沫世博士
タタン、と階段を降りてくる足音を聞いて僕らは振り向いた。
「博士」
僕の呼び掛けに、緩くウェーブがかかった香色の髪が1階と2階の境界で揺れる。
「……博士?」
……じゃない。
風に踊る桜の花びら。ドアベルの音。レンガ造り雑貨屋。レンガに絡み付いた青々とした蔦の葉。
なぜだか、僕の中でそれらがグルグル回る。
「……誰?」
少女が子供から大人へ変わる一瞬。そんな切なく、微かに甘い声が境界から降ってくる。
「君こそ誰だ」
いつもより低い不死鳥の声に、その少女とも女性ともつかない、まだ見えぬ彼女はピクリと気配を震わせた。
不死鳥のくせに鷹みたいだ。小動物と鷹。そんな狙ってあげるな、と頭の片隅で少し考えて苦笑する。
一瞬の沈黙の後、
「私の助手だ」
と、あらぬ方向からハスキーな声が部屋に響き渡った。
「そんなとこにいたんですか、博士……」
部屋の隅。多くの書籍が腰の高さまで積まれた一角から、のそりと出てきた人物に一つ溜め息をついて声をかける。
どうやら書籍に埋もれて寝ていたらしく、肩までのボブにした黒髪が見事に跳ねている。
これで、海外でも有名な女性科学者なのだから、残念なものだといつも思う。さらりとした黒髪にきめ細かな肌、切れ長の目に整った顔立ちとくれば尚更だ。
「あぁ、ちょっと調べものを昨日からしていてな。どうも最近、寝室よりここの方が落ち着く」
首に片手を当て、ぐるりと回しながらそう言った。もはや、女であることを忘れているのではないか、と時々心配になる。博士に惚れる男は多くいても、彼女にとって彼らは街路樹に等しい。彼女のその灰色がかった瞳は世の中の理だけを見つめているのだ。
「最近って……。そんなとこで寝てたら体痛めますよ」
「平気さ。そんなヤワじゃない。25歳を嘗めるな」
彼女笑っているが、うら若い女性がそんなところで適当に寝るな、と抗議の視線を地味に送ってみる。しかし博士はそれをしなやかにかわし、喉の乾きでも覚えたのかポットへ向かった。
「沫世、いつの間に助手なんて取るようになった?」
不死鳥の問いに、博士はドクダミ茶を注ぎながら肩をすくめた。
「押し付けられたのさ。腐れ縁にな」
くるりと振り返った博士の手には、丸い緑の微生物、ボルボックスの絵が書かれたマグカップ。つい最近見かけるようになったそのマグカップは、どうやら博士のお気に入りらしい。シンクの縁に軽く腰かけて、彼女は一口啜った。しばらく置いてたせいで濃くなった、と軽く顔をしかめている。
「腐れ縁って……?」
「津軽は知らないと思うぞ。私の大学院時代の同級生で、学会だのなんだので妙によく顔を合わせるんだ。で、この前いきなり電話が来たかと思ったら、あれよあれよと押し付けられた。私のところで彼女を勉強させて欲しいんだと」
かなりの研究バカな工学者でな。
と、学術書に埋もれて眠る女性科学者は、あの頃を思い出すようにそっと言った。