ある声フェチの一夜
少し粘液系の気味悪い表記がありますので御留意ください。
にゃあ。
かすかな声に、俺ははっと耳をそばだてる。
とろけんばかりの可愛らしい声、俺は脊椎で反応する。マリアの声、他にはあり得ない。
数年前に近所の公園で拾ってきてから溺愛している、我が家の猫。白地に茶トラが大陸のように浮かんでいる。美しい金色の目の彼女。
少し長い夜遊びから帰ってきたようだ、いつものように甘えを含んだ連続した鳴き声を上げ、戸口の外で待っている。
その鳴き声も金色に輝いている。華やかな煌めきではない、蜂蜜のようなどこか濁った、温かみのある金色。底に鈍い甘さを含み、とろりと耳介の縁に絡みつく声。
いそいそとテレビの前から立ち上がって、俺は狭いキッチンを抜けて小さな土間のひやりとしたコンクリートに素足のまま降りて勝手口のドアを開けた、それもいつものように。
暗がりの中、居たのはしかしマリアではなかった。
「にい」それは鳴いた。マリアの声で。
俺は固く凍りついたまま立ちすくむ。冷たいというよりは痛すぎる風が挙げたままの俺の腕の下を通り抜け、暖かな部屋の照明を一瞬くらく翳らせた。
暗がりにいたのは、何か得体の知れない赤黒い塊だった。半分はドアの影になっていたものの、部屋からの灯りを受けて上の方はてらてらと光っていた。赤黒い表面になぜか、蛍光がかったうす緑の光が浮いている。
塊はわずかに動いた、というより形を変えた。筋肉の動きとかそういうものではない。とろり、と連続したなめらかな形態変化。
俺は見なかったことにしてドアを閉めようと手に力を込めた。そこにまた
「にゃあ」
塊が鳴いた。それは確かに、マリアの声だった。
俺のかすかなためらいが動物には分ったのだろう、塊はあっという間にドアの隙間をすり抜けて中に入った。ドアの敷居にひっかかり、それは一瞬前のめりに崩れかけてからすぐに態勢をたて直し、俺の足もとを抜けて餌皿へと向かう。土間に、ちょっとした黒い塊となった液体が零れ落ち、縁が白いコンクリートに滲んだ。
先に拭き取ろうとしたが更に中を汚されるかと判断し、俺はとにかくドアを閉める。ロックはしなかった、すぐ開けられる方が良いかと思ったのだ、何故か。
そして入ってきたモノの元に駆け寄る。
それはぷるぷると小刻みに震えながら、餌皿の前、クリーム色のカーペットにギリギリ乗って居た。これが猫ならば、ちょこんと座って空っぽの皿を確認してから飼い主である俺を見上げ、恨めしそうな目をしている所なのだろうが、それは単なる、泥をこねたのと同様の塊であった、しかも内臓のごとく赤黒いてかりと白い痰のような粘液がそこかしこにこびりついた、単なる物体。座っているのかどうかも判然としない。カーペットの端に小汚い液が黒々と染み出し、一部は下の床に回り込んでいるのが分る。それは今にも部屋の温かさで溶けだしてしまいそうにみえた。
「にゃう」
それは、少し大きめの恨めしげな声で鳴く。声は確かにマリアだ。何故だ? 俺はつい抱き上げようと両手を出したがはっ、と気づいてひっこめた。
こいつの脇はどこだろう?
それだけじゃない、口はどこだ? そしてあの金色の目は。
下がる時によろけて、俺はテーブルに足を当てる。端に乗せた水割りのグラスが今度はぐらりと傾いて床に落ちた。軽やかな高い音と共にガラス片と琥珀色の水が飛び散り、カーペットに薄い色の染みを拡げる。しかしそれすらそいつに比べればまだ……取り返しがつくような気がしていた。
潔く認めよう、俺は声フェチだ。声が良ければ体型や容姿、性格にすら構わない。老若男女関わらず、俺は声の良さにいつも激しく心を揺り動かされる。
6歳の頃、近所の少女に恋をした。中学生だったらしい。俺の落とした財布を公園で見つけて、名前と電話番号を見て届けてくれた子。はい、ボクのおさいふだったんだね、まだ二十円入ってたよ。これから気をつけてね。その声にくらくらとして、その後、自転車で帰る彼女をこっそり小走りにつけて行ったのだ。
あたりがすっかり暗くなってからも、家の中から彼女の声がしないか、ずっと生垣の影にしゃがんで潜んでいた。それから小学校高学年になるまで、彼女が大学の半ばで自宅通いを止めて下宿に移るまでつきまといは続いた。大人ならばとっくにストーカーとして通報されていただろうが、こちらが子どもということもあってか、少しイヤな顔をされたことは何度かあったものの、おおむね温かく見過ごされていたようだった。
どんなにイヤな顔をされても構わなかった。もうお家に帰ったほうがいいよ、そう甘いかすかなかすれた声で言ってもらえるのすら俺には快感だったのだから。
すっかり大人になってからも何度かそういうことはあった。さすがにつきまといまでするような相手はいなかったものの、何度かひやりとするような声に出会っていた。
車が雪道でスリップした時、JAFに連絡して暫らく人通りのない県道で待っていた時もそうだ。ようやく暗がりの中救助の車が俺に黄色い光を投げかけ、その向うから「立木さんですか、大丈夫ですか?」その声が聞こえたとたん、俺はその声に撃たれ、返事もできずにその場に立ち尽くした。その男の深い声に、俺は目をつぶり、更に「どうしました? 大丈夫ですか? お怪我ありませんか」そう言ってもらえた時には死んでもいいと思った。
彼がすぐ近くに寄り、「あの」俺の前に立った時つい、俺はその男にしがみついた。彼には不快な出来事だったとは思うがさすが緊急事態だという頭もあったのか、彼は更に「大丈夫ですから」と俺に声をかけた。しかし、身体全体は引き気味に緊張しているのが感じられた。正直言うと、興奮し過ぎて俺は少し漏らしてしまっていた、臭いでバレるのはあまりにも屈辱的だ、それに声でここまで感じてしまうというのもさすがに恥ずかしく、俺は慌てて身を引きはがし、何度か咳払いしてから体調不良を装いつつ、何とか状況を説明した。彼は静かに俺の話を聞いていたが、相槌をうつたびに、俺は気が狂いそうだった。
何時間かの二人きりのドライブの後、家にたどり着いた俺は相反するふたつの激情に引き裂かれんばかりだった。どうして彼にもっと迫らなかったのか、あの声の中で溺れてしまいたかった、そんな欲情の嵐と彼に本当に嫌われてしまったのではないかという後悔。
車が完全に直った時、俺はJAFに御礼の電話を入れた、だがその時にはすでに彼は他に出動中で、他の人間が電話に出た。その別人のがさついた声を聞いているうちに、俺の呪縛はようやく解けた。
マリアの声は、俺に要求を繰り返す。にゃあ、にゃあ、ご飯はまだ?
目を閉じていれば、足下にはマリアしかいない。しかし、目を開けるとそこには崩れかかったゲル状の塊があるだけだ。つん、と生ごみに似た臭いが鼻に届き、俺はつい吐きそうになる。それに合わせ、またそれがかすかに動いた、いや、うごめいたと言った方がいい。てっぺんに近いところにこびりついていた枯葉が粘液に流されて脇にするりと落ちた、その先に赤い液が溜まって、その重みで更に枯葉は床にずり落ちようと下がっていく。
俺は半眼のまま、なるべく床のそいつを見ないでドライフードの入った箱を持ち上げ、身体はいつでも逃げられるように慎重に餌皿に近づく。そいつは何が近づいたかすぐに察し、にゃあ、にゃあと小刻みに鳴きながら更に近づいてくる。手首近くにそれがぴちゃりと触れ、俺は堪らず小さな悲鳴を上げた。はずみで箱が跳ねあがり、中身がざらざらと半分ばかり床に零れる。塊は嬉しそうにその上にかがみ込むと、一部を触手じみた細い腕に変化させ、粒が固まっているあたりに先を落とし、じんわりと包みこんだ。透明ではない組織に覆われ、餌はどんな状態になっているのか判らないまま、いつものようなカリカリという軽快な音もなく、気が付くと、そこから完全に無くなっていた。ただ黒っぽい湿った跡が不定形の丸となって床を汚しているだけだ。猫の餌の匂いとは違った、何か生臭い匂いが鼻につく。
そいつは次々と零れ散った餌の粒を拾い喰らっていた。組織を嘴のように伸ばし、餌をぺたりと覆い、音もなく自らの中に取り込んでいく。嘴を持ち上げたあとの床にはご丁寧に赤黒い湿った染み、そして周りには生の肉片が飛び散ったような身体からの落下物。やはり拭き取ろうかと目を近づけてよく見ると、それらひとつひとつはかすかに蠢きながら体液の表面を微妙に震わせていた。落ちてもなお、その小片は邪悪な意思を表明し続けているようだった。
俺はよろめいてテーブルに戻り、ソファにへたり込む。テレビはずっと、小さな声で何かの試合を中継していた。緑の芝生にあまりにも小さな人びとの点々が走りまわり、何の競技が行われているのかすぐには判別できなかった。先ほどまではそこに一喜一憂していたはずなのに、今は背後のそいつが気になって、何も把握できない。何の試合なんだ、それさえ思い出せれば、この悪夢からは抜け出せる、何の試合か分りさえすれば。
画面に焦点が合わせられないまま、「にゃう」彼女の声がすぐ脇から聞こえ、俺は習慣でつい手を伸ばした。床に控えていたソイツは、べちゃり、という感触で俺の膝に飛び乗った、にゃあ、にゃあ、と続けざまに甘える声、反して膝が冷たくじっとりと濡れてゆくのが分る、生物らしい温かみはみじんとも感じられない。錯覚が生まれないか、とそいつの頭と思われる部分を上から撫でようと手のひらを当てる、だが、汚泥に浸された生肉、そんな冷たい感触が掌に伝わるだけだった。ぶじゅ、と湿った音がして掌が半分ほど中にめり込み、腥さが増す。
膝下、ソファに接しているあたりに染み渡ってきたそいつの液がつめたく回り込んできた。全身が総毛だつ。なのに、立ち上がることができない。
「マリア」震える声で呼ぶと、甘い声がにゃを、と応えた。俺は既にテレビを見つめる振りすらできず、ただ少し上の壁に目を当てて、そいつをじっと膝の上に抱えていた。
足もとに大きなガラスの欠片。そいつに当てていない方の手を、なるべく姿勢を変えないように伸ばしてそれを拾い上げようとする。もしかしたら、追い払えるかもしれない、このどうしようもない塊を、醜悪な、奇怪な、不気味なモノを。
その時、電話が鳴った。
「ああ、としちゃん? よかったぁ」
彼女の声だった。少し高くて丸い感じ、甘えたような語尾が鼻にかかって、俺が大好きなアニメの声優によく似ている、といつも言っている、ミレイの声。
「今、何してたのぉ」
「うん?」俺はあえて下をみないように答える。片手はまだそいつに添えたまま。汚したくなくて、いつもとは反対の手に受話器を取って持っているせいか声が聞き取りにくい、でも彼女の声が俺を現実に戻してくれるような気がして、俺はしっかりと受話器を握り直す。
「テレビ観てたよ」
「ひとりでぇ?」その時、膝のそれがまた「にゃあ」と鳴いた。
「あ、マリちゃんいるんだぁ」
「ああ……」俺も仕方なく笑う。急に彼女に無性に会いたくなった。それに気づいてか気づかないでか、唐突に彼女がこう言った。
「今から行っていい?」
「え」来て欲しい、今すぐに。そして俺を救ってくれ。このどうしようもない物体を見てくれ、そして追い出すのを手伝って欲しい。床汚しの、服汚しの、気味悪い以外の何物でもないこの塊、邪悪な臭いを発しているこの
「なんかまずい?」
「いや全然」
「よかったぁ」いつものスイトピーみたいな軽やかな笑いが耳をくすぐる。
「なんか急に会いたくなってぇ。マリちゃんにもさ」
「マリアにも? マリアちょっと……調子悪くて」またそいつが鳴いた。
「え? 声聞こえるじゃん」相変わらずかあいー声だねー、とまた笑う彼女。
「うん……」俺はつばを飲んでから「ちょっと見て欲しいものもあってさ」と告げる。
「え」ためらうような沈黙はほんのわずか。しかしすぐに「分った、10分で行くよ」
じゃあね、そう向うが言って電話が切れて、俺は大きく息をついてまたそいつを抱き直す。
少しだけ腕に力をこめると、そいつは苦しげに「にゃおぉ」と声を上げた。しかし俺はそれ以上力を込めるのをやめ、そのままそいつを膝に置く。
グラスの欠片も、もう拾うのを諦めた。とにかく彼女が来るのを待とう。
電話の向こうで、10分で、と彼女が言った時かすかにずしゅ、という湿った音がしたような気がしたが、それは幻聴だと信じよう。
とにかく俺は待った。その心をとろけさせるような声の主が訪れるのを。
膝に甘え声をあげるカオスを抱え、尻の下をぐっしょりと不快に濡らし、何だか分からない試合を見守りながら。
了