初めての絵
春も始まったばかりの頃。
眠い目を擦り仕事へ行く途中、不意に視線を上げると、淡い青さの空が広がっている。
――その空は、子供の頃のあの日の空によく似ていた。
誰もいない日。
誰にも邪魔されない、一人だけの時間。
自分の部屋の机に向かい、窓の外を眺める。
初春の空は淡く、雲の白さが混ざり込んでいるようだった。
机の上を片付け、画用紙とパレットに筆、そして絵の具セットだけ置く。
筆洗いは、万が一倒してはと思い、床に置いた。
徐に、セットの箱から青い絵の具を取り出し、厚めの白い紙に向かう。
白い紙は表面に細かい凹凸があり、色を吸い込む様を想像させた。
蓋を回し開けると、絵の具は得も言われぬ不思議な匂いを漂わせ、チューブの先から勝手に盛り上がっていく。
――初めて買ってもらった、4色入りの絵の具。
赤、青、黄色、白、しかない。
「もっと多いほうがいいんじゃないの?」
母は顔を覗き込んで不安そうに首を傾けるが、何故か4色入りの絵の具セットに心惹かれ、それ以外は考えられなかった。
沢山の色が入っている絵の具セットを好む者が多いが、初めての授業、先生から、色の基本は3色で出来ている。その話を聞いてから、この世界の色を、4色で作りたくなった。それが出来なければ、色を使う意味がない気すらしていた。
ゆっくりとチューブを絞り、プラスチックで出来たパレットに絞り出す。
光を受け輝く青は、思っていたよりも明るく、そして淡い色に感じた。
少し多めに出てしまった絵の具を、水を含めた筆でそっと触れる。
初めての感触に、胸の鼓動が早まり手先が震えだす。
水と混ざった絵の具は、むせ返るような、独特の匂いをより激しく周囲に広げていく。
青みを帯びた筆先が、そっと、白い紙に近付いていく。
小刻みだった筆の震えが、大きく、そして激しく揺れ動いた。
反対の手で持ち手を抑え、ゆっくりと、そして確実に、目標の位置へ移動させる。
じゅわっ。
音がした気がした。
青い色が薄っすらと白い紙を染めていく。
「……空、みたいだ……」
紙の上の淡い青は、窓の外の空とよく似ていた。
改めて、紙の端を両手で摘み、視線と平行に手を伸ばす。
たった一度、触れるか触れないかの筆。
水を含みすぎた、青い色。
それでも、初めて描いた絵だった。
紙の上の空に、思わず顔が綻んだ。
――何となく、あの日と同じように、顔が緩んでいくのを感じる。
「……さて! いっちょやるか!」
当たり前の出来事を当たり前に熟す虚しい日々――。
あの、青い絵の具が心を塗り替えてくれた気がして、いつもより背筋を伸ばし、早足に会社へと向かった。