終章 花の姫VS風の王
風の城の奥深くへ下りるらせん階段を、リティルは下りきった。
「ファウジ、シャビ!」
下りきった先は、日の光に溢れ花桃の咲く、水辺の庭園だった。無常の風は、宝形造りの屋根の乗った、六角形の水榭と呼ばれる、壁のない東屋で、二人顔を合わせて、艶やかな飴色に塗装された、丸いテーブルに向かっていた。テーブルの真ん中には、一抱えもある大きな水晶球が嵌まっていて、淡い金色の光が渦巻いて瞬いている。
「おお、リティル」
「迷魂リスト、できてるか?」
「ここに」
小川を飛び越えて、赤い丸い提灯の吊り下がった、水榭の入り口に降り立ったリティルに、落ちくぼんだ、幸薄い切れ長の瞳のシャビが、恭しく筒状になった紙を手渡した。
「ただの迷魂か?ネクロマンサー案件は?」
紙を開いて目を通したリティルは、紙から目を離さないまま問うた。
「今のところない。インスレイズだけで事足りるじゃろう」
浅黒い肌の老人――ファウジは、金色の瞳に優しい笑みを浮かべて、リティルを見下ろした。
「そうか……なあ、おまえら、閉じこもってねーで、応接間に出てこいよ。もう完全に精霊だし、おまえらも家族なんだぜ?」
「よいのです。小生らはこんな部屋まで用意していただき、身に余る光栄です」
シャビはそう言うと、水榭から外を見やった。彼の立った入り口には、牡丹の花が咲き乱れていた。
中央に蓮の花が咲く池があり、その上を、ジグザグに九曲橋がかかり、池向こうの、ここと同型の水榭に繋がっていた。
「そうじゃ、そうじゃ。この部屋の空気は、懐かしくて落ち着くのじゃ。王の家族がどうというのではないぞ?ただ、我らは多忙故なぁ」
そう言って、ファウジは疑似太陽を見上げた。バサッと、広い部屋の高い天井を金色の鳥が横切った。
「朱雀、魂の帰った数、合ってるか?」
舞い降りた金色のキジは、ジッとリティルの瞳をその金色の瞳で見つめた。
「わかった。異常なしだな。引き続き頼むな」
リティルは金色のキジの体を撫でてやった。朱雀は、トコトコと歩いて庭へ出て行った。
フェイユの事件から、二週間が経っていた。
ラジュールが消滅前にルキに言った忠告を聞き、リティルは鬼籍の書庫を大幅に改造、無常の風に王の霊力を与えて、正式に精霊に転生させた。そして、魂の帰った数を監視する新たな鳥・朱雀を生みだした。
無常の風の未練だった、フェイユを解放したことで、リティルは、彼等が望むなら輪廻の輪に送るつもりだった。だが、ビ・ウジ――シャビがそれを拒んだ。
――リティル殿!許されるなら、このシャビ、あなた様に仕えとうございます
いいのか?と戸惑うリティルを、シャビは子供の無事を確かめるかのように抱きしめた。
――あなた様を置いて、逝きとうないのであります
ああいう最強のなり方は、いけない!とシャビに怒られた。キレたリティルは、初代のルディルを上回る強さで、風の王史上最強をマークしていた。
――そうじゃな。リティルが死んだら、輪廻の輪に乗るわい。じゃからな、そなたの風、我らにくれぬか?
シャ・ファン――ファウジの言葉には、ますます戸惑うしかなかった。しかし、この件が片づいたら希うつもりだったと言われ、半ば押され気味に、リティルは承諾させられてしまった。王の風を与え、精霊にしてしまったら、一蓮托生になってしまう。リティルが死ねば、十五代目風の王の風で精霊となった彼等は、道ずれになってしまうのだ。
押し切られてしまったが、これでよかったのか、リティルは彼等の心に何があるのか、わからなかった。
「リティル殿、奥方とはその後――」
シャビは、聞きにくそうに、それでもリティルにやっと尋ねた。
「聞くなよ!知ってたけどな、恐ろしい女だぜ……」
リティルは、朱塗りの水榭の柱に縋って、俯いた。そして「ああいうことするか?あいつ、風の王の妃だぜ?自覚ねーんじゃねーのか?」と、怒濤のように愚痴り始めた。
「クカカカ!もう、白旗を揚げればよい。記憶、戻っておるのなら、逃げ場はないじゃろう?」
「記憶は全部じゃねーよ。フロインが目覚めてから、今までだけだぜ?」
リティルは、二人と共に、水榭の真ん中にある丸いテーブルを囲んで座った。小川で遊んでいたシラサギが、すぐさま急須でお茶を入れてくれた。
「それにしても、フロイン殿の同化の法で復活とは、恐れ入りまする」
リティルから、死へ誘うネクロマンサーの感情を引き受けたシェラは、一度肉体を捨てた。あの時、フロインの声を聞いたノインと、ノインから指示を受けたセリアとインファ、ティルフィングが力をくれて、シェラは、フロインの力で肉体を再構築して生き延びたのだった。シェラを再生させるとき、フロインはフロインの知っているシェラの記憶を、肉体と心から呼び覚ましてくれた。
シェラは初めから、フロインを当てにしていたわけではなかった。助かったのは、あの場に皆がいたからだったが、シェラはリティルに、初めからそのつもりだったと言った。
本当は一度命を捨てるつもりだったとは、口が裂けても言えなかったのだ。故にリティルはその事実を知らなかった。
あの時、シェラは一度死んでしまった。彼女の死と共に、彼女から贈られた婚姻の証も消失してしまい、今リティルは力も何もこもっていない紐で、ぞんざいに髪を縛っていた。
「最後まで、シェラ姫の手の内であったのう」
我らも出し抜かれたと、ファウジは苦笑いした。フウッと吹いた風が、花桃の花びらを連れてきた。
「ああ……あんな女、手に負えるかよ……」
「手放すおつもりで?」
できませぬよね?とシャビが、念を押してきた。
「手放さねーよ!死んでも離すかよ!ただ、オレが怒ってることにしておかねーと、またシェラにあんなまねされてみろよ!命がいくつあってもたらねーよ」
あいつが傷つくのは嫌だと、リティルはテーブルに突っ伏した。「ぜってー許さねー!」と叫び、リティルは、ため息をついて顎を机の上に乗せながら、話し始めた。
「……あの時な、本気でシェラを失ったと思ったんだ。花の姫は、風の王がいる限り、何度でも神樹から産まれる。シェラが死んでも、同じ姿のまま、同じ名で、神樹はオレの為に花の姫を咲かせたと思うぜ?けどな、出会いなおす気は、オレにはなかったんだ。風の王が許されることはねーだろ?その恨みに、またシェラが巻き込まれたらと思うと……もう――」
「奥方がまた咲いたとしても、あなた様との思い出は消えております故、確かに、リティル殿次第でありました」
「じゃが、離れたままでは、おられんかったじゃろう?」
リティルは、意地悪に笑うファウジをジロリと睨んだ。
「かもな」
「あなた様の性格を考えれば、会わない選択はできなかったかと」
控えめに、シャビにまで言われてしまった。
「はは……シェラがいねーと、オレ、生きられねーからな」
体を起こしたリティルは、そう言って、半ば自棄のような笑みを浮かべた。
「そう、ならば許してくれる?」
「しょうがねーな。そろそろ許してって、シェラ?ここには、あんまり来ちゃダメだぜ?」
水榭の入り口に、不機嫌そうなシェラが立っていた。
風が吹き抜け、スカートの広がりをシェラはそっと押さえた。そんな彼女を花桃の花びらが彩る。
「あなたが戻ってこないから、迎えに行ってと、副官と補佐官に頼まれたの」
「あいつら……いい逃げ場所だったのにな……」
「リティル、ワシらは仕事してくる故、ゆっくりしてゆけい」
そういうと、無常の風は骨の翼を広げて、別の水榭に移動してしまった。
それを頬杖をつきながら見送ったリティルは、立ったままのシェラを見上げた。
「もう、二度と、あんな真似しないでくれよ?」
「ならば、イタズラに命を脅かされないで!」
「これが風の王・リティルなんだよ。耐えられねーなら、神樹に帰れ!」
「帰らないわ。ずっとずっと、あなたのそばにいるわ!」
「あんな綱渡りみてーなことする君が?オレのそばに?はは、いつか死に別れるぜ?」
「わたしは、ある意味不死身なのよ?けれども、あなたは違うわ。あなたは、ただ一人なの。あなたが――わたしが諦めてしまったら、終わりなのよ!」
「シェラ、オレは死なねーよ」
「わたしの気も知らないで!わたしが間に合わなければ、死んでいたわ!」
「シェラ、君も同じだったじゃねーか!フロインがいなかったら、今頃君は死んでたんだぜ?」
「誰のせいだと思っているの?誰に話していいのか、わからなかったの。一年の猶予しかないこと、言えなくて……慎重に動いていたのに、あなたは!」
ガタンッと、リティルは立ち上がった。
「いや、あれは不可抗力だろ!ティルフィングも、あそこが本丸だって知らなかったんだぜ?シェラ、オレが大暴走したのは、知ってるよな?最上級精霊のオレを生かしたまま止めるのは、かなり難しいぜ?君がいれば止まるんだよ!だからな、だから……」
リティルは言葉を飲み込んでしまった。
シェラを極限まで危険な目に遭わせてしまったのは、どう考えてもオレだと、リティルは自覚していたからだ。
「神樹に帰れ!」
心にもない言葉が、口から滑り出していた。それを聞いたシェラが、傷ついた瞳をしたのが、正面にいたリティルにはハッキリと見えていた。
「!――わかりました。さようなら、風の王!」
顔が見られなかった。なんと言ったらいいのか、言葉を失ってしまった。
そばにいてほしいのに、引き留めてはいけないような、大事なのに、どう大事にしたらいいのか、わからなくなった。
大半の過去を取り戻しても、シェラは、リティルを必要であれば睨んできた。そして、こうやって口論になる。この二週間、些細なことで言い争った。そして、堂々巡りだった。
「言いてーことは……そうじゃねーんだ」
リティルは顔を覆った。前のように、何も言わずに、すべて受け入れた顔で、笑ってほしいわけではない。でも、今のシェラとどう接していいのか、どうにもよそよそしくなってしまっていた。昔のシェラも、これだけ言いたいことがあったのではないか?そう思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。彼女の言っていることが、もっともである為に、変われないリティルは、どうしようもなかった。
シェラは、部屋の入り口で立ち止まっていた。
「違うの……伝えたいことは、こんなことじゃないのに……」
こんな喧嘩を、繰り返している場合ではない。リティルはいつまた、今回のような仕事に、出なければならなくなるかわからない。一心同体ゲートと無限の癒やしで、サポートしなければ、死んでしまうかもしれない。一心同体ゲートは、喧嘩しながらも、半ば押しつけるように開いたが、霊力の交換は行えていなかった。
早くしなければ……なのに、上手く微笑めない。記憶をなくす前は難なくできた、あの女神のような微笑みを、どうすれば浮かべられるのかシェラにはわからなかった。
フロインが復元してくれた記憶よりも以前の記憶に、あの女神の微笑みの、元になる何かがあったのだ。それを思い出せないシェラには、リティルの行動を咎めることしかできなかった。
だって無茶苦茶なのだ。よく、こんな人を笑って支えられたと、我ながら思う。
嘆いても怒っても、彼を変えることはできない。それはわかっていた。変わらなくてはならないのは、わたしだと、シェラにはわかっていた。受け入れていないわけではない。けれども、あの人を見ていると、とても、とても腹が立って!
なぜこんなに腹が立つのか、笑って見ている家族達には、理由がわかっているのだろうか。
シェラはらせん階段に続く扉の前で、涙を拭うとゲートを開いて行ってしまった。
風の城の応接間で、インファはリティルに代わり皆に仕事を割り振っていた。ネクロマンサーの事案から二週間。風の城は、王夫妻以外は今まで通りの平穏を取り戻していた。
「……」
「どうしたぁ?兄ちゃん」
再生の精霊・ケルゥと破壊の精霊・カルシエーナに、仕事の説明をしていたインファは、ふと虚空を見上げた。
「シェラが城を出たようだな」
ソファーにいたノインが、インファの代わりに答えた。ノインの左隣には妻の、王の守護鳥・フロインがいて、彼の腕に腕を絡ませていた。
その声を受けて、インファがため息を付いた。
「上手くいきませんでしたか」
鬼籍の書庫は、雰囲気が著しく違う。気分を変えれば、少しはまともに話ができるかも?と思ったが、やはり、そういう問題ではなかったようだ。
「シェラ様、どこへ行ったの?」
インファの隣に寄り添うように立ったセリアが、夫の顔を僅かに見上げた。
「お母さんは、ユグラの所。今、レイシが大地の領域にいるよ」
ノインの向かいに座って、閉じていた瞳を開いた、風の姫巫女・インリーが教えてくれた。風の声を聞いてくれたようだ。
「レイシでは、強制連行になってしまうよ。ユグラの所ならば、明日、落ち着いたころに、リティルに行かせればいいのではないかね?」
時の魔道書・ゾナの安定した提案に、インファは頷いた。
「明日の父さんの仕事……ケルゥ、カルシエーナ、代わってくれますか?」
「いいよ。わたし達ができることなら、なんでも協力する。ねえ、お兄ちゃん、ネクロマンサー強いか?わたし達関わっちゃダメか?」
カルシエーナは、どうしてもダメなのか?と首を傾げた。
「少し厄介な相手なんですよ。申し出はありがたいですが、これは父さんの命がなければ、オレ達風三人と無常の風以外には振れません」
「ボクもやっぱりダメですかぁ」
インリーの隣にいた煌帝・インジュが、背もたれに両手を置いて、父親であるインファを見上げながら、控えめに言った。
「関わりたいんですか?」
怠け者のあなたが珍しいと、インファは意地悪に問うた。
「い……はい!ボク、リティルの盾ですから!」
インジュは意気込むように、立ち上がった。
「今、いいえと言いかけなかったか?」
机を挟んで、向かいのソファーに座っていたノインが、苦笑気味に指摘した。
「き、気のせいです!」
「インジュ、おまえは風の中で唯一、死とは真逆の産む力だ。生も死も否定するネクロマンサーに引導を渡すには、葬送の力が弱すぎる。下手をすれば浸食されるかもしれない。故、絶対に関わるな」
「そうなんですぅ?うーん、わかりました?」
生き物じゃないなら、ボクも関われると思ったのに……と、殺さない殺人鬼のインジュは、一応納得したものの、腑に落ちない顔をしていた。
生き物じゃないという言葉を聞いて、ノインが「不死者は一応生き物だ」と指摘した。それを聞いて、インジュはますます腑に落ちない顔をして「生きても死んでもないのにです?」と首を傾げた。
「ネクロマンサーについてくらいは、教えてあげますよ。……最近、よく降りますね」
インファの言葉に、皆の視線が大きな窓の外へ向いた。
皆が雨の降り出した中庭を見ていると、城の奥へ続く扉の開く音がして、リティルが飛んできた。
「インファ、シェラのところ、行ってくるな!」
「お父さん!雨だよ?」
「雨をな、止めに行くんだよ」
リティルは困ったように笑いながら、インリーにそう返すと、玄関ホールへ向かって行ってしまった。
「雨を、ね」
「わかるんかぁ?ゾナさんよぉ」
「推測だがね。やめばいいのだがね」
そう言ってゾナは、暖炉の前の椅子から、少し遠い中庭を見やった。
「そうですね。オレもそろそろ、雷より薄日くらい感じたいですね」
そう言って小さく笑ったインファは、それではと、仕事の説明に戻った。
ユグラは突然の来客を出迎えていた。
「ごめんなさい、ユグラ……」
「シェラ?どうしたの?」
ユグラの顔を見るなり、ポロポロと涙をこぼし始めたシェラに、ユグラは戸惑いながらここでは何だからと、サロンへ通した。
大地の城のサロンは、この城で唯一、森に浸食されていない部屋だった。この部屋は、ユグラがわざわざ作った部屋だ。
というのは、大地の王・エセルトに、無駄に城を燃やされないための処置だった。
石積みの部屋で、外に向いた壁が全面ガラス張りになっている。天井の高さから広さまで、風の城の応接間に酷似していた。それは、部屋、というモノに縁遠かったユグラが、イメージできた唯一の部屋だったからだ。初めてリティルがこの部屋に来たとき、ソックリだなと笑われた。そして、茶会で使うんだろ?と言って、テーブルセットやカーテンなど、家具類を作ってくれた。オレが思う、おまえのイメージだと、リティルが作ってくれたそれらインテリアは、とても可愛らしく、間取りは一緒でも、この部屋を風の城の応接間と間違う者はいないだろう。
「シェラ~?どうしましたの?」
サロンには、水の王・メリシーヌと炎の王・エセルトが来ていて、お茶を楽しんでいた。ユグラに連れられて、泣いているシェラを見て、メリシーヌが空を泳いできた。
「リティルに……神樹へ帰れと言われてしまって……ごめんなさい。わたし、行くわ」
皆の邪魔をしては悪いからと、シェラは踵を返そうとした。彼女の手を遮って扉を閉めたのは、エセルトだった。
「リティル、また無理してるのかい?」
「皆がいるわ。大丈夫よ、エセルト。問題なのは、わたし……笑い方が、わからなくなってしまって……」
リティルは、未だ二王を避けていた。避けられていても、風の城を訪ねられなくても、エセルトとメリシーヌも王だ。噂を集め、リティルのことを調べていた。あまり調べるなと、すぐに勘ずくルディルに釘を刺され、二王はユグラのところに押しかけて、リティルの事を聞いた。ユグラには、あんた達リティルの事怖いくせに?と呆れられたが、彼女は伝えられる範囲でならとリティルの事を教えてくれた。
それからまた、三王は恒例のお茶会をするようになっていた。風の王に恐れがあっても、二王はリティルをやはり、仲間だと思っていた。
「記憶、戻ったのではなかったのですか?」
「メリシーヌ、シェラ、二六十年より以前の記憶はないままよ!」
シェラを慰めながら、テーブルまで来たメリシーヌは、余計なことを言ってしまい、ユグラに睨まれた。
「ユグラ、いいのよ?なくても支障はないわ」
「でも!人間だった頃、リティルと出会った時のことも、子供達が小さかった頃のことも、なくなっちゃったんでしょ?リティルは、レジーナに箝口令敷いちゃうし。ねえ、なんで見ちゃダメなの?」
「きっと、今のわたしと過去のわたしは違うのね。それがわかってしまうから、見せたくないのだわ」
「それで、神樹に帰れって……リティル、それは酷くないかい?」
「違うわ。顔を見ればわたしが喧嘩を売ってしまって、それで……昔のようには笑えないわ。顔を見ると、怒りが湧いてしまって……」
追い出されて当然だと、シェラはさらに泣いてしまった。
この二週間、口論が絶えず、寝室別居中だと聞いて、三王はえー?とどよめいた。メリシーヌとエセルトには、二人が喧嘩している姿を想像できなかった。風の王と親密なユグラは、口論する場面を知ってはいたが、寝室別居するほどとは思ってもみなかった。せっかく日常に戻ったと思って、ホッとしていたのに、まだまだ問題を抱えていたなんて……とユグラは、リティルとシェラの行く末を案じずにはいられなかった。
そういえば、リティルの髪を縛っていた黒いリボンがなくなっていた。あれは、どうしたんだろうかと、ユグラは少し気になった。リティルの金色の髪に、あの黒いリボンは目立っていた。イシュラースに、風の王として帰ってきたときから、身につけていたと思うんだけど……とユグラは思い出していた。
「記憶がないせいかい?どうすれば?」
オロオロと、エセルトは泣くシェラを見つめるばかりだった。
「リティルは、追ってきませんの?」
「追ってきたら、逃げるわ」
「えええ?シェ、シェラ、それはどうなのかな?」
エセルトはダメだよと言ってくれたが、リティルが来ることはないだろう。迎えに来るとしたら、インファだとシェラは思っていた。
「どういう顔で会えばいいのか、わからないの。あの人の顔を見たら、また、口論になってしまうわ!」
嫌なの……好きなのに……と、シェラはポロポロと涙を流した。
これは、今夜はここへシェラを泊めて、風の城には連絡して――とユグラが思った時だった。遠慮なく扉が開かれて、一陣の風が部屋に吹き込んできた。
「いいぜ?鬼ごっこなら負けないぜ?シェラ!」
「リティル……!」
シェラは目を疑った。来てくれるわけがないと、思い込んでいた。思い出せば思い出すほど、彼に対するこの二週間の態度は最悪だと、シェラ自身も自覚していた。もう、どう話せばいいのかわからないほど、二人険悪に、背を向けあっていたのに。
「ほら!逃げねーと捕まえるぜ?」
天井近くにいたリティルが、立ち上がったシェラに向かって、急降下した。囚われる前に、シェラは羽根をはためかせ、鋭い風に舞う花びらのようにフワリと避けた。
ああ、始まったと、アタフタする二王を尻目に、ユグラはテーブルセットにシールドを張った。そして、お茶を飲みながら、風の王夫妻の喧嘩を観戦することにした。
リティルは慣れたモノで、巻き込まないように、シェラをテーブルから遠ざけてくれていた。
リティルは大昔、こうやってシェラとも戯れて遊んでいた。そして、二人で戦い抜くための魔法を作っては、試して遊んでいた。シェラの使う、必中の矢もそうして生まれた魔法だった。そこへ、息子のインファも加わり、風の城の中庭で手合わせしていたなと、ユグラは懐かしく見守っていた。その記憶のないシェラは、たぶん戸惑っているだろうなと思うと、ユグラは切なくなった。
戦いを仕掛けたリティルは、今、どんな気持ちなんだろう?
――シェラは怒ると、もの凄い怖い笑顔で、本気で必中の矢で射貫いてくるんだよなー
と、当たったらただではすまないのに、当時リティルは楽しそうに笑っていた。そして、二人立てなくなるまで戯れて、シェラは一言「反省してくれたかしら?」と息も絶え絶え微笑む。リティルは素直に「ああ、反省したよ」と返していた。そんな喧嘩を、インファが小さかった頃、この夫婦は度々して、嵐を呼ぶ夫婦なんていわれていた。インファが一人前になる頃には落ち着いて、そんな話も聞かなくなった。
もう一度、始めようとしてるのかな?ユグラは、笑みを浮かべて、シェラを煽るように飛ぶリティルを見つめていた。
「こんなところで、やめて!」
シェラは風花の鞭を、手の平に集めた白い光の中から取り出すと、リティルに向かって放っていた。
「ハハハハ!昔からお騒がせ夫婦だ!今更なんだよ!」
地上にいたリティルは襲ってきた鞭を右腕に絡ませて止めると、空中のシェラと引き合った。
「もお、付き合いきれないわ!」
シェラはあっさり鞭を手放すと、ゲートを開く素振りを見せた。
「させるかよ!」
ダンッと床を蹴り、リティルはシェラに向かって一直線に飛んだ。シェラはすぐさま攻撃に転じ、リティルに向かって白い矢を放っていた。ギリギリまで引き付けた矢を、空中で体を捻り避けると、リティルはシェラの背後をとっていた。シェラの羽根が淡く輝き、背後のリティルは白い光の壁に阻まれた。
「シェラ!オレが嫌いになったならそう言えよ!」
光の壁を砕いたリティルが、シェラに手を伸ばす。その手から逃げながら、シェラは光の壁を作り続けた。リティルはその壁を壊し続けた。
「なあ、シェラ!オレと君は違いすぎるだろ!君は生粋のお姫様で、オレは乱暴な風の王だ!惑わされるなよ!花の姫!君の心は、君の物だろ!」
やっぱり!とシェラは思った。この人はなぜか、わたしの心を疑っている!シェラは確信した。そして、沸々と怒りが湧いてきた。
「わたしが……惑わされていると、なぜ思うの?あなたは……なぜそんなに自分に自信がないの!」
シェラの叫びが、無数の神樹の花びらを呼んだ。白い光の粒に襲われ、リティルは思わず目をつぶって腕で顔を庇っていた。
「何か余計なことを考えているでしょう!惑わされているのは、あなたのほうだわ!」
リティルはぶつかってきたぬくもりに、捕らえられていた。
「なぜ、愛されてはいけないと思っているの?わたしの心が偽りだと思うの?シェラのことは信じていたのに!」
それだけのものが、シェラの戻らない二六十年にあるのだと、認めざるを得なかった。それが哀しかった。そんなモノがあるのなら、意地悪しないで教えてほしかった。
受け入れてみせるのに……。
「あなたは……わたしでは、手に入らないの……?記憶の中のあなたの瞳は、わたしを見ていたのに……なのに、あなたは――」
抱きしめていた腕を解こうとしたシェラを、リティルは追わなかった。抱きしめ返してもらえなかったことに、絶望しながらシェラは、リティルから離れ俯いた。彼女の頭には、精巧な装飾の、オオタカの羽根の髪飾りが、今日も変わらず飾られていた。
「……君は今まで、オレの葛藤を見ないようにしてただけだ。昔シェラに、気がついてるだろ?って聞いたことがあるんだ。そしたら君は、知ってるけど、あなたを好きな気持ちが止まらないから、見て見ぬふりをするってそう言ってた」
勝てないと思った。シェラはたぶん、笑っていただろう。けれども、わたしは笑えないと、シェラはリティルに背を向けた。
「シェラ、オレは風の王なんだ。風の王がどんな精霊なのか、君はよく知ってるだろ?だから、オレには引き留められねーんだよ!死んでいく心に、追いすがれねーんだよ!君のことも、見送らなくちゃならねーんだよ!ただ、終わるなって祈るだけなんだ」
「嘘つき……」
リティルは、追ってきてくれた。引き留められないと言って、引き留めてくれた。見送らなくちゃならないと言いながら、終わるなと言ってくれた。
「あなたは、嘘つきよ!リティル、魔法の言葉を唱えて。お願い!」
振り向いたシェラの瞳から、透明な雫が止めどなく流れていた。
魔法の言葉?リティルは、明るく笑った。そしてリティルは、唱えた。
「オレは君が好きだよ」
シェラは頷くと、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、リティル……愛しているわ」
胸に飛び込んできたシェラを、リティルはギュッと抱きしめた。
永遠に桜の舞い散る、ボンヤリと明るい園に、リティルは一人降り立った。
「リティル」
レジーナは、微睡んだ瞳で、フワリと舞い降りてきた。そして、控えめにリティルの顔を見返した。その顔に、警戒するなよと、リティルは苦笑した。
「レジーナ、君に頼みがあるんだ」
リティルの哀しげな微笑みに、その頼みが、あまりいいことではないことは、レジーナにもわかった。
「オレが死んだら、オレに関するすべての記憶を、この世界から消してくれ」
「二度目の、死?」
リティルは頷いた。
死には二つある。
一つは、肉体から魂が離れる、別れの死。
もう一つは、死者を覚えている者がすべていなくなり、誰も思い出すことのなくなった時訪れる、完全なる死だ。
「オレが死ぬと、道連れになる奴らがいるんだ。オレは、輪廻の輪を見守る風の王として、それを許すわけにはいかねーんだよ」
風の王妃・シェラ、風の副官・インファ、風の補佐官・ノイン、空の翼・レイシ……彼等は確実に命を絶つ。風の精霊が自分で死を選べないとしても、頭のいい彼等は、どうにかして死んでしまう。そして、彼等の死を切っ掛けに、さらに連鎖的に死が広がるだろう。
リティルの霊力をわけ、完全なる精霊となった無常の風とは違う。無常の風とは違う死を、彼等は選んでしまう。躊躇いなく、確実に。それを、先に逝くリティルは止められない。
そして、風の城は崩壊する。リティル達風三人が築き上げた、盤石な魂葬送システムが機能停止し、世界は歴代最大の危機に瀕する。魂が始まりの地に帰らなければ、新たな魂は産まれない。命が産まれなければ、グロウタースは命を繋げない。
リティルの死は、世界を道連れにしてしまう危険を、すでに孕んでいた。多くの精霊と関わりを持ったばかりに。
リティルは、ネクロマンサーの印に己の死の姿を見てしまった。死したときのことを、次の王へと、あまり痛手なく受け渡す方法を、作っておかなければならない。その必要性を、感じてしまった。記憶の消去は、一時しのぎにしかならないが、それでも、新たな王が立つまで保てば、世界が被る痛手が少なく済むだろう。
「一緒に、逝くこと。望まれても?」
リティルは頷いた。
「心配するなよ!オレは永遠に風の王だ。絶対に、死なねーからな」
そう言ってリティルは、明るく笑った。絶対に死なないのに、こんなお願いするの?と、レジーナは首を傾げたが、リティルの願いを聞き入れた。ある、条件をつけて。
「リティル、レジーナの、お願い、聞いて。リティルの、お願い、聞く」
レジーナは、そっと両手をリティルに差し出した。その手の平に大事そうに乗っていたのは、優しいミルク色をしたあめ玉だった。
「シェラに、あげて。必ず、食べさせて。大丈夫。シェラに、悪い、影響、ない」
これは、記憶なのだろうなと思ったが、何の記憶なのか、リティルは聞かなかった。何となく、レジーナは教えてくれないような気がしたからだ。
「わかった。帰ったらわたすよ。レジーナ、ありがとな。またな!」
レジーナは手の平に乗せた桜の花びらを、フウッと吹いて風の城へ扉を開いた。その扉へ、リティルはレジーナに手を振って、飛び込んで行ってしまった。
「またね、リティル」
レジーナは微睡んだ瞳に、薄らと笑みを浮かべて呟いた。
リティルは先に、ベッドに横になって、髪を梳かしているシェラを見つめていた。
「どうしたの?」
あまり見られていると、恥ずかしいとシェラは笑って振り向いた。
「シェラ、あーん」
ベッドの腰掛けたシェラに、リティルは腹ばいに寝そべったまま上半身を起こして、あめ玉を差し出した。
「何?」
「あめ玉。やるよ」
頬杖をついて笑うリティルに、シェラは警戒なく笑うと、夫の指からあめ玉を頬張った。
「目が覚めたら、話そうな」
あめ玉は、口に入れてすぐ、溶けてなくなった。シェラは、どういう意味?と問う間もなく、眠りに落ちていた。
リティルは眠りに落ちたシェラを抱き寄せて、布団に入れると、彼女の寝顔を見つめていた。彼女の穏やかな寝顔に、記憶が次々に蘇った。
出会った頃、不安げで頼りなくて、でも立ち向かおうとして健気で、リティルが好きだと何度もぶつかってきて、とっくに両思いなのに気がつかなくて、力も策もないのに助けようとしたり……。
永遠の時間を、オレと一緒に生きてくれと頼んだら、あなたの傍らで、あなたのすべてを守ると言ってくれた。そうやって、オレ達夫婦は始まったよな?と、リティルはシェラの頬に手を伸ばした。
インファが産まれて、インリーが産まれて、レイシを養子にして――ケルゥとカルシエーナ、ノインが一緒にいてくれるようになって。
君を一度失って、大暴走して、ハルとルディル――太陽夫妻に助けられて。
インファがセリアを捕まえて、夫婦になったな。
原初の風を継承して、てんやわんやで、フロインとインジュが産まれて。
しつこいフロインにノインが折れて夫婦になって、インジュが大失恋して、ゾナが時の精霊になったりして。
やっと、レイシとインリーが、夫婦になれたと聞いた。
五年、離れなければ、シェラがこんな傷つくこともなかったのだろうか。大地の礎を使わず、青き翼の獅子大陸を見殺しにしていれば、一番大事な人を、守れたのだろうか。いいや、きっとできなかった。あの滅び行く大陸を、見殺しにはできなかった。
この未来を知っていても、きっと――!
「シェラ……!」
彼女はここにいるのに、恋しく思う。君は君で、それなのに、今まで一緒に、手を繋いできた記憶を愛しく思う。思ってしまう。
戻して!オレとの時間を!忘れられたくない……
オレのことを、忘れないでほしい。どんなに辛くても
だけど、オレはみんなに生きてほしい
オレを覚えているから、皆が命を終わらせるなら、忘れ――られたい……
矛盾する想いが、リティルを苦しめていた。
「――泣かないで、リティル」
リティルは驚いて、シェラに触れていた手を引っ込めた。フッとゆっくり、シェラが瞳を開いた。そして、彼女は優しく微笑んで、そして言った。
「何から話せばいいかしら?あなたがしてくれた、プロポーズの言葉?それとも、あなたを怒らせた言葉?」
シェラは体を起こして、嬉しそうに笑っていた。そんなシェラを、信じられない瞳で見つめながら、リティルも体を起こした。すでに解かれていたリティルの髪が、サラリと顔を縁取った。
「インファが産まれた時は、なかなか出てこなくて大変だったわ。あんなにオロオロしたあなたは、初めて見たわね」
シェラは、クスクスとおかしそうに笑った。
「シェラ、記憶――」
よかったと言いかけて、リティルは言葉を飲み込んだ。そんなことを言ってしまっては、記憶を失ったシェラを、過去と戦ってくれた彼女を、否定してしまうような気がしたのだ。
「リティル、わたしはわたしよ?あなたが覚えていてくれたから、思い出せたわ。手を放さないでいてくれて、ありがとう」
「シェラ……!オレは――」
シェラは距離を詰めると、涙するリティルを抱きしめた。
あの日、クエイサラーでリティルのプロポーズに返事をした時、シェラは、永遠にこの人を守ろうと誓った。そしてリティルは、絶対に帰ってきてくれる。彼が誓った、一緒に永遠を生きてほしいという言葉を、違えない為に。
約束を守って、帰ってきてくれるリティルの姿が嬉しくて、シェラは「おかえりなさい」と微笑む。
「ただいま」と言ってくれるリティルの姿が、嬉しくて、シェラは自然と笑ってしまう。
「思い出さなくていいと言ってくれて、ありがとう。でも、わたしは思い出したかったのよ?あなたと歩いた今までを、取り戻したかったわ!ありがとうリティル。わたし達の今までを、覚えていてくれて……」
言葉を紡げずに、ただ名を呼んでくれるリティルを、愛しく思う。忘れられたことが寂しかったのに、それを言わずに心を押し殺して……どうして思い出さないんだ!とぶつけてくれてもよかったのにと、シェラはリティルの頭を撫でた。
レジーナのくれた白い飴は、リティルの記憶から、シェラの記憶を再構築するために、レジーナが作った、彼女の霊力の塊だった。リティルの強く想った思い出が、シェラの中に再構築される。再構築された記憶から、枝分かれするように繋がった記憶が、蘇っていく固有魔法・記憶の連鎖。シェラの記憶を消してしまったレジーナは、負担なくシェラに記憶を戻すため、この固有魔法を編み出したのだった。
レジーナはそれを告げなかった。固有魔法のルールで告げられなかった。けれども、レジーナはシェラの記憶が戻るように、一縷の望みをかけ飴をくれたのだった。
泣き止んだリティルと向かい合ったシェラは、自分の髪に咲く光の花を一輪摘むと、そっと両手で包んで開いた。両手の平の上には、リティルがなくしてしまった、あの、青い光を返す、黒いリボンがあった。
「リティル、このリボンをもう一度、もらってくれますか?」
シェラは窺うように、両手の平の上のリボンを差し出した。もう、戻らないと思っていた。リティルは、その、大事なリボンに手を伸ばした。
「さっきまでのわたしも、このリボンを作るつもりだったの。あなたが、とても大切にしてくれていたから。けれども、どうして?このリボンは、誰にも婚姻の証だとは見られないくらい、弱々しくて、目立たないのに」
そう言いながらも、シェラは再びこのリボンを作ってくれた。悩んだけれども……とシェラはリティルを窺った。リティルは、これじゃないとダメなんだと言いながら、リボンを受け取った。そして、戻ってきた!と、嬉しそうに笑うとこう言った。
「うーん、内緒だ」
このリボンは、まだ双子の風鳥島にいた時に、シェラが贈ってくれたものだが『彼』とは関係がない。けれどもリティルは、このリボンで髪を縛ると身が引き締まる。
リティルは、双子の風鳥を去る前、シェラの父であるクエイサラー王・リアに、結婚の許しをもらいに行っていた。
あんなに緊張したのは、後にも先にも、クエイサラー王に誓ったあの時だけだ。あれを超える緊張に、リティルは今まで出会っていない。
このリボンで髪を縛るとき、あの時、クエイサラー王に誓った言葉を思い出す。
――リア王、あなたの娘をオレにください。必ず幸せにすると、約束します
あの時、リア王は「娘をよろしくお願いします」と言ってくれた。シェラも、こんなオレを選んで共に来てくれた。
だから、あの日の誓いを忘れてはいけない。
リティルは、戻ってきた黒いリボンに視線を落とした。このリボンは、その誓いを思い出させてくれる、大事な物なのだった。
玄関ホールへ続く扉が開いた。
「おかえりなさい、父さん」
ソファーに座っていたインファが顔を上げ、帰ってきたリティルに声をかけた。その声に続いて、応接間にいた皆が、おかえりと声をかけた。
「ただいま!……シェラは?いねーのかよ?」
明るく笑って、ただいまと返したリティルは、最愛の者を捜して、キョロキョロソワソワした。そんな風の王の様子に、皆が和んで笑った。
「シェラなら、無常さんのところです。リティル、どうしてボクはあんまり行っちゃダメで、シェラはいいんです?」
シェラはボクと同じ、産む力ですよね?とインジュは口を尖らせた。
「無常さんって……おまえ、いつの間にそんな仲良くなったんだよ?」
「たまに、中庭でお茶してるんです。あの、模様の綺麗なお菓子、美味しいんですぅ」
今度作り方を教えてもらうんです!と、インジュはほんわか微笑んだ。
「あれは、月餅と言うんですよ。インジュ、あなたも食べてばかりいないで、手合わせに付き合いなさい」
無常の風は、たまに出てきて皆と交流を持っている。葬送の力が強すぎる為、風の精霊でない者も集うこの応接間に、長居はできないと言って、遠慮していた。彼等とは真逆の力を持つ、シェラ、インジュ、フロインがいれば、均衡が保たれるのだから、気にすることはないのにと、リティルは思っていたが、鬼籍の管理は休みがない。真面目な彼等は、その理由もあるのだろうなと、リティルは強制しなかった。
リティルは、気配を感じて家具のない方へ視線を向けた。空間が歪み、ゲートが開かれ、無常の風が現れた。
「リティル殿、おかえりなさいませ。帰りが二日遅いので、案じておりました」
だから一人で行くなと言ったのにと、ヤンワリと咎められ、リティルは苦笑いを浮かべて、もうちょっとかかるって、インファには連絡したと、言い訳した。
「まあまあ、シャビ!過保護がすぎるわい。雷帝殿がしっかりしておるのじゃ。大事ない。リティル、無事で何よりじゃ!今度は、ワシを連れて行けい」
この剣に物言わせてやるぞ?とファウジは刃をチラつかせた。
「はあ?ダメに決まってるだろ!おまえが一番、過保護じゃねーか!」
三人のやり取りを見て、城の皆は癒やされたように笑っていた。
シャビは以前よりも笑うようになった。幸薄い顔はそのままだが、控えめに優しい笑みを浮かべていた。ファウジは、漲る暑苦しさを振りまきながら、大声で笑っていた。
「インジュ殿、月餅を所望と聞き、持って参りました」
「はわー!シャビさーん、大好きです!」
ホンワカした表情とは裏腹に、俊敏に飛んできたインジュを無常の風は避けた。
「ただし、我らを捕まえられたら、お渡ししましょう」
上へ逃れたシャビが、ニヤリと微笑むと中庭へ続く出入り口へ向かって飛んだ。
「お父さんの差し金です?いいですよぉ?好きな物の為ならボク、頑張っちゃいます!」
ファウジの妨害に遭いながら、インジュはシャビを追って、中庭へ飛び出していった。無常の風と煌帝・インジュの演武を観戦してやろうと、皆は窓際へ寄っていった。
ただ一人、リティルを除いて。
リティルは、無常の風の後ろにいたシェラに近づいた。飛び去った三人を微笑んで見つめていたシェラは、近づいてきたリティルに気がついた。
シェラは花がほころぶように、嬉しそうに微笑んだ。
「おかえりなさい、リティル」
魔法の言葉だ。
許されない、この血で穢れた魂が、彼女の言葉で許される。ここへ、帰ってきていいのだと、死に掴まれて凍える体に体温が戻る。
シェラがいないと、生きられない。唐突にそんなことを思っていると、シェラが距離を詰めて抱きしめてきた。嬉しそうに。
リティルは、シェラを受け入れて、強く抱きしめ返した。
「ただいま……シェラ」
命のある今を噛み締めて、帰ってきてと願い続けてくれるシェラの耳元で、リティルはそっと囁いた。
言いたいことはいっぱいあるのよ?けれども、あなたに「ただいま」と言われると、どうでもよくなってしまうの。あなたが、帰ってきてくれることが嬉しくて、自然と、笑ってしまうの。何も与えられないなんて、言わないで。もらっているわ?あなたは、ここに帰ってきてくれるでしょう?わたしは、あなたという存在を、日々もらっているのよ?
シェラは顔を上げた。
僅かに見上げてくる、金色の生き生きとした瞳と視線が交わった。二人は笑うと、そっと口づけした。
これにて、終幕です。
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