしてくれたりしません?」
インジュは「仲直りしてますよね?隠さないでくださいよぉ!」と、ブランケットの件を知っている素振りだった。
「はは。オレはまだ、憎まれてるよ。あの記憶をどうにかしてやらねーかぎり、オレ達は近づけねーよ。ごめん……少し、寝るよ」
そう言うそばから、リティルは瞳を閉じてしまった。インファは心配そうにしていたが、ルディルとノインに促され、部屋を出るしかなかった。
フェイユ……君が憎んでるのは、いったい誰なんだ?リティルは襲ってきた眠気に、意識を委ねた。
シェラは、誰もいない深夜の応接間のソファーに座っていた。
この位置は、いつもリティルが座っていた場所だった。今夜は、さすがにいないとは思っていたが、日課となってしまった為に、ソワソワして結局出てきてしまった。
今朝見た彼は、あの黒いリボンで髪を縛ってくれていた。憎しみが湧く一方で、シェラは嬉しいと感じていた。シェラはそっと瞳を閉じた。
――オレは君が好きだよ
その声を思い出すと、憎しみは消え去った。シェラはポテッと、ソファーに横倒しに身を横たえた。誰も座っていなかったソファーには、何のぬくもりも残ってはいなかった。
今夜もあの人に、逢いたかった……そう思った。この記憶さえなければ、近づくことができるのに……。
シェラは体を起こし、花の咲き乱れる大樹が彫刻された、白い石の扉を見た。体が冷たいと言っていたが、もう大丈夫なのだろうか。ケルゥが、わたしならばという瞳で、こちらを見ていたことが思い出された。
インファは結局シェラには何も言わなかった。だが、遅れて出てきた彼の様子から察するに、リティルの容態は悪いのではないか?超回復能力を持つ彼が、癒やしきれない?だとすると、命が危ないのでは?考え出したら、悪い方へとシェラの思考は行ってしまった。
彼は、眠っているだろうか。ならば、少しくらい近づいても大丈夫だろうか。少しくらい診る間、眠っていてくれるかもしれない。
シェラは、白い石の扉の前に立った。しかし、扉を開けなかった。中へ入って、もし、リティルが目を覚ましたら?どう、言い訳したらいいのか――
不意に、扉が開いて、シェラは開いた扉にぶつかりそうになって、慌てて身を引いた。
「シェラ……?」
扉を開いたのは、リティルだった。シェラは、驚いて固まっていた。驚いたのはリティルも同じだったようで、二人はしばし見つめ合ってしまった。
先に呪縛を解かれたのは、シェラだった。
「か、体が冷たいと」
シェラは、疲れているのか、いつも生き生きとした、光の立ち上っていたリティルの瞳が、今夜はその光が弱々しいことに気がついていた。
「ん?ああ、気にしてくれたのかよ?はは、ありがとな。でも、もう大丈夫だぜ?」
リティルは穏やかに笑った。シェラはその笑みに、何とも言えない苛立ちを覚えた。
「嘘ばかり……こっちへ!」
シェラはリティルの手をいきなり掴んだ。そして、体温が戻っていないことを確かめると、そのまま手を引いて、暖炉のそばの椅子に押し込むように座らせた。
目の前に立ったままのシェラを、リティルは見上げた。そして、息を飲んだ。
あなたは何をしているの?と、見下ろすシェラの瞳が怒っていた。
「リティル、命じてください。わたしの力は、求めてもらわなければ与えられないわ」
リティルに触れたシェラは、セリアが言っていたように、体温自体を失っているのだと、診断した。これは放ってはおけない。調べなければわからないが、リティルは何か呪いを受けているのでは?とシェラには思えた。
「できねーよ。君がここにいてくれること自体、オレにとっては奇跡なんだぜ?」
「記憶のことなら気にしないで。おまじないがあるの」
「なんだよ?おまじないって」
あなたの「好きだよ」と言ってくれる声を、思い出すこと。
そんなことは、とても本人には告げられなくて、シェラは、さあ?何かしら?と微笑んだ。そんなに怖かっただろうか、リティルが息を飲んだ。
シェラは努めて優しく、リティルに声をかけた。
「診るくらい、許して?わたしは、癒やしのプロよ」
「インジュに診てもらったから、大丈夫だ」
リティルはシェラの手をヤンワリ拒んだ。この期に及んで、この人は!どう見ても大丈夫などではないと、シェラは怒りを通り越して呆れた。これで隠しているつもりなのだろうか?あの後、部屋から出てきた、インファの様子を知らないのだ。だから、平気でこんなことが言えるのだと思った。
皆を過剰に不安にさせないように、あの子は普段表情に出さない。そんな彼が、倒れそうなほど落ち込んでいた。口では大丈夫ですと言いながら、とてもそうは見えなかった。ノインとルディルも、今は話せないと言うだけで、安易な言葉は使わなかった。
おそらく、リティルは死に直結する何かに冒されている。
死に直結する……それを癒やせるのは、生命の源の力を操ることのできる、花の姫だけだ。
リティルとシェラは夫婦だ。あの方法を使えば、どんな呪いに犯されていようと、彼の魂を守ることができる。ずっと、一歩を踏み出せずにいたが、過去のシェラから、この人を奪い取ると決めたシェラは、それが今であることを感じていた。
「リティル、記憶は失っても、心と体があなたを覚えているわ。だから、いいのよ?」
一度越えてしまえば、あとは容易い。シェラは身をかがめると、リティルの頬を両手で包んだ。冷たかった。弱っている今なら、押し切れるかもしれない。
押し切らせてと、シェラは願った。けれども、きっと許してはくれない。この人の心は強い。その強さで、シェラは守られてきたのだから。
「――これを許せば、もう一度、君を手に入れられるのか?」
シェラは、無理矢理に襲ってもよかった。だが、できなかった。そっと、優しく両肩を押し戻してくれたリティルの手が、冷たいのに温かかったからだ。押し戻されたシェラの手は、リティルの頬から放れていた。
「花の姫……そんなわけないよな?オレが許したら、君が代わりに……。そうならなかったとしても、君は何かを失うよな?そんなこと!許さねーよ!」
シェラの肩を乱暴に掴んで、リティルは立ち上がった。
忘れさせられて、偽りの記憶まで入れられて、戸惑いと混乱の中にいるはずなのに、歩み寄ろうとするシェラが、リティルには信じられなかった。殺そうとしているとは、微塵も思っていない。信じられないのは、彼女に、愛されているのかもしれない、ということだった。
この城の住人の心を汲んで、傷ついた者を放っておけない、花の姫の本能がそうさせているのだとしたら、リティルはその好意を、受けるわけにはいかなかった。
当たり前だ。彼女が――シェラが何よりも大切なのだから。
「シェラ、神樹へ帰れ!君を犠牲になんて、絶対にしねーよ!」
睨むリティルを見返しながら、シェラは冷ややかに、犠牲にすればいいのにと思った。
この人は、わたしを遠ざけて、その短い生を閉じるつもりなのだろうかと、シェラはリティルを睨み返した。
皆が、彼を案じていた。そして、愛していた。十五代目風の王・リティルに、永遠の風の王でいてほしいという、そんなささやかな願いを感じていた。
風の王妃・シェラは、そんな彼を守っていた。
この身に僅かに残った、風の王の力。この風の力を、記憶を失う前のシェラは、どんな気持ちで持ち続けていたのだろうか。
大地の礎を使ったことは聞いていた。彼のいない五年間を、どんな気持ちでいたのかなんて、想像するのは容易かった。無意識に飾る王妃の証、目覚めると確かめてしまう、一人では広いベッドの左側、紅茶の淹れ方、気がつくと見上げている空――日々の習慣がリティルが、いかに大切な人だったかを教えてくれた。
そんな彼を拒む、邪魔な記憶。それさえも、彼の声を得たシェラには、何でもないことになりつつあった。記憶をなくしても、心にあるシェラの想いが、偽りの記憶とずっと戦っていた。健気なシェラ……シェラはその想いを感じて、この城を出られなかった。
リティルを憎みながら、リティルを愛している。それが、シェラのたどり着いた、今の真実だった。
「おまじない……わたしから、憎しみを消す、魔法の言葉よ?」
シェラは、優しく微笑むように努力した。未だ肩を掴んでいる彼の手から、氷を押しつけられているような冷たさを感じていた。
「オレは君が好きだよ」
リティルが目を見開いた。そして、肩を掴んでいた手が離れた。
動揺するリティルの目に、嬉しそうに、哀しそうに微笑みながら、涙するシェラが映っていた。
嘘だと思った。憎しみを持つ君から、憎しみを消す魔法の言葉が、憎んでる相手の自分勝手な言葉?
信じられなかった。こんな言葉、さらに恨みを増すだけじゃないのか?リティルには、シェラが、シェラの心が理解できなかった。
うぬぼれていいのか?それとも、目を覚ませと、君は、理に縛られて、偽られてるだけなんだと、教えた方がいいのか、リティルは、シェラを導けなかった。
愛されたい……でも、犠牲にしたくない。二つの想いが交互にない交ぜに襲ってきていた。
「唱えて、リティル。わたしがあなたを抱く間、ずっと、唱えていて」
シェラはリティルを抱きしめ、ゲートを開いた。座標はすでに指定されていた。
――わたしは花の姫。風の王の永遠の妻。風の王・リティルを好きな気持ちは、偽りではないわ!わたしは、この人を失わない。絶対に!
朝日で、カーテンを引いた部屋の中が、淡く明るくなっていた。
目を覚ましたシェラは、ムクリと体を起こした。彼女の裸の背を、かけられていた布団が滑り落ちる。その背に、モルフォ蝶の羽根がフワリと生えた。シェラの左側から、規則正しい寝息が聞こえていた。シェラは、起きる気配のないリティルの裸の肩に、そっと布団をかけ直す。こちらに向かって投げ出された、リティルの手に遠慮がちに触れると、体温が戻っていた。交換された霊力が、彼を癒やしきったことを確認して、シェラは安堵した。
シェラは視線を上げた。
このベッドには天蓋があり、4本の柱がそれを支えている。その柱に、黒いリボンが進入禁止のテープのように、張り巡らされていた。壁などないはずの柱と柱の空間は、白い磨りガラスのような物で塞がれていた。シェラが、張り巡らされたリボンに触れると、シュルリとそれは、リティルの髪を縛っていた時の長さに戻り、壁は消え去った。
シェラは裸体を隠さずに、ベッドをそっと降りた。そして、胸の前で両手を組むと、白い光が体の表面を巡り、シェラはいつもの動きやすいドレスに身を包んでいた。
昨夜のことを、目覚めた彼は後悔するのだろうか。幸せな交わりとはほど遠かったから。
そんなことを思いながら、シェラはサイドテーブルに転がった髪飾りを、拾い上げた。そして、壊れていないか注意深く確かめた後、髪に飾った。
そして、一度はサイドテーブルに置いた黒いリボンを拾い上げ、ジッと見つめた。逡巡の後、シェラは瞳を閉じると、リボンに口づけを落とし、再びテーブルに置いた。
それにしても、リティルの理性は手強かった。
けれども、リティルが抵抗してくれたおかげで、憎しみに支配されている暇がなかったのは、幸運だったと思う。
あらかじめ座標指定していた、寝室のベッドの上にゲートを開き、動揺から立ち直っていないリティルを押し倒して、彼の肌を暴いた。そして、体に刻みつけられた、禍々しい印を見たのだった。それが、死へ誘うものだと瞬時に理解したシェラは、もう後には退けなかった。ここでリティルを逃がせば、もう霊力の交換はできない。彼の心を踏みにじって、押し切るしかなかった。
無理矢理に唇を奪うと、リティルはシェラの下で暴れた。小柄で華奢でも、彼は戦い続けてきた風の王だ。シェラは簡単に突き飛ばされた。そして逃げようとしたリティルに、シェラはドレスを光の粒に変えると、裸で抱きついた。彼の冷たい背中に、裸体を押しつけると、リティルは何かに耐えるように息を詰めた。一瞬止まった動きの、その隙をついて、シェラは全体重をかけて押し倒すと、引き離そうとするリティルともつれ合った。
媚薬のような、花の誘惑で迫っても落としきれずに、シェラは強引に一心同体ゲートを開いて、内側からも攻めるしかなくなった。
花の誘惑に冒されて、欲望を滾らせた瞳で、荒い息を吐きながら、シェラから目を逸らすリティル。もう、抗いようもないのに、リティルはそれでも欲望と戦った。
そこまでして守るの?わたしを、守ってくれるの?そんなあなたを、わたしが守るわ!そう思った。だから、あなたを傷つけることになっても、手加減しない!と。
シェラは髪飾りを外すと、サイドテーブルにそっと投げた。そして、リティルの髪を縛っていた黒いリボンを奪い取ると、それに力を加えてシュルリと長く伸ばし、ベッドから逃げられないように、柱に巡らせて、壁を作り出した。壁を壊そうとしかけたリティルは、壁を壊すには、リボンを切らねばならないことに気がついたようだった。
壁を壊せないでいるその背中に「逃がさないわ」と声をかけると、リティルは熱に浮かされた瞳で振り向いて、首を横に振ると「記憶が……」と、口にした。
シェラはたぶん、微笑んだと思う。だから、魔法の言葉を、唱えてと言ったでしょう?と。
――わたしに殺されたくなければ、好きだと言って!
もの凄いことを言いながら、襲いかかった。耳を疑ったリティルは、色々言いたそうだったが、構わずシェラは夫の口を塞いだ。
やはり、この体は覚えていた。記憶はないのに、体は動いてくれた。
思い出すと、恥ずかしくて、穴があったら入るどころか埋まりたいほどだが、悔いはない。死を覚悟したリティルから、死を遠ざけることができたのだから。
シェラは、こちらに顔を向けて、深く眠っているリティルを振り向いた。
ベッドの上のみならず、絨毯を引いた床にも、彼の翼から抜け落ちた金色の羽根が、大量に散らばっていた。壁がなくなり、ベッドの上にあった羽根がシェラが動いた為に落ちたようだ。あまりの抵抗に、翼がもげるのでは?と思えるほどだった。けれども彼は、風を使わなかった。風を使えば、シェラを傷つけると思ったのだろう。
そんな彼の優しさが、好都合だった。さすがに風を使われては、花であるシェラはリティルに、物理的に近づけなくなるところだったのだから。
リティルはシェラに心を踏みにじられて、為す術なく、無理矢理欲望を吐かされた。
酷いことをしてしまったから、当分目を覚まさない。目が覚めても、すぐには動けないだろう。その間に行かなくては。シェラは音を立てないように、廊下に出た。
花の姫の無限の癒やしを持ってしても、彼の体に刻みつけられた、あの忌々しい印は消すことができなかった。あの、この人を自分の所有物だと主張する印!
腹が立った。この人は、これからもずっと、わたしのものなのに!シェラは、怒りに両手に拳を握っていた。
優しい人――妃がいいと言っているのだから、力をもらえば楽になれるのだから、交わればいいのに、ダメだ!やめろ!と抵抗した。傷つけたくないと、そう言ってくれた。
――シェラ……!こんなの、ダメだ!
リティルは、ギリギリまでシェラを守ろうとしてくれた。そんなリティルの理性をねじ伏せて、シェラは彼の心を欲望で塗りつぶした。
――好きだよシェラ!愛してるよ!
シェラの中の憎しみの記憶が、音を立てて砕け散った。
リティルの最後の理性が焼き切れる時、叫んでくれた声が、言葉が、シェラを解放してくれた。
シェラは守られたのだ。傷などついていない。ただ、幸せだった。
あの印を消し去る。シェラはリティルから視線を外すと、前を向いた。
応接間のソファーで、昨日ルディルが持ってきた、写本を読んでいたインファは、顔を上げた。
城の奥へ続く扉が、乱暴に開かれたからだ。応接間にいた皆が驚いて、そちらに注目した。
そこには、息を切らしたリティルがいた。父には珍しく、黒いリボンを手に、髪は寝起きのまま乱れていた。
「シェラ……!シェラはどこだ!」
力の限り叫んだリティルは、目眩でも起こしたのか開いた扉に縋り、ズルズルと座り込んだ。そんなリティルのもとへ、インファとノインは飛んだ。
「シェラは、ここにはいない」
「ど――こだ……!」
はあ……はあ……と大きく息をしながら、リティルは野生じみた瞳でインファを睨んだ。
「言えません。カルシエーナ、父さんを眠らせてください」
リティルはハッと瞳を見開いた。黒髪の美少女の吹きかける息から逃げようと、廊下に向かって床を蹴ったが、体が思うように動かずに倒れた。
「母さんを追いたいのなら、早く、すべてを癒やしてください。今の父さんには、何もさせられません」
カルシエーナの吹きかけた、眠りをもたらす幻夢の霧が、リティルを包む。
「シェラ……!シェラぁ――!」
暗闇に閉ざされる視界の中、リティルは手を伸ばしていた。怒ったような瞳でこちらを見つめているシェラ。彼女はフイとリティルに背を向けて、その先へ歩いて行ってしまった。
花の姫・シェラ、完全勝利!
あなたのすべては、わたしのモノ。わたしのすべては、あなたのモノ。




