21 ムーンライトソナタ
こつん、と地下牢に足音が響く。
こつん、
こつん。
時折砕けた煉瓦を踏みしめる、一人分の足音がする。その足音が止まって、鉄格子の外に誰かがいることに気付き、顔を上げたアマデウスは力なく笑った。
「カール、こんな夜中になんの用?」
名前を呼ばれたカメルレンゴは、不服そうに眉を寄せた。
「名前で呼ぶのはおやめ下さいと、何度も言った筈です」
開口一番の文句にアマデウスは「そうだったね」と言って笑いながらも、その表情は翳った。
「随分とお辛そうですね」
ヴァチカンの深淵、しかも結界を施された中だ。これほど長時間教皇庁に身を置くこと自体初めてで、アマデウスは衰弱しきって起き上がる事も出来なくなっていた。何とか顔の筋肉と口だけは動くのが、唯一の救いだ。
「やっぱり、僕の事が許せない?」
「ええ」
「カールって昔っから、結構根に持つよね」
「それが何か? 私を裏切ったのはあなたです。自業自得では?」
アマデウスはやはり「そうだね」と言って、悲しげに瞳を揺らした。カメルレンゴが膝を折って、鉄格子の前に膝をついた。
「私はあなたが嫌いです」
「知ってる」
「あなたの子供たちはもっと嫌いです」
「……わかってる。けど、君の期待を裏切って悪いとは思うけど、それは僕の教育が間違ってただけで、判断するのはまだ早いよ」
嘆願とも取れるアマデウスの言葉に、カメルレンゴは奥歯を噛みしめた。
「あなたが、あなたが私にウソを吐かなければ、私を裏切ったりしなければ――――あなたが人間だったら、それで済んだことです」
ただの、上司と部下だった。優しくてまじめで、信頼のおける上司のはずだった。だから、部下としてアマデウスに信頼されていることも、とても喜ばしかった。親密な上下関係を築ける相手なんて、社会では出会う事などほとんどない。だからこそ、相互に全幅の信頼を寄せている――――そう思っていたのに。
カメルレンゴはある時まで、アマデウスが吸血鬼だという事を知らなかった。だがある戦いの中で、カメルレンゴを守って被弾したアマデウスが、人間ではないことを知った。
敬虔な教徒だった、狂信者と呼んでも良かった。共に魔物を打ち倒してきた仲間だと思っていた、そのアマデウスが吸血鬼だった。本来なら殺さなければならない相手だった。その事をそれまでアマデウスはカメルレンゴに隠してウソを吐いていた――――その事が、どれほど悔しかったか、どれほど悲しかったか。それを裏切りと呼ばずに、何と呼べばよいのか。とりわけ腹が立つのが、アマデウスのウソがその一つだけではないことだ。今現在も重大なウソを吐いている。
「なぜ、いつまでも報告がないのですか? 目的は何ですか? ただ殺されては困るから? あの悪魔の仔らのため? それとも、何か考えがあって、教会に身を置くことを希望しているのですか? それならなぜ、その事を申請しないのですか? よもや、申請できないような事情があるのではないでしょうね?」
畳み掛けられる質問に、アマデウスはピクリと眉を顰めた。
「……何が言いたいの?」
何が言いたいのかはアマデウスにもわかったが、とりあえずそう尋ねた。しかしカメルレンゴは「私がお聞きしているのです」と、ぴしゃりと質問をはねのけた。なので仕方なく質問に対する返答を返した。
「まだ遂げていないから、だけど?」
カメルレンゴはまっすぐに見つめて、語調を強めて言った。
「あなたの虚言には呆れるばかりです。それならばなぜ、ヴァチカンから離れたのです?」
ほんの一瞬だけアマデウスが視線を外したことを確認して、言った。
「本当は、コンスタンツヤは、既に殺されているのでしょう?」
コンスタンツヤとは、アマデウスが追っているノスフェラートの女だ。アマデウスを吸血鬼にし、その呪いによってしばりつけている女。その女は既に戦いの中で死亡しているものと考えた。だから、その報告がなく今も尚教皇庁に身を置いているアマデウスの考えていることを尋ねようとした。カメルレンゴの質問に、アマデウスはハッキリと違うと言った。しかしそれでは納得がいかない。
「あなたは昔言っていましたね」
どうしても殺したい吸血鬼がいる。その吸血鬼を殺せたら、何だって構わない。その為にヴァチカンに来たのだ。アマデウスは昔、カメルレンゴにそう語ったことがあった。その時のアマデウスは、使命感に似た物を背負っているように見えた。
「昔の様な必死さが、今のあなたに見えないのですよ。私を含め、昔からあなたを知る人間に、コンスタンツヤが既に死亡していることを悟られたくないから、ヴァチカンから出たのでしょう?」
「僕がウソを吐いているって根拠は、そんなこと? 証拠は?」
「ありませんよ。いずれにせよ、コンスタンツヤに会ってコンスタンツヤとわかるのが、あなたしかいないのですから」
アマデウスがコンスタンツヤを殺したと証拠を見せても、それが本当にコンスタンツヤなのか判別することは誰にもできない。だから、アマデウスがウソを吐いている証拠などはないが、真実を言っているという証拠もない。そもそもコンスタンツヤと言う名前も本当なのか怪しいくらいだ。状況とアマデウスの様子とで、本当は死亡してそれを隠していると考えた。その裏で何を企んでいるのか。カメルレンゴが聞きたいのはそこだ。
「あなたの行動は契約違反です。契約に反した場合の処罰はお分かりですね?」
アマデウスが教皇庁に来た時に、当時の教皇と契約をした。それは契約とは名ばかりの、不平等な呪いだった。それは、アマデウスが目的を達するまでヴァチカンに恒久の忠誠を誓うこと。その契約を違えた時、教皇の名において処罰される。かといって、アマデウスが目的を遂げた後、呪いを解いてさようなら、という気はさらさらなかった。アマデウスが目的を達成した後待っているのは、これまでどおりの飼い殺しか、不要と判断されれば殺される。アマデウスは人間ではないから、人間らしい扱いをする必要はない。例え飼い犬でも、粗相をすれば殺処分するものだ。飼っている犬がただの犬ではなく、狂犬ならばなおさら。ヴァチカンの人間にとって、それは当然の思想だ。
アマデウスもその事は重々承知している。目的に関わらず、逃亡を謀れば死、裏切れば死、不要と判断されれば死。そう言う約束を引き受けたのは自分なのだから、他人に言われずともわかっている。それでも今は死ぬわけにはいかなかった。今アマデウスがいなくなってしまったら、死刑執行人たちの盾になるものが何もなくなってしまう。彼らの盾になっている物がアマデウスだったから、今まで守って来れたのに、アマデウスがいなくなってしまったり、代わりの誰かでは攻撃に耐えられない。
「契約の事はわかってるけど、僕にはカールが何を言っているのかわからない。テロの件といいコンスタンツヤの件といい、君はとにかく僕をヴァチカンから追い出したいだけだろう?」
アマデウスはそれが正解だと考えた。とにかくカメルレンゴは、アマデウスを排除できれば何でも良いのだろうと。もう同僚ではない、友人ではない。カメルレンゴが自分を敵視しているという事は、誰よりも知っている。アマデウスが吸血鬼だと知った時の、カメルレンゴの失望と怒りを湛えた視線に、アマデウスもまた傷付けられたから。
アマデウスだって好きで吸血鬼になったわけではないし、好きでウソを吐いて騙していたわけではない。アマデウスが吸血鬼だと知らずにいたら、嫌わずに済んだ。知られずにいれば、カメルレンゴに嫌われなくて済んだ。だから隠していたのに、あの時カメルレンゴが死ぬよりも、嫌われた方がマシだと考えてしまった。結果として、双方を後悔させた残酷な物こそが、真実だ。
「僕は、何かを企んでいるわけじゃない。別に今の状況に不満があるわけでもない。これまでどおり教皇とカメルレンゴの監視下に置かれることにも、針のむしろに全包囲されることにもね。いい加減もう慣れてるし」
ただ、と言葉を切ってカメルレンゴを見上げる視線は、哀眼だった。
「……ただ、僕はアディ達を、見捨てたくないだけ」
カメルレンゴが離れてしまって、その後手に入れた唯一の、吸血鬼になってから長い歴史の中でできた唯一の――――家族。彼らだけが、アマデウスを家族だと思って慕ってくれる。彼らのその思いだけが、アマデウスの唯一の寄る辺だった。それを一度でも手に入れてしまったら、今更失う事は絶望以外の何物でもない。
カメルレンゴが静かに言った。
「孤独が恐ろしいですか?」
素直に「恐ろしいよ」と答えた。
「君は孤独を知っている? 人の中で感じる孤独は、それはもう耐えがたいものだよ」
人の中にいると孤独を感じるが、自然の中では孤独を感じないと言ったのは、モンゴメリ。疎外される位なら、一人でいた方が孤独を感じない。だけど、人間社会で生きる以上は、アマデウス程でなくとも多少はそう言った思いをしなければならない。
「僕はヴァチカンに忠誠を誓う。何をされても何を言われても、平身低頭して尽力し続ける。だけどその為には、アディ達が必要なんだよ」
何の支えもなしに生きていけるほど、強くもない。元が人間ならばなおさら。人間の中で生きるのなら、殊の外。
「なるほど、あなたはその為にヴァチカンにいるのですね。ここから離れる理由になってしまうから、コンスタンツヤの件を認める気はないというのですね」
「それでなくたって、コンスタンツヤは死んでいない」
そうですか、と小さく息を吐いたカメルレンゴは、大金をベットするギャンブラーのような眼をして言った。
「では彼らに真実を話してあなたがヴァチカンに居続けるのと、彼らに真実を隠したままあなたが消えるのと、どちらがいいですか?」
生か死か、再び享受した孤独の中で生きるか、幸福の内に死にゆくか。
あぁ人間は、なんて恐ろしい生き物なんだ。
この世には鬼が溢れている。人の心には鬼が棲んでいる。だから死後鬼になる者がいる。
究極の選択は、いよいよアマデウスの精神を追い詰めていき、しかし彼に出来る選択は一つだけだった。
「……コンスタンツヤは、死んだ」
その返答を聞いて、カメルレンゴは立ち上がった。
「そうですか。では彼らには秘密にしておいてあげましょう。この件は事件が終わった後聖下に報告します。どの道あなたは、枢機卿団の審議においては有罪とされました。事件後はあなたの望み通り、彼らには何も知られないまま、呪いから解放して差し上げますので」
立ち去る足音を聞きながら、涙が滲んだ。
これでいい。
長生きなどするものではない。長生きと言うのは、人と共にするからいいのであって、単独でするような物ではないからだ。孤独は人の心を闇に曇らせ病みを呼ぶ。それならいっそ、死んでしまった方がいい。
これでいいんだ。
孤独の中で生きるくらいなら偲ばれて死んだ方が、まだ生きた甲斐があると言う物。
何度も何度もそう言い聞かせて、アマデウスは一人独房で涙した。




