31 forget me not
その頃シャルロッテが花束を持って、病院にお見舞いに来ていた。教会関係者ですら謁見が認められない教皇の病室に、化け物なんて言語道断とは言いつつも、クレメンス16世が「ロッテは特別」と駄々をこねるので、渋々出入り自由の許可を与えてもらった。
バーデンが花を受け取って、花瓶に挿しに行っている間に腰かけて尋ねた。
「ねぇ、どうして生きているの? 生きていたならどうして、教えてくれなかったの?」
70年前、クレメンス16世――――ファウストは海軍の兵士だった。時は第二次世界大戦真っ只中の東海岸。当時枢軸国であったイタリアとドイツ、連合国に属していたアメリカは敵対国だった。
商船の護衛艦のクルーとして海上に赴く日、ファウストが言った。
「必ず帰ってくるから、待ってて。帰ったら、ロッテに聞いてほしい事があるから」
「わかったわ、待ってる」
その約束が破られたのは、大西洋におけるドイツ軍による商船破壊戦の為に、艦が沈没したためだ。
ファウストの家の前に、軍人がやってきていた。泣き崩れるファウストの母親を見て、妹が泣きながらシャルロッテに縋って来たのを見て、彼が死んだ事を知った――――が、生きていた。
艦が沈没した為に、遺体どころか識別票すらも引き渡されなかった。ファウストの乗った船は敵軍に包囲されていて、友軍も救助どころかサルベージすら許せない状況にあった為だ。ファウストの家族とシャルロッテが涙に暮れていた頃、ファウストはドイツ軍に救助されていた。
識別票を見たドイツ軍は「ファウスト・カルクブレンナー」という、彼の名前を見てすぐにドイツ系アメリカ人だと気付いた。それで捕虜として生かしておいた。
「正直ファシズム万歳と思ったよ」
「……お父様がドイツ人で良かったわね。でもどうして連絡してくれなかったのよ」
詰問するシャルロッテに、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ゲーテのファウストと同じだよ、あの時私は悪魔に魂を売ったんだ」
「どういう事?」
「私は君だけじゃなく、国も裏切った。自分の身可愛さに、私は全てを捨てて、裏切った」
ファウストの知る情報などたかが知れていたが、東海岸における大まかな軍勢や軍の構成、艦のシステムなどをリークする代わりに、ドイツ人として生きることを許された。
その後戦争が終わって時代が変わるとともに、ファウストは国を裏切ったこと、シャルロッテを裏切ったこと、本当の自分を殺して別人に成りすましている事、その事を贖罪するために僧としての道を選んだ。
ファウストの聖職者としての評判は、勤勉で真面目で実直、親切で思いやりのある素晴らしい人――そうあろうとしたのは、全て裏切りに対する贖罪の為だ。その評判と業績の為に彼は着実に地位を重ね、いつしか枢機卿にまで叙階され、とうとう教皇になってしまった。
聖職者は所謂、世捨て人に等しい。人から敬われることはあっても、人と同じではいけない。家族を捨て、国を捨て、恋人を捨て、神の道に生きる。そう決めてその通りに生きる事しか、ファウストには出来なかった。
ファウストが泣きそうな顔で笑った。
「ロッテ、70年もウソを吐いて君を裏切った私を、恨んだかい?」
その問いに素直に頷いた。
「恨んだわ。帰ってくるって言ったのに帰って来ないし。死ぬし。でも、今会えたから許してあげる」
そう言いながら、カサカサとして血管の浮いた、皺だらけの手を握った。
「あなたこそ、私がウソを吐いていた事、怒ってる?」
ファウストは首を横に振った。
「相変わらずロッテが綺麗で、その事が嬉しいよ」
その言葉に微笑んで「あなたも相変わらず、素敵だわ」と言って手の甲にキスをした。
「こんな老いぼれでもかい?」
「吸血鬼には見た目なんて大した問題じゃないし、あなたはあの頃のまま、私が大好きだった素敵な人のままだわ」
「ありがとう」
ファウストが優しく髪を撫でる感触に、心を委ねた。
「ねぇファウスト」
「なんだい?」
「もしあの頃、私があなたに吸血鬼になってほしいって言ったら、なってくれた?」
ファウストが小さく笑った。
「そうだね、あの頃なら、きっと私は喜んで吸血鬼になったね」
シャルロッテの傍に、永遠にいられるのなら。
「私、あなたの子供が欲しかったわ」
「私もそう思っていたが、君が可哀想で」
愛し合うたびシャルロッテが痛がるから、いつも可哀想になって途中でやめてしまった。紳士なファウストは、それでもいいと思っていた女心をわかっていなかった。
「しょうがないから私、クララを拾ってしまったのよ」
言ってシャルロッテは不貞腐れた。
「いやになるわ自分で、女々しくって」
「そうかい? 私は嬉しいけどね」
なんだか嬉しそうにしているファウストを少しむくれて睨んでいたが、ふぅと息を吐いた。
「でもまぁ、いいわ。クララがウチに来てから楽しかったし」言っている途中で思い出して手を叩いた。
「そう、ネイサン覚えてる? マチルダのボーイフレンド」
ファウストの妹の彼氏だ。思い出したらしく難しい顔をした。
「あぁ、あのジャンキー」
「そうそう!」
あの頃のネイサンは妹マチルダと愛し合っていたが、親は街でも有名な破落戸だったせいか、ネイサン自身も麻薬常習者で、ファウストは快く思っていなかったのだ。その事を思い出して苦渋の表情を浮かべるファウストに微笑んで、話を続けた。
「あなたが死んだって聞いて、ネイサンったら「マチルダとニナは俺が守る」なんて言って、弟子入りして立派な大工さんになったのよ」
「へぇ、あのネイサンが」
「そう、ネイサンがあなたの代わりになってくれたから、ニナも淋しい思いをせずに済んだと思うわ」
ファウストの母親ニナは、ファウストが死んだ後彼の代わりに頑張り始めたネイサンを、本当の息子のように可愛がった。それを聞いて、ファウストはどこか遠い目をした。
「そうか……ネイサンは偉いな」
「教皇よりも大工さんの方が偉いの?」
ファウストが優しく笑った。
「あぁ、教皇なんかよりも、身近な人を大事に出来る、そう言う人の方が随分と偉いよ」
ニナは勿論、ネイサンもマチルダも既に死んでしまった。ファウストの家族は、既にこの世には一人もいない。
病院の外は光がさんさんと降り注いで、木々には緑が萌えて花が咲き誇っている、3月24日。
「春ね」
「そうだね、ロッテ」
呼ばれて振り向くと、ファウストは掌に小さな箱を乗せていた。
「明日から大変そうだから今のうちに」
カールに頼んで買ってきてもらったと、ファウストははにかんだ。
「少し早いが、誕生日おめでとう」
「覚えててくれたの?」
「もちろんだよ」
「ありがとう!」
受け取り包みを開け、白い箱の蓋を取ると、中にはビロードが張られた紅い小箱。そのふたを開くと、華奢な金細工にダイヤモンドが象嵌された指輪が光った。
金と言う物質は「完全」の象徴、ダイヤモンドは永遠の象徴。指輪を左手の薬指にはめて、キスをした。
「私、死ぬまであなたの事を忘れないわ。ずっと愛してるから」
指輪に施された細工は青い花、フォゲットミーノット――勿忘草。
「私を忘れないでいてくれ。だけどいつか私を思い出にして、君は幸せになれ」
「いやよ」
「お願いだ、シャルロッテ。私が死んで、もしもう一度生まれ変わったら」
顔を上げると、ファウストは優しく微笑んだ。
「もう一度君に出会って、君と恋をしたいから。今の私は思い出にしてくれ」
涙が零れて、小さく頷いた。
少ししてシャルロッテも教皇庁に寄ってみることにして、病院を後にした。病室の中はいつもと同じ光景。バーデンがいて、見張りが立っていて、毎日たくさんの花が贈られてくるから、毎日違う花を飾ってもらう。もう最期だからと、食事はファウストの好きなものが多いし、治療と言うよりもほとんどホスピス療養だ。
シャルロッテと入れ違いに、若い看護師が入ってきた。
「はい、教皇聖下、検温の時間ですよ」
そう言って入ってきた看護師は、今まで見た事のない看護師だった。テロがなくたって、教皇に従事する医療関係者は限定されている。おかしいと思ったのはバーデンだった。
「待て、君は許可されていないはずだ」
通行許可証の提示を求めると、その看護師は口の端を上げた。
傍にいたバーデンは殴られて、その場に昏倒してしまった。外にいる見張りを呼ぼうとしたが、看護師に口を塞がれた。
「ねぇ、教皇聖下? 私が主催するパーティに、付き合ってね?」
教皇が行方不明になった報が教皇庁に入ったのは、既に日も暮れてからだった。




