世界を敵にまわした男
「例え世界の全てを敵にまわしても君を守る!」
彼はそういった瞬間に道行く人に殴りかかられた。道端の石があればそれを取り投げられた。カッターやナイフを持っていた人はそれで切りかかった。バイクが突っ込んできた。車が向かってきた。
瞬く間にヘリが空を泳ぎ、ジェット機が空を切り裂いた。警察には拳銃を突きつけられて、スナイパーに狙撃された。
地面は陥没し、空は荒れ狂い雷が彼を襲った。滝のように流れ落ちる雨は彼のいる場所以外に降る事はなかった。石や木々が勝手に動き彼を襲った。ガラスが独りでに割れて彼を襲った。隕石が彼目掛けて落ちていった。核が彼に向けて発射された。
どこからか彼が燃えた。凍った。彼の周りだけ空気が無くなった。彼のいた空間がネジ曲がった。重力の負荷さえも無くなった。
文字通り世界が敵になった。
それでも彼は倒れることはなかった。
世界の全てに敵意をむき出しにされようがお構い無しで毎日一輪の花を届けてきた。その姿はいつもボロボロで、焼けていたり、凍っていたり、血だらけであったり、穴があいてあったりしていたが、彼はいつも私の前では笑顔であった。
彼は私に会うと必ずこう言うのだ。「愛しています」と。ボロボロの花束から一輪の綺麗な花を取り出して渡してくるのだ。
私はいつも可笑しそうに笑って「ありがとう」と言葉を返した。それだけで彼の顔は溢れんばかりの笑顔になる、私はその笑顔を見るだけで心が軽くなった。
世界が敵にまわっても私は敵にはならなかった。
彼は今日も私に会いに来る。今日はどんな姿で会いに来てくれるのだろう、刺激の無い日々の中で唯一楽しみにしていた事だった。
彼は今日も会いに来てくれた。彼はボロボロの姿でお決まりの言葉を言う、そして彼と少しの時間だけ談笑するのだ。彼はその日起きた事を面白おかしく語ってくれた、千切れそうな腕を大きく広げて表現をしてくれた。私と彼が話している間は彼が危険な目に合うことは無かった。
彼は去り際に「また明日来ます」と言ってくれる。私はそれがとても嬉しく感じていた。
私は彼のことが好きだ。
彼はいつも私を笑わせてくれる。温もりをくれる。必要としてくれる。絶対に曲げない心も好きだ。私を少しでも笑わせようとしてくれる所が大好きだ。浮き沈みが激しく感情が豊かなところが私に元気をくれる。どんなにボロボロになろうとも私に笑いかけてくれる所が愛おしく思う。
彼が来ると安心する。暖かい気持ちになる。自然と笑顔になれる。彼を想うと気持ちが晴れやかになる。彼をもっと近くで感じていたくなる。
いつからか彼のことが好きで好きで堪らなくなった。彼の囁く愛の言葉は私にとって何物にも変えることが出来ない宝物であった。
その日彼が来る事はなかった。
いつものように彼を待っていたが、どれだけ待っていても彼が来る事はなかった。遂に私に愛想を尽かしたのか。他の子を好きになったのか。色々と考えは巡るが、何よりも彼が心配で仕方なかった。
彼のことを思うと胸が痛んだ。もしかしたらどこかで倒れているかも知れないと思うといてもたってもいられなくなった。
生まれて初めて私は外に出た。
彼が言っていたよりも静かな街だった。街ゆく人は誰も私を見ることは無い。それでも彼がいたなら世界は喧騒で溢れていた事だろう。外に出て不安と焦燥が私を襲った。彼は今どこにいるのだろう。五体満足だろうか。まさか、まさか彼はもう。最悪のシュチュエーションが脳裏によぎった。
あるはずないと否定した。焼けていても、凍っていても、どれだけボロボロでも彼は来てくれていたのだ。それでも私はその可能性を心の底から否定することが出来なかった。
私は元いた場所に戻った。
抜け出したことがバレて凄く怒られた。それでも心臓にどれだけの負担を掛けたかなんて私にとってどうでもよかった。そんな事よりも彼のことでいっぱいだった。嫌われたかもしれない。飽きられたのかもしれない。大変な目にあっているかもしれない。辛い目にあっているかもしれない。ちゃんと生きてくれているのだろうか。
会いたい。ただ彼に会いたいのだ。寂しいよ。辛いよ。悲しいよ。彼がいないと私は笑えない。彼がいないと私は寒くて震えてしまう。私の空いた心は貴方じゃないと埋まらないの。だからお願いします、彼がどうか無事でありますように。
彼のいない世界はどこか空虚で物寂しくて。
思い出すのは彼がここに来る前のこと。部屋に有るのは白色に敷かれたベットと誰も座らない丸い椅子。私はそこで目を覚しては味気のない食事を淡々とこなし再び瞼を閉じる。ただただそれが繰り返され、何をするでもなく世界が終わるのをじっと待っていたのだ。
ただただ空虚で無機質な灰色に染まった世界。彼がここに来る以前の状態に戻っただけ、そのはずなのに胸の痛みだけは以前よりも強く感じた。
彼はもうここには来ないのだろう。私は痛む胸を抑えながら彼がくれた花に触れた。この両手に収まらないほどの花でさえも今は色を感じない。視界が滲む。とめどなく流れ落ちるそれを私は止めることなんて出来なかった。
……彼が教えてくれたんだ、喜びも悲しみもそのすべてを。彼は世界が美しいものだといった、私もそれを知りたくなった。彼はいろんな色を教えてくれた、そのどれもが眩しく見えた。温もりを教えてくれた、笑い方を教えてくれた……張り裂けそうなこの胸の痛みを教えてくれた。忘れられるわけがない、そのすべてが私の宝物なんだから。
ふと気がつけば病室のドアが開いていた。そこには両手に花束を抱える彼の姿があった。その姿はいつもよりもボロボロで足を一本失っていた。彼は何日も遅れたことを詫びもせず私を見ていつもと変わらない笑顔を見せる。そして彼は泣いている私に近づくと、いつものように「愛しています」と言った。
あふれる涙は色味を帯び、灰色だった世界は終わりを迎える。私がそれを理解したとき、私は彼の頬に触れていた。私は微笑んで「私も愛しています」と言うと、彼は私を抱きしめた。強く、痛いくらいに強い彼の抱擁はどこか心地よく愛おしい。
彼はいつも私を守ってくれていた。壊れそうな私の心を繋ぎとめてくれていた。分かっているのかな、貴方が来てくれたことで私は救われたことを。私にとって貴方がどれだけの存在だったかを。ねぇ、分かってる?
その日から世界が彼を襲うことはなかった。平穏になった世界で私と彼は外へと歩き出した。もう誰も彼を襲うことはない。
私は彼にそっとキスをした。好意に慣れていない彼の顔が可笑しくて私はクスクスと笑みを浮かべる。つられて彼が笑うと世界が七色に輝いた。
もう胸の痛みは感じない、気づけば私の病気は完治していた。