六章 レジーナ哀しみの記憶操作
小休止
場外での戦闘行為は禁止です!
記憶喪失シェラ 対 風の王・リティル
記憶の精霊・レジナリネイは、風の王・リティルが好きだった。
しかしそれは、恋心に似ていたが、そう呼ぶにはただただ幼い思いだった。それでよかった。レジーナは、ルキルースの万年桜の園と呼ばれる部屋から、出ることはできない。
ここにいることを覚えていてくれて、用事もないのにたまに遊びに来てくれる、風の城の精霊達のことも好きだった。今のレジーナには、好きな人が増えていた。けれども、みんなへの心をくれたリティルが、特別で一番好きだった。
なのに、なぜあんなことをしてしまったのだろうか。今思い返しても、恐ろしくて、なかったことにしたかった。
「レジーナ、起きてる?」
桜の古木の立つこの丘に、白銀髪の短い髪の凶悪犯罪者顔の大男と、彼の右肩に頬杖をついて乗っかっている、黒髪の美少女がやってきた。美少女の頭にはユキヒョウの耳がちょこんと生え、尻には尾もあった。
彼等は、風の城に居候している、再生の精霊・ケルディアスと破壊の精霊・カルシエーナだ。彼等はレジーナのやったことを知って、懲らしめにきたのだと思った。
「レジーナ、聞きたいことが――」
「嫌、来ないで」
レジーナは怯えながら、手にした黒曜石でできた万年筆を振るっていた。精霊の文字が書き連ねられ、徐々に人の形を取り始めた。
「せい!これが原因ってことでよぉ、決着だなぁ?」
ケルゥは、右腕を黒犬のそれに変えると、小柄な人物を形作りそうになったそれを、叩き潰した。
「うん。でもレジーナ、どうしてこんなことしたの?」
ケルゥの肩から飛び降りたカルシエーナは、髪を伸ばしそれをまるで触手のように使い、レジーナの手から万年筆を取りあげていた。ケルゥが叩き潰した人型。それは明らかにリティルだった。元素の王の所に現れた戦士達は、どうやらこうやって作り出された者だったようだ。ノインが、リティルの記憶が暴かれていると言ってきた。レジーナが関わっているだろうことは容易に知れたが、彼等が何製なのかは未知だった。どうやら、これがその答えのようだ。
この黒曜石でできた万年筆には、記憶からその人を作り出せるようだった。後に、これは記憶の万年筆という、精霊の至宝の一つであることがわかった。
「わからない。リティル、シェラ、離れ離れ、哀しい。二人、離婚、リティル、来ない、嬉しい。なぜ?」
レジーナは両手を大地について、膝を折った。彼女の長い黒髪がピンク色の大地に広がり、その上に桜はさらに花びらを降らせていた。
「おいおいおい!おめぇ、そういう意味でリティルの事よぉ、好きだったんかぁ?」
「違う。レジーナ、リティル、シェラ、好き!シェラ、哀しい、顔。リティル、笑顔、好き、笑わない、シェラ、嫌い」
「おいおいおい!シェラが哀しいのはよぉ、当たり前じゃぁねぇかぁ!リティルがいねぇんだぞぉ?それでもよぉ、オレ様達の為に、笑ってんぜぇ?」
無体なことを言うレジーナに、ケルゥは呆れた。そんなケルゥを制して、カルシエーナは、レジーナの前に膝をついた。
「レジーナ、哀しいときは泣けばいい。怒りたいときは怒ればいい。お父さんは、笑顔で隠されるより、そっちのほうがずっといいって言う。今回は、お父さんが全面的に悪いんだ。レジーナ、お母さんを困らせたくてこんなことしたの?」
カルシエーナが問いたかったのは、人形を作り出して、それを元素の王の下へ送ったことだった。この時点では、二人は、シェラが記憶を失っていることを、知らなかったのだから。
レジーナはガタガタ震えていた。レジーナは、シェラのことも大好きだった。
リティルが仕事で五年、城に戻れないことも知っていた。そのことを教えてくれたのが、シェラだった。なぜか、一年を過ぎた辺りから、シェラはここへ来てくれなくなってしまったが、哀しそうだったシェラは、ずっとリティルを待ち続けると、レジーナは信じて疑っていなかった。
それなのに、レジーナは、シェラのリティルへの愛を疑ってしまった。
あの時、あの人は再び来た。リティルが喜ぶからと、記憶から、リティルの父達を作れと言ってきた、綺麗な人形の女性。レジーナは彼女を知っていた。
――ほうら、見てご覧なさい。シェラは、リティルを裏切ったのよ?
冷たい、作り物の声がレジーナを背後から抱きしめた。
違う!違うと、レジーナは首を横に振った。作り物の声は、囁くのを止めてくれなかった。
――シェラは、リティルを呼べないでしょう?二人に絆は、もう、ないのよ
そんなことない!レジーナはその声に抗った。
――シェラは、もう、ここへも来てくれないでしょう?それはなぜかしら?
レジーナは、その理由を、変わらず足を運んでくれる、風の城の精霊達に問うた事はなかった。レジーナは与える精霊故に、自分から問うということが、とても不慣れだったのだ。
シェラは、リティルを失って一年が経った辺りから、様々な邪なモノに狙われるようになってしまった。あの国では何が起こるかわからないからと、ルディルから、ルキルースへの侵入を禁じられてしまった事実を、レジーナは知らなかった。
冷たい作り物の声に、シェラが、リティルと別れてしまったから、リティルと懇意だったレジーナにも会いに来ないのだと、簡単に誘導されてしまった。そこへ、シェラの声が聞こえた。
――呼べないわ……わたし達、離婚したのよ。今のわたしは、リティルと繋がっていないわ。残念ね。リティルは、わたしでは釣れないわ
その言葉を聞いて、レジーナは叫んでいた。そして、流したことがあっただろうか?涙と共に、シェラの記憶を、押し流してしまった。
「ごめんなさい!レジーナ、シェラの、記憶、消した!ごめんなさい!」
二人はえ?と言葉を失った。わああと泣き出したレジーナを見つめ、二人はしばし立ち尽くした。
風の城の応接間に面した中庭には、バードバスがある。
そのバードバスの水面には、夜の国・ルキルースへの扉が固定されていた。扉の先は、夜の王・幻夢帝の居城である断崖の城の謁見室だ。
それは、風の王・リティルと、二代目幻夢帝・ルキが協力関係にあるからだった。ルキは勝手に、風の城直通の扉を、バードバスの水面に固定していた。いつでも風の城を助けられるように、いつでも遊びに行けるように。リティルを、守れるように。
ルキは、リティルを失いたくないから。初代幻夢帝が、心を救ってくれたリティルへの恩を返せと、遺言を残していたこともあったが、この悪夢の王を、恐れずに対等でいてくれる彼が、ルキは面白くて好きだった。
インファから許可をもらったレイシは、扉を抜けて断崖の城に来ていた。
「レイシ、遊びに来たわけじゃなさそうだね。何なのかな?」
幻夢帝・ルキは、十二才の少年の姿をした精霊だ。頭に黒猫の耳を生やし、尻には毛足の長い尾が生えていた。
「ルキ、把握してないの?ホントに?」
ルキは玉座から飛び降りると、レイシを見上げて腰に手を当てた。
「嫌な言い方だね」
「ごめん、ごめん。今さ、父さんの親父ィズが具現化しててさ、そのうちの一人は悪霊だってさ。心当たりない?」
父さんの親父ィズ?リティルの三人の父親?具現化?ルキは本当に知らなかったようだった。ということは、ルキルースは無関係かな?とレイシは思った。
「……あー、それでケルゥとカルシエーナがレジーナにね……。他には?」
「んー。今はそれくらい。悪霊のことは、オレ、わからないし」
迷魂葬送。そういう仕事があることは、風の血が一滴も流れていないレイシも知っていた。
だが、関わったことはない。リティルや兄達が、その仕事をしている姿も、見たことがなかったくらいだった。風以外、城の中核を担う風の精霊以外、関わってはいけないことなんだなと、十八才の精神ながらレイシは理解していた。故に、そのことについて、問うた事はなかった。
「そうだね。迷魂葬送は、さすがに君には頼まないと思うよ」
ルキは当然の様に言った。治める国も違うのに、ルキはきちんと風のことを理解していた。こんな幼い外見なのに、ちゃんと王なんだよなーと、グロウタースを知っているレイシは、たまに王様然としているルキに感心してしまう。
「キツいの?」
「精神的にね。だから、悪霊にならないように、風の王は目を光らせてるのさ。インサー、インスが飛んでるくらいが、ちょうどいいんだよ。親父ィズ、誰が悪霊だったの?」
「ドルガー」
「ドルガー?ああ、自殺した、あの。まだリティルを傷つける気かな?」
見つけたら勝手に処分しちゃダメかな?と、ルキは猫の瞳でニンマリ笑った。
「ドルガーって自殺なの?ビザマに殺されたんじゃなくて?」
風の城の応接間に飾られた肖像画の中で、彼等は肩を並べているが、とても複雑な関係だよなと思って見上げていた。だからなのか、愛用の魔水晶の小さな横笛を手に、愛用の二振りの、ショートソードの立てかけられた椅子に座るリティルを真ん中に、真後ろには、十四代目風の王・インが立っていて、ドルガーとビザマはその両脇にいる。ビザマの隣にはサレナがいた。しかし、複雑な関係とは裏腹に皆、優しい顔をしていた。
「トドメは自分だったよ?立派に自殺だよね。あれには、さすがのボクも、ビザマに同情したよ」
ほとんどだまし討ち、とルキは、大げさに肩をすくめて見せた。
「なんで知ってるの?」
「……リティルが調べに来たからね。ちょっと、見ていられないくらい動揺してたっけね。レジーナが慌てて、インファを呼んでたよ。それで?ドルガー、どうなったのかな?」
あの時はリティル、まだ若かったからと、ルキは同情気味だった。リティルは、ドルガーが自ら命を絶ったところまでしか見ていない。その後を知れば、救いになるのか、さらに哀しみを増すだけなのか、ルキには判断がつかなくて、リティルに言えなかった。
「兄貴とゾナがそこへ行ってて、あとから父さんが合流したんだ。なんか、釣りの餌にしたとか言ってたかな?兄貴とゾナが珍しく怒ってたよ。何に対してなのか、オレ、その場にいなかったから知らないけど」
餌、ね。と、ルキは呟いた。
「今回はボクの出番はなさそうだね。風の裏の仕事じゃ、君も出番ないね」
「ねえ、ルキルースに敵が潜伏してるってこと、ある?」
「あるんじゃないかな?ここってさ、常に新しい部屋ができたり壊れたりしてるんだ。心の幽霊っていうのかな?残留思念もしょっちゅうウロウロしてるし、風の精霊でもなければ、迷魂か、残留思念なのかなんて見分けられないよ」
リティル帰ってきてる?とルキはやっと聞いてきた。本当は、その知らせを待っていただろうに、先に仕事の話をしてしまって、レイシはこれでも悪いと思っていた。
「母さん取り返しにまた飛んでったけど、セクルースには帰ってきてるよ。顔色悪かったけど、大丈夫かな?」
「ハア、しばらく寝てたらいいよ。ボク寝かしつけに行こう。レイシ、帰ろう」
当然の様に風の城に扉を開いたルキに、レイシは遠慮なく笑った。帰ろうって、ルキの家じゃないでしょう?と言ってやった。扉で繋がってるんだから、ボクの家~とルキは笑っていた。ルキは、リティルが好きだ。何かあったら一肌脱ぐよ?といつも言ってくれる。
二人はリティルが帰ってきて、風の城は元通りになると思っていた。
まさか、風の城がシェラに手によって、修羅場になっているとは知るよしもなかった。
ルキは鼻歌を歌いながら、扉を潜った。それに続いたレイシは、目の前に立ち止まっていたルキに、つまずいてしまった。扉を抜けた先は、風の城の中庭だった。
「レイシ……これ、夢?現実?」
はあ?何言ってるの?と、聳えるようなガラス窓を見やると、風の城の広い応接間が見える。中では、リティルにナイフを突きつけるシェラの姿があった。城の住人が慌ててシェラを取り押さえて、刺されたらしいリティルを守っていた。
レイシはサッと顔色を変えると、ルキをヒョイッと小脇に抱え、ガラス戸を開けて中へ飛び込んだのだった。
雷帝妃・セリアは、目の前で起こったことが信じられなかった。
「やめて!お母さん!」
最初に動いたのは、意外にも風の娘のインリーだった。背後から襲いかかったシェラのナイフに反応したものの、リティルの動きは鈍かった。避けきれずに、ナイフはリティルの脇腹に突き刺さっていた。そのまま、シェラを捕らえようとしたリティルの手を振り払って、ナイフを引き抜いた風の王妃は、再び斬りかかっていた。そこへ鋭く割って入ったのが、インリーだった。インリーはシェラに前から抱きついて、押し止めようとした。
普段なら超回復能力ですぐに癒えるはずの傷が、まだ血を吐き出していた。リティルは傷口を押さえて蹌踉めいた。倒れる寸前で、抱き留めたのは隣にいたインだった。
「放してください!父の無念を晴らさなければならないの!」
「母さん!落ち着いてください!」
聞いたことのないことを叫ぶシェラを、インファが後ろから羽交い締めにした。
セリアは、シェラが憎しみのこもった瞳でリティルを睨み、視線を逸らさない様を見ていた。リティルの顔は、慌てて駆け寄ってきたインジュの影になって見えなかった。
「リティル?リティル!あわわ、死んじゃダメです!」
「殺すな!気を失っただけだ。おまえは、ホントに風の精霊か?」
インの腕の中で気を失ったリティルに、治癒魔法をかけていたインジュが、蒼白な顔で叫んでいた。それを聞いて、ビザマが呆れたように思わず、インジュの頭を叩いた。ビザマも動揺していたのかもしれない。
「母さん!聞いてください!あなたの父、クエイサラー王リアは、キチンと天寿を全うしました!風の王・リティルが手にかけた事実はありません!」
インファが死霊を退けて、シェラを助けに行ったリティルに合流すると、二人の様子が変だった。どうしたのかと問うと、リティルは何でもないと言った。記憶を失っているシェラに、合流したインが「我々は彼等と共に風の城に行くが、そなたはどうする?」と問うと、シェラはすんなり、わたしも行くと言った。少し表情は硬かったが、緊張でもしているのかと思っていた。リティルは即ビザマと口論を始めてしまって「そんなことしてないで、帰りましょうよぉ!」と言ったインジュに促されて、オウギワシに化身して乗せてくれた彼の背で、ずっと喧嘩していた。故に、インファはリティルに何があったのか、問いただす隙を失った。シェラはというと、インの隣をずっと無言で飛んでいた。
インファも、まさかシェラがリティルを殺す機会を狙っているとは、思いもよらなかった。
「いいえ!いいえ!父はわたしの目の前でこの人に殺されました!そして私は、その場で辱められ無理矢理妻に!」
「……事実か?」
「そんなわけないです!ビザマ、知ってますよねぇ?笑ってないで、インに馴れ初め、教えてあげてくださいよぉ!」
真顔で問うインに、泣きそうな顔で否定するインジュ。ビザマは、シェラが言ったようなことをリティルが実際に行う様を想像して、吹き出して笑いを堪えていた。
ビザマの知っているリティルは、シェラに迫られて逃げ回ったあげく、イシュラースに帰るまで指一本触れなかった。シェラの語った話が、そんなリティルとかけ離れていて、酷い作り話だなと思ってしまった。そして、彼女が殺されたと主張する、シェラの父であるクエイサラー王・リアとビザマは共闘していた。相棒は危ないところをゾナに救われて、ピンピンしていたと思う。この話は、まったく事実無根だった。しかし、シェラは記憶を失っている。これは厄介だぞ?とビザマは、リティルに視線を戻した。
剣狼の谷での死霊達との戦闘。インファが助けに乱入してきたが、リティルの動きは相当に悪かった。インジュには、復活したてなのだから、無理しちゃダメだと怒られていた。この城までの道のりを、ビザマは、リティルと喧嘩腰で話をしながら帰ってきた。顔色は最悪だなとは思っていたが、案外元気そうだった。強がっていたんだなと、ビザマはやっとわかった。
半ば錯乱気味のシェラの前に立ったのは、ゾナだった。
「あなたの名前を、伺ってもよろしいかね?」
「わたし……わたしは、――いいえ、花の姫・シェラです」
「他に、わかることはあるかね?例えば、彼女に見覚えはあるかね?」
ゾナは、インリーをヤンワリ引き離すと、シェラに問うた。シェラは首を横に振った。
「では、彼の名を、知っているかね?」
ゾナは、気を失っているリティルを指さした。
「あの人は――あの人は……」
シェラは、名を口にしようとして、どうしても言えなかった。仇だとはっきりわかるのなら、名くらい知っているだろう。シェラも名を知っているつもりだったのだ。しかし、言えなかった。
「けれども……ああ、わたし――」
シェラはガタガタ震えながら、顔を覆った。
「大丈夫。この城にいる者は皆、君の敵ではないよ。シェラ姫、少しずつ状況を把握しようではないか」
ゾナがそっと肩に手を置くと、震えていたシェラはいくらか平静を取り戻したようで、不安げな瞳ながら頷いた。そんなシェラにゾナは知的に微笑むと頷いた。
ゾナは、シェラの手からナイフを取り上げると、彼の事は気にするなといい、暖炉のそばの椅子まで慎重に導いた。
その姿を見送り、インファはやっとリティルのそばに行くことができた。
「父さんは寝室へ運びます。インジュ、ビザマ、ついていてくれませんか?」
「ボ、ボクですかぁ?」
「治癒が操れて、今冷静なのはあなたですからね。頼みましたよ?」
副官にそう言われてしまっては、オドオドしているわけにはいかない。インジュはグッと息を止めると頷いた。
「監視はオレでいいのか?」
インがいるのに、オレを指名するのか?とビザマは顔には出さなかったが、内心驚いていた。現に、インは心配そうにしている。それなのに?ビザマは、何を考えているんだ?とインファを窺った。
「ええ、あなたは父さんと、気兼ねなく喧嘩できますから」
インファの言葉に、そうだなと、フフフとビザマは笑った。そして、わかったと言ってくれた。インジュは小柄な王を抱き上げると、遠い扉に向かってビザマと歩いて行った。
「兄貴!これ、どういうこと?」
ソファーに皆を促したインファに、傍観するしかなかったレイシは、ルキを抱えたまま走り寄ってきた。
「状況の整理がすんでいませんから、なんとも言えませんが、母さんは記憶を失って混乱中です」
「記憶――喪失……嘘、だよね?それで、なんで父――」
インファが声の大きな弟の口をそっと塞いだ。
「あまり刺激しないでください。ゾナのおかげで、落ち着いたばかりですから。ああ、やっと帰還ですか。イン、聞きたいですか?中庭へ出ましょう」
イン?レイシは、やっとインの存在に気がついた。そして、彼に視線を合わせた。
「レイシ」
「うわっ!は、はい」
目が合ったあげくインに名を呼ばれて、レイシは思わず背筋を伸ばしていた。その様子に、インは思わず笑みを零した。その笑い方が、ノインに似ていて、インを真っ向から否定することになるが、ノインに会いたくなって、取り戻し損なったことを思い出してレイシは俯いた。悔しかった。あと一歩だった。しかし、間に合わなかった。
「ノインは必ず返す。今しばらく我でいることを許せ」
その言葉にレイシは顔を上げた。冷たく無表情な瞳が、レイシを見下ろしていた。
同じ顔、同じ声なのに、ノインじゃないんだと、レイシは思って寂しかった。インの氷のような瞳を見て、彼の瞳の温度が、いかに暖かかったのかわかった。夏の太陽のようなリティル、暖炉の火のようなインファには負けるが、冷たく感じたことはなかった。ノインは、晩秋の朝を暖める日の光。涼やかでけれども暖かい。
甘えるなと言うくせに、甘いんだあの人は……だから、乗っ取られたりするんだ!バカノイン!レイシは、悔しさを押し殺して、インの瞳を見上げた。
「あんた……ごめん。オレ、あんたよりノインの方がいいんだ。でも、返してくれるなら、今はいいよ」
レイシはフイッと視線を逸らすと、先に中庭に出て、帰ってきたケルゥを捕まえている、インファの後を追った。
インは、チラリと、暖炉のそばの椅子に座る、シェラを見た。インの知っている花の姫とは、髪の色も瞳の色も違うその娘。気丈で、風の王に立ち向かう勇ましさに、驚いた。外見だけでなく、シェラは、その内面もインの知る花の姫と違っていた。
レシエは、ただただ清楚で美しい精霊だったから。
十五代目とシェラは、どんな夫婦だったのか。そんなことを思いながら、インは中庭へ出たのだった。
城の主を刺してしまったシェラは、未だ手を握っていてくれているゾナを見下ろした。
心は落ち着いていた。何もわからないが、彼の手の温度はわかった。
彼は床に膝をつき座ってくれていた。コバルトブルーの知的な瞳と視線が交わって、彼は微笑んでくれた。何の心配もいらない。そう言ってくれているようだった。
「ゾナ……あの人は……」
「彼は風の王・リティル。この城の主だよ」
「わたしは、あの方の……」
「五一五年近く夫婦をしていると聞いている。もういきなり襲いかからないと、約束してくれるなら、会いに行ってみるかね?」
シェラは躊躇いがあるようだったが、気丈にゾナを見返した。
「会わせてください。あの方に」
ゾナは頷くと、シェラの手を取り、リティルの寝室へ向かうことにした。
知らなければならない。シェラはそう思った。シェラは確かに、風の王・リティルのあの力強い瞳を知っていた。
シェラは、自分が空っぽにされたことはわかっていた。
空っぽにされたのに、鮮明に残るただ一つの記憶の不自然さにも気がついていた。あの人に、父親が殺されて、血に濡れた彼の手が容赦なく――目を背けたくなる記憶だった。
憎きその男の名を、呼べるはずなのに、シェラはその名すら記憶にないことに気がついていた。けれども、この城の皆がリティルと呼ぶ彼だと思い込んでしまっている。
インファがそんな事実はないと、否定していた。けれども、彼はリティルの息子だ。信じていいのか、わからない。
偽りなの?この記憶こそが。けれども、記憶はこれしかなく、抜け出す術がわからない。
今、この体の中には、憎しみしかなかった。
インジュはリティルをベッドに運び、眠るその顔を観察していた。
顔色が悪い。無理もない。復活したてで、飛び回りすぎだ。その上あんなに大量に血を失って、あげく、シェラに刺されるなんて。
「インジュ、リティルはよく倒れるのか?」
椅子を遠慮なく引きずってきたビザマは、座ると腕と足を組んで、部屋の中を見回しながらインジュに尋ねた。
ビザマは、この部屋の内装に見覚えがあった。見覚えどころではない。よく知っていた。
確かここに……ビザマが目を向けたクリーム色の部屋の壁には、漆喰細工で浮き彫り状に作られた孔雀がいた。金メッキを施されたその鳥は、風の王の右の片翼の鳥・インサーリーズその者だ。他にも、この部屋には、金メッキの鳥達がたくさん描かれていた。
ここは、双子の風鳥島の大国・水のクエイサラーの、かつてのシェラの部屋だ。ベッドはシングルからキングサイズに変えられてはいるが、4本の柱に支えられた天蓋の内側に刺繍で描かれた、花の姫と金色のオオタカ。細部にいたるまで、再現されていた。
リティルは、シェラの為にこの部屋を作ったのだろう。少しでも、王妃が寂しくないように。ちゃんと、大事にしているんだな。ビザマは、少しリティルを見直した。
「いいえ!無茶はよくしますけど……今回は、特別なんです……ビザマ、シェラはどうして記憶がなくなったんです?あんなに仲良しだったのに、あんな瞳でリティルを……信じられないです」
憎しみなんて、慈愛溢れるシェラには似合わない。まして、憎しみをぶつける相手がリティルだなんて、インジュは悪夢だと思った。
「仲、よかったのか」
知っていた。シェラは命を賭けられるほど、リティルが好きだった。あんな目をしたシェラを、ビザマも知らない。
「見てるこっちが恥ずかしくなるくらい、幸せになるくらい仲良かったです。シェラも、リティルが帰って来るの、本当に楽しみにしてたんです!リティルだって、シェラのことばっかり聞いてきて、逢いたかったのに……酷いです」
インジュは悔しそうだった。
「リティルは、戦わなくちゃならないんです。シェラは、城に残って待ってました。風の城、たまに襲われちゃいますからね。リティルがいないと、シェラはよくボンヤリしてるんです。それで、たまに祈ってました。帰って来ると、笑顔でおかえりなさいって言って……言ってました……!今回だって、シェラ、笑っておかえりなさいって、言うつもりだったんです!なのに……なのに……!」
インジュは泣き出した。そして、あんまりです!と繰り返した。ビザマは、二人を思って泣いているインジュの背を、ポンポンと叩いてやった。
「シェラ……リティルがいないと生きられないって言ってました。そんなリティルを、殺そうとするなんて……」
そう言ったところで、寝室の扉が開いた。ハッとして、インジュは涙が頬を伝った顔のまま振り向いた。
「インジュ、泣いているのかね?」
入ってきたのはゾナだった。ゾナに泣いていることを指摘され、インジュは慌てて涙を拭った。
「あ、ええと、何ですか?リティル、まだ寝てますよ?って、シェラ?あ、あの、もう刺しちゃダメです!この人丈夫ですけど、シェラに刺されたら死んじゃいます」
インジュは、ゾナの後ろにシェラがいるのを見つけて、リティルを庇うように立ち上がった。
「もう、刺しません。ごめんなさい……わたしにも、看病させてくださいませんか?」
「ホントにホントですかぁ?うーん、わかりました」
インジュはリティルに向かい手をかざした。インジュの手の平から、キラキラ輝く金色の風が放たれ、リティルを包んでスウッと消えていった。リティルに危害を加えられないように、盾の魔法をかけたのだ。
「ボクとビザマは廊下に出てます。絶対に絶対、リティルを傷つけないでくださいね?約束ですよ!」
暗殺禁止ですからね!とインジュは念を押すと、ビザマと廊下に出て行った。
「好かれているのね。この方を手にかけたら、この城から生きて出られそうにないわね」
シェラは、インジュの態度に緊張しているようだった。
ゾナは、ビザマが座っていた椅子に腰を下ろした。シェラは、インジュの座っていた椅子に、緊張気味に腰を下ろした。
そして、眠るリティルの顔を改めて見た。
途端に、憎しみが湧いてきた。しかし、その奥底に、違う感情があることが感じられていた。それが何なのか、心の奥底に意識を向けると、シェラの思わず刃を握りそうな憎しみは息を潜めた。
これは何?心の奥底にある想いを思うと、この憎しみが酷く薄っぺらく思える……。
この耐え難い憎しみは、偽りなの?消え去りそうで、消えまいとしているような、心の奥底にある感情……この正体さえわかれば……。
「ん……う、ん……」
静かに眠っていたリティルが、僅かにうなされるように唸った。苦しそうに潜められた眉根を見て、シェラは思わず彼の頬に手を伸ばしていた。血の気が引いて青い頬は、少しヒンヤリしていた。
「シェ――ラ……忘、れない……」
シェラは驚いて手を引っ込めていた。彼の声が、名を呼ぶ声が、か細く聞き逃してしまいそうなほどだったのに、耳に残っていた。
「リ――ティル……」
え?呟いた名に、シェラは驚いた。今の今まで、何度聞いても耳からすり抜けた、この城の主の名を、自然と口にしていた。シェラは再び眠るリティルの顔を覗き込んだ。湧いてくる憎しみを堪え、その顔を見る。
――わたしは、本当にこの人と五一五年近くも?
シェラは信じられない気持ちで、見つめていた。
――リティルがいないと生きられないって言ってました
インジュの声が蘇った。そんなことを、この憎しみしか湧かない人を思って?シェラは、もう一度リティルに手を伸ばした。確かめたかった。憎しみ以外の感情の有無を。
「っ!……シェラ?」
その手が掴まれた。ハッと瞳を開いたリティルが、間違えずこの体の名を呼んだ。
驚いた瞳が、シェラを真っ直ぐに見ていた。
「あなたにトドメを刺そうと思って、ここへ来ました」
心にもないことを、咄嗟に言ってしまった。え?とリティルは顔をしかめたが、すぐにニヤリと微笑んだ。
「はは、いいぜ?刺したきゃ刺せよ。けど、殺せると思うなよ?」
掴んでいた手をアッサリ放しながら、リティルは笑った。
「ごめんなさい。もう刺さないわ」
シェラは、リティルの顔を見ていられなくて、俯いた。
「そうかよ。ゾナ、ケルゥとカルシエーナ帰ってきたか?」
リティルはシェラからフイッと視線を外すと、静かに座っているゾナを見た。
「ケルゥが帰ってきたようだね。インファが話を聞いているよ」
「そっか。インファを呼んでくれねーか?」
「承知した。……二人で大丈夫かね?」
ゾナは、暗にシェラをここへ置いていってもいいか?と聞いてきた。哀しい限りだ。王妃と二人きりにすることを、躊躇われる日が来るとは……。
「ああ、心配いらねーよ」
リティルは体を起こすと、笑った。まだ顔色が悪い。だが、記憶を失い、必中の矢を忘れているシェラはただの非力な女だ。リティルが暗殺される事はないだろうと、判断した。それに、リティルはたぶん、二人っきりにしてほしいのだ。どんなに危険だとしても。
ゾナは、諦めてフッとため息をついた。そして、席を立ったのだった。
リティルはゾナが廊下に出て扉を閉めるのを待って、シェラに視線を合わせた。
「シェラ、城のみんなに責められなかったか?」
リティルの言葉にシェラは、瞳を瞬いた。こんな気遣わしげな瞳……自分を刺した者を前にして、なぜ?シェラは、真っ直ぐにこちらを見つめてくる、リティルの瞳を見返した。
驚きすぎて、憎しみを忘れていた。
「怒らないの……ですか?」
城の皆も、シェラの凶行を止めただけで、誰も城から追い出そうともしなかった。ゾナはそばにいてくれて、落ち着くように努めてくれた。今思えば、おかしなことだった。
「へ?何を?」
今度はリティルが瞳を見開いた。
この人……城の主を刺しても皆が寛大だったのは、この人が気にしないからなの?とシェラは呆れた。よくこんな性格で、今まで生き残ってこられたなと、思わずにはいられなかった。風は命を狩る仕事上、敵も多いでしょうにと、シェラは小さくため息をついた。
「あなたは、わたしに刺されたのよ?それなのに、わたしと二人きりになるなんて、何を考えているの?」
リティルは困ったように笑うと、立てた膝に頬杖をついた。
「まだ刺すのかよ?痛ってーだけで、無意味だぜ?オレ、死なねーから」
本気なのだろうか。今まで昏倒していたのにと、シェラは呆れた。
「……顔色が、悪いわ」
「ああ、これは働き過ぎだな。寝不足なんだよ。シェラ、添い寝してくれよ」
え?シェラは面食らって、再び瞳を瞬いた。リティルは、冗談なのか何なのかわからない笑みを浮かべて、自分の隣をトントンッと叩いた。
「ね、寝ている間に、首を掻き切られてもいいの?」
「だから、無意味だぜ?どんだけ、オレが憎いんだよ?」
憎い?そう、わたしはあなたが憎い!急に思い出して、シェラの心が黒く塗りつぶされる。それに、目の前のこの男は気がついていない。その命が、わたしの手中にあるこ――
「シェラ、オレが君の父親を殺した場面、言葉にできるか?」
じっと、金色の瞳がシェラの瞳を覗き込んできた。シェラは我に返って、今、何を思っていたの?と僅かに混乱した。
力強い金色の瞳……わからない……この瞳を、知っているはずなのに……。
「シェラ?」
反応できなかった。リティルがどうした?と言いたげな瞳で、さらに見つめてくる。
違う!違わない!判定材料など、心にも頭の中にもないのに、誰かがシェラの中で言い争いを始めていた。
「あなたは、わたしを――どう、思って……」
何を聞こうとしているのか、自分が発した言葉なのにわからなかった。憎しみしか湧かないこの人に、想いを聞いて、何になる?彼に何をさせたいのか、シェラにはわからなかった。
「へ?好きだぜ?君がオレを忘れても、嫌われても、オレはずっと君が好きだ」
恥ずかしげもなく、よどみなく、流れるようにリティルは言ってのけた。
「譲れねーんだよ。たとえオレの想いを君自身が否定したとしても、譲れねーんだ。君になら、殺されてもいいぜ?それでこの先、君が生きていけるならな」
わたしが――生きていけるなら?リティルは、穏やかに笑っていた。
こんな人が、本当に理不尽な殺人を?この鮮明な記憶を、シェラは疑った。けれども、否定したくても消えず、薄れない。
彼は風の王。命を躊躇いなく奪う、世界の刃。彼等の理の下、すべての命は監視されている。彼等の前では善も悪もなく、すべてが平等だ。
理不尽?そう思うのは、彼等の行為を受け入れられなかった者の嘆きだ。
立場が変われば逆転する、正義と悪。彼等はそれに翻弄されない。彼等にあるのは、揺るぎない正しさだけだ。知っている。彼はそういう精霊だ。
恐ろしい精霊。恐ろしく美しくて――
「父さん、入りますよ?」
コンコンッとノックする音がして、リティルが入れよと声をかけた。広い部屋だ。扉からベッドまでは、テーブルセットなどを超えて、かなりの距離がある。けれども、風は鮮明に声を届けてくれた。
入ってきたのはインファと、彼によく似た彼よりも少しだけ年上の風の精霊・イン、そして、凶暴性を感じる大男だった。
「本当に二人きりでいたんですか?母さん、父さんに何かされませんでしたか?」
呆れた顔でインファは言って、そして困ったように笑った。
わたしが何かする方では?とシェラは、インファの言葉に反応できずに、ジッと彼を見ていた。
「戸惑いますよね?わかりました。花の姫、今後、どうあなたを呼べばいいですか?」
「シェラと、そう呼んでいただけると、ありがたいです」
そう言うことが精一杯だった。この人と子まで成した事実が、とても恐ろしかった。こんな感情で、どう子供達と接してきたのか、想像ができなかった。
「わかりました。では、シェラ、廊下にゾナがいますから、彼と応接間に戻ってください。あなたは死霊に狙われていたようですから、しばらく風の城から出せません。命を大事にする気があるのならば、従ってください」
インファはニッコリ微笑んだが、その言葉には有無を言わせない力があった。シェラは同意して、促されるまま廊下へ向かった。
リティルという人がとても気になる。顔を見れば、どす黒い憎しみが湧いてしまうのに、彼の声を聞くと、その感情を嘘のようになくなってしまう。
――オレはずっと君が好きだ
憎しみを込めて刺してきた相手に、あんな、当然の様に言えるものなのだろうか。
真っ直ぐに見つめてくる、金色の力強い瞳――。
熱のような彼の声が、耳から、離れない。
シェラを見送って、リティルはバッタリとベッドに仰向けに倒れた。
「インファ……ケルゥ……オレ、立ち直れねーよ……」
右腕で両目を覆って、リティルは弱気な声で言った。
「そんなズタボロなのによぉ、なんだってよぉ、二人っきりになんかなるんだぁ?」
拒絶がわかってるのに、理解できないと、ケルゥは言いたげに、太い腕を組んだ。
「五年ぶりだぜ?お互いちゃんと体があって、面と向かえるの。あああああ!オレの癒し!こんな嫌がらせ受けるほど、オレ、誰の恨み買ったんだ?」
うーん。と、インファ達はインも交えて顔を見合わせた。
「父さん、母さんの記憶を消したのは、レジーナです。レジーナはどうも、母さんの発言を額面通り受け取ってしまったようで、怒ったというんですか?」
インファは珍しく、両脇に立つインとケルゥを、助けを求めるような目で交互に見た。
「シェラ、何言ったんだよ?」
「離婚したので、父さんを呼べないし、父さんを釣る餌にはなり得ないと、言ったようですね。母さんがビザマを欺く為に言ったはったりです」
「レジーナああああ!オレ、釣れるぜ?誰が止めたって、入れ食いだぜ?知ってるだろ!」
リティルは枕に突っ伏した。
「レジナリネイの独断ではない」
インはリティルを知らないはずなのに、ヨシヨシとリティルの頭を思わず撫でてしまった。そしてリティルに、今、おまえに優しくされると、立ち直れない……と言われた。だが、リティルは、インの手を拒まなかった。
「許せ。そなたを見ていると、甘やかしたくなる。して、レジナリネイをそそのかした者だが、宝石の精霊・ラジュールだ」
どうどうと姿をさらしていたようだと、インは告げた。
「ラジュール?ルキが粛清したって言ってたぜ?生きてたのかよ?」
リティルはゴソゴソと、体を起こした。顔色を見たインは、寝ていろと言った。
「大丈夫だよ、父さん。オレ、これでも風の王だぜ?それで、ラジュールの行方は?」
リティルに父と呼ばれて、インは驚いた顔をしたが、そう呼んだとうのリティルは、おそらくそう呼んでしまったことにすら、気がついていなかった。
気がつかなかったことにしようと、インファは話を進めた。
「行方不明です。ルキルースは、独立した部屋が扉で繋がっている、四次元空間の国ですからね。風では追えません。ルキが情報を集めると言ってくれ、ルキルースに戻りました。セクルースに出てきていないか、風と小鳥達に探らせています。ユグラはすでに城に戻っています」
どうどうと姿をさらしたということは、捕まらない自信があるか、風と交戦しても構わないと思っているのか、どちらかだろう。戦線布告を行い、挑発までするとは、なかなか面の皮が厚い精霊だ。
「待つしかねーわけか。……日が暮れるな」
リティルは、カーテンを引いていない、長方形の掃き出し窓を見やった。太陽の姿はすでになくオレンジ色の空が、広がるばかりだった。
リティルはベッドから這い出した。
「父さん?今日はもう休んでください」
インファが驚いて、ベッドから降りるリティルを押し止めようとした。それを拒んで、リティルはベッドから降りてしまった。
「シェラに部屋が必要だろ?スズメ、ベットメイク頼むな」
リティルが命じると、どこからともなく金色のスズメたちが舞い降りて、ベッドのシーツを引き剥がしたりし始めた。
「んじゃぁ、おめぇはどうすんだよ?」
「ん?……応接間のソファー?」
「却下する。客間があるだろう?そなた、鏡を見たか?最悪な顔色だ」
記憶がないと言っていたわりに、インはリティルをまるで知っているかのように、案じているように見えた。
そういえば、インはジッと、リティルと父達を描いた肖像画を見上げていたなと、インファは思い出していた。
――笑ったのか?我は……
インは表情が殆ど動かない。しかし、肖像画の中のインは冷たい瞳はそのままだが、優しい笑みを浮かべていた。そう呟いたインに、表情はやはりなかった。そこへビザマが戻ってきた。
――この絵か、気になるよな?オレもだ。なあ、インファ、この絵はどうやって描いた?
ビザマに問われて、インファも絵を見上げた。
――父さんとオレが、記憶から原画を作り、その原画にアクセスして、ルキルースの画家が描いたんですよ。気に入りませんか?
オレの原画が採用されましたと、インファはニッコリ笑った。
――いや、……捏造じゃないのか?
オレはこんな顔で笑ってるか?と、ビザマはくすぐったそうだった。
――レジーナに記憶を見せてもらいましたが、こんな顔で笑っていましたよ?あの時、父さんは眠っていましたから、みんなこんな顔してたのか?と言っていましたけどね
――あの時?
いつだ?とビザマは覚えがないようだった。
――皆さんがこの世を去るときです。心からの笑顔の様な気がしましたので、その顔を使わせてもらいました。サレナも美しかったですしね
いい絵でしょう?とインファがわざとそう言って笑うと、ビザマはバツが悪そうにしながらも「ああ、サレナが綺麗だ」と言ってくれた。インは何も言えず、戸惑っているようだったが、再び肖像画を見上げた。
応接間でのやり取りの記憶からインファが戻ってくると、インとリティルはまだ押し問答をしていた。大丈夫だと言うリティルと、しかしと言い募るイン。
「なぜ、休むことを拒む!」
焦れたインは、ついに声を荒げた。おっ!と、ケルゥが驚いていた。リティルは、ハアとため息をついて、心細そうにインを見上げた。
「父さん、あのな、眠れそうにねーんだよ。一人で、いたくねーんだよ」
今日はいろいろな事がありすぎた。五年、動かない世界にいたために、怒涛のような今日が、一人になった途端に押し寄せてくる様な気がして、怖いんだとリティルは俯いた。
「はは、子供みてーだな!冗談だよ!ほら、行こうぜ?」
リティルはさっきの弱気な顔が嘘のように笑って、皆を促して歩き出そうとした。インがいい負けたのを見て、インファは、ではオレが動きますかと、リティルに声をかけようとすると、それよりも早く、ケルゥが動いていた。
「ふーん?そりゃ!」
ケルゥはリティルの首の後ろに、手刀を落としていた。殺気がなかったとはいえ、いつものリティルならば難なく避けられるはずだった。まったく反応できずに手刀を受けたリティルを、目の前にいたインは抱き留めた。
「ケルゥ、助かった。王がこんな状態では、風の責務に支障をきたす故」
なんのと、ケルゥは凶悪に笑った。リティルの小さな体を抱き上げながら、インは少しだけ表情を和らげた。
「父さん。とは、くすぐったいものだ」
「まんざらでもなさそうですね。せっかくなので、親子してください。ノインは、父親ではありませんから。しかし、客間ですか……」
インファはふむと、リティルの部屋について思案を始めた。風の城は大きな城で、忙しい王たちが客人を滞在させた記録はないが、ベッドのある同じ作りの狭い部屋がいくつもあった。だが、こんな状態がいつまで続くのかわからない。
リティルには、少しでも安らげる場所をと、インファは考えていた。
「兄ちゃん、花園の間でいいんじゃぁねぇかぁ?」
花園の間は、シェラが自室として使っていた、花々の咲き乱れる、とても正常な空気に包まれた部屋だ。寝られる部屋ではないため、少し手を入れなければならないが、選択としては悪くはない。
「名案ですね。イン、部屋を作り替える間、そのまま抱っこしていて、もらっても、いいですか?」
リティルのこんな姿を見るのは、いつぶりだろう。四百年くらいぶりだろうか。最近では本当に、抱きしめる側に回っていたから。だが、さっきの発言は、少しヒヤッとした。きっと冗談ではない。今、インとビザマがいることが、リティルに助けになればいいと、願うばかりだ。王であるリティルは、こんな風に皆を頼れない。唯一頼れるシェラは、憎しみの記憶を植え付けられ、リティルは近づくことさえ難しい状態だ。
「インファ、笑うな」
「失礼しました。父さんは、そこのソファーにでも寝かせておいてください。イン、あなたの部屋はそのまま残っています。使ってください」
歴代王のプライベートの部屋は、残ったままになっていた。リティルが、触りがたいと言ったからだ。元インの使っていた部屋は、今はノインがそのまま使っていた。
さてはて、妙なことになったなと、インファは思いながら一人部屋を後にした。
インとケルゥはその昔、タッグを組んでいた。リティルを知らないインには居心地が悪いこの城でも、ケルゥがいればいくらか紛れるだろう。
ビザマは、記憶の精霊・レジナリネイが守護していた、精霊の至宝の一つ、記憶の万年筆で生み出された者だということが判明していた。フロインが勢い余って消し去ってしまったサレナも、同じように生み出された存在だった。
そして、ドルガー。彼だけが、その人だった。インファは、彼を潜り込ませる為に、誰かが仕組んだことだと目星をつけていた。
死霊使い……レジーナをそそのかしたラジュールは、ネクロマンシーが使えるのだろうか。それとも、別に黒幕がいるのだろうか。
応接間に戻ったインファは、暖炉のそばでゾナと向かい合って椅子に腰を下ろし、話をしているシェラを見た。
彼女が口にした、憎しみの記憶。レジーナはそれを仕込んでいないと言っていた。では、あれは、何なのか。
リティルはその昔、シェラの血を分けた人間の父親に、結婚の許しまでもらって、イシュラースへ帰ってきている。シェラの語ったあの記憶は、まったくのデタラメだ。
あの記憶に、意味はあるのか。それとも嫌がらせで、意味などないのか。シェラは、今まで生きてきた記憶を、取り戻すことができるのか。インファは、フイッと視線を逸らすと、暖炉の隣にある、白い石でできた、大樹の繊細な彫刻が施された華奢な扉を開いた。
記憶など戻らなくとも、父は、母を再び手に入れるのだろうなと、インファは思った。
『どうだ?最愛の者に憎しみを向けられる気分は』
「おまえ、おまえがシェラの記憶を操作したのか?」
『そう、記憶の精霊は素直でいいなぁ。覗き見させてやったら、すんなり言うことを聞いてくれたよ』
「何が目的だ?オレが目的なら、シェラを巻き込むな!」
『シェラ……美しい姫ですね。君の態度次第では、記憶、戻してさしあげましょうか?』
「オレの態度?」
『あなたの記憶、すべて差し出しなさい。それができたら、シェラの記憶、戻してあげるわ』
「断る」
『何?』
「オレが記憶をなくしたら、今度はシェラが傷つくだろ?あいつに、オレと同じ苦しみを味わわせるわけねーだろ!」
『二度と戻らぬぞ?』
「戻らなくてもいいさ。オレが今までのシェラを忘れない!また始めればいいんだ。オレはもう一度シェラを手に入れてやる!シェラに、愛してるって言わせてやるぜ!」
『戻らぬ。戻らないわ。失ったものは、二度と手に入らない』
「それでもオレは、永遠にシェラを愛して生きてやる!それだけのものを、今まで、あいつはオレにくれたんだ。おまえにオレの記憶はやらねーよ。オレはシェラを守る。今までも、これからのあいつもすべてな!」
たくさんの嘲るような笑い声を残して、声は聞こえなくなった。
「シェラ……君が好きだよ。これからも、ずっと……!」
例え、隣にいられなくなっても!
ルキは、レジーナに詰め寄っていた。
「これ以上、シェラの、記憶、操作する、シェラの、心、負担、大きい。上書き、された、記憶、取り除く、難しい。上書き、された、記憶、消せない、記憶、戻せない」
ルキはレジーナを解放した。これ以上、この娘を責めても無意味だ。
「ボクはね、仲良しな二人が大好きなんだ。疑わない二人が、尊いんだ。レジーナ、君は殺せない精霊だから手は出さないけど、ボクに許されると思わないことだね」
ルキは、ギロリと猫の瞳でレジーナを一睨みすると、扉を開いて去って行った。
リティルは、かすかな水の音で目を覚ました。
辺りがやけに明るい。体を起こすと、フワリと花の香りがその身を包んだ。
ここは、花園の間?
リティルがいたのは白い円形の部屋で、ところどころに切れ目のある、同心円に水路が引かれ、水路の中には色とりどりの花が咲き乱れている。ベッドは部屋の中心、同心円の水路の真ん中だった。天蓋がちょうどいい影を作ってくれていて、この部屋を満たす、明るい光を遮ってくれていた。
この部屋は、シェラの憩いの場だ。ここにいないはずの彼女の気配を、リティルは感じていた。そのせいか、こんな時なのにグッスリ眠ってしまった。
「オレ……どれくらい寝てたんだ……?」
頭は思いの外すっきりしていた。けれども、気は重かった。
五年ぶりのこの体が、とても物足りない。風の王になったときから繋がっていた、シェラのくれた一心同体ゲートがない。シェラが愛してくれて、この身に留まっていた彼女の癒やしの霊力もない。シェラはここにいるのに、触れられない。
それが、ひどく心細い。
リティルは、ベッドの上で白い扉を見やった。あの扉の先は応接間だ。シェラは応接間に居るのだろうか。憎しみのこもった瞳で、また睨むのだろうか。はたまた、視線も合わせてくれないのだろうか。
リティルは頭を振った。
どんなシェラでもいい。そこに彼女がいてくれるのなら。
五年離れていた。決めたのはリティルだったが、彼女に逢えないことが苦痛だった。
シェラに逢いたかった。逢いたくて、逢いたくて、この城へ帰ってきた。
彼女に「おかえりなさい」と言ってほしかった。
リティルは白い扉に手をかけた。応接間はすでにカーテンが開かれ、朝日が差し込んできていた。とても静かだった。誰も、いない――
「おはよう、ございます……」
扉を潜り、応接間に足を踏み入れると、真横から声をかけられた。
え?と暖炉の方を見ると、一脚だったはずの椅子が二脚になっていた。その新しい椅子に座っていたのだろう、彼女は立ち上がっていた。
「おはよう。眠れたか?」
リティルは穏やかに笑った。すべての感情を笑顔の下に隠して。
「はい。おかげさまで」
ぎこちなく笑顔もなかったが、シェラはリティルを真っ直ぐに見つめて、言葉を返してくれた。その心に何が渦巻いていようと構わない。まだ、虎視眈々と命を狙っているのかもしれなくても、リティルは構わなかった。
「今、朝だよな?」
「?ええ、朝よ?まだ、みんな起きていないわ」
「そっか」
「……」
「……」
「あ、ああ、オレ、仕事するから、適当にしててくれよ」
「はい」
シェラはストンッと椅子に腰を下ろすと、本を読み始めた。リティルは、小さく息を吐くと、ソファーに向かった。
普通って、なんだっけ?リティルは、ソファーに腰を下ろすと、もの凄く動揺していた。シェラが、声をかけてくれるとは思わなかった。言葉を交わせるなんて、思わなかった。
「リティル、早いではないか」
「うわあ!ゾナ!い、いるならいるって、言ってくれよ!」
落ち着け落ち着けと胸に手を当てて唱えていると、背後から突然声をかけられた。失神するかと思えるほど驚いて振り返ると、ゾナが紅茶の入ったティーカップを持って、ソファーの後ろに立っていた。
「応接間にいろと言ったのは、君ではないかね?顔色はいいようだ。もう仕事しようというのかね?まだ、進展はないよ。それより、霊力はきちんと戻っているのかね?通常の雑務など、城の皆がこなしてくれる。君はもう少し、休みたまえ」
「今がいつなのか、わからねーくらい寝たからいいんだよ!ガキじゃねーんだ、過保護にするなよな!」
で、今いつなんだ?とリティルはゾナに尋ねた。
「君は一日寝ていたよ。昨日ルディルが来て、一週間寝かせておけと言っていたが、どうするかね?」
「一週間も寝られるかよ!もう、大丈夫だ。五年のブランク取り戻さねーといけねーしな」
「そうかね。では、これでも飲みたまえよ」
そう言って、ゾナは紅茶を手渡してくれた。何の気なしに、リティルはそれを受け取って、一口飲んだ。変わらない味だった。
「お味はどうかね?久しぶりの、シェラの紅茶は」
危うく零すところだった。え?と振り向くと、ゾナの隣にいつの間にか、シェラが立っていた。表情は硬く、俯いていたが、こんなにそばにいた。
「ゾナの監視下で淹れましたから、怪しいモノは入っていません」
リティルの動揺が、毒でも入っているのでは?と思われたことは明白だった。
「いや、あ、あのな……君が淹れてくれるなんて、思わねーだろ?ありがとな。ああ、ちなみにオレ、毒の類いでも死なねーからな」
「あら、殺しがいのある方なのね」
シェラはニッコリ笑った。久しぶりに見たシェラの笑顔に、リティルは思わず見とれていた。シェラの言葉なんて、耳に入っていなかった。
シェラの顔を見ていたリティルは、城の奥底から呼びかける声を聞いて、一気に現実に引き戻された。瞬間、リティルは、王の顔でゾナに視線を合わせた。
「ん?ゾナ、ちょっと席外すな。城の中にはいるからな、何かあったらインファに言ってくれよ」
リティルは紅茶を飲み干すと、ソファーを立った。そして、翼を広げると城の奥へ続く扉に向かって飛んでいってしまった。
「慌ただしい男だろう?どうやら、仕事のようだね。シェラ姫、彼の事は、気にせずいたまえ」
ゾナは、さっさと暖炉のそばの椅子に戻ってしまった。そこが彼の定位置だ。シェラも、彼と斜めに向かい合う椅子に腰を下ろした。
緊張した。普通に普通に、リティルが部屋に入ってきたら、挨拶をして、会話が続くなら、会話をと、何度も何度も心の中で予行練習していた。昨日は起きてこなくて、日が落ちる頃には、緊張しすぎて頭がフラフラしていた。傍目にわかるほどだったのか、インファが「大丈夫ですか?」と気遣って、部屋まで連れて行ってくれた。
シェラは、気を取り直すと、膝に置いた本を開いた。これは、昨夜寝る前にインファが、気が向いたら読んでくださいと言って、渡してくれた本だった。
『ワイルドウインド』とグロウタースの言葉で書かれた本だった。
昨夜、寝落ちるまで読んでしまった。それは、この本に出てくる主人公とヒロインの名が、リティルとシェラだったからだ。
偶然だろうか?この本に出てくるリティルは、ウルフ族というグロウタースの民で、風の王ではない。シェラも、人間の姫で精霊ではない。そして舞台は、グロウタースの神樹の聳える島・双子の風鳥島だ。花の姫であるシェラにも馴染みの場所で、物語に感情移入しやすかった。
本の中のリティルは、優しくて強くて、世間知らずのシェラは、彼にすぐに惹かれていった。出会ってまだ数日なのに、いきなり告白してしまうシェラの大胆さには、驚いた。
風の王・リティル。刺されても笑っている彼は、どんな人なのだろうか。あの穏やかな笑顔は、彼の本質ではない気がする。何を隠しているの?とても、気になる。
「おはよー。ゾナ、母さん」
おはようと、ゾナが顔を上げた。シェラもぎこちなく挨拶を返す。声をかけてきたのは、次男のレイシだった。鋭く冷たい瞳が、眠そうにシェラを一瞥した。彼は、シェラと呼んであげてくださいと言ってくれた、兄・インファの言葉に、アッサリ背いた。
――えー、ヤダよ。オレは今まで通り、母さんって呼ぶよ。だってさ、母さん、風の王妃やめてないでしょ?オレ、父さんの養子だからさ。父さんの妻でいるなら、母さんは母さんだよ
確かにシェラは、髪飾りを壊していない。そして今も、眠るときに外したそれを、再び髪に飾っていた。それは、意地だ。無理矢理王妃にされたのだとしても、違うのだとしても、これを髪に飾ろうと思った自分を守りたかった。これだけが、今シェラに残された、真実のような気がしていた。
とても綺麗な髪飾り。これを贈ってくれたのは、リティルなのだと、その事実が信じられない。この憎しみの記憶が、すべてを否定する。
「ゾナ、父さんまだ寝てる?」
惑うシェラをよそに、レイシはゾナと話をしていた。
「いいや、ここにはいないが、起きているよ」
「早っ!ねえ、父さん笑ってた?」
負けた!とレイシは悔しそうだった。だが、すぐに真顔に戻った。
「笑っていたが、あの笑顔の時のリティルは、注意が必要だと思うがね」
ゾナは大きなため息を付いた。何?あの優しい笑顔に何の問題が?シェラは彼等の会話が気になって、本に栞を挟んで閉じていた。リティルの、慈愛すら感じる微笑み。彼の乱暴な物言いからは、少しかけ離れた微笑みだとは思っていたが、やはり、あれは偽りなのだろうか。
「あー、あの優しすぎる笑顔?ヤバイよね?あの笑顔で、大地の礎だったしね。今回何する気かな?今回オレ、関われないかもしれないし、兄貴は――」
そんな話をしていると、バンッと扉が開いて、ドヤドヤと雷帝夫婦が、言い争いながら入ってきた。
「――話すことなんて、ないわよ!やめて!」
「そういうわけには、いかないでしょう?婚姻を解消する気ですか?」
「どうして、そんな話しになるの?それとこれとは、話が別でしょう?」
「それのことで拗れているのが、わからないんですか?なぜ、オレには話せないんですか?」
「そ、それは……と、とにかく!この話はおしまい!もう、しないで!」
「セリア!待ってください!」
セリアは耳を塞いで、部屋を横切っていった。そんな彼女を、インファは追いかけていく。あんなに食い下がるインファは珍しいなと、ゾナは雷帝夫婦を目で追っていた。
「……まだ喧嘩中なんだよね。ゾナ、何か聞いてる?」
「いいや。あれはインファではなく、セリアに問題があるようなのでね。彼女はオレには話をしないよ。ノインが間に入っていたが、それで余計拗れてしまったようだね。リティルがいれば、ここまで拗れてはいなかっただろうと思うがね。インファが追いかけているということは、インが何かしらしたのではないかね?」
まあ、そのうちインファが捕まえて終わるだろう。インファは決めた獲物は逃さない。彼が本腰を入れたのなら、すぐにでも解決するだろう。
「あの、お聞きしてもよろしいですか?」
シェラが、意を決したように話しかけてきた。
「いいよー、何でも聞いてよ、母さん」
レイシは、ゾナの椅子の背もたれに頬杖をついて、冷たい瞳で笑った。
「あの方の――」
「誰?」
レイシは意地悪に言葉を遮った。名を呼ばせようと言うのだろう。
「レイシ、やめたまえ。シェラ姫、リティルがどうかしたのかね?」
「さきほど、笑顔が問題だと……」
胸騒ぎのような、警告のような何かを感じていた。憎い仇なのに、問わずにはいられなかった。
「笑顔?父さんの?ああ、母さん、普段の父さんの笑顔、知らないからなー。何、気になるの?殺したいほど、憎んでる相手なのに?」
レイシの探っているよ?と隠さない視線が、とても怖い。彼も、風の王夫妻の息子なのだと思うと、リティルがどんな人なのか、ますますわからなくなる。
長兄のインファが、とても気遣いができて優しいだけに、心に忠実なレイシが真逆に見えてしまう。兄弟で、こんなに性格が違ってしまうものなの?とシェラは、温度のないレイシの瞳に、何かあったの?と疑問が膨らんでしまった。
「レイシ、母親を脅すのはやめたまえ。姫、君が気にすることではないよ。リティルが隠れて無茶をするのは、いつものことなのでね」
「そうそう。気にしなくていいよ。どうせ、母さんには何もできないからさ」
レイシはそういって冷たく笑うと、じゃあねと言ってソファーの方へ行ってしまった。
「許してやりたまえ。レイシは、リティルを傷つける者には容赦がないのだよ」
「いいえ、快く思われなくて当然だわ。けれども、あの方は、本当に……」
大丈夫なの?なぜ、心配しているのだろうか。レイシが言ったように、殺したいほど憎んでいるのに。
リティルは、鬼籍の書庫に来ていた。
「シャ・ファン、死霊使い釣れたか?」
扉に打ち出されたハゲワシに話しかけると、シャ・ファンはすぐさま答えた。
『おお、リティル。奥方に刺されたと聞いたが、無事なようじゃな』
「はは、オレの妃、熱烈だろ?で?見つけたのかよ?」
『うむ。ビ・ウジも交える故、中へ』
ギイイッと、シャ・ファンは扉を開いた。リティルが中へ入ると、鉄の扉は静かに閉じた。
暗闇の中、リティルの前に気配が立った。
『リティル殿、死霊に奥方が襲われたと聞きもうした』
「ああ、それが原因かもな。変な記憶を植え付けられて、オレ、シェラに命狙われてるぜ?」
『それは災難で。大事ないので?』
労るような、心配するようなそんな空気を感じた。
「ああ、オレ、死なねーから。ビ・ウジ、本題よろしくな」
『御意。ネクロマンサーが動き出し、魂の流れが乱れておりまする。シャ・ファンをお連れください。小生は、ここに残り城内に死霊が入り込まぬよう結界を張ります故』
「ああ、こっちは任せたぜ?今のシェラ、ただの可愛いだけのお姫様だからな」
『想いは、変わらないので?いえ!何でもありませぬ』
「ハハ、変わるわけねーだろ?風の王、刺してくる女だぜ?記憶がなくなっても、あいつはシェラだよ。シェラなんだよ……」
『リティル殿……偽りの記憶を、取り除くことはできないので?』
「さあな。戻らなくてもいいんだ。オレが、あいつの今までを覚えてるからな。この先だけ、見てくれたらそれでいいさ。例え、オレが隣にいなくてもな」
リティルは俯くと、寂しそうに微笑んだ。
『リティル、それはいかんぞ!貴殿が奥方の隣におらぬで、どうするのじゃ?』
「迷ってるんだよ。あいつを手放すかどうか。だってそうだろ?仇だと思い込んでるヤツのそばにいて、幸せかよ?だったら神樹に帰して、ゲートを通る時逢えればそれでいいんじゃねーか?」
仇だと言って刺してきたシェラは、たぶん、自分の記憶に疑問を持っている。だから、憎しみは消えないのに、今朝、リティルに声をかけてきたのだ。リティルが一日寝ている間に、城の皆は彼女に、いかに仲がいい夫婦だったかを、吹き込んでしまったことだろう。シェラの心と頭は混乱しているだろう。このまま風の城にいて、シェラの精神が壊れないか。リティルはそれを心配していた。シェラが苦しまないというのなら、婚姻を解消して離れたって構わなかった。
精霊の婚姻は、自身の一部を使って作ったアクセサリーを贈りあうことで成立する。大仰な儀式が必要なわけでも、誰に宣言しなくても、簡単に結べるものだった。故に、解消するのも簡単だ。ただ、贈りあったアクセサリーを、壊してしまえばいいだけなのだから。
この黒いリボンを壊して……当時シェラは、このリボンを渡すことで、リティルと夫婦になってしまうことに、思い至っていなかった。リティルから、リティルの欠片を渡されたシェラはあの時、リティルを守りたくて、ただこのリボンをくれただけだった。その気持ちを汲んで、リティルは婚姻関係になっていることを言わなかった。
シェラがやっと気がついたのは、彼女の人間の父である、クエイサラー王に怒られたからだった。結婚の許しをもらいにいったリティルは、話のなりゆきで、シェラが気がついていないことを、言わざるを得なかった。故に、娘の失態に父王は怒ったのだった。
花の姫という強力な精霊が贈った品にしては、とても弱い力しか込められていないこのリボンを、リティルは今まで、婚姻の証として、思い出と共に大事にしてきた。このリボンは、見た目や込められた力以上に、リティルには大切な品だった。遠い遠い過去となった、しかし確かにその場所――双子の風鳥島で生きていた、その時間が宿っているのだから。
このリボン一つで、語れる思い出がある。それは、かけがえなく尊いモノなのだと、リティルは思っている。シェラとの記憶なのだ、尚更だ。そして、このリボンにまつわる話をするとき、その話の中に、シェラの父も確かに生きてそこにいる。そうやって、生きている者は死者に会えるのだ。
『そのリボンを、壊してしまうので?待ってくだされ。早急すぎまする!ネクロマンサーの起こした事象なら、大本を断てば解決するやもしれまする。ネクロマンサーは捉えたのです。リティル殿、今は先送りなさいませ』
『そうじゃ、そうじゃ!貴殿が出られるならば、即動けるのじゃ。リティル、今は仕事に集中せよ』
「ハハ、わかったよ。二人とも、ありがとな。シャ・ファン、早速行くか?」
『御意。インファ殿かノイン殿を連れて行くじゃろう?』
「うーん、どっちが適任だと思う?インファか、インか」
『イン陛下?ノイン殿はどうされたので?』
「何があったのかしらねーけど、記憶が混乱してノインのヤツ、インになっちまったんだよ」
困ったぜと、本気で困っているリティルをよそに、二人はインのことを思い出していた。ノインのことを案じないわけではないが、付き合いが長かっただけに、二人にとってインの名は懐かしかった。
『イン王とは、懐かしいわい。二人動かせい。城は閉じておけば大事ないじゃろう』
「二人ともかよ?そんなに厄介なのかよ?」
『言いたくはないのですが、今のリティル殿は頼りない故、小生も二人つけたほうがよろしいかと』
奥方の護りは鉄壁だった。とビ・ウジは言葉にしなかったが思った。彼女はリティルの体も守っていたが、一番大きな役目は、彼の強いが脆い精神に寄り添い、前を向けるように支えることだった。そんなシェラのいない今、リティルが最も信頼を寄せる二人が共にいなければ、ネクロマンサーの前にはとても出せない。
あの、恨みと哀しみの塊の魔物は、優しいリティルの心を砕いてしまうだろうから。
ビ・ウジは、案じていたが、彼は風の王だ。この役目から、遠ざけることはできようはずもなかった。
「はは、わかったよ。そろそろ二人とも起きてるだろうからな、話すよ。シャ・ファン、行こうぜ?」
「御意。久しぶりの出陣じゃ!腕が鳴るぞ!」
ギイイッと扉が開いて、光を背負って背の高い影が立っていた。ビ・ウジに、頼んだぜと声をかけて、リティルは背の高い影に向かって歩き出した。
闇になれた目がくらんで、リティルは眩しそうに目を細めた。
「リティル、行くぞ!」
自信に溢れた老人の声が降ってきた。見上げると、浅黒い肌の精悍な老人が見下ろしていた。膝裏まである長い白髪をポニーテールに結い、金色の肩当てと、胸当てを身につけている。そして、彼の背には骨になったハゲワシの翼が生えていた。
「ああ、狩りの始まりだぜ!」
しばらく城には帰れないかもなと、リティルは思った。
記憶の中のシェラが近づいてきて、その唇がいってらっしゃいと触れる。
今、シェラにしばらく戻らないことを告げて、彼女がどんな反応をするのか、リティルにはわからなかった。告げなくてもいいのか?とも思って、こんなどうでもいいことを、悩んでしまった。
応接間に戻ると、インが窓際に立っていた。何か見えるか?と聞くと、雷帝が追いかけっこをしていると言って、わからないくらい僅かに笑った。
一緒に死霊使い狩りをやってくれと言うと、インはすんなり承諾してくれた。
直後、中庭から戻ってきたインファを口説くと、こちらも二つ返事だった。セリアと揉めていたようだったのに、本当にいいのか?と念を押すと、彼は、いつも通り、いいですよ?と、何か問題でも?と言いたげに首を傾げた。
シャ・ファンは、すでに玄関ホールだ。彼は気を使い、この、風の精霊以外の精霊も集う、応接間を経由しなかった。
インファがゾナに軽く話してくれている間に、リティルは、玄関ホールに向かうつもりだった。シェラに出撃を告げずに。
「リティル」
聞き間違うはずのない声に呼び止められて、リティルは信じられない心持ちで、振り向いた。緊張気味に、紅茶色の瞳がこちらを窺っていた。
「行くのですか?」
シェラは、怒ったような強めの口調で短く問うた。
「ああ、ちょっと厄介な仕事だからな。しばらく戻らねーよ」
「そう。ご武運を」
――いってらっしゃい、リティル
シェラは笑ってはいなかった。だが、リティルは思わず、明るく笑っていた。
「いってくるな!シェラ」
トンッとリティルは踏み切ると、玄関ホールへ続く扉まで軽やかに飛んだ。
場外での戦闘行為は、禁止だって言ってるのに!
風の王・リティル昏倒により、記憶喪失シェラの勝利!




