16 イ短調
歴代の教皇の肖像が並んでいた。即位した年の古いものから順番に左から、最初は肖像画で途中から大きな写真になっている。一番右端のクレメンス16世も、他の教皇と同じように礼服で正装して、赤い組紐で重ね合された金と銀の天国の鍵と、三重になった冠の紋章の旗。杖を持つ指には両氏の指輪と呼ばれる金の指輪が光っていて、写真に写る顔は優しく微笑んでいる。
略歴には地方の教会の牧師から始まって、教皇に至るまでの経歴が記してある。教皇名はクレメンス16世だが、枢機卿までは本名を名乗っている。教皇になった時に名前を変えるのは、ただの慣習だ。
「ファウスト・トバルカイン卿……」
思わず声に出して、もう一度写真を見た。ただのしわくちゃのおじいちゃんの写真だ。それなのに、嫌なことを思いだした。
ロッテ、ファウストが……。
妹のマチルダが泣き縋った。
玄関先で母親のニーナが泣き崩れていた。
ニーナ、ファウストは?
ファウストは……ゴメンね……ロッテ。
帰ってくると約束したのに、そのまま帰って来なかった。
軍なんて向いてないって、言ったのに。
ニーナが言った。
だからシャルロッテは、戦争も軍人も嫌いだ。
そんな昔の事を思い出してしまって、息を吐いた。
バカバカしいわ。ただ名前が、同じだっただけよ。ただそれだけじゃない。
ファウストと言う名は、ゲーテの作品の中で悪魔に魂を売る男の名前だから、好んで付けたがる人はあまりいなくて、少しばかり珍しい名前だ。
ファウストは戦争で死んだ。もう随分と昔の話だ。珍しいからと言って、たまたま同じ名前を見かけただけで、今この事件の最中に思い出して感傷に浸る必要はない。
20歳から聖職の道に入って、もうそろそろ70年。教皇も病気になって、すぐに死ぬ身だ。
「前から思ってたけど、教皇位に就く人って、結構長生きよね」
ようやく追いついたアドルフに言った。
「神のご加護なんじゃねーか」
「そうかもね。それならきっとクレメンス16世も、妙な死に方はしないでしょう」
「そーだな」
なんだか妙な情が湧いた。暗殺を予定しているのならば、阻止しなければ。彼は、病気で死ななければいけないのだ。
隣に立つアドルフが欠伸をしているのを見て、回廊の時計を見ると4時を回っていた。
「アディ寝てきたら?」
「そーする」
この男は睡眠欲に反逆する気はないらしく、眠い時は素直だ。
「お前も、仮眠室来れば」
歩き出したアドルフを見上げた。
「どうして?」
「一応ここ、聖地だし。お前も色々力抑え込まれてるし、朝になったら寝るんじゃねーか」
そう言われるとそんな気がしたので、仮眠室まで一緒について行って、場所だけ覚えておいた。
アドルフが寝ている間に、教皇庁の見取り図とヴァチカンの地図を眺めた。爆弾を仕掛けそうな場所がどこか考えた。
そうこうしているうちに案の定シャルロッテも眠くなって、仮眠室に行った。アドルフはまだ寝ていて、起きる気配が全くなかったので、オリヴァーに無線で連絡してしばらく寝ると言った。
『ていうか、主任とクララちゃんも寝ちゃったんだけど。指揮ナシの状態でやれと?』
「アディはもう少しで起きると思うから。もう私眠くてしかたないのよ、ここ空気悪いし」
『……おやすみ』
「おやすみ」
無線を切って、何台も並ぶ2段ベッドの、いちばん日当たりの悪い壁の影の上の段に潜り込んだ。
聖地のベッドの寝心地は、ものすごく寝苦しかった。
目が覚めて、直ぐ上にベッドの天井があることに少し驚いて、ヴァチカンの仮眠室だという事を思い出した。もぞもぞと這い出て腕時計を見ると、7時を回ったところだった。とっくに日は上っているので、シャルロッテも寝ているかもしれない。
そう考えて仮眠室をぐるりと見渡すと、目だたない場所の二段目から、長い黒髪が一筋垂れさがっていた。
近づいておもむろにその髪を手に取って、引っ張ってみる。
結構強く引っ張ってみる。
ついでにもう一回。
やっぱ全然起きねぇなー。
シャルロッテは昼間も起きていられるが、一度寝てしまうとちょっとやそっとでは起きることはない。とても深い昏睡に陥ってしまう事は、既に実験済みで知っていた。でも何度やっても「スゲェ、起きねぇ」と思う。
少し体が怠かったが、梯子を上ってみた。シャルロッテが梯子に背を向けて寝ていたので、無理やりこちらに寝返らせる。普段シャルロッテが高飛車で偉そうで、強くて勝てないので、静かで無防備な寝顔を見るとなぜか優越感を感じた。
その寝顔が不意に歪んで、震える睫毛の隙間を縫って涙が零れ落ちた。引力に逆らう事無く、右目から左目を辿って、更に粒を大きくしてシーツにしみ込んでいく。それにアドルフは、かなり驚いた。
うおぉ、コイツでも泣く事なんかあんのか!
思わず興奮して、反射反応に近い速度で携帯電話を取り出し激写。しかも連写。
ファイルを保存しますか。
はい。
ファイルを保護しますか。
はい。
やべー、コレクリスに送ってやろう。あ、待ち受けにして後でロッテに見せてやろう。
なぜか浮かれて待ち受けに設定する鬼畜野郎。
携帯電話を仕舞ってシャルロッテの顔を見ると、涙は止まったようだが、一滴だけ睫毛の先に残っていた。何となくそれを指先に取って、舐めてみる。
うーん、涙は苦いなぁ……。
人の涙はしょっぱいが、シャルロッテの涙は塩辛い上に苦かった。重曹のような味がした。
つか血の涙とかじゃないんだなー。
父も母も元は人間なので、ただ成分の割合や配分が若干違うだけで、シャルロッテを構成する物質は人間と同じだ。吸血鬼はあくまで、人間から派生したという枠を出ることはない。
コイツ、自分の涙とかも口に出来ねぇのかな?
普段血液しか採っていないので、素朴な疑問だ。目元に残る涙を指先に掬って、シャルロッテの口を開いて無理やり突っ込んだ。
ホラ、舐めろ。
温かく柔らかい舌の感触に少し興奮したが、当然ながらシャルロッテは無反応なので、すぐにつまらなくなった。と同時に、噛まれたら大変だということに気付いて、慌てて指を抜いた。
うぉ、危ねぇ。迂闊だった。
全くその通りだが、シャルロッテは何もしていないし何も悪くない。動悸が収まってようやく指が濡れたままなのに気付いた。それで無意識に指をパクリ。
唾液はちょっと甘い――――って俺はヘンタイか!
梯子の上で頭を抱え、2秒ほど悶絶。でもすぐに落ち着いた。
しかしなぜか悔しくなったので、ジャケットを脱いでシャルロッテの顔にぐるぐるに巻きつけ、それを更に激写して満足した。
一人で愉快なアドルフはたまに寝込みのシャルロッテに悪戯をしているので、携帯電話には結構な写真が保存されている。ちなみにクララは、クリストフと付き合う事になってから部屋を分けたので、アドルフの暴挙には誰も気付いていない。シャルロッテ本人は、アドルフの携帯電話の中に「シャルロッテ」と題されたフォルダが多数ある事を知らない。
うぅ、臭い。
意識は覚醒したが、まだ目は開けていない。とりあえず臭い。
煙草臭い……なにこれ。
顔に何か被っている。目を閉じたままそれを引き抜いて、ようやく目を開けて引き抜いた物を開いてみると、黒のジャケットだった。
アディめ……。またなんかやったわね。
アドルフに寝ている間に何かされていることは、薄々気づいている。部屋にアドルフの煙草の香りが残っていることがあるし、短い金髪がベッドの上に落ちていることがあるからだ。しかし証拠がなかったので、今まで言及することが出来なかったが、今回ようやく証拠を掴んだ。
「おはようアディ」
コーヒーを飲んでいたアドルフを見つけてにっこり笑うと、アドルフもとても爽やかに「おはよう」と言った。ストレスが発散できて満足と言った顔だ。それにカチンときた。
「これ」
ジャケットを差し出すと、それはもう愉快そうに笑って受け取ろうとしたので、その場でビリビリに引き千切ってやった。
「何すんだテメェ!」
「こっちのセリフなんだけど。レディの寝込みを襲うなんて、とんだチキン野郎ね」
「誰がチキンだ!」
「普段私に勝てないから、寝てる時しか仕返しできないんでしょ。情けないわねー」
と言うと、アドルフは予想外にも黙って、視線を外して座りなおした。更に激昂して反撃して来るか、悔しそうにするだろうと思っていただけに意外だ。
「なによ」
「別に」
なんだか怒っているようだ。
「アンタが怒る筋合いないわよ」
「………………」
なぜか沈黙する。
なんか変ねー?
不思議に思って前まで回り込み、顔を覗き込んだ。
「なによ? 言いたいことあるなら言ってよ」
気持ち悪いから、と尋問すると、じっとシャルロッテを見つめていたが、小さく息を吐いた。
「泣いてた、お前。寝てる時」
「フーン。ドキドキした?」
「いや全然。別の意味では興奮したけど」
浮かれたと言いたいらしい。
「それが?」
「珍しいなと思って」
「そうでしょうね」
アイドルのポロリ映像よりもお目にかかれない、お宝映像だ。
「なんで泣いてた? なんか夢見た?」
「聞きたい?」
「うーん、気にはなる」
シャルロッテが泣くなら余程だ。
教えてやることにした。
「夢を見たのよ」
「なんの?」
「最初はアメリカに住んでた頃の夢を見てたはずだったんだけど、途中から視界が真っ白になって、アディとかクリスとか、みんなが私に煙草の煙を吹き付けるという悪夢を見たわ」
教えてあげると、途端にアドルフが笑い出した。
「ハハハ! もしかして俺のジャケットのせいか!」
「多分そうよ。寝起き早々煙草臭くて最悪だわ。泣きもするわよ煙たくって。ただでさえアディは、傍にいるだけで煙草の匂い移るんだから」
適当にはぐらかしたことはアドルフにもわかったと思うが、アドルフは笑ってそれ以上は追及してこなかった。
「あーウケるわお前ー。見る? お前の泣き顔」
「なに撮ってんのよ」
「待ち受けにしたった」
「バカじゃないの」
アディの方がよっぽどウケるわ、と思った。
「クララ」
「はい?」
呼ばれて顔を上げると、クリストフが神妙な顔をしていた。
「なんかアディから送られてきたんだけど」
そう言って見せてくる携帯電話の画面に、思わず釘付けになった。
「い、一体何が……」
件のシャルロッテの泣き顔だ。
「「おやすみロッテが泣いてたから激写した(ハート)」だそうだ」
「なんですか(ハート)って」
「アイツの事だからテンション上がったんじゃないか」
シャルロッテの泣き顔を見て大興奮して、嬉々として撮影する様子が目に浮かんだ。
クララは思わず半目になった。
「普通女の子の泣き顔見て撮りませんよね」
「普通はな。でもアイツは鬼畜野郎だから」
「お嬢様……お可哀想に」
「こればっかりは同情するわ」
普通の感覚なら、夢を見て泣いている女子を見かけたら、どうしたどうしたと気にしたり、親切な人なら心配したりするものだが、アドルフは大喜び――――今更だがそう言う奴だ。
「でも、お嬢様が泣くなんて……」
クララはとても心配そうにするので、なんだかクリストフがクララを心配になった。
確かにシャルロッテは、泣くイメージとはかけ離れている。本当に余程なんだろうとは思う。
「お嬢が泣く事ってある?」
「ありませんよ」携帯電話の画像をもう一度見て嘆息した。「お嬢様の泣き顔なんて、初めて見ました」
その言葉に少し驚いた。
「えっ初めて?」
「はい」
出会ってから60年近く経つが、一度も泣いているところなど見たことはなかった。本当に異常事態なのだ。
「どうしたんだろう……」
心配だ。
そうしているとまた携帯電話が鳴った。
「「アメリカ時代の夢を見たらしい」って」
アメリカ時代の、シャルロッテが泣くほどのこと。クララには心当たりを一つ思いついたが、クララも聞いただけで詳しくは知らない。クララと出会うよりもずっと前の話だ。
どうして思い出し夢なんか見たのかな。
「その人が、帰ってくるって約束して帰って来なかったんだって」
クリストフには何のことかわからないが、「そうか」と返事をした。
「たぶん、帰ってきたらお嬢様と、結婚しようと思ってたんじゃないかな」
そりゃ死亡フラグだな、と思った。
「お嬢の元カレ?」
「多分。私も知らない人ですけど」
クララが知らない人なら、何もなくても既に死んでいたっておかしくはない。
それほど昔の事だ。
それほど昔の事を。
「お嬢はまだ、忘れられないのか?」
「それほど」写真を見た。泣き顔を見て泣きそうになった。「愛してらっしゃったんですよ」
ヒョロヒョロして弱っちくって、親切しか取り柄がなくって、いつも損ばっかりしてるような情けない人で――――そう言う人だったから。
シャルロッテが笑って言った。
世界で一番、大好きだったのよ。
その時の、シャルロッテの泣きそうな笑顔を思い出して、涙が出た。
「クララ」
「うぅ、アディムカつきます。撮ってんじゃないわよ」
「……消すように言っとく」
「ムカつく。本当あの人嫌い。デリカシー無し男」
泣くクララをあやしながら、全くだな、と思った。




