9 水の戯れ
戦地となったのは山間部、と言っても国内ではなくスイス側だ。当然一泊することになるので、宿を取ってある。普段は近所の教会に部屋を借りることが多いのだが、この辺りは田舎で教会があっても空き部屋がない。その為近くのホテルを取っている。ついでに言うと、シャルロッテとクララと言う増員は全くの予定外だったので、部屋を取っていない。新たに部屋を取ることになっても、シャルロッテが
「私にスイート以外の部屋に泊まれって言うの? あり得ない! アンタがどっか行きなさいよ」
と我儘を言って、さっさとアドルフとクリストフが取っていた部屋に入った。
更についでだが、
「私一人でお風呂に入れないの。アディ早く来なさいよ」
と、さっさと服を脱いだシャルロッテが強制連行し、呆然とするクリストフにクララの面倒を頼んだ。その間アドルフはずっと文句を言っていたが、「クララを傷付けてしまったかしら」と少し神妙に言うと、やや大人しくなった。やはり単純だと思う。
ちなみに風呂の件については、クララを拾ってからはクララに風呂の世話をしてもらっていたので、それに慣れてしまった。
浴槽に浸かっていると、髪にシャワーを当てたアドルフが「なるほどね」と言った。
「確かにこんな血まみれの髪を洗わされたら、クララ泣くかもな」
シャワーのお湯を当ててアドルフが髪を梳く度に、長い黒髪にこびりついた血が溶けて白いタイルを赤く汚しながら、排水溝に引きずり込まれていくのが見て取れた。
「でしょう? ていうかもう泣いてたし。こういう時はクリスに押し付けるに限るわ」
「まーな。つかお前アレだな。よく言えば華奢、悪く言えば貧相な体してんな」
「悪く言う必要がある?」
「胸なんてかなり可愛いな?」
「その可愛いは『ささやかな』と言う意味かしら?」
「おっさすが。正解」
シャルロッテの裸をまじまじと見ておいて、リアクションが全く薄いアドルフもさすがだと思う。
伊達に遊んでないわねー。慣れって怖いわねー。
ハッキリ言って、あたふたするアドルフを見たかっただけに残念だ。だがこれはこれで気に入った。シャンプーを揉みこんで、空気を含んで泡立った髪を大きな掌で洗ってもらうのは、なかなか心地よかった。
「うわ、泡めっちゃピンク色してんぞ」
「えー? じゃぁもう一回洗って」
「俺はいつからお前の召使いになった?」
「今日限定でいいわよ。なんかあげるから」
「なんかってなんだよ」
「なんでも。もうすぐ誕生日でしょ?」
ふと手が停まった。
「なんで知ってんだよ」
「エルンストに聞いたのよ。そうでなくても、アディの事なら色々知ってるわよ」
「はぁ?」
覗き込んできたアドルフに、見上げながら笑った。
「20xx年3月25日ミラノ郊外の小都市レッコにて、アダム・フルトヴェングラーとカタリーナの長男として誕生。兄弟はなし。病歴なし。血液型はAB型。両親は銃殺により死亡、肝心の息子は、公的には今もなお行方不明。両親の事件は強盗殺人事件とされ、迷宮入りしたまま既に時効が成立している。12歳から飲酒喫煙を始めた不良で、ヴァチカンきっての異端児にしてエリート中のエリート。ヴァチカン時代のあだ名は「千人斬り」「不埒な生殖者」などなど」
言って笑いかけるとアドルフはうんざりした顔をした。
「んだよそのアダ名……俺も知らんかったのに……」
思わず笑ってしまったが、すぐにアドルフに視線を戻した。
「驚いたわねー」
「いや俺の方が驚いたわ」
「私の方が驚いたわよ。この情報を聞いて素直に自分の事だと信じたアディにね」
アドルフは目を剥いてハッとした顔をした。
「知ってたのね、自分が何者なのか」
「……あぁ、知ってた」
視線を外すとアドルフも手を動かし始めて、シャワーで泡を流し始めた。
「いつ?」
「二十歳なる前」
「そう。その時は驚いた? それとも覚えてた?」
一瞬手が停まったが、手が離れて再びシャンプーをつけて動かし始めた。
「多少は、覚えてた。事件の事とかは後で調べて知って……ま、驚いたけど」
「そう。ねえアディ」
「なに」
もう一度見上げると、アドルフの表情は少しだけ悲哀を纏っていた。それに微笑んで言った。
「あなたはカテリーナの愛した天使ね」
「……らしーな」
「と同時に、カタリーナに祝福されて、この世に生を受けた天使ね」
「……さぁ」
どうにも言葉を濁したがるアドルフがなんだか滑稽だった。湯船から手を出して、濡れた手でアドルフの頬を撫でた。
「言って。あなたの本当の名前を、あなたの口から。カタリーナに祝福された天使、カテリーナを天国に導いた天使の名前を、教えて」
アドルフは眉を寄せて強く瞼を瞑り、シャルロッテの濡れた手の上から、泡のついた手で覆って、消え入りそうな声で言った。
「……ガブリエル・フルトヴェングラー」
震える声が、震える指先が、その名が母への愛と惜別を語る。
シャルロッテの濡れた手に、睫毛の先から零れた涙が滲んでいく。
触れたアドルフの手の泡が、涙に溶けてぱちぱちと弾けた。
その様を見ながら、瞳を閉じたアドルフに微笑んだ。
「素敵な名前ね、ガブリエル」
名前を呼ばれて、アドルフはシャルロッテの手を握り締めた。
わずかに意識の残った母は、幼い頃のアドルフ――――ガブリエルを見つめて涙を零した。精一杯微笑んで、消え入りそうな声で囁いた。
「ガブリエル、私の天使。愛してるわ」
母はガブリエルに伸ばそうとした手を、引きとめた。自分の行動でガブリエルの居場所を悟らせないために。涙を零して、瞼を閉じた母は、すぅっと力が抜けたようになった。
力の抜けた母の体から、血が流れてきた。フローリングの溝を辿って、ガブリエルのもとへ真っ直ぐに流れ込んできた。
それを見てガブリエルは恐ろしくなった。真っ赤な血が恐ろしくて、母が母でなくなったようで、母の在り様を受け入れたくなかった。そして、「ここから出てはいけない」という母の言いつけを破った。
ベッドの下から這い出て、母の体を揺すった。
「おかあさん、おかあさん」
呼んでも、反応はない。揺すられた体からは、衣擦れの音と、血の滴る音が響くだけ。
「おかあさん……ひっく、おかあさん」
泣いても、もう頭を撫でてはくれない。涙を拭ってくれた指先は、既に血に塗れていた。
「うわぁぁん、おかあさぁん、おかあさん」
泣き縋っても、もう先程までの様に愛しげに名前を呼ばれることはなく、母の声を聞く事は二度となかった。
今はもう誰一人、ガブリエルと呼ぶ者はいない。彼の本名を知っているのはクリストフだけだ。それは、幼い頃の悲劇を覚えているのが、互いしかいなかったからだ。
「ガブリエル。この名前で呼ばれるのは嫌い?」
「……いや」
「そう。じゃぁ誰も聞いていない時は、この名前で呼ぶわ」
「好きにしろよ」
「ええ。あなたの泣き顔を見るのは2度目ね。泣き虫なんだから」
「うるせぇ。人に言うなよ」
「言わないわよ」
まだ26歳だというのに、壮絶な半生だと思う。これほど戯曲的なまでの悲劇が、たった一人の人間に降り注いでいいものかと思う。たったの26年、この間にどれほどの苦悩を抱えていたのか。そう思うと同情位は湧いた。
「ガブリエル、私が名前を呼ぶわ」
「あぁ」
「涙も拭うわ」
「……あぁ」
少し気分が悪そうに返事を返したのを見て、湧き上がる悪戯心。
「なんなら抱きしめて頭を撫でて、子守歌を歌ってあげてもいいわ」
「それはいらんマジで」
「あら人が親切で言ってるのに」
「そりゃ余計なお世話つーんだよ」
「可愛くないわねー」
「可愛くてたまるか」
と、アドルフが可愛くないことを言うので湯船のお湯をかけると、仕返しとばかりにシャワーを顔にかけられた。結局水掛け論ならぬお湯かけ合戦になってしまって、服を着たままだったアドルフはびしょ濡れになってしまった為に、二人揃って機嫌を損ねた。
可愛くないわねー。
可愛くねー女。
似た物同士のケンカは、いつだって平行線だ。
お風呂から出て体を拭いてもらい、髪を乾かしてもらう。その間アドルフはずっとびしょ濡れで不服そうにしていた。
それを少し可笑しく思いながら浴室から出て居間に入る。その間に影を引き寄せると、足元から上ってきた影が体を覆い、ぱさりと黒いシルクの寝間着に姿を変える。
「なにそれ! ズルッ!」
文句を垂れるアドルフはせっせと拭いて着替えを探していた。
「うるさいわねー。それよりクララとクリスはどこに行ったのかしら?」
問われてリビングを覗いたアドルフも、周囲を見渡して首を傾げた。
「あ? あれ、いねーな」
クララをクリストフが慰めていたのだが、風呂場からこの二人のケンカが聞こえてきてやたらと気が削がれてしまったので、部屋を出ることにしたのだ。
見ると、テーブルの上に置いていたはずの、新しく追加で取った部屋の鍵がなくなっていたので、そちらに行ったのだという事はわかった。
今度はアドルフが風呂に入って行ったので、シャルロッテはテレビでも見ていることにした。が、テレビのニュースで非常に面白い物を見かけて、慌てて風呂場に駆け込んだ。その際、ドアの鍵を壊したが気にしない。
「アディ大変大変!」
「何だよなんで入ってくんだよ! 出てけ!」
突然の乱入にばしゃばしゃとお湯を跳ねさせて、慌てて追い出そうとするアドルフは無視だ。
「教皇が前立腺がんで入院ですって! 死ぬわよ! 選挙よね! 叔父様教皇にならないかしら!」
興奮して全くアドルフの話を聞いていないので、いい加減慣れたのか溜息を吐いて湯船に身を沈めた。
「猊下はコンクラーヴェの参政権ねぇぞ。純粋な戦力としての枢機卿位だからな。教会にとっては必要な人じゃない」
口を尖らせた。
「なぁんだ。つまんない。じゃぁ叔父様以外の枢機卿の――――あのしわくちゃのおじいちゃん達がまた教皇になるのねー、つまんないわーつまんないわー。たまには若くて美形の教皇を見たいわー」
教皇に選出される条件は、80歳以下の枢機卿で、枢機卿団の投票により選出される。アマデウスはそれに参加する権利を持たない。勿論アマデウスには教皇位に誰が就こうが全くどうでもいいので、あまり関係ない。
枢機卿はヴァチカンの行政においても重要な役割を持ち、教皇庁の貴族とも呼ばれ、所謂大臣の様な地位にある高級官吏なのだ。教皇に選任されるのは、枢機卿団の中でも主席枢機卿である確率が高い。だとすると、現在教理省の顧問である枢機卿の可能性が高い。
アマデウスは一応教理省に属しているが、あくまで彼の仕事は「ヴァチカン教皇庁教理省枢機卿直属対反キリスト教勢力及び魔物強硬対策執行部」の指揮であり、実際の政権には全く関与できない。教理省には別の枢機卿が配属されていて、所謂そちらが表の顔だ。
「どーでもいいけどさっさと出てけ」
言われてようやく物思いに耽っていたのを中断し、風呂場から出た。
居間に戻ってみたが、やはりクララは戻ってきていない。
一人の部屋で、少し後悔に駆られた。
クララは傷ついたかしら。
クララの前では滅多に人殺しをした事がなかった。今思えば子供の頃から慣れさせておくべきだったと後悔するが、クララにはなんとなくそうして欲しくなかった。
血まみれのシャルロッテを見て、揺らぐクララの瞳に広がっていくものが恐怖だけでなく、失望もその色を伴っていたことを今頃になって思い出した。
だけどクララはわかってくれるわ。あのグラスはお父様に、誕生日に買っていただいたんだし。怒るわよ、そりゃ。
150歳の誕生日、わざわざサイラスが日本まで買い付けに行ってくれた。雑誌で見かけて「これ綺麗」とシャルロッテが言っただけだったのに、それを覚えていてその為に買ってきてくれたのだ。宝物を壊されてしまったら、誰だって怒る。
例えば、あのグラスを割ったのがクララだったら、叱るだけで怒りはしなかったと思う。誰だって粗相をする野良猫を見つけたら、保健所に通報して殺してもらうはずだ。それと同じこと。
――――もし。
考えて、少しだけ動揺した。
――――もし、それがアディたちなら?
状況によってはわからないが、殺さないかもしれない。そう思ってしまったことに、少なからず動揺した。
慣れって、怖いわね――――……。
自分がこうなのだから、きっとクララは余計だろう。クリストフに近づくように命令していたが、どうも必要以上に親交が深まっている気がしてならない。
少しの間悶々と考えていたが、途中でやめた。アドルフも出てきたことだし、とりあえずクララの前では必要以上の殺戮をしないと決めて、クララが戻ってきたらご機嫌取りでもしようと考えた。