公爵令嬢は指輪を以て天使を悪魔とす
学園の卒業パーティで、私は王太子殿下との婚約を正式発表することになっていた。既に内々に話は進んでいたし、周囲には公然の秘密となっていたわけだけれど。
「お前との婚約は、なかったものとする」
いざ発表、という段になって殿下の口から出てきたのはそんな言葉だった。そうして、その隣に寄り添うは私ではなく、以前から殿下との距離をじわじわと詰めてきていた男爵令嬢。
公爵の娘である私と違って、本来ならばお側によることすら許されないはずなのに。どうしてあなたはそこで、私を見下ろしてせせら笑っているのかしら?
「ごめんなさいね? わたくし、あなたのお家の秘密を殿下にお伝えしちゃいましたの」
「お前の家は、公爵家でありながら我が王家に謀反の意を抱いているそうだな? そのような家の者を、俺の隣に置くわけにはいかん」
……何のこと?
父上や母上や兄上が謀反だなんて、そんなこと聞いたこともないわ。きっと、考えたこともないはずなのに。
それなのに私の周りには衛兵たちが、私に刃と敵意を向けている。ここで泣き崩れても、殿下の隣でいやらしい笑みを浮かべているあの女を喜ばせるだけね。
「……まったく心当たりがございませんわ。ですが、愚かに抵抗しても無駄でしょうね」
「ふむ、その態度は立派だな」
「あら嫌だ、開き直っておられるだけじゃありませんか」
いずれにしろ、『公爵の娘』から『謀反者の娘』に扱いが変わった私は貴族の子女が集まるこの学園にいるにはふさわしくない。衛兵に連れられて、この場を連れ出された。腕を取られそうになったときだけは、「お離しなさい。抵抗はしませんわ」と振り払ったけれどそれだけね。
そうして私は、犯罪者護送用の馬車で自宅まで連れ戻された。公爵家ということもあって王都のすぐ近くに屋敷はあるのだけれど、既にその周りは衛兵部隊に包囲されている。そうしてどうやら、裏口から使用人たちが連れ出されているみたい。
「公爵」
私を連行してきた衛兵部隊の隊長が、屋敷の応接間で書面を広げた。両親と兄上が揃った場所で突き出されたそれには我が一族の『罪』と、そして国王陛下のサインがある。
「そなたら一族の謀反の意は既に明白である! 故にここに王の名のもとに爵位を剥奪し、一族の者は捕囚として邸内に幽閉。使用人は別の場所において取り調べを行う」
「間違いなく、陛下のサインですな。分かりました」
私と同じく、父上も無駄な抵抗はしない。それが愚かで意味のない行為であることは、もう分かりきっているものね。
母上は顔を抑えて嘆いているけれど、既に諦めの境地に入っているみたい。兄上は……拳をぎりぎりと握りしめ、歯噛みしている。悔しいのは分かるわ。私だって、学園の皆の前で恥をかかされたのだもの。
私たちはそのまま、応接間にいることを強要された。出入り口には衛兵が立ち、目の前には隊長がどっかりと座り込んでこちらを見つめ続けている。トイレを使うにも、彼らの許可が必要となるなんて……それこそ、恥だわね。
ソファに並んで座っていると、父上がギリギリ聞き取れる程度の小さな小さな声で、囁いてこられた。
「お前はここから逃げなさい」
「え」
私に、逃げろと? 衛兵が、部隊が取り囲んでいるこの屋敷から、ということ?
どうやって? どこへ?
「我が一族を貶めた者のことは分かっている。このまま証言も何もできぬまま、処刑台に送られるだけだ」
「僕も殺されるだろうね。跡継ぎの男だから」
父上も、そして兄上も既に自分たちの生命はあきらめているみたい。でも、私が逃げられたところで、どうなるものでもないわ。
……副隊長は、こちらを見ているのに反応しようとしない。どうしてかしら。
「これを持って、お逃げなさい。いざとなったときにのみ、指にはめるのよ」
「母上?」
母上が、私の手に小さなものを握らせた。これは、いつも母上がはめておられた先祖伝来の指輪。
この家の血を色濃く引く女にしか、その本来の力を使うことはできないという伝説のある指輪。だから、外の家から嫁いで来られた母上にはその力は使えなかった……といつか、おっしゃっていたわね。
「父上、母上」
「お前が生き延びてくれればきっといつか、僕たちの汚名は晴れる。もう皆、生きてはいないだろうけどね」
指輪を握りしめた手を、兄上がそっと包み込んでくださった。よくわからないけれど、私はこれを持ってここから逃げなければならないのね。
それが、この家の娘として私ができる、最後のこと。
「……分かりました、わ」
「お話は、終わりましたかな」
ここまでずっと無言だった隊長が、満足げな表情で立ち上がられる。……あの男爵令嬢とどこか似ている、と思ったのは私の気のせいかしら。
すぐに扉が開いて、衛兵が数名入ってきた。
「我らの目的は公爵家に伝わるその指輪と、使い手たるべきご令嬢です。双方を同時に、傷つけずに確保せよというご命令でね」
「そんなことだと思っていたよ。君の家は、ただの伝説にとてもとてもご執心だったからね」
隊長と、父上がにらみ合う。……この茶番劇は、私とこの指輪を手に入れるための、誰かが仕組んだお芝居ということ?
「だからわざわざ、君の前でこの話をしたんだよ。指輪のことを知らないなら、会話を始めたところで止めるだろう?」
「そうでございますな。では、指輪とご令嬢をお譲りいただきましょうか」
「断る」
うっすらと笑みを浮かべて、父上が思い切り床を踏みつけた。その途端、ぼふっと白い粉のような煙が応接間に充満する。来客に不審者や、我が一族に敵意を持つ者がいた場合の緊急対策。もっとも、目隠しにしかならないけれど。
ただ、煙が吹き出した瞬間私の身体は反射的に動いて、暖炉の中に飛び込んだ。隠し扉があって、屋敷の外に抜け出せる通路が存在しているから。もちろん狭いものだし、こんなもの今まで使うこともなかったから使えるかどうかもわからないのだけれどね。
「元気でな」
それでも後ろを見ずに走り出した私の背後で、がらがらと音がした。通路の入口である暖炉は、父上によれば簡単に崩せるポイントがあるらしい。それを使って、追っ手を妨げるためだとか。
……私は、まっすぐに通路の先を目指すしかなかった。
どうにか屋敷近くの森に出ることができた私は、あてどもなく彷徨うことになった。
この国にはもういられないから、何とかして国境を超えなければならないのだけれど……国の中心である王都のすぐそばにある我が屋敷からでは、一番近くても数日は歩かなくてはならないのよね。普段歩き慣れていない私だから、時間がかかるのは当たり前よ。
だから、途中で部隊の一つに追いつかれるのは当然のことだったわ。
「見つけたぞ!」
「生かして捕らえよ。無傷ならば更に報酬金が上がるぞ!」
どうやら私には、捕らえたときにどこかから報酬が出るらしいわね。あの衛兵隊長の仕業かしら、それとももっと他のところから?
どうでもいいわ。どうやら、母上のおっしゃったことを思い出さなければいけなくなったようだもの。
『いざとなったときにのみ、指にはめるのよ』
いざとなったとき。私の周りには十数人の衛兵がいて、槍や剣をこちらに向けている。近くに馬もいるみたいだから、私をそれに積んで王都に戻るつもりでしょうね。
今が、その時よね。
ずっと握りしめたままで、忘れていたわ。指輪というものは、指にはめるもの。
せめて、誰にも取られないように。腕ごと取っていくならまあ、あきらめるしかないけれど……と思いながら、金色の細い指輪を左手の、薬指に滑らせる。
少しサイズが大きいかしら、と思っていたらそれはしゅるりと縮まって、私の指にちょうどよいサイズに収まる。こんな魔法、誰がこしらえたのかしら。と思ったら急に、指輪が光を放った。一瞬だけど、とても眩しい光。
「くぁーあ」
不意に、気の抜けた大きなあくびが聞こえた。衛兵たちがざわりとざわめいて、武器を構え直す。
そうして私の前に、今までいなかった人物が現れていた。あぐらというのかしら、はしたない座り方で地面に座り込んだ、全体が白い女性。
「は」
「ん、なにお前さん」
くるりと私を見た瞳は深い湖の色で、薄い唇から流れ出る声はまるで鈴のよう。長い長い髪は真っ白で、纏うシンプルなドレスも真っ白で。その姿で地面に座っていては、汚れるのではないかしら?
「……そっか。お前さんが俺様の主かあ」
そんな私の気持ちと、あっけにとられている衛兵たちのことをまるで意に介さず女性はひょいと立ち上がり、私の顔を見てそんなことを口にした。……座り方だけでなく、言葉もはしたないけれど、なんだか指摘する気にはなれないわ。
「あるじ?」
「そ。この指輪が伝わってる家の娘だろ?」
「は、はい」
私の手にはまった指輪を示して、彼女はそう言う。確かにそのとおりなので、私は頷いた。
……指輪に秘められた力。もしかして、この彼女のことを示しているのね。そうして、衛兵たちを動かしている者が欲しているのも、きっと彼女。
「……事情知らねえみたいだが、説明は後な」
「あ、悪魔!」
「お?」
衛兵の一人がそんな言葉を放ってきたので、彼女はそちらを振り返る。ふわりとなびいた白い髪が、一瞬鳥の翼のように見えたわ。
「そっか、今も昔も呼び方は変わんねーんだな」
……いえ、事実。髪はなびいたまま浮かび、翼の形を作る。そうしてばさ、とひとつ羽ばたいた。
「敵は悪魔って呼ぶし、味方は天使っつーな。ま、どっちでもいいんだけどよ」
敵が悪魔と呼び、味方が天使と呼ぶ存在。ならば彼女は、私にとっては天使なのだろう。
その彼女は私に向き直り、鋭い瞳で私を見つめた。
「主。あんたには選ぶ権利がある」
「何を選ぶの?」
「あんたの敵を殺さずに排除するか、殺して排除するかだ」
天使とやらが私に突きつけたのは、その二択だった。
私の敵とはつまり、今目の前にいる衛兵たちのことね。
「殺さずにおくのならば、あんたの良心はさほど痛まないね。ただし、あとで敵が再び向かってくるだろう」
「もう一つの選択肢を選べば?」
「殺せば、敵の数は減る。ただ、あんたの心が痛むかもしれないね。それと、こいつらの身内がつっかかってくるかもなあ」
ばさ、ばさと髪の翼を羽ばたかせながら、彼女はいたずらっ子のように笑う。ああ、私がどちらを選んでも彼女は、私の思うようにこの場を収めてくれるのね。いいえ、この場だけではなく、これからずっと。
私が、この指輪をはめている限り。
「さて、どうする?」
その時の選択を、私は今でも悔やんでいない。
「主」
「なあに?」
「思い出し笑いか? 気色悪いぞ」
「あら、失礼ね」
私の肩に座るような形で宙に浮いている彼女が、こちらの顔を覗き込んでくる。ええ、だって楽しかったんだもの。あのときの、衛兵たちの絶望的な表情が。
「間もなく、男爵の小娘……じゃねえな、一応王妃サマか。やつを引きずり出せるぜ」
「まあ。楽しみね」
爵位を剥奪され、財産どころか調度品や衣服までも全て奪われてぼろぼろになった我が屋敷。懐かしい私の部屋にぽつんと残っていた椅子に腰掛けて私は、窓の外に広がる光景に目をやる。
領地は王の直轄領に組み込まれ、重税を掛けられたために住民が逃げ出して荒れ野と化した。その荒れ野の中、私の天使が大暴れした結果がそこにはある。
ひとのからだだったもの。私に向かってきたために、全てを過去にされてしまったものたち。
全て、私の天使がやったこと。私が命じてやったことよ。
彼ら、彼女らが欲したのは、私の天使のこの力だったのよ。
この力をもって王国、いえその外にある国をも支配して世界の王になろうとした、らしいのね。
そんなことをしてその後、どうするのかしらね? 支配領域が広がるほど、色々面倒事が起こるのに。
「全部、俺様の力で押さえつけりゃいい、とでも思ったんじゃね?」
「くだらないわね」
けらけらと明るく笑う私の天使。確かに、彼女の力ならできるだろうけれど、そんなことで国が治められるなら王は苦労しないわ。
だからこの国は、もうすぐなくなってしまう。かつて王太子だった今の王と、男爵令嬢だった今の王妃が国庫を空っぽにして、諌める家臣を滅ぼしたから。
これは私のせいでも、私の天使のせいでもないわ。ただ、かれらが愚かだっただけ。
冤罪を雪ぐ、どころの話ではなかったわね。国が消えてしまう。まあ、どうでもいいけれど。
「さあ、国にとどめを刺しましょうか」
「仰せのままに。我が主」
我が屋敷と同じくらいぼろぼろになっているらしいお城に向かうために、私は椅子から立ち上がった。