《シリーズ短編》博士の事実資料ファイル「気狂い科学者」
ブラウン管の中で、金髪でいかにも米国出身といった、スーツの張り詰めた胸を惜しげも無く披露している女のアナウンサーが〝休日の過ごし方〟を特集し、街行く老人男性をインタビューをしていたが、博士にとっては全く無関係のことであり、最早テレビの放送をラジオ代わりに流しているに過ぎない。ましてや性欲盛んな成人男性よろしく、金髪美女の豊満な胸を目当てでテレビにかじりつく事などといった真似もしない。
博士は機械的な仕草で、机の上の乱雑した資料を拾い上げ、研究熱心というような顔つきで紙面を眺めていた。今夢中になっている研究テーマに没頭しているらしい。いつもと変わらぬ週末であったかのように思われたが、違った。
事の発端は、急ぎ足で息を切らせた助手が、博士に手紙を渡したことから始まった。これだけならば、何もおかしなことはないのだが、博士にとって手紙が届くというのは希少な出来事の一つだ。それも、送り主の住所と名前を助手が読み上げると、全く聞き覚えのないものだった。博士は片手に資料、もう片手には助手の持ってきた手紙の封筒を持って首を傾げた。すかさず「やっぱり悪戯ですか。捨てておきましょう」と、助手は言ったが、博士は片手でその発言を制止しながら「まあ、一旦待ちなさい」
と、持っていた資料を机に置いて、指で手紙の表面をなぞったり、上に掲げながら中身を透かして見始めた。
「どうやらこの手紙は悪質な悪戯の類ではなさそうだ」
「どうしてそう言いきれるんですか?」
「よく見てみたまえ。この手紙の素材は、随分高級な紙を使用している。君は悪戯でこんな紙を使用したりはするかね。それに、この宛名の字は手書きでしかも極めて丁寧な字癖から見るに、差し出し主はとても品があり礼儀深い人物と伺える」
博士は薄くクリーム色のした封筒に書かれた〝達筆〟を指で指し示した。 確かに、滑らかでいて癖のない綺麗な字だった。
「でも博士にこんな丁寧な手紙を寄越すなんて、一体どこの風変わりな人物なんでしょうね。きっと、何か目的があるに違いませんよ」
「さてね。わたしの知る限りでは聞き覚えのない名前だが。どうやらこの変わり者は、日本人の男らしい。益々私との繋がりが謎だ」
そう言われ、助手は、さほど注目していなかった手紙の封筒を改めて見直した。確かに、遠目から見ても安物とは思えない素材には違いなかった。それに、博士の言う通り差出人の名前は〝mikami akihito〟と書かれている。
だが、詳細が分かったところで、まだ助手の不審な感情はぬぐい去れない。
「やっぱり、悪戯の類の手紙かもしれませんよ。僕がゴミ箱に捨てておいてあげましょう」
「君という人間は。何でも先入観で発言しては想像力に蓋をつけるも同然の事だ」
「僕はカウチソファでポテチを食べながら、昼ドラを鑑賞するタイプなんでね」
そう唱える助手の言葉に、一、二度頷いてはみた。だが結果的に聞き入れず、博士は躊躇もなく、手紙の開け口の部分を音を立てて破る。「あっ」と、助手が無念と言わんばかりに破れた手紙の口を見つめていた。
手紙の中身には、カミソリの刃でも気味の悪い髪の毛が数本入っているわけでもなく、助手は密かに拍子抜けしたと同時に、当事者でもない癖に、安堵の息を漏らして、次の意識をその手紙の中身に向けた。さて、肝心な手紙の内容である。博士は口に出して読み始めた。
『前略 肌寒い景色から一転彩りを取り戻す季節の折、心身共に健斎の事と存じます。
今日、私が親愛なる博士に手紙を差し上げたのには、他ならぬ理由があります。おこがましい願望とは甚だ理解しておりますが、この度私の研究していた実験の成果を博士に見て頂きたく思い、手紙を送った次第です。つきましては、○月✕日、○○時から夜会を開催するので、ご招待します。場所に関しては封筒の裏をご覧下さい。 貴方を誰よりもお慕いしております』
手紙の内容を一読し終えると、封筒を二本の指で開き裏側を覗いた。そこには記載されていた通りに確かに住所らしきものが記載されている。博士は、封筒ごと手紙を机の引き出しに閉まうと、助手がまたもや口を挟んだ。
「何だか怪しいですよ。博士。もし殺人犯だったらどうするんです」
「なら君が代わりに行くかね」
「遠慮しておきます。僕は、その日はデートがあるんです」
「デートか。若いな。青春と恋心は後に失う大切な記憶だ。だからしっかり研究する事だ」
助手は、眉を寄せて唇を噛み、両目を左右に迷わせてから、ようやく口を開いた。
「博士、どうかご無事で帰ってください」
「ああ、無事に帰るとも。わたしは正体の分からない男と楽しくデートだ。そうだ。もしも私が死んだら脳みそだけ抜き取っとって保存を頼むよ」
博士の冗談に、少しもいい気がしなかった助手の表情に、気にもとめず博士は再び読み残していた資料を手に取った。
*
手紙をもらってから、数週間後。謎の男から指定された日がとうとうやってきた。研究室の扉を開くと鏡の前で、灰色の髪を櫛で後ろに撫で付けている紳士的な男が見えた。新調したスーツの気品が溢れている後ろ姿の男は鼻歌まじりに全身鏡でネクタイを直しており、思わず声をかけるのを戸惑った。その紳士は、背後の存在に気づくや否や振り向いて、アーモンド色の両目を向けた。
「居たのか」
「見違えましたよ、博士。いつもこういう恰好すれば女性に好かれるのに」
「こんな格好をしても常にわたしのデート場所はここだからね。それはそうと褒めてくれてありがとう、助手くん。君は、確か今頃デートだったはずじゃなかったかね?」
「ああ……実は、その、引き留めに来たんです」
助手が見るからに渋らせた顔をしたので、博士は察した。助手の下がった肩をぽんと叩いて励ます。
「わたしを引き留めるくらいなら、バーにでも行って次の女でも引っ掛ければ良かった。その方が、有用な時間だったと思うがね」
「博士、お願いがあります。僕も連れて行って下さい」
助手は、さっきの落胆が嘘だと思えるほど瞳を輝かせて、ダメ元で博士にお願いをした。だが、博士は首を横に振った。
「これはデートじゃない。わたしに君の相手は務まらないさ。君のデートの相手は、ここの研究室の資料達としてくれ。きっと君に素晴らしい知識を脳に与えてくれるだろう」
助手は、無機質で乱雑とした生活感のない部屋を見渡した。床にはたくさんの紙が散らばっている。当然、眉間には皺ができる。
「嫌と言いたげな顔をしているね」
「デートと言うには、少し味気がないですよ。それに、僕は知識よりキスの方がいいな」
「贅沢を言うな。いいか、君に重要な使命を言い渡す。わたしがもしもここに帰ってくることが無かったら、ここの研究データを抹消しろ。そして、わたしの事はどうするか、分かるな」
「はい。分かりました。ですけど、そんな必要あるんですか」
「ほぼ無いと言ってもいい」
「良かった。ネクタイを」
助手は、博士の首元の紺色のネクタイが少し歪んでいるのに気がつくと、器用に整えてやった。
「ありがとう」
博士は微笑み礼を言いながら、鏡の角に掛けておいたハットを手に取り被り、研究室の扉から出ていった。取り残された助手は心配そうに、扉の向こうを見つめて、やがて床に散らばった紙をかき集めて整理し始めた。
*
スーツを着てようやく凌げるような寒さに、白く息を濁らせて通りのタクシーに乗りこんだ。スーツのズボンのポケットから例の封筒を取り出し、運転手にその行き先を告げた。
高いビルが、俗物的なネオンを発して並んでいるのを窓から眺めていると、博士の頭によぎったのは、先週研究の合間に調べていた〝mikami〟という男に関してのデータの事であった。〝mikami〟はフルネームで〝美神 勝美〟と言う名であった。何年か前に博士号をとったらしく、彼はその後、『 プラシーボによる精神と人体的変化』についての発表をした。学会での評価は酷く最悪なものだった。
それ以来彼に関するデータは何一つ見つからない。ネットに載っていた画像は、若い頃の写真で、黒の整ったオールバックに、日本人にしては鼻の高いスマートな顔立ちをしており、自信家な性質が滲み出ていた。生い立ちを追っていくうちに、フランスの血が少し混じっていることが分かった。
そんな事を考えていると、タクシーは狭い路地に入っていった。建物も少なく、余り手入れの施されていない草木が生えているだけの道は、得体の知れない者でも出そうな雰囲気だった。
「着きましたよ」
と、運転手がタクシーを停車させた。
「お釣りは結構」
博士は、運転手に報酬を手渡すと、車内から降りて目の前の建物を見上げた。そこには大きく立派な屋敷ではあるが、使用人もいないのか色褪せ壁にはヒビ割れが入っており、蔦の絡み付いた屋敷で、とてもこの丁寧な手紙を渡した主が住んでいるとは思えなかった。
黒の開き門扉の横の、口を開けている獣の彫刻の中に、インターフォンがあった。博士が指でそれを押すと、誘うように門がゆっくりと開いていく。
気迷いもせずに足を踏み入れると門が閉まった。その音に一瞬振り向いて「どうやら今夜は帰れなそうだ」という直感が過ぎった。
屋敷の前の玄関口で、ノックをする。重たげな扉が開くと、薄暗い中から青白く細身の男が現れた。手紙の当人であった。
「本日は突然のご招待にわざわざ足を運んで下さりありがとうございます」
美神勝美、その男は全身で礼を示すかのように深々とお辞儀した。
「猛烈なラブレターだったからね。無視するわけにはいかない」
博士は冗談を言って、少し笑った。
「博士のファンですから。無礼をお許しを。さて、どうぞ中へお入りになって下さい」
美神は博士を屋敷の中へと招き入れた。博士は、なるべく慎重に美神の後ろをついて行った。
中の部屋は外観通りであった。広さこそあるものの、頭上から突然振り子斧などに狙われそうな、緊張感と殺伐さがあった。中の明かりはというと殆ど窓からさす月の光だった。細長い廊下を歩いていく。
「ファンと言ったが、君はわたしのことを知っているのかね?」
と、博士は美神の背中に訪ねた。
「それは勿論!知ってるとも。この業界で貴方のことを知らない人などおりません」
「わたしは君の事をネットで知ったんだがね、最近は実が乏しくないか?」
博士がそう聞くと、美神は間を開けてから答えた。
「実は、とある実験をしていましてね」
「実験?その実験とは」
「まあ、今はまだ秘密です。ディナーを嗜んで後ほど」
美神がそう質問を流すと、明るい食卓のある部屋へ通された。13人程座れそうなテーブルの上には、既に用意されていた料理の数々と取り分け皿が何人分も並べてあった。暖炉の近くに美神は腰をかけて「お好きな所へどうぞ」と博士に言った。
博士は美神の右手の直ぐ側の席へ腰をかけた。
「まず、食事をする前に、今日はこの素晴らしい会にお越し頂き、感謝します。今夜は、思う存分堪能していって貰いたい」
そう言いながら、博士のグラスに赤のワインを注いだ。次に自分の分も。
「今夜は無礼講です。気遣いは無しですよ」
「そうは言っても、君とは初対面だからね」
「ならば、こちらの事をお話しましょう」
美神は、鶏肉の塊をナイフで削ぎ落とし、博士の皿に盛りつけた。
「是非聞かせてくれ」
「先程の、ある実験についての話ですが。ここだけの内緒話です」
「実に興味深い」
博士は、赤ワインの芳香を鼻に味わってから、一口喉に注いだ。それから一切れ、フォークで鶏肉を口に運ぶ。甘だれと一緒に包み込まれた鶏肉が舌の上で見事な味わいを演出してくれている。美神も、赤ワインで喉を慣らすと話し出した。
「私は以前、プラシーボによる人間への精神、肉体への影響力を熱心に研究しておりました。ところが、その研究の成果は悪評の一手でした。私は激しく落ち込んだのです。しかし、この研究を進めれば、人類はいつか薬を必要とせず豊かに健康を取り戻せるのでは無いかと思っているのです。そこで、世間からは秘密裏に研究を進めているのです。勿論、助手も雇っておりません」
「それは大変そうだ。して、具体的にはどういった研究を進めているのだね?実験などは?」
博士は美神の目を見ながら問う。
「後で、博士にも見せてさしあげます。とても良い具合で進んでいるのですよ」
美神の不敵な笑みに、博士は不信を抱いたが、表には出さなかった。
「その為に、今日わたしを呼んだのかね?」
「いや、食後の囁かな催しですよ」
「なら今見せてくれないか?」
と、博士は切り出した。美神は、当然断るだろうと思っていたが、相反する反応を示した。
「構いませんよ」
美神は立ち上がると、博士に「こちらです」と手で案内をし始めた。博士はそれを合図に、ナプキンで唇を拭いてから椅子を立った。
*
地下に続く階段を降りていくのに、美神の持つ蝋燭の灯りだけが頼りであった。下に下っていくにつれ冷ややかな空気が迎え入れる。
階段を全て降りると、固く閉ざされている扉があった。美神はポケットから、鍵を取り出し扉を開いた。
「どうぞ」
中へ足を踏み入れると、そこには中世の拷問器具などが多数置いてあった。
「ああ安心して下さい。これらは単なる、私の趣味でしてね。実験に使うものではありません。ですが、これらもプラシーボの効果を助長する大切な薬味となるのです」
すると、静かに苦痛を伴う呻き声が奥の方から耳に聞こえてきた。それは殆どさえずりに近かった。博士は、奥の方へと足を向けた。
目の前には、台の上に寝ている一人の裸体の男がいた。目を見開いて、歯をむきだしにし、その歯の隙間から音を発している。見るからに苦しそうなのに、男はその場から動こうとしない。磔にされているわけでもなかった。
博士が、近づいてみると、美神の声が後ろから聞こえた。
「それが、プラシーボの効果です」
博士は振り向いた。そして、眉間に皺を寄せながら言った。
「これが、君の実験か」
「そうです。この男は、一年以上もこうしております。この男の前の男は実験最中に逃げましたが、今回はご覧の通り、成功です」
博士は、苦しげな男に更に近づいてみた。そして、瞳孔をのぞき込むと、はっとした。
「彼は、目が見えていない」
「それに、口も聞けない」
「動けないのも、もしやプラシーボによるものか」
美神は頷いた。
「彼が私の元へ来た時は、まだ健康体でした。逃げようとするものだから、最初は必要な処置も施したが、人体に影響するものを与えておりません。私はまず始めにこの男の視界を塞いでやろうと思いました。彼を眠らせる前に、失明させると脅し、彼が眠った後、彼の周りを黒い布で覆うのです。そうすると、彼は自分が失明したのだと騒ぎ立てました。彼はそれから、自分が失明していると今でも信じきっているのです」
「耳もか」
「当然。振りですが、彼の耳はチーズ削り機で擦って失ったのだと思わせております。その際に、多少痛みを与えましたが、本来彼の耳は無傷です」
「声も、体もか」
博士は唖然とした。こんなマッドサイエンティストが、身を隠していたなんて。
「何事も、発展にはほんのした犠牲が付き物です」
「イカれているな」
「博士なら分かって下さいますでしょう?」
「それは自分の尻に敷いた皿で飯を食うようなものだ」
「残念です。協力して頂けないのですね」
美神の顔色が急に変わると、博士は急に眩暈がした。
「君は……、一体何をっ」
「さっきのワインに少し薬を混ぜておきました。効き目が効いてきたようですね」
博士はふらつく足を踏みしめようとしたが、その場へ倒れた。景色は暗転していく。
美神は、意識のない博士の腕を引っ張り、力づくでどこかへと連れて行った。
*
目が覚めると、白い光に眩んだ。手足は拘束されていないが、何故だか動けなかった。
「貴重な実験にお付き合い頂きありがとうございます」
美神の物腰の良い声が響く。
博士は、頭の中で焦りを募らせながらも体を動かす事は不可能だった。
「薬か。わたしも君のモルモットか」
「貴方は私にとって危険な人物ですからね。ですが、殺すには惜しい材料です」
博士は頭上を見ながら、考えた。不思議と、段々冷静さを取り戻してきた。
「君の弱点を教えてやろう」
と、博士は切り出す。
「弱点?」
美神は怪訝そうに顔を歪めた。
「だが、言えば君は苦しみ立ち直れなくなるだろうな。そして、自殺したくなるに違いない」
博士は淡々と喋り出す。
「耳を塞いでも、逃れられないだろうな。あの悪評からは。本当に酷いものだった。いや、君の実験の事がだ。いいか君は極めて弱者だ。才能もない屑だ。こんな無意味な事に熱心に育むなんて同情に値する。君はわたしより劣っている。いいか、君は世間から爪弾きにされた間抜けだ!」
美神を横目で見ると、先程とは想像もつかない鬼の様な表情を浮かべていた。
「何だとこの腐れ爺」
逆上している美神を嘲笑うかのように、博士は続ける。
「どうせわたしを捕らえられたのも、薬のおかげだろう。プラシーボだか何だか知らないが、君は勘違いしかしていない。恥を知れ」
「殺してやる」
美神は、血走った目で、部屋の隅から斧を持ち出した。
「だが、わたしは弛緩剤などには屈したりはしない。君の卑怯な真似などには」
「残念だったな。弛緩剤などは使用していない。これは本当に私のプラシーボ効果によるものだったのだ!寝ている間にも潜在意識に刷り込む事は可能なんだよ。馬鹿はお前だ!」
美神は、博士の体の真ん中丁度に斧を振り落とした。
博士は、素早く体を反らして斧を避けた。斧は台の上に刺さった。
「何だと……!?」
「なるほど。真実を知らされれば、脳は元の反応を示すようだな」
美神は発狂し、博士に喰ってかかると首を締めた。
「殺してやる!」
しかし、博士は絞められながらも笑みを浮かべ続けていた。そして、唇を動かして音のない言葉を発した。
「お前は無能だ、美神」
美神にはそう聞こえたのだ。
博士はポケットに忍び込ませておいた注射器を、美神の首筋に刺した。
「これは、プラシーボじゃない。本当の薬品だ」
その途端、全身の力が抜けたように美神は弱々しく倒れ込んだ。
博士は涼しい顔をしながら、美神に近づいていった。
「君をモルモットにしてやろう」
そう耳元で囁くと、美神は顔を上げずに震え上がった。脳裏には、あの男の姿が浮かぶ。
「まずは目から。いや、耳から……。ああ面倒だ。いっそ――」
恐ろしい言葉が聞こえてくると、美神は目に涙を浮かべた。
博士は、その場を離れると、台に突き刺さっている斧を抜いた。
そして、博士は美神に目隠しをしてやった。
「さっき打った注射なんだが、アレは全身麻酔なんだ。だから、痛みも何も感じる事は出来ない。嬉しく思え。私は優しいからな」
美神は、鼻をすすりながら、あ……あ……と声を出し、博士の言う事を聞くしか出来なかった。
「いくぞ……」
生暖かいものが美神の体に跳ねた。
博士はそのまま美神を見下ろすと、部屋から去っていった。
*
「それで、どうしたんです?」
博士の話を聞き、助手は尋ねた。
「さあな。彼は、今までの自分の行いのせいで人よりも更にプラシーボ効果が高い。彼の思い込みを解くのは難解だろう。実際に、彼の体には何も打ってはいないし、本来なら健康体に違いないのだから」
「脳で理解できたら、開放されるんですかね」 「ああ、実験にされていた男は開放してやったよ。体に害はないが、精神のリハビリが必要だろう」
「思い込みでそんな風になるなんて、考えられないな」
助手は、首をかしげる。博士は綺麗に片付けられている机の上を掌でなぞりながら言った。
「トラウマというものがあるだろう。それも治療が困難な精神的分野だ。それと似たようなものだ。人間の精神というのは、繊細で密度の高いものだ」
博士は、机の棚から本を取り出すと、助手に指でくいくいと頼みごとをした。
「了解です。ブラックで?」
「ああ、頼む」
助手は、向こうへコーヒーを淹れに行く。3分もせずに、湯気のたったカップを博士の机の上に置いた。
「実はこれ、ウーロン茶なんです」
助手がにこやかにそう言うのを、博士が何も言わずに見上げると、促すようにカップを指で博士の方に押した。
博士は、コーヒーを飲み込むと、豆の苦味が舌全体に充満した。
「これは、コーヒーだな」
博士はまた一口コーヒーを口に含み、苦笑いを浮かべた。




