10 Je te veux
「わかってます……あのグラスはお嬢様の宝物だったんです。それで怒るのはわかるんですけど……」
鼻をすすりながらそう言って泣くクララを、クリストフが頭を撫でながらあやしていた。
シャルロッテが怒るのはわかる。だけど、ノスフェラート達を皆殺しにしておいて、まるで何事もなかったかのように自分に微笑みかけた、その事が恐ろしくてならなかった。
きっとシャルロッテはシャルロッテ本人は勿論、クララやサイラスを悲しませる誰かが現れた時、それが誰であっても躊躇することなく殺してしまうのだろう。ノスフェラートを殺害した時のように、無表情で何の感慨もなく、散歩道で見つけた空き缶を蹴飛ばすように。
「今まで、お嬢が殺してるのを見たことは?」
「あります。でもその時は相手が一人とか、捕食の為だったりなので、あんな一方的な虐殺ではなかったんです」
捕食の為に殺すことと、闘争の為の殺戮は全く違うものだ。少なくともクララはそう思っているが、恐らくシャルロッテは同じ事だと考えているのはわかっている。結局死ぬという結末に変わりはないのだから。
「お嬢様は戦争がお嫌いだと仰ってたんです。なのにどうして、殺すことを厭わないのでしょうか?」
問われてクリストフも腕組みをして頭を捻った。
戦争が嫌いな理由は知らない。大概の人間だって戦争は嫌いなので、そこは置いておいても構わない。殺しをするのは自分達も同じだが、好きでやっているわけではなくそれが仕事だからだ。
戦争と殺害は違う。戦争とは流血を伴う政治であり、政治的発言を武力に変えただけの事。政治は意識の集合体だが、殺害は個人の意識だ。恨み、排除、快楽、理由は様々だが、自らで思考し自らの決断で行うと言う部分において、戦場の兵士とは決定的に違う。
「俺らは楽かもな。それが仕事だし、命令だし、どうせもうヴァチカンから離れる事は出来ないし。俺達の人生は既にそう定義されているから、今更迷いなんてない。でも、何物からも自由な人がその手を汚すのは、とても悲しい事だな」
殺すことは遥か昔から罪とされてきたのに、長い歴史の中で人がそれをやめた事などない。死は、殺すことは、人を惹きつける、どうしようもなく抗いがたい美しさを放っている。その強烈な引力を持つ黒渦にアドルフは惹きつけられ、クララは怯え拒絶した。
「なぁクララはさ」
ようやく涙だけは止まったようだった。
「はい?」
見上げてくる、濡れた瞳が愛らしかった――――が、今は置いておくとして。
「お嬢の事嫌いになった?」
「まさか、そんなことありません」
何があってもお嬢様はお嬢様です、と必死に首を振った。
「割り切れない? それはそれ、これはこれ」
シャルロッテが好きなら好きな所だけ見て、苦手な部分に目を瞑る。それが出来たら楽だが、出来ないから泣くのだ。
「お嬢様にやめてって、言ってみようかなぁ……」
クララの呟きを聞いて、クリストフはソファに背を持たれた。
「殺されるのを見るのは、人間と化物、どっちが嫌?」
「殺される相手へは、特に思うところはありません。殺しているお嬢様が苦手なだけです」
やはりあくまでクララも化け物なのだ、と思う。経験がないから、化け物としてはまだ若泣いたりもするが、根底にはシャルロッテとサイラスが施した教育が根付いている。
あぁそうか。クララはお嬢の娘なのか。
シャルロッテが自ら吸血鬼化した愛娘。至高の存在である純血種により吸血鬼化されたクララもまた、一介の吸血鬼とは格が違うのだろう。だが今までその力を振るう事はなく、目にする機会もなかった。意図的にシャルロッテが避けていた。
「避けていたのはクララが、殺すことが罪だと思ってるって、お嬢が知ってたからだろうな。殺害の罪悪にクララが苛まれることがないように。でもお嬢にとって殺害は、罪じゃないんだろ。人間だって人殺しが罪じゃないと公言されたら、安心して人を殺すだろうよ」
人が人を殺さないのは、恐ろしいから。罪を背負う事、罪悪を背負う事、それを恐れているから。その恐怖が払拭されることがあれば、人々は嬉々としてその手を血に染めるだろう――――シャルロッテのように。
ふとクララが考え事をしていたのをやめて、クリストフを見上げた。
「そうですね、お嬢様にとって殺すことは罪ではありません。私や旦那様にとっても。お嬢様はいつか殺されることを、夢見ていますから」
そう言われても意味が分からず頭を捻ったが、ふとエルンストが言っていたことを思いだした。
――――お嬢の好きなタイプって、死ななくて自分を殺してくれる男だってよ。前半はわかるけど後半は意味わかんねーよな。
「愛した男に殺されたいのか?」
問うとクララは少し驚いたような顔をした。
「どうして知ってるんですか?」
「いや知らんけど、なんとなく」
何となくだが、少しだけ分かった。なぜかは知らないが殺されたがっている。だから、殺害全般を悪とは思えないのだ、シャルロッテは。
「お嬢様は美人で聡明だし、お嬢様を愛する人はきっと現れる。その人をお嬢様も愛したら、お嬢様はきっと、その人に殺されたいと切望するんでしょう」
やはり意味不明で「なんで?」と問うと、クララが姿勢を向けた。
「クリスは今でも、私達を殺そうと思う事はありますか?」
それはいまさら思わなかった。他のメンバーはわからないが、殺害命令を遂行しないと殺す、くらい言われなければ、進んで殺そうなどとは微塵も考えていない(なにより勝てる気がしない)。
「殺す気はないって言うか、殺したくないな、特にクララは」
「ありがとうございます。私もクリスとは仲良しでいたいですよ」
クララの花の様な笑顔に、胸に深々と矢が突き刺さる。
うわぁもうクララが神懸かりに可愛い! 何だ、マジか。俺実はマジなのか。
なんだかロマンティックが止まらないクリストフ。
「クリスどうしたんですか?」
「い、いやなんでもない……」
必死に動悸を抑えて顔を背けるが、更にクララが覗き込んでくる。
「どうしたんですかドキドキして? 不整脈ですか?」
「い、いや違う……あやっぱ違わない、うん、そう不整脈」
ていうか聞こえてるのか、と吸血鬼の聴力にオロオロする。
あぁダメだ。俺マジだ。マジでヘンタイだ!
自分の趣味に自己嫌悪し始めたクリストフだったが、ふとクララがクリストフの肩に手を置いて、耳元に顔を寄せて囁いた。
「一つだけいい事を教えてあげます」
「えっ、なななに」
「私とお嬢様を、人間でも確実に殺せる、素敵な方法です――――」
続いたクララの言葉に、思わず目を見開いて離れた。
「ウソだろ」
「本当ですよ。だから、殺されたいんです。わかります?」
「わ、かるけど……それはすごく、可哀想じゃないか。男もクララたちも」
「そうですね。でも素敵な事ですよ」
内緒ですよ、と微笑むクララがなんだかとても可哀想で、同時にひどく愛しかった。
本当は、好きな人とはずっと傍にいたい。仲良く幸せに生きていきたい。死にたくなんてない。相手に自分を殺すような事をして欲しくもない。だけどそれは抗えない、彼女たちが「そういうもの」だから。
「だからね、とてもとても大事な事なんです。殺すという事も、愛するという事も、私達には紙一重なんです。私達はいつでも、愛する人に命を差し出す準備をしていなきゃいけないんです」
たまらず抱きしめたクリストフの腕の中で、クララが優しい声で言った。それを聞いて、腕に力を込めた。捕まえた小鳥を逃がさないように(どうせ勝てないけど)。
「なぁクララ」
「はい」
「おかしいかもしれないけど、俺、クララが……」
「ハンバート・ハンバートですね」
「う……それを言うな」
腕の中でクスクスと笑ったクララが、クリストフの胸に顔をうずめて少し縮こまって言った。
「嬉しいです。クリスは優しいから、私も大好きです」
クララは同族に会ったことはなかったから、人間にしかあったことがない。クララに会って恋をするのは、いつも見た目年齢が同じくらいの年ごろの子供ばかりで、大人からは可愛いと言われることがあっても愛玩とさして変わらなかった。だから嬉しかった。心はもう大人だったから、大人に恋をする。だけど可愛がられるだけの。
だけどクリストフは違った。それがとても、嬉しかった。嬉しかったが、現実的な問題として、それは許されざることだとクララも知っている。
「わかっていますか、クリス。私は吸血鬼で、あなたは人間です」
途端に暗くなったその声に、クリストフは一層腕に力を込めた。捕まえられたと思ったのに、また飛び去ってしまいそうな気がして、離したくなかった。
「わかってる。でもそんなこと、関係ないし」
「関係ないなんて、そこが一番問題でしょう?」
「なんで? 関係ねぇよ。クララは俺が人間なのは、嫌?」
シャルロッテに人間を蔑視するよう叩き込まれて育ったから、クリストフの言ったことを否定はできない。かといって肯定したくもなくて、黙り込んだ。
するとクリストフが言った。
「クララが素直になってくれるなら、俺、人間やめてもいい」
「え?」腕の中で顔を上げた。
「そしたら一緒になってくれるって言うなら、やめる価値はある」
涙が出そうになった。クララはダメだと思っていたから、余計に。でもクリストフは障害を容易く乗り越えて、クララの元へやって来て手放さない。
「それでも嫌か?」
「ヤじゃ、ないです……」
シャルロッテの命令でクリストフに近づいたのに、こんなことを言ったらきっとシャルロッテに怒られてしまうのだろう。
「あの、あの、私……殺されるなら……クリスがいいです」
そう言ったクララは耳まで真っ赤になっていて、それを見たクリストフは少しだけ抱えていた背徳感なんて那由多の彼方に消えてしまって、いよいよロマンティックが止まらなくなった。
「どーでもいいけど遅いわねークララ」
「遅ぇなぁ。俺いい加減眠い。寝たい」
待ちくたびれたシャルロッテと、うつらうつらとし始めたアドルフは、痺れを切らして様子を見に行くことにした。
もしかしたら泣き疲れて眠ってしまって、クリストフがついているのかもしれないし、シャルロッテの所に戻ってくるのが気まずいのかもしれない。ならば迎えに行ってやった方が、わだかまりも残りにくいと言う物だ。
そう考えて辿り着いた、追加で取った部屋に辿り着く直前、クララの悲鳴が聞こえた。何事かと部屋の前に行きドアを開けようとしたのだが、聞こえてきた会話に思わず硬直した。
「あ、い、いた……」
「痛いか? ゴメン、やめようか?」
「いいんです。何回しても痛いってお嬢様も言ってたし、このまま……離れたくないです」
「……辛かったら言えよ? ゆっくりするから」
その会話を聞いて蒼白になった二人の耳に聞こえてくる、クララの悲鳴混じりの嬌声と、クリストフの吐息と、ベッドが軋む音。
「マジか……」
「Oh! Jesus!」
「あ」
ショックのあまりシャルロッテはその場で失神した。声の漏れる部屋のドアと、廊下で倒れるシャルロッテを交互に見ていたアドルフは、溜息を吐いてシャルロッテを担ぎ上げた。
俺のが眠いのに、なんでコイツが寝るんだよ。チクショウ、クリスの奴。あのヘンタイ野郎のせいだ。
心の中でブツブツ文句を言って、頭を抱えながら部屋に戻った。




