6 主よ、人の望みの喜びよ
Erbarme dich, mein Gott
un meiner Zähren willen !
Schaue hier
Herz und Auge weint vor dir bitterlich.
憐れみたまえ、我が神よ!
我が涙ゆえに、私をご覧ください。
心も目もあなたの御前に泣き濡れている。
J・S・バッハのマタイ受難曲は、新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にした受難曲で、シャルロッテが愛してやまない宗教曲の一つでもある。吸血鬼のくせに――――だが、曲に罪はない。美しいものは美しい(聞いているクララは悶えているが!)。
マタイ受難曲Matthäus-Passion――――39番のアリアは、ペテロの否認の後に歌われるアリア。にわとりが鳴いて「3度の裏切り」というイエスの預言の言葉を思い出したペテロは、罪の意識に泣き出す。有名な「憐れみ給え、わが神よ」(Erbarme dich)のアリアが歌われる。
そんな曲を歌うのはクララへのイタズラではなく、無理やり引っ張ってきたアドルフの為に。
「落ち着いた?」
「うるせぇ」
少し目が潤んでいたが、流石に涙は枯れたようだった。
アドルフは部屋にいた。アマデウスから預かった手紙を握りしめ、一人悲壮に打ちひしがれていた。そのタイミングでシャルロッテがやってきて、良いとも言っていないのに勝手に部屋に入ってきた。椅子に腰かけたまま憮然として追い払おうとしたアドルフに、シャルロッテはアドルフの頭を寄せて緩やかに抱きしめ、静かに言った。
「いいのよ」
今だけは泣くことを許してあげるから、と言っている気がした。
シャルロッテの前でそんな醜態をさらすことは酷く屈辱に感じたし、事情も何も知らないシャルロッテが、何を考えているのかもわからなかった。だけどその時のアドルフはどうしたらいいかが分からずに、自分の感情に逆らう事をしなかった。
クララを追い出して、アドルフに尋ねた。
「恋人だったの?」
アドルフは憮然として「違うけど」と言った。
「アレクが言ってたわ」
「何を」
「アディの女遊びが激しくなったのは、突然だったって。それと、それが始まったのが2年くらい前だったとも」
それを聞いてアドルフは心の中で舌打ちをする。
くそ、あのバカ余計な事言いやがって。
それを見てシャルロッテは、本当に素直だと少し可笑しく思いながら笑った。
「彼女を思うなら、やめた方がいいわ。不毛よ」
「……うるせぇな」
「こんな詩を知っているかしら」
ある夜、二度とは見られないユダヤ女の傍らで、
死骸に添って横たわる死骸の様になっていたとき
この売られた肉体のそばでふと思い浮かべたのは
わが欲望の届かない悲しい美しい人の事だった。
詩を聞いたアドルフは、またしても憮然とする。
「知らん」
「ボードレールよ。代償行為は、悲しいじゃない? あなた顔はいいんだから、素敵な男になりなさいよ」
彼女も同じことを、手紙に書いていた。
「アディを泣かせるなんて、彼女は素敵な人だわ。愛してたの?」
「……違う、と思うけど。わからん」
「でも大事に思ってたのね。それは――――」続けたシャルロッテの言葉に、アドルフは心臓を掴まれたような心持がした。「アディが彼女に、母親の影を重ねていたのね」
敵わない、と思った。
「なんで、知ってる?」
「みんなの話を色々と総合すると、そう言う事になるわ」
幼い頃の事、ヴァチカンに来る前の事を覚えている者もいれば、忘れている者もいる。アドルフは覚えているはずだと、オリヴァーが言っていた。クララがシャルロッテとの出会いの話をした時、「クララ“も”苦労したんだな」と、同じく覚えているであろうクリストフが言った。
アドルフが拠り所にするのはいつも女。彼女は年上の女性で、優しかった――――母親のように。その温もりと穏やかな時間を求めていた。
「彼女と出会ったのはいつ?」
「2年前」
「別れたのは?」
「1か月後」
「純粋ねアディは。ずっと忘れられなかったのね」
そう言うとアドルフはバカにされたと思ったのか睨みつけてくる。それに微笑んだ。
「これからも忘れないでいるといいわ。彼女の事も、アディの気持ちも。今のアディはとても、美しいから」
アドルフは視線を外して、「わかってる」といって部屋を出て行った。少しするとクララが戻ってきて、何の話だったのかと尋ねた。
「アディに手紙が来たのよ、昔愛した女性から」
「へぇ? でもなんでお嬢様がそんなこと知ってるんですか?」
「さっきすれ違った時、ポケットにしまってたから。消印が古いものだったから気になって、影に隠れて覗き見したのよ」
「マジでございますか」
「マジよ。アディには内緒ね」
クララは引いているようだが、手紙の内容を思い出して微笑んだ。
「素敵な手紙だったわ、とても。今度は彼女が、アディの天使になったのね」
綺麗な字で書かれた数枚の手紙は、「親愛なるアディ」その冒頭を汚さない、美しいものだった。
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親愛なるアディ
この手紙が届いているという事は、きっと私はもうこの世にはいないのね。私ね、本当はずっと肺結核を患っていたの。女優をやめたのも、そのせい。一人になったのも、そのせい。あの人も会ってくれなくなって、私はとっても淋しかったわ。
だけど、あなたと出会えて本当に良かった。短い間だったけど、素敵な思い出ができたわ。本当にありがとう。
私はあなたと出会って、あなたと過ごす日々がとても楽しかった。毎日毎日あなたが来るのを待って、バカみたいだけど、まるで少女の頃に帰ったみたいな気分で。
あなたに出会うまで、私はもう死ぬのを待つばかりだと思って、自棄になって色々なことを諦めていたの。生きることも自分のことでさえもどうでもよくなって、どうにでもなってしまえばいいと思っていた。
だけど、あなたと出会って、私の生活は彩りを取り戻したような気がして、息を吹き返したのよ。いつの間にか、あなたが私の心の支えになっていたわ。アディ、あなたは私にとっては本物の天使だったのよ。
私は死んでしまうけど、アディは私の魂を天国に導いてくれるわ。私は幸せだったもの。あなたと過ごしたあの短い日々を、夏の夜を、宝物のように愛しく思うわ。
私、幸せだったのよ。とっても楽しかったわ。あなたと出会って、色々なことを話して、聞いて、何度も助けてもらったし、名前も呼んでもらえた。私はあの時泣きたいくらい嬉しかったわ。だから、私が死んだと思って悲しまないで頂戴ね。あなたは何も悪くないわ。あなたと出会えて私は幸せだったんだもの。むしろ、誇らしく思ってもらわなきゃ困るわ。
何と言っても私は大物元老院議員の愛人で元女優なのよ。その私が幸せだと言っているんだもの、名誉でしょう? あなたに今後私以上にプレミア感のある女性が現れるかしら? なかなかいないと思うわよ。
これからあなたが「わからない」と言っていたことが分かるようになった時、少しだけ私の事を思い出してくれたら嬉しいわ。
あなたが最後にくれた思い出は、この病んだ胸に大事にしまっておくわ。そしてお墓の中で私の体と共に滅びるのよ。あなたの思い出を抱いて死ねるなら、こんなに幸せなことはないわ。
あなたの綺麗な声、あなたの綺麗な指、あなたの綺麗な髪、あなたの綺麗な顔、あなたの綺麗な体、全部、忘れないわ。だから、どうかあなたも私を忘れないでいてね。
これからのあなたの長い人生の中で、「そういえばあんな人がいた」と思い出してくれたら、私は天国から手を振ってあなたの名前を呼ぶわ。だから、あなたは私の声が聞こえたら、空を見上げて、私の名前を呼んでね。きっとお返事をするから。約束よ。
アディ、男を磨きなさい。あなたはハンサムで素敵だし、きっと素敵な女性に巡り合えるわ。きっと、色んなことが分かるようになるわ。
私は後悔していることが一つだけあるの。愛人なんて早めに手を切って、誰かと幸せに結婚するべきだったって。私が見たもので美しいと思ったものは2つ。子供を間に挟んで笑いあう夫婦と、仲良く腕を組んで歩く老いた夫婦。その道を選ばなかったことを、何度も後悔したわ。あなたは神父だから、一生独身ね。だけど、あなたにはいつかそういう美しい光景の一部になってほしいわ。
あなたがいつか神父をやめて、素敵な女性と結婚して幸せになったら、とても嬉しいわ。私はきっと自分の事のように喜ぶの。
あなたの身に幸福が降り注ぐように、天国から祈っているわ。私の天使が、幸せになりますように。
アディへ、愛を込めて
カテリーナ・クヴァント
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姿を消した恋人、知らぬ内に死んでしまっていた恋人から、時を経て届いた手紙。彼女の言葉を、その遺言を、彼女を思うなら聞いてあげて欲しいと思うのだ。
「アディはその人の事、ずっと忘れられなかったんですか?」
「そうみたいね」
「純愛、ですね」
「そうね」
そう言って笑うと、少し悲しげにしたクララが遠慮がちに尋ねた。
「お嬢様も、誰かを愛したいですか?」
その問いに笑って、自分の指先を眺める。
冬が好きだった。
わ、ロッテの手すごく冷たい。
そう言って繋いだ手をコートのポケットに入れた。
こうすれば温かいよ。
そう言った屈託のない笑顔が好きだった。
俺冬好きだなー。手ぇ繋ぐとロッテ嬉しそうにするから。
そんな冬はもう、来ない。
「ううん、もう、いらないわ。忘れてしまったし」
忘れてしまいたいし、人間は裏切るから。 人間は美しい。人を欺き、慈しみ、裏切り、愛する。これほどの感情を持ちえたのはおそらく人間くらいで、それは限られた生だからこそなのだろうと思う。それらが徹底して不完全であることもまた、羨ましくすら思う。器用だと思う。
が、今のシャルロッテにはどうでもよい事だ。かぶりを振ってクララに視線を戻した。
さりげなくクリストフに探りを入れるように、日頃からクリストフと懇意にしておくよう命令していた。
クリストフが一番仲がいいのはやはりアドルフで、一番信頼しているのも以下同文。子供の頃彼には兄がいて、その兄にアドルフが良く似ていた。傍若無人で横暴で、しょっちゅうおもちゃを取り合いして泣かされたが、クリストフが別の子に泣かされていると助けてくれた。アドルフは今でもそう言うところは変わらないのだと、クリストフは嬉しそうに言った。
「それ聞いちゃうと、アディとクリスってなんかいいですよね」
「ていうかアディ、男の前ではカッコつけるのね。変な奴」
とはいえ、男に好かれる男と言うのは、女にモテる男よりもはるかにいい男だ。少し眉を下げてクララが言った。
「クリスはアディ大好きなんだなぁとヒシヒシと伝わってきましたよ。なんかアディを見る目が変わってしまいそうな話ばかりで、ちょっと癪です」
とクララが苦笑するので、つられて笑った。
「そうね、でも理に適ってるわよ。大体、年長二人は思った通りだわ。怪しいのはディオ達くらいからね」
「えっなにがですか?」
意味が分からない、と首を傾げるクララに、少し声を潜めて教えてあげた。
「予想だけどね、“死刑執行人”達は全員孤児よ」
「あっそれはなんとなく」吊られてクララも小声で返した。
「で、孤児になったのは、彼らの家族が皆殺しにされているから」
途端にクララは離れて目を丸くした。その表情に笑った。
「まだ予測で証拠はないけど、恐らく正解。それ程引き摺っているところを見ると、アディもクリスも、目の前で家族を殺害されたんでしょ。情報は大方揃ったから、明日証拠を探してくるわ」
クララは泣きそうな顔をしていた。縋るようにシャルロッテの服の裾を掴んで見上げている。
「本当、ですか?」
彼らの家族の話は真実なのか、と言う意味に解釈して頷いた。
「オリヴァーや覚えていない子には、この環境もさして問題はなかった。だけど覚えている子にはどうだったのかしら。真実を知ったら彼ら、どうするのかしら」
「可哀想です。知らない方がいいことだってあります」
「わかってるわよ、わざわざ教えたりはしないわ」
――――私は、ね。
シャルロッテの答えを聞いて、クララは幾分か安心したようだ。ふと何かを思い立ったような顔をした。
「それともう一つ、やっぱりお嬢様の言うとおりでした。クリスの本当の名前は、フランツと言うのだそうです」
やっぱりね、と笑った。事情を考えると、ヴァチカンに来た時点で改名している可能性が高いと考えていた。今名乗っている名前はアマデウスが考えたか、洗礼名か何かだ。自分の本名を覚えているのは、年長組二人と二つ下のクラウディオ達までだろう。フレデリックから下は2歳前後だったことを考えると、覚えていない可能性が高い。
「子供の頃の事を覚えている子たちに、優しくしてあげてね。クララに優しくされたらみんな喜ぶから」
我ながらつまらないことを言う物だと思ったが、聞いたクララは瞳に義務感に似た物を宿して、深く頷いた。