二章 氷のオオカミVSシェラ、インリー
第一ラウンド ビザマ 対 風の王妃・シェラ、風の姫巫女・インリー
第二ラウンド ビザマ、剣狼・ティルフィング 対 夕暮れの太陽王・ルディル
ゲートで、水の領域にある水の城のそばに出た、シェラとインリーは、入り江の中にある水の城の城門前に舞い降りた。水の城は、上空から見ると、砂浜に流れ着いたホネガイにしか見えない外見をしていた。
玄関ホールは、貝殻の内側のように、つるりとした壁や柱は不規則に湾曲し、アーチを描く天井を支える骨格は、不規則な波のようだった。天井からゆらゆらと青い光が水面のように揺らめいて、鏡さながらに磨き込まれた床に影を落としていた。
広い玄関ホールを中程まで歩くと、奥から現れた青い髪の人魚が、出迎えてくれた。水の王・メリシーヌだ。メリシーヌは、器用に空中を泳いでくると、嬉しそうにシェラの手を取った。
「シェラ~、インリー!いらっしゃい!」
「メリシーヌ、突然ごめんなさい。やっとリティルが帰ってくるので、報告に来たの」
メリシーヌは、リティルの名を聞いて嬉しそうに笑った。
「やっと帰って来るのですわね?ああ、よかったですわ。また、リティル一人に背負わせてしまうことになってしまって、本当に、ごめんなさい!」
メリシーヌは、シェラの手を取ったまま謝った。反乱の意志など、感じられなかった。いつも通り、リティルを案じてくれる、優しい彼女だ。
風が誤った?いいや、インファとノインが情報を取り違えるはずがない。シェラはたわいないことを話し始めたメリシーヌの言葉を、半ば上の空で聞いていた。何かに知らず知らず巻き込まれているのならば、彼女を保護しなければならないが――そう思った時だった。メリシーヌの口から、不穏な単語が飛びだした。
「――それで~私たちも、私兵を持つことにいたしましたのよぉ」
私兵?シェラは、水色の水面が揺らめくホールの奥から現れた気配に、ゆっくりと視線を合わせた。その気配は、シェラの奥底から記憶を呼び覚ました。
とても懐かしく、とても痛みを持って。
「彼、とっても強いのですわよぉ?」
メリシーヌは、とても得意げだった。
「ええ、よく知っているわ……」
シェラは、廊下に続くアーチを越えてやってくる者を見つめたまま、呟いた。
ビザマはなぜ自分がここにいるのか、理解できなかった。
それは、自分が死んだ記憶がキチンとあったからだ。ただ一つわかったことは、自分の意志とは関係なく、この女の戦えと言う相手と、戦わなければならないということだった。
ビザマは主である、メリシーヌに呼ばれるがまま心なく、ホールへ足を踏み入れた。
そこで、まさか会えると思っていなかった者の姿を見て、ビザマは瞳を見開いた。
これは悪い夢だ。
シェラはそう思った。メリシーヌには悪いが、彼はここで殺さなければならない。
灰色の長い髪を、インリーと同じように三つ編みに結い、背中に無造作に流している。彼の頭にはオオカミの耳が生え、尻には尾があった。彼は、インリーと同じくらいの背だった。今こうして見ると、後ろ姿が、インリーとよく似ているのだなと、シェラは思った。
足下には、青みがかった毛並みの大きなオオカミが、そっと寄り添っていた。
ウルフ族――彼の姿は、グロウタースの民の一種族だった。そして、ウルフ族は、リティルと関係の深い種族だ。なぜなら彼は、風の王として覚醒する前、ウルフ族の姿をしていたのだから。
ウルフ族の平均身長よりも背の高いビザマを、リティルは羨ましいと言っていた。
オレは君より背が低いからと、拗ねるリティルを、可愛いと思うと同時に、これ以上格好良くなられたら、セリアがインファに気後れしているように、あなたのそばに居づらくなるわと、シェラは思いながら、そんな胸の内を彼に吐露したことはなかった。
今のままのリティルで、十分よと、言っておけばよかったかしら?シェラはふとそう思った。そうすれば、絶句して照れるリティルを見られたわねと、少し惜しく感じた。彼は、シェラのちょっとした言葉を素直に受け取って、本当に喜んでくれる。愛しい人……。
些細なことで、リティルとの思い出が止めどなく溢れるほど、シェラはリティルが好きだ。だからこそ、これは許しておけなかった。
今、目の前にいる彼の名を、シェラは呼べる。ずっと昔に、リティルの心に、癒えない傷をつけて死んでしまった彼の名を、シェラも忘れたことなどなかった。
確かに、風の言ったことは正しかった。これは、風の王への攻撃だ。
「メリシーヌ、巻き添えになりたくなければ、離れていて」
シェラは躊躇わず、弓を引いた。その姿を見て、メリシーヌは明らかに動揺していた。
「シェラ?」
シェラの体に触れようとしたメリシーヌの腕を、インリーは掴んだ。視線をインリーに移すと、いつもはほやんと柔らかい彼女は、どこかメリシーヌの正気を疑うような、瞳をしていた。
「メリシーヌ、あの人のこと、知らないの?本当に、知らないの?」
念を押すように、インリーは尋ねた。質問の意味がわからないメリシーヌは、ただ戸惑うしかなかった。
「このこと、風のお城に報告するね。メリシーヌは無関係って言っておくけど、副官と補佐官のことだから、徹底的に調べられると思っててね?」
何?どういうこと?メリシーヌは、頭が真っ白になっていた。そして気がついた。インリーの探るような瞳の意味を。
彼女達は、何かを調べる為にこの城にやってきたのだ。そしてそれは、風の城の仕事だ。
――私は、風に討たれるというのですか?
意味もわからず、風の正義の餌食に?嫌だと思った。嫌だと思ってしまった。
「インリー!」
シェラの鋭い声にハッと我に返ると、命令に忠実だったはずのビザマが、インリーに肉薄していた。まさか、今、嫌だと思ってしまったから?メリシーヌは、戦慄いた。
インリーは辛うじて反応し、白い光の盾を作り出して彼の長剣を受け止めていた。
「ビザマ!おやめなさい!」
メリシーヌは、彼の名を呼んだ。シェラは、そんなメリシーヌの声と言葉に、怒りを覚えた。シェラにとって、彼の名は重い。なぜなら彼は、シェラがクエイサラーという国の姫として、産まれた時からそばにいた。ビザマは、シェラにとって、紛れもなく家族だったのだから。
大好きだった、クエイサラーの宮廷魔導士――わたし達兄妹の魔法の師。
彼は、遠い昔に死んだ。死なせてしまった。今のシェラならきっと助けられた。けれども、当時のシェラには、それだけの力の理解力がなかった。
彼の生き様を否定したりしない。けれども、わたしがいなければ、彼はリティルを、傷つけることなく守れたのだろうと思うと、シェラは後悔が拭えない。
強く、正義の側に立つはずだった彼は、シェラのせいで、極悪人のレッテルを貼られてしまったのだから。
「あなたが、彼の名を呼ばないで!」
ドンッと波紋のような透明な波動が、シェラから放たれていた。ビザマは飛び退き、インリーは辛うじて耐えきったが、メリシーヌは弾き飛ばされて、壁に体をしたたか打ち付けていた。何とか意識を保ったメリシーヌは、シェラの怒りに、信じられない視線を彼女に向けていた。シェラはビザマを、戦姫の眼差しで見つめていた。
「娘に手を出さないで。わたしが、お相手するわ。ビザマ!」
「お母さん!ダメだよ!」
――退かなくちゃ!言わせてもらえなかった。シェラの怒りに、インリーは何も言えなかった。こんな母を見るのは、いつぶりだろう。しかし、母の剣幕に押されている場合ではない。インリーは二本のファルシオンを抜くと、ビザマに攻撃を仕掛けた。
瞬時に反応して、ビザマは長剣でインリーの剣を捌き、翼もないのに高く跳躍すると、広く間合いを取った。それを追って攻め込まされたインリーは、目の前に突如現れた薄氷の壁にぶつかっていた。咄嗟に腕で庇ったが砕けた氷が、インリーの顔に襲いかかり視界が塞がれる。
ゾクッと殺気を感じて慌てて瞳を開くと、ビザマの顔が目の前にあった。斬られる!そう思ったが、体に衝撃は来なかった。代わりに、背後から頬をかすめて白い矢が飛んでいった。ビザマはそれを避けて、トントンッと軽く飛び退いていた。
「ごめんなさい。あなたをリティルに会わせるわけにはいかないの。ビザマ、今ここでわたしが討ち取るわ」
シェラは再び弓を引いた。
――許して、ビザマ……あなたを、二度も殺す、わたしを許して……
ビザマは、シェラの姿に懐かしさを感じずにはいられなかった。
ビザマは、グロウタースの双子の風鳥島にある、水のクエイサラーで、宮廷魔道士を務めていた過去があった。その時シェラはクエイサラーの姫で、ビザマは教育係だった。
シェラ・アクアマリン。それが、彼女の名だった。
彼女は別れた時のまま、美しく強くそこにいた。
――アクア
あの頃のように、名を呼びそうになった。そして、元気にしていたか?リティルとは、仲良くやっているか?と尋ねたかった。ビザマにとってシェラは、親友の娘だったが、自分の娘にも等しい存在だった。
しかし、近況を尋ねることも、声をかけることさえ許されなかった。
「メリシーヌ、巻き添えになりたくなければ、離れていて」
シェラが、こちらに向かい弓を退く仕草をした。するとその手の中に、白い光のような弓矢が現れた。躊躇いのない瞳だった。あの時、ただ守られるだけだったか弱い姫君のシェラは、どこにもいなかった。風の王の傍らに立ち、戦う事を選んだのか?と、ビザマはその瞬間理解した。
そして、この存在が、リティルに仇なすことも悟った。それは本意ではない。確かにリティルと敵対する道を選んだが、心は常に共にあった。
リティルは、オレを恨んでいるのだろうなと、ビザマは唐突に思った。恨まないはずがない。リティルを風の王として生かす為に、彼には多くの苦痛を与え続けたのだから。
シェラがここにいるということは、リティルは今でも、風の王として生きているのだろうか。それだけ。それだけでいい、知りたかった。だが、ビザマは言葉を発しなかった。
メリシーヌを守るだけの人形だと思わせれば、シェラと、シェラによく似たあの娘の刃が、鈍ることはないだろう。
ビザマは、メリシーヌに詰め寄るようなインリーに攻撃を仕掛けた。手加減はしたが、彼女は鋭く反応してくれた。こちらに向けた鋭い視線の中に、リティルを見た気がした。きっと彼女は、リティルとシェラの娘だなと、ビザマは思った。
「ビザマ!おやめなさい!」
今まで無気力に従ってきたが、シェラと再会し、ビザマは目が覚めるのを感じた。
五月蠅い!湧き上がった怒りにまかせて、剣を振るうところだった。シェラが怒ってくれなければ、無防備なこの女を殺していたかもしれない。
「あなたが、彼の名を呼ばないで!」
飛び退いたビザマは、その言葉に内心驚いていた。思わず、無表情の仮面が剥がれるところだった。シェラが「ビザマ」という名を、大事にしていてくれることを、感じたからだ。
なぜ?と思った。オレは、あなたの夫を、下手したら殺していたかもしれない、双子の風鳥島の極悪人なのに。死んでいたビザマには、その後何があったのか知るよしもなかった。
「娘に手を出さないで。わたしが、お相手するわ。ビザマ!」
シェラは、気丈に立ちはだかってくれた。彼女の手で討たれるのならば、それはそれで本望だと思った。
「お母さん!ダメだよ!」
シェラを止めようとしたインリーは、それができないと悟ると、躊躇いなくこちらに切り込んできた。こんな、まだ子供のような容姿の、しかも女の子が剣を振るうのか?ビザマはそんなことを思っていた。インから話は聞いていたが、風の精霊というのは、こんな女の子まで、武器を取らなければならないほど、戦いに明け暮れているのだなと、思った。
彼女の剣技は、どことなくリティルに似ていた。
リティルとは、剣を交えることはついになかったが、未熟な間、ずっと影から見ていて知っていた。
リティルを九年で風の王に仕立て上げる為、インと共謀して風の王の力を奪い、庇護する者を失った彼を拾って、育ててくれた養父のドルガーを殺した。
風の王の教育係だったゾナの下、わかりやすく道を踏み外したリティルを、ずっと見守り、ゾナの代わりに守ったこともあったなと、生前の記憶が走馬灯のように蘇った。
インリーはよく仕込まれてはいるが、まだまだだなとビザマは思った。
薄氷の壁の前に誘い出されたとも知らず、彼女はこちらの意のままにぶつかり、氷を割ってくれた。視界を一瞬遮られ躊躇したその隙をついてやる。――反応は上々だ。殺気に慌てて顔を上げたが、その先が続かない。リティルなら、どう対処しただろうか。そんなことが頭をよぎったとき、インリーの後ろから鋭い力の塊が飛んできた。体を傾けて頭を避けると、今し方頭のあった位置を矢が貫いていった。
「ごめんなさい。あなたを、リティルに会わせるわけにはいかないの。ビザマ、今ここで、わたしが討ち取るわ」
本当に、勇ましくなったものだなと、ビザマはシェラの姿に感心した。そして、リティルに会いたくなった。この身が滅ぼされるなら、リティルの手がいいと、そう思ってしまった。そうすれば、彼の恨みも晴らせよう。
その瞬間ビザマは、本気でこの場を退ける事を決めた。
「きゃあ!」
ビザマは、インリーの攻撃の範囲外へ一旦は退いたが、次の瞬間懐に飛び込んでいた。視界を、知った赤が舞う。
ビザマの攻撃に辛うじて反応したが、インリーは剣を受け止めきれずに弾かれ、無防備になった腹を一文字に切られていた。踊り子であるインリーは、隠すところしか隠していない軽装だ。布面より肌の露出の方が多いが、キチンと風で防御していた。それを易々と切り裂かれていた。きちんと防御魔法をかけていなかったら、今頃体は真っ二つになっていたと、インリーはゾッとした。幸い傷は浅かった。インリーの超回復能力でも、何とか癒やしきれた。
――強い!このままじゃ……
鋭い攻撃に、インリーは蹌踉めいたが、何とか踏みとどまった。そこへ重い一撃が来た。インリーはビザマの剣の軌道を僅かにずらし、なんとか凌ぐ。だが、重いくせに切り返しが早い。その速さはリティル並みだった。そして、リティルの剣よりも格段に重い。こんなに細いのに……!まるで、ノインを相手にしているようだなとインリーは、必死に捌きながら思った。
この人が、お父さんのお父さんなんだと、インリーは、薄ら笑みの浮かぶ、ビザマの灰色の瞳を見返した。
――あなたは、本当はどんな気持ちで、お父さんとお母さんの前に、立ちはだかったの?
そんなことが、過ってしまった。戦いの中よそ事を考えるな!と、またノインに叱られてしまう。
気の焦ったインリーは、攻撃させられていた。しまった!と思った時には、インリーの剣は見事に空振りしていた。がら空きの胴を狙って、ビザマの反撃がくる!
――ああ、こんな怪我したら、レイシ、怒っちゃうかな?
インリーは、やっと夫婦になれた、出会ったときから好きな夫のことを思っていた。死ななかったにしても、重傷は免れない。インリーはこの瞬間、負けを認めていた。
「――アクア」
ビザマが呟いた。インリーは、突き飛ばして割って入ったシェラが、体を貫かれている様を見た。
どうして?脇腹を貫かれたシェラの様子に、インリーは動揺していた。シェラには、ダイヤモンドよりも硬い盾がある。それが一度は守ってくれるはずなのに、なぜ?インリーは、その盾が、リティルの風とシェラの花の姫の力の、混合魔法であることを知らなかった。そして、体の中にある、残り僅かなリティルの風を、シェラが大切に、手放せないでいることも、知らなかった。
「……っ!リティル、を、傷つけさせないわ!」
シェラは、ビザマの剣を握る手を掴んだ。ビザマはハッとして剣を捨てようとしたが、遅かった。シェラに掴まれた手が彼女の手ごと凍り付いていく。
「お母さん!」
突き飛ばされて倒れたインリーは、凍り付いていく二人を見て叫んだ。
「インリー、斬りなさい!早く!」
「で、でも!」
今衝撃を与えたら、同じように凍り付いているシェラの体まで砕けてしまう。インリーは躊躇った。
「アクア、そんな真似を娘にやらせるな。攻撃を仕掛けたのはオレだが、それはあまりにむごいぞ!」
シェラは驚いてビザマを見た。彼に、言葉を発するだけの意識は、ないと思っていたのだ。
逃げられる!そう思った瞬間、自分のモノではない氷の魔力を感じて、あっけなくシェラの氷は溶かされていた。
「傷を癒す時間をやる。アクア、仕切り直すぞ」
「ビザマ、あなた……」
剣を引き抜かれて、痛みに頽れたシェラは顔を上げた。無限の癒しで傷はすぐに癒えていった。シェラは、体が砕かれたとしても、思考能力さえ奪われていなければ、無限の癒やしで死ぬ前に体を再構築できる。こんな傷は、傷のうちに入らなかった。
「自分がどういう存在なのか、わかっているの?」
シェラは、傷がまだ癒えていないフリをして、尋ねてみた。
意外にも、ビザマは生前の彼と変わらずに、答えてくれた。
「いいや。気がついたらここにいた。わけもわからず、魔物とやらと戦わされて、辟易していたよ。だが、あなたに会って、何となくわかったような気がする。オレは、リティルにとってよくない存在なのだろう?」
魔物と交戦?ビザマが?彼はいつからここに?風が反乱の兆しありと警告してきたのは、ついさっきだ。存在していいはずのないビザマを、風は脅威とはみなさなかった?なぜ?
最初の警告は、炎の城。それから、水と大地が同時……。初めは脅威とみなさなかった彼を、今になって風は脅威とみなしていることになる。それはなぜ?
シェラは、彼と戦ってもいいものか、迷った。
「風ではないわたしには、よくわからないわ。けれども、あなたはとうの昔に死んでいるわ。それだけは事実なの」
「ああ、覚えているよ。敵のままで逝くはずが、あのバカは……最後に混乱していなかったか?」
最後の最後で、リティルを助けてしまった。最後まで、リティルにとっての悪を、貫き通すつもりだったのに、リティルは倒すべき相手に、負けそうになった。インだけの力では足りず、ビザマはその身と命を賭け、リティルを生かし、そして死んだ。悔いも未練もなかった。もとより、生き残る気はなかった。
「……あなたは今でも、リティルの父よ」
ビザマにとって、意外すぎる言葉だった。
「父?あのバカは、何を血迷っている?父親は、インだろうに」
ビザマはシェラの言葉を、鼻で笑った。裏切った後、痛みしか与えなかった。それなのに、父親として認識しているとは、どんな精神構造をしているのだろうか?と思ってしまった。
「インも父親よ。リティルにとって、インとあなた、そしてドルガーは紛れもなく父親なの。だから、あなたを、会わせたくないのよ……」
欲張りなヤツだなと、ビザマは笑った。
ビザマはいけないと思いつつ、脳裏に蘇る思い出は止まらなかった。
幼いリティルの、信じて止まない無垢な笑顔。インと、妻のサレナと三人で、守っていけると思っていた。それは叶わなかったが、リティルは、瞳の輝きの強い、風の王になってくれた。現在の彼は、どんな王なのだろうか。剣を交えてみたい。未練のなかったビザマの心に、欲が芽生えてしまった。
「オレは、会いたくなったよ」
「ビザマ……」
「アクア、始めよう。安心しろ、殺しはしない。リティルからあなたを、奪うことはしないよ。ただ少し、眠ってもらうだけだ」
途端に、ビザマの雰囲気が暗い殺人者のそれに変わった。シェラは立ち上がると、息を飲んでビザマを睨んだ。戦闘は避けられそうになかった。
笑うビザマの瞳には、殺すことに躊躇いない色が浮かんでいた。彼は、リティルから風の王の証を奪い取ったとき、ウルフ族を滅ぼした。一線を大幅に越えたビザマは、正気を保ちながら殺すことに躊躇いがなくなった。リティルは、ビザマに手を汚させてしまったのは、自分のせいだと、未だに悔やんでいる。ビザマは、正義感の強い人だった。その彼に、望まなかったであろう道を、歩ませてしまったことが、悔しい。
自分のすべてを賭けて、生かしてくれたビザマという人の生き様が、リティルの底なしの優しさの源だった。どんなに傷ついても、関わる者の生き様を守りたいリティルの心に、ビザマは今でも生きている。
今目の前にいるビザマが、どういう存在なのかわからない。
けれども、多大な影響を与えた人だからこそ、会ってはいけないと思った。
彼は死者だ。それは紛れもなく事実で、そんなビザマに引導を渡すのは、魂を葬送する風の王・リティルだ。リティルはきっと傷つく。
ビザマを、父親だと言い切るリティルはきっと、ビザマを、二度も殺したくないはずだから!
「ビザマ!わたしはリティルを、守るわ」
シェラは、さりげなくインリーから離れながら、ビザマに向かい片手を突き出した。
空気中の水を凍らせながら、冷気がビザマに迫った。ビザマは薄く微笑むと、大きく飛び退き片手をそっと突き出した。
シャーンッと、澄んだ音が響いて、氷の魔法が拮抗する。
――凄まじい力……!わたしが、押されているなんて!
ビザマは、牙を失っていっていたとはいえ、戦闘民族だったウルフ族を、たった一人で滅ぼした。と、聞いているが、いったいどうやったのか、未だに半信半疑だった。彼は、人間だった頃のシェラの魔法の師だった。当時から、底知れないと思っていたが、今のシェラは最上級精霊の上位に位置する、次元の大樹・神樹の娘だ。すべての世界に、魔力を供給する神樹の、花の精霊であるシェラは、霊力保有量がどの精霊よりも多かった。
それなのに、精霊から見れば脆弱な、グロウタースの民であるはずのビザマを、ねじ伏せられなかった。
歯を食いしばるとシェラは、下ろしていた左手を右手に重ねた。氷の魔法の出力が跳ね上がったが、ビザマはまだ片手で薄く微笑んでいた。
シェラはその笑みにゾッとした。魔法の理解力が、まるで違うのだと悟った。シェラの氷の魔法が、ビザマのそれに浸食されて、彼の魔法として跳ね返ってきていた。
シェラは普段、氷の魔法を使わない。使う必要がなかったからだ。普段は、花の姫の力と、リティルの風の力を混ぜ合わせて使っていた。しかし、リティルとの繋がりを断たれ、彼がくれた風の力はもうほとんど残っていなかった。
シェラは、この身に残る、その僅かな風を使う事を、迷ってしまった。
イシュラースに帰ってからずっと、リティルの風から離れたことがなかった。あの人はもうすぐ帰って来る。わかっているのに、この身に唯一残った、リティルのぬくもりを手放すことに、抵抗を感じてしまった。
リティルの声も、リティルのぬくもりも、リティルの気配もなくし、寂しくて、二度と逢えないのでは?と怖くなって、けれども、体の中に残ったこの風が、最愛の夫の生還を信じさせてくれた。
――オレは必ず戻るから、泣かないでくれ
無理よ。そう思った。泣かないでいるなんて、あなたを失ってしまうのだから、無理よと、あの時は言えなかった。「こんな選択しかできないオレを、許してくれ」そう、すまなそうに言うリティルを、シェラは許すしかなかった。皆に、生きる希望を与え続けようとする優しいあなたは、わたしだけのモノではないから……しかし、そんなリティルのことも、シェラは確かに好きなのだった。
今この風の力を使わなければ、ビザマに勝てない。シェラは、選択を迫られていた。
「ティルフィング、限定解除」
低いつぶやきを、シェラは聞いた。戦闘が始まってから、壁際でずっと動かなかった大オオカミの存在感が、突如増した。
あのオオカミは精霊獣だ。ハッとして、ティルフィングに視線を合わせたシェラは、目を疑った。
尻をつけて座っていたティルフィングの姿が、視界から一瞬で消えていた。そして、立ち上がったばかりのインリーは、悲鳴も上げられずに床に頭を叩きつけられていた。
盛り上がった筋肉の、逞しい体躯の背の高い男が、インリーの頭を押さえつけていた。右腕が異様に長く、その腕は無機質なからくり仕掛けだった。顔の右半分は、黒く塗りつぶされた瞳の穴もない仮面に覆われ、きれいに右半分頭髪もなかった。左半分の顔は、灰色の長い前髪に隠れて見えない。彼の左の頭には片方だけオオカミの耳があり、尻には尾があった。剣狼と呼ばれる精霊獣の、女王以外の者が人型を取れることを、シェラは知らなかった。
「はっ――あ……」
一瞬インリーとティルフィングに気を取られたシェラは、鋭く飛んできたつららに両手を弾かれた。蹌踉めいたその体を、冷気が包み込み、彼女の下半身を凍り付かせた。顔を上げると、ビザマに両手首を頭の上で押さえられていた。ピキピキと背後で凍り付く音がして、宙吊りの様な形で頭の上で押さえられた両手も、氷の中に閉じ込められていた。
「リティルを呼べ」
呼びたいわ!と、シェラは心の中で叫んでいた。けれども、一心同体ゲートをなくしているシェラには、望んでもできなかった。ビザマが凍れるシェラの手から手を離すと、僅かな氷の欠片がポロポロ落ちて、シェラの視界にキラリと光を返しながら散った。
敗北の確定したこんなときなのに、シェラの脳裏には懐かしい声が蘇っていた。
――氷の結晶って、こんな形してるんだな?
魔法に苦手意識があるくせに、リティルは、突然とんでもない魔法を使う。シェラがたまにはと、使った氷の魔法に何気なく干渉してきて、巨大な氷の結晶を作って見せてくれたことがあった。日の光をキラキラ返して、とても綺麗だった。目を奪われていたシェラの隣で、オレが見たかったんだと言って、リティルは子供のように笑っていた。
そんなことを思い出しながら、シェラは凍える寒さの中、クスリと微笑んだ。
「呼べないわ……わたし達、離婚したのよ。今のわたしは、リティルと繋がっていないわ」
下半身と両手の感覚がすでになかった。冷たい血が心臓に流れ込んで、体が徐々に凍っていった。この身に宿る最後の風を使えば、ここから抜け出せる。風が足りなくて本数に制限ができてしまったが、必中の矢があれば、ビザマを仕留められるはず。氷から腕だけ抜け出して、残りの風で作り出せる必中の矢は残り三本……ティルフィングに阻まれたとしても、この矢なら仕留められる!警戒心の薄れている今なら、きっと逆転できる。
早く、行動しなければ意識が――
「下手な嘘だ」
嘘ならよかったわ。と、シェラはリティルを恨めしく想った。
自分の存在すべてを一時的に賭け、一つの大陸を滅亡から救う。リティルの考えそうなことだ。軽率な優しさで、風の王を遂行するリティルを助ける為に、風の城の皆は共にいる。シェラもその一人だ。
けれどもその代償は大きい。五年の月日、リティルは同化した大地から動けずに、風の城から離れなければならなくなった。
五年など、精霊の永遠の命からすれば一瞬だ。そう言い聞かせて、シェラは今日まで待った。長かった。涙が涸れてしまうほどには。
――リティル……リティル……答えて……お願い……
「五年、よ。残念――ね。リティル、は、わたしでは、釣れない、わ――」
フーフーと、白い息を吐きながら、シェラは失いそうな意識で笑った。
嘘ではないが、愛情をなくしての離縁ではない。リティルには五年前、泣かないで待っててくれと言われている。リティルを釣る餌に、今でもシェラは十分になりえた。ただ、助けを求める声が、彼に届かないだけだ。
シェラの言葉を真に受けて、ハアとビザマはため息を付くと、首を横に振った。
「あのバカは……救えないな」
ビザマはそっと、意識をほとんどなくしたシェラの体に触れた。カシャンッと高い音を立てて氷は砕け、解放され倒れてくるシェラを、ビザマは受け止めた。
シェラは強力な精霊に成長していて、一切手が抜けなかった。ビザマは、こちらの命令に忠実に、インリーを襲ってくれた、ティルフィングに視線を向けた。彼はあの姿になることを嫌っている。早く戻してやらなければなと思っていると、カツンカツンと、足音が聞こえてきた。
「こいつは、手ひどくやられたな」
ビザマは、荒々しい気配に顔を上げた。
「剣狼の限定解除なんざ、初めて見たわ。おまえ、とんでもねぇな!」
姿を現したルディルは、力そのもののような大剣を抜き、未だインリーを組み敷いていたティルフィングを薙いだ。ティルフィングは、巨体に似合わず軽々と飛び退くと、ビザマの隣にからくりの右手と、生身の両足を張り、ガリガリと爪を床に立てて降り立った。スクッと立ち上がった彼は、ビザマよりも遙かに背が高かった。ビザマは気を失ったシェラの背に、炎の魔法を灯した手の平を押し当てて、彼女に体温を戻してやりながら、ルディルを見やった。翼?オオタカの?風の精霊か?とビザマは、新顔の男を観察した。
「おい、メリシーヌ!インリーどうにかしろ!助けられたら、この失態、リティルには黙っておいてやる」
気を失ったインリーの前に立ちはだかりながら、ルディルは壁際で震えているメリシーヌに声をかけた。リティルに黙っておくと言われて、メリシーヌは慌てて近寄ってきた。
「さて、ビザマだっけなぁ?このオレ、夕暮れの太陽王・ルディル様とやるか?」
ビザマは、目の前の大男からヒシヒシと威圧を感じていた。隣にジッと立つティルフィングは、その威圧に隠さない殺気を放っていた。
「ティルフィング、おまえは生身か?そいつは、本物じゃねぇだろう?それでも、従うのか?」
ルディルの言葉に、ティルフィングはグッと首を逸らし、喉を晒して見せた。その喉には縫合の痕があった。ああ、おまえ口がきけないのかと、ルディルは呟いた。
「ルディルと言ったか?リティルはどこだ?」
「あ?おまえ、リティルに会うつもりか?すまんな、あいつはこっちじゃねぇとこ行ってるわ」
トンッと、ルディルは大剣の刃を肩に担いだ。
リティルはシェラがここにいると知って、行きたそうにしていたが、相手がビザマだと知るとあっさり、任せると言ってきた。ビザマは、氷の魔法使いだからと。
リティルは今、インファの行った炎の領域だ。そこにいる者の名を聞いて、一瞬顔色が変わったように見えたが、あれは見間違えだったのだろうか。
「そうか、あのバカ」
ビザマはシェラの体を支えたまま、呟いた。その様子に、ルディルは眉根を潜めた。シェラとインリーを傷つけたことは明白なのに、シェラをとても大事に扱っているような?いやいやそんなはずはない。風が反乱の意志とみなしたのは、この男の存在故だ。現に、シェラもインリーも手ひどくやられている。だが、しかし……
「おまえ、リティルの敵じゃねえの?」
一応ルディルは聞いてみた。彼の事を、リティルは父親だと言い張っていた。「インじゃねぇの?」と聞くと「インも父親だけど、ビザマもそうなんだよ!」と帰ってきた。ふーんと興味が湧いて、何があったか聞いてみると、とんでもないことをされていた。
「それ、虐待って言わねぇ?」とルディルが呆れると、リティルは「あいつがいなかったら、風の王になってなかったんだよ」と、悔しそうにしていた。
リティルが歪んでいやがるのは、こいつのせいだよな?とルディルは、マジマジとビザマを観察した。
歪んでいる。リティルは傷つくことに無頓着で、例え半殺しにされても、相手の生い立ちや理由が納得できれば、案外簡単に許してしまう。そして、殆ど怒らない。こんな戦いに明け暮れているのに、明るい笑顔を絶やさずに、ルディルでさえ絆されるほど、底なしに優しい。かといって、甘いのかと言われればそうではない。風の仕事は、容赦なく、慈悲の欠片もなく、遂行できるのだから。
リティルは、生きられる者の生き様を守ってやりたいと、頑なに、自分を犠牲してでもその願いを叶えようとしていた。自分を傷つけるのはよせと、再三忠告しているが、その願いに囚われて、自分の血にまみれて歪んでいた。
「理由がなかったが、気が変わった。ルディル、リティルに伝えろ!アクアはもらっていくとな」
アクア?アクアって、シェラのことか?とルディルは聞いたことのない、シェラの呼び名に、首を傾げた。
なんだ?こいつ、シェラとも関わりがあるのか?とルディルは思った。
「あ?そんなこと、このオレが許すとでも思ってんのか?」
ここでシェラを奪われたら、リティルがガッカリする。あいつはやっと帰ってこれたんだ。本当は、ここへ来たかった。シェラに逢いたいんだ!と、ルディルはそれをビザマに告げるわけにもいかず、彼を睨んだ。
「許してもらうさ」
シェラを横抱きに抱き上げ直したビザマを、ティルフィングが丸太のような筋肉の左腕で、抱き上げた。慣れた様子に、二人の信頼を感じて、ルディルはビザマがすでに故人であることに、何とも言えない寂しさを感じてしまった。気がつくと、無数のつららがこちらを狙っていた。行けと、小さくビザマが呟くと、つららは一斉にルディルに向かって矢のように飛んだ。
ルディルは大剣を思わず振るってしまった。
「あ、やっちまったわ」
太陽の熱で一瞬のうちに溶かされたつららは、白い水蒸気となってルディルの視界を遮った。パリンッとかすかな音が聞こえ、水蒸気が去ると、ビザマ達の姿はどこにもなかった。
ビザマを逃してしまったルディルは、チッと舌打ちして、割られた天窓を見上げていたが、インリーを懸命に治療しているメリシーヌにゆらりと視線を移した。
リティルが帰って来る目前で、面倒なことしやがってと、ルディルは怒りが沸々と湧いていた。
「メリシーヌ、風三人には尋問させねえ。けどなぁ、このオレの問いには答えやがれ!ビザマについて、知ってること洗いざらい吐きやがれ」
「し、知らないのですわ!腕の立つ僕ということ以外、何も知らないのです」
ルディルはハアとため息を付いて、前髪をグシャグシャと掻き回した。
「誰からもらいやがった?あんなもん、おまえが作り出せるわけねぇ。おまえにあれを渡したヤツはどこのどいつだって、聞いてんだ」
「名は、ブローカーと言っていましたわ」
その名を聞いて、ルディルは脱力したように、長く長くため息をついた。
「そいつは人物の名じゃねぇ。グロウタースの職業の名だ。仲介人を名乗ったってことは、どこかに元締めがいやがるな。メリシーヌ、おまえ、はめられたんだよ。そいつらは、リティルか、風の城に恨みでもあんのか?」
え?とメリシーヌは、驚いた顔をした。その顔を見て、何も知らないということは、罪だなと思ってしまった。
「そりゃ、そう思うだろうが!ビザマってのは、リティルの死んだ親父だ。魂を葬送する風の精霊が、死者に会いてぇもんか!それを、おまえ……下僕扱いしやがって。詫びは入れろよ?あいつはたぶん、笑って許すと思うけどな」
ルディルは、目覚められないインリーを抱き上げると、風の城へ引き返すことにした。
ビザマ……あの男は、危険だ。痛みを失って、凍り付いた心。目的の為に手段を選ばず、それを冷酷に遂行する。
瞬時にこちらの力を見抜き、攻撃を誘い、脱出した。戦闘センスは、リティル以上かもしれない。
剣狼という精霊獣は、剣狼の女王・フツノミタマが集めた魂だ。皆、戦場で倒れた戦士だ。
限定解除とは、剣狼を、生前の姿に、剣狼として手に入れた力がプラスされた姿で、化身させる。強力な力を振るえるが、その分、相棒のウルフ族の負担も大きい。故に、剣狼の中には、相棒に限定解除のことを伝えない者もいる。
ティルフィングのあの強さは、彼だけの強さではない。ビザマの力も上乗せされていた。そうでなければ、あんな巨体で、あんな身軽な跳躍などできない。
剣狼の力をあれだけ引き出せたウルフ族を、ルディルも知らなかった。
そんな男が、リティルを待っている。
勝てるのか?ルディルは、そう思ってしまった。
双子の風鳥の極悪人・ビザマ 完全勝利!




